Chapter2:Dreams and reality

19 お母さんはどこにいるの?


 冷たくて、あたたかい。
 ゆらゆらと泳ぐ水面は小さな籠のよう。一定のリズムで揺らされる安心感が身を包む。深く潜ったとしても、溺れることはない。わたしたちは一本の糸によって、貴い命が繋がっているから。この水は、あなたを守るための世界だから。
 淡く優しい空の色。朝の海を溶かしたように澄んだ青。柔らかなホリゾンブルーを脳内に描くたび、わたしは大いなる存在に抱きしめられたような心地に沈む。そして、その瞬間に思い浮かべるのは……

「……エイプリル」

 じーっ。とんとん。ぱくぱく。くるくる。
 目。指。口。体。と、彼女は全身を使って、惚けるわたしを呼んでいた。まるで一人芝居でもしているかのような忙しなさだ。無駄のない真剣な動作を僅かでも見逃してしまったのかと、少しだけ後悔してしまう。
 そんなことより、今は惜しんでいる場合ではない。彼女のアクションに気づくのが遅くなってしまった。おかげでエイプリルは、未だその場をぐるぐると回っている。必死になりすぎたあまり、周りが見えなくなっているようだった。

「えっと、エイプリル。もう気づいたわ」

 指先で水槽を叩く。申し訳なさが反映したように、とんと控えめなタップ音が鳴った。
 するとエイプリルは、ぴたりと回転を止めてこちらを振り返る。わたしが手を振ると、「よかった」というように、彼女は安堵の息をついた。

「ごめんね、遊びにきたのはわたしなのに」

 わたしは眉を下げて、エイプリルに謝る。
 家には、いたくてもいられなかった。朝起きて、階段を下りて、リビングに行って。ラセルティリアは味見だとウインナーを一本くれた。ルパロセラは洗面所でフェイスタオルを渡してくれた。ペレンニスはわたしの寝癖を直してくれた。そして机に座していたクエルクスは、おはようと声をかけてくれた。
 何ら変わりない、いつも通りの日常風景。クエルクスに避けられることも、嫌われることだってなかった。そんなことはありえないと、囁かれるようなあたたかさ。けれど、昨日のことを忘れてしまったみたいに、今日だけがずっと続いていくような日々だった。
 その輪へ入ることに、居心地の悪さを感じてしまう。みんなの、クエルクスの優しさを、受け取れないように。
 朝食を食べ終わってから、散歩をしてくると伝えて、すぐに家を出た。そしてこの足は、自然とアクアリウムへと運ばれていたのだ。約束もなしに訪れてきたわたしを、アリスは突っぱねなかった。突然の訪問に驚いていたけれど、彼女は次第に一人で納得したかのように、美しい瞳をそっと伏せる。そうして、わたしをエイプリルの元まで連れてきてくれたのだった。
 あのときの彼女は、やけに大人しくて従順だった。初対面で放たれていた敵意が、これでもかと気弱に薄まっている。完全なる信頼から結ばれたものではない。アリスの気配に付き纏っていたのは、切なさに近い感情のように思う。何故あのような面色を見せたのか分からないまま、彼女はわたしとエイプリルを二人きりにして行ってしまった。

「アリスは……何か言ってた?」

 すんなりとエイプリルに会わせてくれたのには理由があるかもしれないと、わたしは尋ねる。だけれど、エイプリルは左右に首を振った。裏表のない素振り。……彼女はまた、何も知らないようだった。
 ――とんっ。
 星が、瞬いた。触れることの叶わない、わたしたちの一等星。彼女は、誰のものにもならない。それは、誰もを愛しているから。慈愛に満ち溢れた初恋色は、いつだってわたしたちを見つめている。

「……うん、そうなの。実は、話を聞いて欲しくて」

 目の前には、にっこりと満足げなエイプリルがいた。彼女はわたしの頬を突くように、ガラス面に指先を当てている。わたしは降参したように頷いた。

「ミラージェンのことなんだけどね。別に喧嘩をしたわけじゃないの」

 隣にはいない、あの子を想う。小さな頭、小さな手、小さな背丈。彼女の全てが愛おしかった。このまま小さいままでいい、だなんて考えてしまう自分もいた。
 けれど。小さな背丈は、みるみると植物のように伸びていって。小さな手は、自分で掴むべきものを見つけていて。わたしの知らない間に、彼女はどんどん大きくなる。一度くらい、あの小さな頭を撫でてあげればよかったと、思わずにはいられなかった。

「あの子が決めたことだから、それでよかったはずだったの。……でも」

 先刻の出来事が、脳裏に浮かぶ。わたしに目もくれず、全速力で走っていったミラージェン。そして、彼女を追いかけていた……シェイヴィ。

『……ミラージェンを、見なかった……?』

 彼の問いかけに、わたしは答えられなかった。健気に困っていた彼を見放したことへの罪悪感は、まだ心に残っている。「そっか。ありがとう」と、わたしを疑わずに去っていったシェイヴィの後ろ姿は、とても若々しいものだった。
 辛そうな呼吸音。発熱したように赤い頬。今にも折れそうな身体。彼に日傘を差すくらい、してあげればよかった。でも、わたしはしなかった。あの子の元に辿り着かなければいいと、願ってしまったから。

「プライベートにまで首を突っ込むだなんて、どうにかしてる」

 あの二人がどんな関係性なのかは分からない。そもそも、どちらも他人だ。知っているはずがない。なのに、知りたいと。知る義務があると。そんな使命感に駆られるのは、何故なのだろう。

「まるで、世話焼きな母親みたい」

 ため息を吐く。吐かずにはいられない。わたしはミラージェンの何でもないのだ。シェイヴィにだって気を使う必要はないのに。ぶんぶんと、悪霊を追い払うように頭を振った。

「それと……」

 愚痴を誤魔化したくて、話題を逸らす。エイプリルに、話したいことがあったはずだから。……でも……

「……忘れちゃった。せっかく聞いてくれているのに、ごめんね」

 上手く、思い出せない。空洞を埋める方法を知りたかったはずなのに、どこもかしこも穴は埋まっていた。わたしは、満たされている。不足はない、ぴったりと充実している。なのに、この胸に空白を求めてしまうのは、どうしてなのだろう。

「今日のわたし、謝ってばかりね」

 ごめんね。そう言いかけて、喉が詰まった。
 ……これじゃ、シェイヴィと同じだ。何度も謝りたくなってしまうような心苦しさに陥ってしまえば、生きること自体が難しく感じてしまう。さながら頑丈な縛りを与えられたようで、何とか自分で身軽になろうとしても、口から出るのは謝罪や後悔だけ。
 言いたくて言っているわけじゃない。言うしかなくて、言っている。
 わたしは「謝らないで」という自分の発言を悔やむことはない。そして、シェイヴィが二度目に伝えたごめんの真意も分かっている。だからわたしは、エイプリルに笑いかけた。

「ぐだぐだした話も聞いてくれてありがとう」

 こういうときは、謝罪じゃなくて感謝を届けるべきなのだ。誰かの苦しそうな顔なんて、見たいわけがないから。たとえそれがシェイヴィだったとしても、わたしは嬉しくない。日傘を探さなかった時点で、笑っていてほしい、だなんて綺麗事は言えないけれど。
 でも、彼にも「ごめん」じゃなくて「ありがとう」と言ってほしい。この想いは、本心だ。厳しい口調にはなってしまったけれど、わたしの気持ちがあの青年に運ばれたらいいと、切に願う。
 わたしの笑顔に、エイプリルも微笑みを返してくれた。だけれど彼女は、そこはかとなく惑うように瞳を揺らす。斜め下に視線を落として、臆病な瞬きを二度ほど行う。何か、迷っているのだろうか。わたしは口を開きかける。
 その刹那、わたしの行動を止めるように、エイプリルの視線が戻った。もう彼女の眼差しに、揺らぎはない。意を決したように、わたしを見つめている。
 エイプリルは、指をさす。長く白い指の選んだ先は――わたしの喉だった。

「……歌はもう歌えないの」

 微かに震える手で、首元に触れる。ナイフを突き刺されたような痛みも、酷く血生臭い味も、この細い喉によく刻まれている。でも、わたしに刻まれたのは、歌うことのできないやるせなさ。それと。

「わたしの大切な人を、傷つけてしまうから」

 クエルクスの姿が浮かぶ。涙を押し込めたような、悲痛の面持ち。二度と、彼にあんな顔をさせたくない。そのために、わたしは彼との約束を守らなければならなかった。たとえこの契りが、どれだけ窮屈なものであろうとも。
 きらり。星が空から転がったみたいに、エイプリルが眼を見開いた。深く、深く、傷ついて、呆然と佇立するように、彼女は固まる。美しい唇が、ほんの少し開いていく。呪文に抵抗するように、魔女の呪いから逃れるように。エイプリルは、声を出そうとした。
 だけれど、彼女の声は、泡となり消えていく。ぷかぷかと宙を泳いで、マリンブルーと同化していった。少女の音は、あまりにも儚い。
 透明な泡沫の結末を眼前にしても、エイプリルはそれらをただ見届けることしかできない。深海に、哀切のメロディーが流れる。その音色に、わたしも身を委ねるしかなかった。伸ばしかけた腕が、力強い波に潰されていく。空を飛ぶことも叶わず、ひたひたと沈められていくようだった。
 ぱく、ぱく。
 閉じかけた視界の中で、エイプリルの唇が開閉している、気がした。わたしは無気力に、瞳を起こす。
 ゆっくりと、丁寧に、だけれど懸命に。彼女が、大きく口を広げて、わたしに叫んでいる。

 あ き ら め な い で

 知らない少女の声が、私の脳中のみに響く。けれど、わたしにはその綺麗な声の持ち主が誰なのか、すぐに分かった。
 エイプリルはわたしの元に、急いで近づいてゆく。その最中でさえも、彼女は何かを話していて。でも、わたしの耳には聞こえなくて。
 こんなガラスの壁など、叩き割ってしまいたかった。今すぐエイプリルのところに駆け付けたかった。でも、透明な板は、わたしたちを阻む。居ても立っても居られない感情をどうにか閉じ込めて、わたしはエイプリルを待った。
 手を差し出すよう、水槽に手のひらを当てる。エイプリルの指が、触れかかる。彼女が口を開いて、言葉を紡ごうとした。

 ごぽり。

 無色で丸い花が、咲く。シャボン玉のように、きらきらと。でも、その円形は、やがて破裂した。ぱちぱちと、火花が散るように。

「大丈夫!?」

 エイプリルが、苦しそうに咳き込む。それはまるで、誤って飲み込んでしまったものを、吐き出すようで。

『エリィはアクアリウムの中でしか生きられないの』

 アリスの声が、染み込む。真っ青な海面が、驚くほど凪いでいる。冷静になったわけではない。もう、わたしは真実に辿り着いて。後戻りできないだけ、だった。水中でしか生きられない、だなんて、嘘。

「エイプリル、あなたは……」

 外で、息を吸うことができる。

 これが、真実だ。

「お喋りは終わった?」

 肩がぴくりと跳ねた。わたしは一度息を吸い込む。そして、後ろを見返った。

「エリィ、変なこととか嫌なこと、されてない?」

 甘い問い掛けを持ち運びながらやってきたのはアリスだった。彼女はしなやかに歩む。愛する人のために。
 アリスの質問に、エイプリルはかぶりを振った。先程まで咳き込んでいたとは思えぬほど、平然とした態度で、柔らかに笑みながら。

「そう、よかった」

 安心を得たアリスもまた瞳を細める。互いに何でもないように、笑い合う。狭く暗い、青の垂れ込める世界で。

「この子を送っていくわ。だから少し待っててね」

 アリスは知らない。エイプリルが、嘘の中に隠された深淵を覗いたことを。

「アタシは必ず帰ってくるから、安心してちょうだい」

 だから今もこうして、彼女に不安なんてものを察知させないように、過度な安堵をたんまりと渡す。エイプリルは、ただの純朴な少女のように、にっこりと頷く。だけれど、彼女はもう無知な少女ではなかった。それを、アリスだけが知らないのだ。
 変化の脅かされることのない光景をしっかりと確認した後、アリスはわたしについてくるように命じた。訝ることを怠った白皙の背中を追う。赤のカーテンを捲ったそのとき、わたしはちらりとアクアリウムを顧みる。水槽の中でわたしたちを見送るエイプリルは、柔和な微笑みのまま、ひらひらと手を振っていた。

 直感で分かった。これが、彼女との別れだということが。
 涙が、両目を薄らと覆う。たった二回しか会ったことのないわたしたちに、別離の寂しさが込み上げるだなんて。他者からすれば、お伽話の盲信者だと、非難されるかもしれない。
 でもそのたった二回が、わたしたちにとって、どれだけかけがえのない時間だったか。それは、わたしたちだけが結んだ絆であり、誰にも理解される必要などなかった。
 最後の幕が、そろそろと下りる。上品で濃い赤色の隙間で、一等星は神々しく煌めく。

 あ き ら め な い で

 決意の灯った初恋色が、稲妻のようにわたしを心臓を射抜いた。


 ◆◆◆


「ごめんなさい」
「……え?」

 立ち止まったアリスが、単刀直入に謝る。心覚えのないわたしは、つい聞き返してしまった。

「アンタにワケの分からないことばっか言っちゃったから」

 アリスがこちらに振り返る。静かに靡いたワンピースには、ゆらりと水面が照らされて、淡い水色が被さっていた。

「アタシの言ったことは、全部忘れて」

 独り言程度の声量で呟いて、再びわたしから目を背ける。彼女がどれほど雲に潜もうとしても、瑞々しい月光の輝きを逃すことはできない。この薄暗い通路の中では、尚更だった。わたしたちを囲む円柱の水槽たちは、口を閉ざして利口に佇み、その体からライトを注いでいる。アリスの神秘性は、彼女自身が拒んでも増すばかりだった。

「それは……何のこと?」

 彼女の発言に、閃く感覚は生じない。アリスとの会話を思い出そうとしても、忘れてほしいと付け加えるようなことを言われた覚えは、これといってなかった。わたしは首を傾ける。

「……全部って言ったでしょ」

 一瞬、彼女と視線が交わった。けれど、それも束の間。垂れた腕を片方の手でぎゅっと掴んで、潤んだ唇をもぎゅっと封じ込めて。アリスはすぐに下を向いてしまった。

「これを伝えたかったから追い出さなかったの。でも、今日で本当に最後よ。もうここには来ないで」

 最後、というワードに、わたしは息を呑む。手を振っていたエイプリルと目の前に立つアリスの輪郭が重なる。

「優しいパパも、アンタのこと待ってるじゃない」

 だけれど、彼女たちの顔つきは、まるで異なっていた。
 道を塞がれて、頼れる人がいなくて、どうしようもない。でも、そんな状況を打破しようとは思わない。仕方がないと、諦める。わたしは此処にいるしかないのだと、言い聞かせて。
 わたしの正面にいる少女は、まるで小さな子供のようだ。片手に摘んだ風船の紐を手放さないことで手一杯な、愛らしくいじらしい子供。
 だが、エイプリルがわたしに向けた表情は、その真逆だ。
 道を塞がれて、頼れる人がいなくて、どうしようもない。でも、そんな困難に打ちのめされることはない。厚く広大な壁だったとしても、決して諦めずに、この手で打ち破る。わたしを此処に捕らえることは不可能なのだと、声を張り上げて。
 あのときわたしに光を授けてくれた少女は、まるで母親のようだった。冷たくて、あたたかくて。穏やかで、強かで。大きく豊かな波音は、彼女の殊勝な覚悟を示していた。
 始まりの場所、母なる海。彼女にこそ相応しい役割。だから今日のわたしは、エイプリルを求めたのだろう。ミラージェンやアリスのように、幼い子ではなく。ラセルティリアたちのように、親しみやすい人でもなく。ヴィクターやヘレンさんのように、歳の離れた友人でもない。クエルクスのような、理想の父親でもなく。

 ――わたしは、「母親」を求めていたのだ。

 父親。兄。姉。そして、わたし。不自然な点など、存在しないと思っていた。……いいえ。わたしは、思い込んでいた、のかもしれない。

「わたしのお母さんはどこにいるの?」

 我が家には、子を産んだはずの母親がいない。家族を構成する、重要な役目であるはずなのに。初めから「いないもの」として、歪んだ常識を植え付けられていた。どうして、クエルクスたちはそんなことをしたのだろう。何故わたしに、お母さんと会わせてくれないのだろう。

「……他人の家庭事情なんて知るわけないでしょ」

 ぼそりと、アリスが返答する。彼女の顔色は、黒い波が覆い被さったかのように、恐ろしいほど悪くて。わたしもついに、彼女から目線を外してしまった。

「そう、よね。いきなり変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」

 辿々しい話しぶりのわたしに、アリスは何も返さない。彼女は辺りの水槽と同じように、沈黙の約束を破ることはなかった。
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