Chapter2:Dreams and reality
18 ドラマティックなラブストーリーなんて
「普段の凛として涼やかな面貌のみが、ヘレンの美しさの全てを発揮しているのではないのさ。彼女は豊かに顔色を変えることはないけれど、時折見せる内面的な感情の滲んだ表情といったら、それは……もう……」
ぱん、と叩かれたヴィクターさんの両手から、エネルギッシュな音が鳴らされる。彼はその拍手を合図として、俊敏に立ち上がる。その姿はまるで、大袈裟な言動でお客さんを惹きつける司会者みたい。
ヴィクターさんは天に向かって手を差し伸べるように、すうっと片腕を掲げた。そこから数秒間、謎の沈黙が挟まれる。目を閉じて綺麗な姿勢のまま、彫像のように動きを止めるヴィクターさんをつい凝視してしまう。
けどそれも束の間、彼はカッと瞳を開眼させると、それと一緒に唇も大きく広げて、客間に収まらない声量を響かせた。
「筆舌に尽くし難い!! あぁ!!」
「ヴィクターさんってお喋り上手だけど、最終的にぱーっと弾けちゃいますよねぇ」
「無駄口を叩くことがお得意なようだけれど、理性というものは働いていらっしゃらないようでして。きっと彼も、慚愧に堪えないことでしょう」
爽快と感動に満ち溢れた様子のヴィクターさんに、彼のお嫁さんであるヘレンさんは辛辣な言葉を冷めた口調と融合させる。皮肉にしてはストレートで、でもお上品な雰囲気は崩れてなくて、お金持ちの人は凄いなぁだなんて思う。まぁ、裕福だとしても品のない人はいるはずだし、生まれ育った環境というよりも、魂の高潔さっていうか。
下品な人から罵倒されるのと、品格の高い人から罵倒されるのじゃ、傷の抉り方に結構違いがありそう。前者に何か言われてもどこか薄っぺらいから、はいはいまた言ってるよって笑えるけど、後者に罵られたら……暫くは忘れられなくなりそうだ。言葉の意味をよく理解して使う人の与えてくる重みって、多分、相当強い。
無事講演が終わったのか、既にヴィクターさんはソファに腰を下ろしていた。隣にはヘレンさんが座っている。喧嘩しちゃったときはどうなるかと不安になったけど、隣り合う二人を見てほっとした。夫婦とか大人って、こういうものなのかもしれない。
「それにしても、喜ばしいね」
彼は向かい側に座るあたしに視線を送る。
「キミはいつも、サナシアくんのそばにいただろう?」
あたしの横にいる誰かを想うような言いぶりだった。そこには、誰もいない。撫子色の髪を黄色のリボンで結った、暁色の瞳を持つあの人は、もういない。なのに、あたしはソファの真ん中には座らず、ほんの少しズレた位置に座ってる。勿論、他人にバレない程度に。もし冷ややかな反応を取られたら、堪ったものじゃないし。
でも。ヴィクターさんは、冷たさとは真逆の温度をあたしにでさえも分け与えるように、話題を繋げた。
「その微笑ましい姿を目に焼き付ける瞬間も私は好きだけれど、互いにしか持ち得ない音や色を言葉にして、このように語り合うひとときをお供させていただけるだなんてね」
ほわりと、優しい笑顔。
彼はそれぞれの価値観を尊重して話すことが大好き。
「人生は思いのほか、足早に過ぎ去っていきますから。アナタの大切なお時間の中に、ワタクシたちをご招待してくださったこと、この上ない幸福にございますわ」
ひらりと、麗しい綻び。
彼女は誰かと共に過ごす時の流れを大切にしてる。
「ちゅ!」
ついでに、明るい鳴き声。
この子はその場のムードに同調してるだけ。
会うのは二回目だけど、あたしには十分、よーく分かる。
「みんな、いい人すぎますよぉ……」
あたしは観察結果を口から零しながら、人じゃない子もいるけど、と心の中で付け加えた。
違った笑みを贈ってくれる彼らの心遣いは、傷口に消毒液が直接染みるような効き目がある。新鮮な裂け目には、ちょっとだけ刺激が強い。コットンみたいに柔らかくて、眩しくて、真っ白。液をつけすぎてひたひたになっても、垂れていく水滴は思いやりが溢れたってことで許される。
周りから称賛される「良い人」って、つまりはそういう人のことだ。
「おやおや、それはキミもじゃないか」
「そんなことないですよ、もうぜーんぜん」
それを受け取らないだなんて、酷いことだろうけど。にこやかさを崩すことのないヴィクターさんに、あたしはゆらゆらと首を横に振る。
ごめんなさい、素敵な人!
渦巻くような胸の中、演者の真似事みたく高らかに叫んだ。
「……分かるよ」
モノクルの奥でひっそりと、ヴィクターさんが瞳を細める。
「臆病になってしまう気持ちは」
たった一人、スポットライトに当てられてたのはあたしだけのはずだった。けど、すぐ近くの常闇に、彼は静かに佇んでる。まんまるな月明かりに入り込むわけじゃない。隣であたしのことを、ただじっと見つめてる。
肝が冷えていくような心地だった。引き出しにしまった日記帳の中身がバレちゃったみたいに、馬鹿らしいほど惨めで恥ずかしい。照明を落としてくれれば、この恥部だって隠し切れるはずなのに。自分の本当の情けなさだって、なかったことにできるはずなのに。
スポットライトなんて、全部壊れちゃえばいいのに。それかいっそのこと、あの子だけを選んでくれればいいのに。でも、煌びやかな月光は、いつだって「二人で一つ」を譲らない。
――だからあたしは、この舞台が嫌いだった。
『――』
誰かの声。愛おしい声。
意識を取り戻す。……あたし、何を考えてたんだろう。
最近、存在しないような記憶が脳裏を過ぎることが多い気がする。ワンシーンが瞬時に蘇るような感覚。それはデジャヴによく似てる。あ、こんなことあった、っていう根拠のない確信。この不確かで確実な感覚は、夢を思い出したときの衝撃と、同じ気がする。
一般的に言えば夢の原理は案外簡単。昔のことだったり最近の印象的な出来事だったり、色んな情報が脳内には積もってる。人間の脳は、寝てるときにそれらを整理してくれるらしい。ただ整える作業はかなりランダムで、過去と現在を引っ張り出しては適当に繋いでるから、余計にごちゃごちゃしてる。そういう過程を映像化したものが「夢」。だから意味の分からないカオスな内容だったりする。支離滅裂なストーリーの方が、夢らしいっちゃ夢らしいんだけど。
あとは、自分の望みが反映されてるって説もあって、これには結構賛成してる。あたしは眠ると、ほとんどの確率であの子に会うことができる。これってまさに、願望が叶ってる証拠に他ならないと思う。
でも、それ以外はどうだろう。混沌とした展開が広がったなら、一般論に沿ってしまえば悩まなくていい。だけど、脚本通りに進んだような整った構成をしていたら? 非現実だと断定するには、あまりにもリアルな情景が浮かび上がったら? 感覚的な体験だけじゃなくて、感情的な体験でさえも肌に触れたとしたら? それは果たして「夢」と呼べるのだろうか。
……そういえば、どこかで聞いたことがある。
『夢の中の世界は、パラレルワールドの世界かもしれない』って。
これこそ本当に確証のない、哲学的な話題かもしれない。自分たちの歩むルートは必ず一本道なんだから、世界線が分岐するだなんてありえない話だ。……でも、もし。誰が言ったのかも分からない仮説が事実だったとしたら。
別の世界で生きるあたし、もいたりするのかな。
「ミラージェンくん」
ふわっと、全身に薄いシーツが被さった。すべすべとした質感が気持ちいい。ひんやりとした中に包まって、そのまま眼を瞑りたくなっちゃう。なんか、どうでもいいなって、欠伸が漏れそうになった。
ぼんやりとした視界に映っていたのは、生まれ持った温顔を手放すことのないヴィクターさんだった。けど、彼はどこか、幼い切なさを漂わせてる。ヴィクターさんはあたしから目線を逸らすことはなく、弱々しく眉を下げたままだった。
「少し横になるかい?」
彼がゆるりと首を傾げる。いつの間にか年長者らしい仕草は戻ってきてたみたいだった。
本音を言うなら、お言葉に甘えてそうしたいところだったけど、お城で居眠りだなんて流石に気が引けた。
「全然大丈夫ですよ」
こてんと、ヴィクターさんとは反対方向に首を傾けてみる。胸元にかけたサングラスも、釣られて硬い体を無気力に揺らしてた。その流れで、あたしはローテーブルに置かれたカップを手に取る。
せっかく用意してくれたけど、正直紅茶は得意じゃなかった。後味の渋さが、子供舌にはどうにも慣れなくて。けど、飲まないってわけにもいかないから、なんてことないように一口を体に注ぐ。
「わー美味しいです!」
しわくちゃに歪みそうな唇を叱りつけるように、きゅっと口角を上げた。
やっぱり、苦い。
もしかしたら、一気に飲み干した方が楽なのかも。あまりに美味しくて、飲む手が止まらなかった……みたいな演出だったら、そこまでおかしくはないはず。そう思ってあたしは、海に潜り込む前の準備運動のように、深く息を吸い込んだ。
「……先程のお話に戻るのですが」
ふと、ヘレンさんがか細い声で会話を切り出す。あたしはリズムが少しだけ狂いかけてもう一度息を吸いそうになったけど、調子を整えるため余分に蓄えてしまった酸素を吐き出す。
すると、カップは自然と口元から離れて、ぷかりと間抜けな体勢で目の前に浮かんでる。ヘレンさんはあたしが紅茶を口にしなかったことを確認すると、テーブルから自分のコップを選び取った。
「この紅茶に何をお入れになられるのかは、アナタの自由です。砂糖を溶かしても、ミルクを注いでも、何も入れなくても。ワタクシたちは、今のアナタがどのような気分を味わいたいのか……そちらに興味がございます」
彼女は紅茶とそっくりな色合いの瞳で、優雅に輝く水面を眺める。だけど、ヘレンさんが見つめているのは、そこにいる自分自身じゃなかった。――あたしと、目を合わせてる。それはまるで、鏡の世界を通して現れた、小さくて可憐なお姫さまが、ひっそりと話しかけてくれてるようで。あたしもつい、カップの中を覗き込んだ。キャラメルみたいな色の川には、あたししか映ってない。けど、たしかに。あたしはヘレンさんと見つめ合ってた。そして彼女は、小さく微笑んでた。
あたしは咄嗟に顔を上げる。すると、ヘレンさんもゆっくりと顔を起こしていった。
「紅茶でなくとも問題ありませんわ。どんなものでもご用意いたしましょう」
彼女の慎ましい笑みは、茶葉が香るように、甘美で円やかだった。頬の近くに垂れ下がる黄緑色のピアスが、きらきらと純真に輝いてる。
「えーと、じゃあ……ファンタってありですかね……? オレンジの方なんですけど」
物音が目立たないように、紅茶のカップをテーブルに戻しながら、おずおずと尋ねてみる。曖昧に視線を泳がせたい気持ちでいっぱいだったけど、あたしはヘレンさんと瞳を重ね合うことを選択した。
「勿論ですわ」
あたしの選択に気づいてくれたのか。彼女は一層喜ばしそうに肯定を示した。
「では、私が用意してくるとしよう」
立ち上がったヴィクターさんは、またしても陽気に拍手を鳴らす。その後瞬く間に、ソファの下から小人たちが現れた。彼らは差し出されたヴィクターさんの手のひらに勢いよく飛び込む。それから彼は小さな住民たちを肩に乗せてやると、朗らかに笑った。
「ヴィクター、ワタクシの分も持ってきてちょうだい。久しぶりに飲みたくなってしまったわ」
「ふふ、任せておくれ、ヘレン」
愛するお姫さまからのお願いに、王子さまは上機嫌に返事をすると、スマートな足取りで部屋を出ていった。
客間には、あたしとヘレンさんが残された。ちょっぴり緊張する。マイナスな意味じゃなくて、どちらかといえばプラスの意味で。失礼な態度を取ってないかとか、常識知らずなマナーを常識だと思い込んでいないかだとか、考え始めたら止まらなくはなるんだけど。
でも今は、立派なレディのお手本ともいえる、この大きなお城のお姫さまと二人きり。そんな夢みたいな状況に、胸が躍らないわけがなかった。
「ヘレンさんも、ジュースとかって飲むんですね」
質問をしてみる。単純にびっくりしたから、ありのままの感情を渡す形で。
「子供の頃、彼に勧められて」
紅茶を一口啜って、彼女は呟く。
「初めは悪戯かと思いました。だって、突然口の中がしゅわしゅわするんですもの。もし喉が焼けてしまったらどうしようかと、飲み込み方だって分かりませんでしたわ」
すらすらと詩を唄うようにして、小さな思い出話が奏でられる。彼女は少しだけ拗ねたような口ぶりだった。ヘレンさんの発した「しゅわしゅわ」というオノマトペの音程もぎこちなくて、凄く可愛い。
彼女からしたら、この記憶は遠い昔のことなんかじゃなくて、昨日のことみたいに語れちゃうんだって、ほんのり羨ましくなった。
「それにあの人、ワタクシを見つめながら、心底愉快だとでもいうように笑っていて……」
「ほほう……」
「殴りました」
「暴力!」
思わずソファから転げ落ちるところだった。愛じゃないですか〜とかいう相槌を打たなくてよかった、と胸を撫で下ろす。淡々と述べるヘレンさんは真顔だった。本気のやつだ。如何なるときも暴力は許されることじゃないけど、こればっかりはヴィクターさんが悪いんだと思う。
……いや、ヴィクターさんは大概間違ってるんだけど、悪気はなさそうというか。デリカシーに欠けてるわけじゃないけど、乙女心への理解力は全く足りてない。あれもこれもヘレンさんのためにと頑張ってるのは見てれば分かるけど、空回りしまくりの善意なんて、貰った側は反応に困るし。前にヘレンさんが怒ったのだって、当然の結果だ。
でも、だからこそ。そんな彼が、悪意を含ませたように、ヘレンさんを揶揄ったりするのかと。あたしは内心でかなり驚いてた。
「なんか、今のヴィクターさんからじゃ想像がつかないですね」
若い頃は、無邪気なところもあったのかも。あたしの知る柔和な彼を思い浮かべて、ちょっぴり微笑ましくなった。
「そうね……」
ことりと、カップがソーサーに着地する。ヘレンさんは仕事の終えた右手を、そっと片頬に添えた。つぶらな瞳の伏せられた先は、膝下に乗せられた左手に。
「けれど彼は、ワタクシを迎えにきてくれた、『王子さま』でしたわ」
瞬きを足止めした彼女はきっと、薬指に宿った唯一の目映さに心を奪われてる。
「王子さま……」
自分とは程遠いような単語を、ひっそりと繰り返す。
「あたしにはそんな素敵な人、いるわけないんですけど」
まず、否定を加える。弱い自分を守るために。どんなときも、話はそれからだった。
「でも、ずっと追い求めているのに、辿り着けなくて。そんなときって、どうすればいいんでしょうかね」
別に、性別なんてどうでもよくて。王子さまでもお姫さまでも、あたしには関係なかった。人って言ってるけど、人じゃなくたっていい。
ただ、この小指に結ばれた運命の向こう側を、信じたいだけなの。
じんわりと頭が、重力に負けていく。太ももの上で握り締められた拳の間には、雪に溶け込みそうなあの紙切れが挟まってるみたいだった。
「あら、簡単なお話よ」
指先を震わせる力が抜けていくような声色。それでいて、皺のついたチケットが、ぴんと背筋を伸ばせるような力強さ。あたしは重力を振り払って、ヘレンさんと向き合った。彼女は上品に、それでいて勝気に、唇の弧を描いていく。
「待ち伏せでもして、捕まえてあげればよろしいの」
「……えぇっ?」
うっかり、素っ頓狂な声が零れた。だけどヘレンさんは気にすることなく、茶目っ気の隠しきれない微笑みを継続させる。
「ワタクシは、ワタクシを迎えにきてくださる王子さまを心待ちにしておりました。辛抱強く、我儘も封じ込めて。どんなに苦しいことが降り注いだとしても、絶対に折れるものかとしぶとく待ち続けましたわ」
「……どうして、待っていられたんですか?」
「あの人を信じていたからよ」
迷いのない夢に、強かな眼差し。決められた道筋を辿るべきなのだと口を挟まれても、彼女にとっては小鳥の囀りに等しい。……いや、ちょっと違うかも。ヘレンさんは、動物の歌声と心を通じ合わせるように、耳を傾けてくれるはず。
斜線を引いて、早急に間違いを書き直す。正しく言い換えると、彼女は自分の意見を曲げることは絶対にないだろう。自分の信じた道だけを信じてる。たとえその先が茨の茂みだらけだったとしても、ヘレンさんなら煌びやかなドレスを身に纏ったまま、ワルツを踊るように歩んでいく。生地が破けて、靴が汚れて、血を流したとしても。この勇敢なお姫さまからすれば、へっちゃらなんだ。だって彼女は、信じることを疑わないのだから。
「けれども、その運命が立ち止まってくれるかは分かりません。幽霊のように、この世界から消え去ってしまうかも……ですから、その赤い糸を逃してはいけませんわ。決して離れないように、この手で手繰り寄せるのよ」
ご覧になって。アナタのそばに、王子さまは迎えにきていますもの。
――まるで太陽みたいに、眩しい人。気高く咲き誇る橙色は、彼女がこの城のお姫さまであることを、輝かしく象徴してた。
ヘレンさんも、本当に素敵な人。あたしとは生きてる世界がまるで違う。曲がる選択肢のないまっすぐさが羨ましい。
……そう。憧れるってよりも、羨ましいの。諦めかけて、でも手を伸ばしちゃって。そんな自分のことが、大嫌いだった。
でも、まだ諦めたくないって、そう思ってる。悔しいな、みっともないなって、自分を責められる。それって、小指に絡まった真紅色を離さない理由として、十分なんじゃないのかって。
体内の中心部に灯る炎が、微かにゆらめく。消えかけたと手放しかけてた熱の鼓動を、まだ感じてる。このときめきはあたしだけのものなんだって、内側でなら叫べるかもしれない。
あたしの信じた運命を、あたしが信じてあげても、いいのかもしれない。
「ひひ。プロポーズはヘレンさんからだった、ってヴィクターさんから聞いたんですけど、物凄く納得しました」
ヴィクターさんの発言を思い出して、肩を揺らす。軟弱者だなんて弱気すぎるんじゃないのかって不思議だった。けど、たしかに。ヘレンさん相手に、彼が敵うはずもないだろう。
「……ワタクシから……」
だけど彼女は先ほどのように、自信に満ち溢れた言葉を声にすることはない。
「えぇ……たしか、そうだったはずよ……」
彼女は惑うみたいに俯くと、不安定に肯定を濁らせた。尋ねるようにして、ヘレンさんは指輪をなぞってたけど、その行為にこれといった意味はない。ぽつんと立ち尽くす彼女の隣に、ヴィクターさんはいなかった。
あたしはふと、考える。――ずっと王子さまを待ち続けたお姫さまが、プロポーズを奪うような真似をするだろうか。ヘレンさんなら、ヴィクターさんからの愛の告白を望むんじゃないか、と。
でもそんな思考は、客間の扉が開く音に気がつくと、紅茶の香りに紛れるように掻き消されていった。だから、大した疑問なんかじゃなくて、あたしの考え込みすぎなのだと。そう片付けて、あたしは帰ってきたヴィクターさんに、おかえりなさいと笑顔を振り撒いた。
◆◆◆
そうっと、そうっと。なるべく足音を立てないように、忍足で通路を歩く。といっても、このシアターの床にはカーペットが敷かれてるから、わざわざ泥棒のフリをしなくたっていいんだけど。
でも、あたしにとっては凄く重大なことだった。要は気持ちの問題なわけだけど、今は自分に指をさして、嘲笑ったりしない。そう約束した。真面目は長所だなんて馬鹿みたいな褒め言葉を、今だけはお守りにしてみようと思う。
左を向いて、あたしの席を確かめる。今日も今日とて、人気のないシアターだ。あたし以外誰も来ないだなんて、上映する作品のセンスがないんじゃないのかと、流石に怪しんでしまう。まぁそれは、自虐にも繋がるわけだけど、この場合は前向きな意味合いだった。
「それにあたし、知ってますよ」
きみも、ここに来てるってこと。
特等席の前に到達して、あたしは囁く。そこに真紅色のタオルケットはかけられていない。ふう、と深呼吸をする。続いて座面を下げると、自分の体を軽やかに半回転させて、椅子にどっしりと体重を預けた。
「よーし、寝ます! おやすみなさい!」
大きな声で目一杯に、居眠りを宣言する。遠回しな構ってちゃんなんて時代遅れ。いつだって、ド直球こそが正義なんだから。だとか何とかそう言い聞かせて、あたしはぎゅっと潰れてしまうくらい瞼を瞑った。
視覚を犠牲にして聴覚に全てを託すわけだから、耳の穴を可能な限り拡張させる。実際にこじ開けてるわけじゃないから、これもまた気持ちの問題。
改めて色んなことを思い返してみると、どんな場面でも結局、気持ちが重要なのかもしれなかった。ヘレンさんの「信じる」って行動だって、彼女がそう願ったからこそ始まったはず。
感情って、大切なんだ。何かに対して何かを想うことって、生き物なんだから普通のことだって。簡単に日常の中に葬り去ってしまうけど、そうじゃなかった。自分の抱いた気持ちには、必ず「意味」がある。たとえ「価値」を他人に塗り替えられてしまったとしても、「意味」だけは見失っちゃ駄目なんだって。
あたし、どうして忘れちゃってたんだろう。
閉じた瞼の裏側が、じんわりと闇を包むみたいにあたたかかった。その懐かしいぬくもりが漏れそうになって、ぐっと歯を食いしばる。全身を巡るもの全てが熱くて、それで、嬉しかった。
……そういえば、今日は何の映画の日だったっけ。急いで来ちゃったから、チェックしそこねてた。寝たフリをして暫く経ったけど、誰かがきた気配はない。そろそろスクリーンには映像が映り始めてるはずだ。一目見たら、何か分かるかも。そう思って、あたしはほんの少し瞳を起こした。
『あ、やっと起きた。寝顔は不細工だから見ないで〜って言うから、何回も起こしてあげたのに』
嘘つけ。本当はゲームしてたでしょ。
『おー、ビンゴ。てか僕が起こすわけないし、写真撮ってないわけがないじゃん。ここで寝たお前が悪いよ』
え、盗撮はやめてって言ったよね!? さっさと消してよー!
『やーだ。見足りないでしょ』
ずっとゲームしてたからじゃん。
『してないよ。ずっとお前を見てた』
暇人……ちょっと、なんで笑ってるの?
『顔赤いなって』
うるさいなぁ!
『あははっ。……あ、そういえば言い忘れてた』
?
『おはよう、ミ』
「ミラージェン……」
落ち着いた優しさに、心を溶かしちゃうみたいな愛おしい声。
スクリーンの登場人物とぴったり重なるようにして、その人はあたしの目の前に現れた。眼中に広がったのは、静かで滑らかな雪景色。穢れを知らないというより、穢れを嫌うような無垢。降り積もった雪は、画面の向こうの役者を覆い隠す。
まっさらに埋もれた中に、一段と揺れ動く青緑色の瞳があった。長く繊細なまつ毛は、触れてしまえばぱらぱらと散ってしまいそうで。どうにか形を保とうと必死な様子だったから、一度も瞬きをしなかったのだろう。
ぽふっと、あたしの膝に、軽い布が落っこちる。視界の端で落下していったそれは、真紅に染まってた。禁断の果実の色。小指に結ぶ糸の色。
愛を捧げた、薔薇の色。
冬の恋人のような吐息が、すぐそばで聞こえた。
「わ、わ、」
立ち上がる。
「う、うわあああー!!」
叫ぶ。
「え、ちょっと……!」
走り去る。
「待って、ミラージェン!」
扉を閉める!
走る、走る、全速力で走る。
ブンブンと乱暴に腕を振る動作も、カチャカチャと衝突し合うサングラスのテンプルも、ダカダカ飛び越えるように無理をした足幅も、カラカラとオアシスを求めるよう乾いた呼吸も。音響の設定を間違えたなんて気づかずに、ドンドンと鳴り響く心音も。全部、うるさくて仕方がなかった。ただひたすらに、一本道を駆けていく。
行く宛なんてない。目的地も決めてない。帰るべき場所は逆戻りすれば辿り着くって分かってる、そんなのあたしが一番理解してる。でも、でも、でも。
間近にいたあの人を、思い出す。それだけで、胸が破裂しちゃいそうなの。頬が熱くなって、背筋に汗が流れて、心臓が大暴れする。
こんなの、聞いてない。ドラマティックなラブストーリーなんて、望んでなかった。都合のいいロマンス物語も、やけに計算され尽くされた脚本だって、あたしにはいらない。それが自分の信じたものじゃないのなら、奇跡も愛も全部がらくたと同じだったから。
だけど。
周りの風景が、何にも見えない。今のあたしにはもう、あの人しか見えない。
白薔薇みたいに綺麗な、あの人しか。
――あたしの運命の人。
「誰かあたしを止めてー!!」
家も、植物も、この世界でさえも、みんなあたしと一緒に壊れてしまえ。
そんな身勝手な怪獣の咆哮が、晴々とした青空を貫いた。
◆◆◆
アクアリウムへと向かう道中。忙しない足音が背後から鳴って、すぐにあの子がやってきたのだと分かった。わたしは見返って、あの子の名前を呼ぼうとする。けれど、小さな少女はこちらに見向きもせず、慌てた挙動でわたしを横切っていった。
「ミラージェン……?」
子猫の尻尾のようにゆらゆらと揺れる彼女のポニーテールが、どんどん遠のいていく。もう手も声も届かない。引き止めようという発想すら生まれないくらい、あっという間の出来事のようだった。
「……嫌われちゃったかな」
寂しさを、認める。
好意は見返りを求めずに与えるものだ。だからこそ、わたしは自分がミラージェンの探していた運命の人ではないことを、やんわりと伝えてきた。あなたの期待に応えることはできないのだと、残酷にも感じられる真実を。だから、あの子がわたしから離れていくことは、きっと必然だった。そうであるべきだと思う。
わたしは、自由なミラージェンが好きだから。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
だなんて、呟いてみる。彼女の耳には、もう届かないだろうけれど。
「はぁ……はぁ……う……」
不意に、小刻みな呼吸が聞こえた。苦しげに掠れて、絞り出されたような息。ミラージェンのものではない。若い男の色をしている。わたしは再び、後ろを振り向いた。
「シェイヴィ」
瞳をいっぱいに広げてしまう。フラワーアーチから出ようともしなかったあの男が、ここにいるだなんて。しかも、日傘も差さずに。
流石に、なかったことにはできなかった。いつもは純白に染まった頬が、子供みたいに真っ赤に彩られている。膨らんでは萎む背中に、乱れた呼吸音と不慣れに流す汗から、怒っているわけでも照れているわけでもないことは明白だ。走るどころか、歩くことさえ知らないように脆弱なシェイヴィが、鬼ごっこでもしていたかの如く息を切らしている。
「あなた、どうしてこんなところに?」
わたしは問いかけながら、彼の元に寄る。辛いなら膝に手をつくなりしゃがみこめばいいというのに、シェイヴィは立ったままだった。ふらついた重心が危なっかしい。ため息をつきたくなったけれど、とりあえず抑えて、わたしは彼の背を摩る。どんなに厚着をしていても、骨の浮き出た輪郭は隠せないようだった。
「ごめんね」
誤魔化すみたいに、笑う。咳をしたそうに、体が震えている。それでも、押し殺す。
わたしに、笑いかけたいから?
「……謝らないで」
無性に腹が立った。この男には気に食わないところしかないのだから、当然かもしれない。だけれど、今この状況で、わたしに。そんな顔を、しないでほしかった。
「……ごめん」
わたしの言葉を受け取った上で、シェイヴィはもう一度謝る。面目なさそうな微笑を薄れさせようと努めていることが分かった。その憂い顔でさえも酷く美しくて、つくづく嫌になる。
……けれど、それはこの青年も、そうなのかもしれない、と。同情してしまう自分が、彼の隣にいた。
「ねぇ、サナシア」
「なに」
質問ですら逃げ出してしまいそうだったから、即座に返事をする。素っ気ない返しに違いなかったけれど、シェイヴィは気にしていない。むしろ相槌が返ってきたことに、どこか驚いているようでもあった。
彼がこちらを向く。切れ長の明眸は、僅かな幼気によって彷徨う。如何にも言いづらそうに、だけれど縋り付くように、シェイヴィはわたしを見つめた。
「……ミラージェンを、見なかった……?」
「……はぁ……?」
「普段の凛として涼やかな面貌のみが、ヘレンの美しさの全てを発揮しているのではないのさ。彼女は豊かに顔色を変えることはないけれど、時折見せる内面的な感情の滲んだ表情といったら、それは……もう……」
ぱん、と叩かれたヴィクターさんの両手から、エネルギッシュな音が鳴らされる。彼はその拍手を合図として、俊敏に立ち上がる。その姿はまるで、大袈裟な言動でお客さんを惹きつける司会者みたい。
ヴィクターさんは天に向かって手を差し伸べるように、すうっと片腕を掲げた。そこから数秒間、謎の沈黙が挟まれる。目を閉じて綺麗な姿勢のまま、彫像のように動きを止めるヴィクターさんをつい凝視してしまう。
けどそれも束の間、彼はカッと瞳を開眼させると、それと一緒に唇も大きく広げて、客間に収まらない声量を響かせた。
「筆舌に尽くし難い!! あぁ!!」
「ヴィクターさんってお喋り上手だけど、最終的にぱーっと弾けちゃいますよねぇ」
「無駄口を叩くことがお得意なようだけれど、理性というものは働いていらっしゃらないようでして。きっと彼も、慚愧に堪えないことでしょう」
爽快と感動に満ち溢れた様子のヴィクターさんに、彼のお嫁さんであるヘレンさんは辛辣な言葉を冷めた口調と融合させる。皮肉にしてはストレートで、でもお上品な雰囲気は崩れてなくて、お金持ちの人は凄いなぁだなんて思う。まぁ、裕福だとしても品のない人はいるはずだし、生まれ育った環境というよりも、魂の高潔さっていうか。
下品な人から罵倒されるのと、品格の高い人から罵倒されるのじゃ、傷の抉り方に結構違いがありそう。前者に何か言われてもどこか薄っぺらいから、はいはいまた言ってるよって笑えるけど、後者に罵られたら……暫くは忘れられなくなりそうだ。言葉の意味をよく理解して使う人の与えてくる重みって、多分、相当強い。
無事講演が終わったのか、既にヴィクターさんはソファに腰を下ろしていた。隣にはヘレンさんが座っている。喧嘩しちゃったときはどうなるかと不安になったけど、隣り合う二人を見てほっとした。夫婦とか大人って、こういうものなのかもしれない。
「それにしても、喜ばしいね」
彼は向かい側に座るあたしに視線を送る。
「キミはいつも、サナシアくんのそばにいただろう?」
あたしの横にいる誰かを想うような言いぶりだった。そこには、誰もいない。撫子色の髪を黄色のリボンで結った、暁色の瞳を持つあの人は、もういない。なのに、あたしはソファの真ん中には座らず、ほんの少しズレた位置に座ってる。勿論、他人にバレない程度に。もし冷ややかな反応を取られたら、堪ったものじゃないし。
でも。ヴィクターさんは、冷たさとは真逆の温度をあたしにでさえも分け与えるように、話題を繋げた。
「その微笑ましい姿を目に焼き付ける瞬間も私は好きだけれど、互いにしか持ち得ない音や色を言葉にして、このように語り合うひとときをお供させていただけるだなんてね」
ほわりと、優しい笑顔。
彼はそれぞれの価値観を尊重して話すことが大好き。
「人生は思いのほか、足早に過ぎ去っていきますから。アナタの大切なお時間の中に、ワタクシたちをご招待してくださったこと、この上ない幸福にございますわ」
ひらりと、麗しい綻び。
彼女は誰かと共に過ごす時の流れを大切にしてる。
「ちゅ!」
ついでに、明るい鳴き声。
この子はその場のムードに同調してるだけ。
会うのは二回目だけど、あたしには十分、よーく分かる。
「みんな、いい人すぎますよぉ……」
あたしは観察結果を口から零しながら、人じゃない子もいるけど、と心の中で付け加えた。
違った笑みを贈ってくれる彼らの心遣いは、傷口に消毒液が直接染みるような効き目がある。新鮮な裂け目には、ちょっとだけ刺激が強い。コットンみたいに柔らかくて、眩しくて、真っ白。液をつけすぎてひたひたになっても、垂れていく水滴は思いやりが溢れたってことで許される。
周りから称賛される「良い人」って、つまりはそういう人のことだ。
「おやおや、それはキミもじゃないか」
「そんなことないですよ、もうぜーんぜん」
それを受け取らないだなんて、酷いことだろうけど。にこやかさを崩すことのないヴィクターさんに、あたしはゆらゆらと首を横に振る。
ごめんなさい、素敵な人!
渦巻くような胸の中、演者の真似事みたく高らかに叫んだ。
「……分かるよ」
モノクルの奥でひっそりと、ヴィクターさんが瞳を細める。
「臆病になってしまう気持ちは」
たった一人、スポットライトに当てられてたのはあたしだけのはずだった。けど、すぐ近くの常闇に、彼は静かに佇んでる。まんまるな月明かりに入り込むわけじゃない。隣であたしのことを、ただじっと見つめてる。
肝が冷えていくような心地だった。引き出しにしまった日記帳の中身がバレちゃったみたいに、馬鹿らしいほど惨めで恥ずかしい。照明を落としてくれれば、この恥部だって隠し切れるはずなのに。自分の本当の情けなさだって、なかったことにできるはずなのに。
スポットライトなんて、全部壊れちゃえばいいのに。それかいっそのこと、あの子だけを選んでくれればいいのに。でも、煌びやかな月光は、いつだって「二人で一つ」を譲らない。
――だからあたしは、この舞台が嫌いだった。
『――』
誰かの声。愛おしい声。
意識を取り戻す。……あたし、何を考えてたんだろう。
最近、存在しないような記憶が脳裏を過ぎることが多い気がする。ワンシーンが瞬時に蘇るような感覚。それはデジャヴによく似てる。あ、こんなことあった、っていう根拠のない確信。この不確かで確実な感覚は、夢を思い出したときの衝撃と、同じ気がする。
一般的に言えば夢の原理は案外簡単。昔のことだったり最近の印象的な出来事だったり、色んな情報が脳内には積もってる。人間の脳は、寝てるときにそれらを整理してくれるらしい。ただ整える作業はかなりランダムで、過去と現在を引っ張り出しては適当に繋いでるから、余計にごちゃごちゃしてる。そういう過程を映像化したものが「夢」。だから意味の分からないカオスな内容だったりする。支離滅裂なストーリーの方が、夢らしいっちゃ夢らしいんだけど。
あとは、自分の望みが反映されてるって説もあって、これには結構賛成してる。あたしは眠ると、ほとんどの確率であの子に会うことができる。これってまさに、願望が叶ってる証拠に他ならないと思う。
でも、それ以外はどうだろう。混沌とした展開が広がったなら、一般論に沿ってしまえば悩まなくていい。だけど、脚本通りに進んだような整った構成をしていたら? 非現実だと断定するには、あまりにもリアルな情景が浮かび上がったら? 感覚的な体験だけじゃなくて、感情的な体験でさえも肌に触れたとしたら? それは果たして「夢」と呼べるのだろうか。
……そういえば、どこかで聞いたことがある。
『夢の中の世界は、パラレルワールドの世界かもしれない』って。
これこそ本当に確証のない、哲学的な話題かもしれない。自分たちの歩むルートは必ず一本道なんだから、世界線が分岐するだなんてありえない話だ。……でも、もし。誰が言ったのかも分からない仮説が事実だったとしたら。
別の世界で生きるあたし、もいたりするのかな。
「ミラージェンくん」
ふわっと、全身に薄いシーツが被さった。すべすべとした質感が気持ちいい。ひんやりとした中に包まって、そのまま眼を瞑りたくなっちゃう。なんか、どうでもいいなって、欠伸が漏れそうになった。
ぼんやりとした視界に映っていたのは、生まれ持った温顔を手放すことのないヴィクターさんだった。けど、彼はどこか、幼い切なさを漂わせてる。ヴィクターさんはあたしから目線を逸らすことはなく、弱々しく眉を下げたままだった。
「少し横になるかい?」
彼がゆるりと首を傾げる。いつの間にか年長者らしい仕草は戻ってきてたみたいだった。
本音を言うなら、お言葉に甘えてそうしたいところだったけど、お城で居眠りだなんて流石に気が引けた。
「全然大丈夫ですよ」
こてんと、ヴィクターさんとは反対方向に首を傾けてみる。胸元にかけたサングラスも、釣られて硬い体を無気力に揺らしてた。その流れで、あたしはローテーブルに置かれたカップを手に取る。
せっかく用意してくれたけど、正直紅茶は得意じゃなかった。後味の渋さが、子供舌にはどうにも慣れなくて。けど、飲まないってわけにもいかないから、なんてことないように一口を体に注ぐ。
「わー美味しいです!」
しわくちゃに歪みそうな唇を叱りつけるように、きゅっと口角を上げた。
やっぱり、苦い。
もしかしたら、一気に飲み干した方が楽なのかも。あまりに美味しくて、飲む手が止まらなかった……みたいな演出だったら、そこまでおかしくはないはず。そう思ってあたしは、海に潜り込む前の準備運動のように、深く息を吸い込んだ。
「……先程のお話に戻るのですが」
ふと、ヘレンさんがか細い声で会話を切り出す。あたしはリズムが少しだけ狂いかけてもう一度息を吸いそうになったけど、調子を整えるため余分に蓄えてしまった酸素を吐き出す。
すると、カップは自然と口元から離れて、ぷかりと間抜けな体勢で目の前に浮かんでる。ヘレンさんはあたしが紅茶を口にしなかったことを確認すると、テーブルから自分のコップを選び取った。
「この紅茶に何をお入れになられるのかは、アナタの自由です。砂糖を溶かしても、ミルクを注いでも、何も入れなくても。ワタクシたちは、今のアナタがどのような気分を味わいたいのか……そちらに興味がございます」
彼女は紅茶とそっくりな色合いの瞳で、優雅に輝く水面を眺める。だけど、ヘレンさんが見つめているのは、そこにいる自分自身じゃなかった。――あたしと、目を合わせてる。それはまるで、鏡の世界を通して現れた、小さくて可憐なお姫さまが、ひっそりと話しかけてくれてるようで。あたしもつい、カップの中を覗き込んだ。キャラメルみたいな色の川には、あたししか映ってない。けど、たしかに。あたしはヘレンさんと見つめ合ってた。そして彼女は、小さく微笑んでた。
あたしは咄嗟に顔を上げる。すると、ヘレンさんもゆっくりと顔を起こしていった。
「紅茶でなくとも問題ありませんわ。どんなものでもご用意いたしましょう」
彼女の慎ましい笑みは、茶葉が香るように、甘美で円やかだった。頬の近くに垂れ下がる黄緑色のピアスが、きらきらと純真に輝いてる。
「えーと、じゃあ……ファンタってありですかね……? オレンジの方なんですけど」
物音が目立たないように、紅茶のカップをテーブルに戻しながら、おずおずと尋ねてみる。曖昧に視線を泳がせたい気持ちでいっぱいだったけど、あたしはヘレンさんと瞳を重ね合うことを選択した。
「勿論ですわ」
あたしの選択に気づいてくれたのか。彼女は一層喜ばしそうに肯定を示した。
「では、私が用意してくるとしよう」
立ち上がったヴィクターさんは、またしても陽気に拍手を鳴らす。その後瞬く間に、ソファの下から小人たちが現れた。彼らは差し出されたヴィクターさんの手のひらに勢いよく飛び込む。それから彼は小さな住民たちを肩に乗せてやると、朗らかに笑った。
「ヴィクター、ワタクシの分も持ってきてちょうだい。久しぶりに飲みたくなってしまったわ」
「ふふ、任せておくれ、ヘレン」
愛するお姫さまからのお願いに、王子さまは上機嫌に返事をすると、スマートな足取りで部屋を出ていった。
客間には、あたしとヘレンさんが残された。ちょっぴり緊張する。マイナスな意味じゃなくて、どちらかといえばプラスの意味で。失礼な態度を取ってないかとか、常識知らずなマナーを常識だと思い込んでいないかだとか、考え始めたら止まらなくはなるんだけど。
でも今は、立派なレディのお手本ともいえる、この大きなお城のお姫さまと二人きり。そんな夢みたいな状況に、胸が躍らないわけがなかった。
「ヘレンさんも、ジュースとかって飲むんですね」
質問をしてみる。単純にびっくりしたから、ありのままの感情を渡す形で。
「子供の頃、彼に勧められて」
紅茶を一口啜って、彼女は呟く。
「初めは悪戯かと思いました。だって、突然口の中がしゅわしゅわするんですもの。もし喉が焼けてしまったらどうしようかと、飲み込み方だって分かりませんでしたわ」
すらすらと詩を唄うようにして、小さな思い出話が奏でられる。彼女は少しだけ拗ねたような口ぶりだった。ヘレンさんの発した「しゅわしゅわ」というオノマトペの音程もぎこちなくて、凄く可愛い。
彼女からしたら、この記憶は遠い昔のことなんかじゃなくて、昨日のことみたいに語れちゃうんだって、ほんのり羨ましくなった。
「それにあの人、ワタクシを見つめながら、心底愉快だとでもいうように笑っていて……」
「ほほう……」
「殴りました」
「暴力!」
思わずソファから転げ落ちるところだった。愛じゃないですか〜とかいう相槌を打たなくてよかった、と胸を撫で下ろす。淡々と述べるヘレンさんは真顔だった。本気のやつだ。如何なるときも暴力は許されることじゃないけど、こればっかりはヴィクターさんが悪いんだと思う。
……いや、ヴィクターさんは大概間違ってるんだけど、悪気はなさそうというか。デリカシーに欠けてるわけじゃないけど、乙女心への理解力は全く足りてない。あれもこれもヘレンさんのためにと頑張ってるのは見てれば分かるけど、空回りしまくりの善意なんて、貰った側は反応に困るし。前にヘレンさんが怒ったのだって、当然の結果だ。
でも、だからこそ。そんな彼が、悪意を含ませたように、ヘレンさんを揶揄ったりするのかと。あたしは内心でかなり驚いてた。
「なんか、今のヴィクターさんからじゃ想像がつかないですね」
若い頃は、無邪気なところもあったのかも。あたしの知る柔和な彼を思い浮かべて、ちょっぴり微笑ましくなった。
「そうね……」
ことりと、カップがソーサーに着地する。ヘレンさんは仕事の終えた右手を、そっと片頬に添えた。つぶらな瞳の伏せられた先は、膝下に乗せられた左手に。
「けれど彼は、ワタクシを迎えにきてくれた、『王子さま』でしたわ」
瞬きを足止めした彼女はきっと、薬指に宿った唯一の目映さに心を奪われてる。
「王子さま……」
自分とは程遠いような単語を、ひっそりと繰り返す。
「あたしにはそんな素敵な人、いるわけないんですけど」
まず、否定を加える。弱い自分を守るために。どんなときも、話はそれからだった。
「でも、ずっと追い求めているのに、辿り着けなくて。そんなときって、どうすればいいんでしょうかね」
別に、性別なんてどうでもよくて。王子さまでもお姫さまでも、あたしには関係なかった。人って言ってるけど、人じゃなくたっていい。
ただ、この小指に結ばれた運命の向こう側を、信じたいだけなの。
じんわりと頭が、重力に負けていく。太ももの上で握り締められた拳の間には、雪に溶け込みそうなあの紙切れが挟まってるみたいだった。
「あら、簡単なお話よ」
指先を震わせる力が抜けていくような声色。それでいて、皺のついたチケットが、ぴんと背筋を伸ばせるような力強さ。あたしは重力を振り払って、ヘレンさんと向き合った。彼女は上品に、それでいて勝気に、唇の弧を描いていく。
「待ち伏せでもして、捕まえてあげればよろしいの」
「……えぇっ?」
うっかり、素っ頓狂な声が零れた。だけどヘレンさんは気にすることなく、茶目っ気の隠しきれない微笑みを継続させる。
「ワタクシは、ワタクシを迎えにきてくださる王子さまを心待ちにしておりました。辛抱強く、我儘も封じ込めて。どんなに苦しいことが降り注いだとしても、絶対に折れるものかとしぶとく待ち続けましたわ」
「……どうして、待っていられたんですか?」
「あの人を信じていたからよ」
迷いのない夢に、強かな眼差し。決められた道筋を辿るべきなのだと口を挟まれても、彼女にとっては小鳥の囀りに等しい。……いや、ちょっと違うかも。ヘレンさんは、動物の歌声と心を通じ合わせるように、耳を傾けてくれるはず。
斜線を引いて、早急に間違いを書き直す。正しく言い換えると、彼女は自分の意見を曲げることは絶対にないだろう。自分の信じた道だけを信じてる。たとえその先が茨の茂みだらけだったとしても、ヘレンさんなら煌びやかなドレスを身に纏ったまま、ワルツを踊るように歩んでいく。生地が破けて、靴が汚れて、血を流したとしても。この勇敢なお姫さまからすれば、へっちゃらなんだ。だって彼女は、信じることを疑わないのだから。
「けれども、その運命が立ち止まってくれるかは分かりません。幽霊のように、この世界から消え去ってしまうかも……ですから、その赤い糸を逃してはいけませんわ。決して離れないように、この手で手繰り寄せるのよ」
ご覧になって。アナタのそばに、王子さまは迎えにきていますもの。
――まるで太陽みたいに、眩しい人。気高く咲き誇る橙色は、彼女がこの城のお姫さまであることを、輝かしく象徴してた。
ヘレンさんも、本当に素敵な人。あたしとは生きてる世界がまるで違う。曲がる選択肢のないまっすぐさが羨ましい。
……そう。憧れるってよりも、羨ましいの。諦めかけて、でも手を伸ばしちゃって。そんな自分のことが、大嫌いだった。
でも、まだ諦めたくないって、そう思ってる。悔しいな、みっともないなって、自分を責められる。それって、小指に絡まった真紅色を離さない理由として、十分なんじゃないのかって。
体内の中心部に灯る炎が、微かにゆらめく。消えかけたと手放しかけてた熱の鼓動を、まだ感じてる。このときめきはあたしだけのものなんだって、内側でなら叫べるかもしれない。
あたしの信じた運命を、あたしが信じてあげても、いいのかもしれない。
「ひひ。プロポーズはヘレンさんからだった、ってヴィクターさんから聞いたんですけど、物凄く納得しました」
ヴィクターさんの発言を思い出して、肩を揺らす。軟弱者だなんて弱気すぎるんじゃないのかって不思議だった。けど、たしかに。ヘレンさん相手に、彼が敵うはずもないだろう。
「……ワタクシから……」
だけど彼女は先ほどのように、自信に満ち溢れた言葉を声にすることはない。
「えぇ……たしか、そうだったはずよ……」
彼女は惑うみたいに俯くと、不安定に肯定を濁らせた。尋ねるようにして、ヘレンさんは指輪をなぞってたけど、その行為にこれといった意味はない。ぽつんと立ち尽くす彼女の隣に、ヴィクターさんはいなかった。
あたしはふと、考える。――ずっと王子さまを待ち続けたお姫さまが、プロポーズを奪うような真似をするだろうか。ヘレンさんなら、ヴィクターさんからの愛の告白を望むんじゃないか、と。
でもそんな思考は、客間の扉が開く音に気がつくと、紅茶の香りに紛れるように掻き消されていった。だから、大した疑問なんかじゃなくて、あたしの考え込みすぎなのだと。そう片付けて、あたしは帰ってきたヴィクターさんに、おかえりなさいと笑顔を振り撒いた。
◆◆◆
そうっと、そうっと。なるべく足音を立てないように、忍足で通路を歩く。といっても、このシアターの床にはカーペットが敷かれてるから、わざわざ泥棒のフリをしなくたっていいんだけど。
でも、あたしにとっては凄く重大なことだった。要は気持ちの問題なわけだけど、今は自分に指をさして、嘲笑ったりしない。そう約束した。真面目は長所だなんて馬鹿みたいな褒め言葉を、今だけはお守りにしてみようと思う。
左を向いて、あたしの席を確かめる。今日も今日とて、人気のないシアターだ。あたし以外誰も来ないだなんて、上映する作品のセンスがないんじゃないのかと、流石に怪しんでしまう。まぁそれは、自虐にも繋がるわけだけど、この場合は前向きな意味合いだった。
「それにあたし、知ってますよ」
きみも、ここに来てるってこと。
特等席の前に到達して、あたしは囁く。そこに真紅色のタオルケットはかけられていない。ふう、と深呼吸をする。続いて座面を下げると、自分の体を軽やかに半回転させて、椅子にどっしりと体重を預けた。
「よーし、寝ます! おやすみなさい!」
大きな声で目一杯に、居眠りを宣言する。遠回しな構ってちゃんなんて時代遅れ。いつだって、ド直球こそが正義なんだから。だとか何とかそう言い聞かせて、あたしはぎゅっと潰れてしまうくらい瞼を瞑った。
視覚を犠牲にして聴覚に全てを託すわけだから、耳の穴を可能な限り拡張させる。実際にこじ開けてるわけじゃないから、これもまた気持ちの問題。
改めて色んなことを思い返してみると、どんな場面でも結局、気持ちが重要なのかもしれなかった。ヘレンさんの「信じる」って行動だって、彼女がそう願ったからこそ始まったはず。
感情って、大切なんだ。何かに対して何かを想うことって、生き物なんだから普通のことだって。簡単に日常の中に葬り去ってしまうけど、そうじゃなかった。自分の抱いた気持ちには、必ず「意味」がある。たとえ「価値」を他人に塗り替えられてしまったとしても、「意味」だけは見失っちゃ駄目なんだって。
あたし、どうして忘れちゃってたんだろう。
閉じた瞼の裏側が、じんわりと闇を包むみたいにあたたかかった。その懐かしいぬくもりが漏れそうになって、ぐっと歯を食いしばる。全身を巡るもの全てが熱くて、それで、嬉しかった。
……そういえば、今日は何の映画の日だったっけ。急いで来ちゃったから、チェックしそこねてた。寝たフリをして暫く経ったけど、誰かがきた気配はない。そろそろスクリーンには映像が映り始めてるはずだ。一目見たら、何か分かるかも。そう思って、あたしはほんの少し瞳を起こした。
『あ、やっと起きた。寝顔は不細工だから見ないで〜って言うから、何回も起こしてあげたのに』
嘘つけ。本当はゲームしてたでしょ。
『おー、ビンゴ。てか僕が起こすわけないし、写真撮ってないわけがないじゃん。ここで寝たお前が悪いよ』
え、盗撮はやめてって言ったよね!? さっさと消してよー!
『やーだ。見足りないでしょ』
ずっとゲームしてたからじゃん。
『してないよ。ずっとお前を見てた』
暇人……ちょっと、なんで笑ってるの?
『顔赤いなって』
うるさいなぁ!
『あははっ。……あ、そういえば言い忘れてた』
?
『おはよう、ミ』
「ミラージェン……」
落ち着いた優しさに、心を溶かしちゃうみたいな愛おしい声。
スクリーンの登場人物とぴったり重なるようにして、その人はあたしの目の前に現れた。眼中に広がったのは、静かで滑らかな雪景色。穢れを知らないというより、穢れを嫌うような無垢。降り積もった雪は、画面の向こうの役者を覆い隠す。
まっさらに埋もれた中に、一段と揺れ動く青緑色の瞳があった。長く繊細なまつ毛は、触れてしまえばぱらぱらと散ってしまいそうで。どうにか形を保とうと必死な様子だったから、一度も瞬きをしなかったのだろう。
ぽふっと、あたしの膝に、軽い布が落っこちる。視界の端で落下していったそれは、真紅に染まってた。禁断の果実の色。小指に結ぶ糸の色。
愛を捧げた、薔薇の色。
冬の恋人のような吐息が、すぐそばで聞こえた。
「わ、わ、」
立ち上がる。
「う、うわあああー!!」
叫ぶ。
「え、ちょっと……!」
走り去る。
「待って、ミラージェン!」
扉を閉める!
走る、走る、全速力で走る。
ブンブンと乱暴に腕を振る動作も、カチャカチャと衝突し合うサングラスのテンプルも、ダカダカ飛び越えるように無理をした足幅も、カラカラとオアシスを求めるよう乾いた呼吸も。音響の設定を間違えたなんて気づかずに、ドンドンと鳴り響く心音も。全部、うるさくて仕方がなかった。ただひたすらに、一本道を駆けていく。
行く宛なんてない。目的地も決めてない。帰るべき場所は逆戻りすれば辿り着くって分かってる、そんなのあたしが一番理解してる。でも、でも、でも。
間近にいたあの人を、思い出す。それだけで、胸が破裂しちゃいそうなの。頬が熱くなって、背筋に汗が流れて、心臓が大暴れする。
こんなの、聞いてない。ドラマティックなラブストーリーなんて、望んでなかった。都合のいいロマンス物語も、やけに計算され尽くされた脚本だって、あたしにはいらない。それが自分の信じたものじゃないのなら、奇跡も愛も全部がらくたと同じだったから。
だけど。
周りの風景が、何にも見えない。今のあたしにはもう、あの人しか見えない。
白薔薇みたいに綺麗な、あの人しか。
――あたしの運命の人。
「誰かあたしを止めてー!!」
家も、植物も、この世界でさえも、みんなあたしと一緒に壊れてしまえ。
そんな身勝手な怪獣の咆哮が、晴々とした青空を貫いた。
◆◆◆
アクアリウムへと向かう道中。忙しない足音が背後から鳴って、すぐにあの子がやってきたのだと分かった。わたしは見返って、あの子の名前を呼ぼうとする。けれど、小さな少女はこちらに見向きもせず、慌てた挙動でわたしを横切っていった。
「ミラージェン……?」
子猫の尻尾のようにゆらゆらと揺れる彼女のポニーテールが、どんどん遠のいていく。もう手も声も届かない。引き止めようという発想すら生まれないくらい、あっという間の出来事のようだった。
「……嫌われちゃったかな」
寂しさを、認める。
好意は見返りを求めずに与えるものだ。だからこそ、わたしは自分がミラージェンの探していた運命の人ではないことを、やんわりと伝えてきた。あなたの期待に応えることはできないのだと、残酷にも感じられる真実を。だから、あの子がわたしから離れていくことは、きっと必然だった。そうであるべきだと思う。
わたしは、自由なミラージェンが好きだから。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
だなんて、呟いてみる。彼女の耳には、もう届かないだろうけれど。
「はぁ……はぁ……う……」
不意に、小刻みな呼吸が聞こえた。苦しげに掠れて、絞り出されたような息。ミラージェンのものではない。若い男の色をしている。わたしは再び、後ろを振り向いた。
「シェイヴィ」
瞳をいっぱいに広げてしまう。フラワーアーチから出ようともしなかったあの男が、ここにいるだなんて。しかも、日傘も差さずに。
流石に、なかったことにはできなかった。いつもは純白に染まった頬が、子供みたいに真っ赤に彩られている。膨らんでは萎む背中に、乱れた呼吸音と不慣れに流す汗から、怒っているわけでも照れているわけでもないことは明白だ。走るどころか、歩くことさえ知らないように脆弱なシェイヴィが、鬼ごっこでもしていたかの如く息を切らしている。
「あなた、どうしてこんなところに?」
わたしは問いかけながら、彼の元に寄る。辛いなら膝に手をつくなりしゃがみこめばいいというのに、シェイヴィは立ったままだった。ふらついた重心が危なっかしい。ため息をつきたくなったけれど、とりあえず抑えて、わたしは彼の背を摩る。どんなに厚着をしていても、骨の浮き出た輪郭は隠せないようだった。
「ごめんね」
誤魔化すみたいに、笑う。咳をしたそうに、体が震えている。それでも、押し殺す。
わたしに、笑いかけたいから?
「……謝らないで」
無性に腹が立った。この男には気に食わないところしかないのだから、当然かもしれない。だけれど、今この状況で、わたしに。そんな顔を、しないでほしかった。
「……ごめん」
わたしの言葉を受け取った上で、シェイヴィはもう一度謝る。面目なさそうな微笑を薄れさせようと努めていることが分かった。その憂い顔でさえも酷く美しくて、つくづく嫌になる。
……けれど、それはこの青年も、そうなのかもしれない、と。同情してしまう自分が、彼の隣にいた。
「ねぇ、サナシア」
「なに」
質問ですら逃げ出してしまいそうだったから、即座に返事をする。素っ気ない返しに違いなかったけれど、シェイヴィは気にしていない。むしろ相槌が返ってきたことに、どこか驚いているようでもあった。
彼がこちらを向く。切れ長の明眸は、僅かな幼気によって彷徨う。如何にも言いづらそうに、だけれど縋り付くように、シェイヴィはわたしを見つめた。
「……ミラージェンを、見なかった……?」
「……はぁ……?」