Chapter2:Dreams and reality
17 Happy Birthday
扉を開けた少女を待っていたのは、日傘を差した美しい男だった。少女は男の肩を掴み、激しい剣幕で訴えかける。だが、男は悠揚迫らぬ態度で彼女の叫びを撫でつけると、父親が子供を慰めるかの如く接吻を与えた。さながら時が止まったように神秘的なワンシーンが、紙芝居劇の枠の中に流れる。ソファに腰をかける私は、その映像に目線を奪われた。
「……あの男、彼女に何をした?」
少女――サナシアは、あの家から出ようと必死な様子だったというのに、まるで記憶を奪われたかのように佇んでいる。彼女の熱を冷まして、初めからそんなものはなかったのだと微笑む男の穏やかな相好に、私はひやりとした腹の底を塗り替えるため眉を顰めた。
「マインドコントロール……と形容するには、悪意が足りない」
あの男が少女に施した口付けには、情熱を吸い取ると同時に、支配が注ぎ込まれていたに違いない。だが、それにしてはあまりにも好意的で、優しさが拭えなかった。
「支配の全てが悪意によるものだとは限らない」
以前までは一人分空いていた隣の間隔を、互いに半分に分け合った距離。そこに座るザレンダが否定する。意見を真っ二つに割るわけではなく、視野を広めるための助言。彼の言葉はいつだってそうだった。ザレンダが発するのは、表面をなぞった部分だけ。その裏面を見せつけるようなことはしない。自分の頭で考えて答えを出すべきなのだと、私に教えているようだった。
「彼……は」
「シェイヴィ。この箱庭の管理人……いや、創始者だ」
男の名と共に加えられたのは、まるで神のように絶対的な響き。
ジリリリリリリリリリリ。
けたたましいチャイムの音が、はっと私の目を覚まさせる。
妙に、聞き覚えのある名前だった。懐かしいというよりも、忘れ難き新鮮さが勝る……そのような感覚を覚える。この不可解な気分は、シェイヴィにだけ感じたものではなかった。ミラージェンと似た髪色を持つ少女サナシアにも、私は同じような印象を抱いている。単純に、あの子の面影を浮かべてしまうからだろうか。
箱庭と私は、明らかに境界線が引かれた別世界の存在だ。だが、どうにも他人事だとは思えない。この胸のざわめきの正体が分からぬうちは、そんな妄想を繰り広げてしまうのだった。
「彼は、この世界の神ということか?」
創始者。即ち、生みの親。無から有を創り出した、始まりの人。彼の恐怖すら植え付けるほどの人間離れした容姿の端正さには、最も相応しいような立場であると納得できた。
「人は神にはなれない」
しかし、ザレンダはゆっくりとかぶりを振る。その緩慢な動作には、抱えきれないほどの重みが乗せられているようで。だけれど、彼はそれらを床に置こうとはしない。もう、当たり前となってしまったのかもしれなかった。
「だからホワイトガーデンは生まれた」
箱庭を創造したシェイヴィと、箱庭を破壊しようとするザレンダ。サナシアの自由を封じた創造者と、私の不自由を解き放とうとした破壊者。何もかもが、正反対だった。
もし、どちらが「悪」であるかと問われたら、私はどう決断するのだろう。……ほら見ろ、また「選択」が迫ってくる。何でもかんでもそうだ。うんざりする。
……だが。この世界に定められた善悪などが、実在しうるのだろうか。
例を挙げるならば、社会的な規則、守るべき倫理、踏み外すことのない常識。これらは誰もにとって、生まれた瞬間から正しいものとして脳に刻まれる。
だけれど、そこに個人の強い想いや望みはない。破ってはならないのだと、皆が口を揃えて頷いているだけ。提示された道順を歩めばいいだけなのだから、これといった息苦しさはない。人は正しくあるべきだ。
ただ、これは模範的な人間としての歩み方を手本とした場合だ。もし基準となる点が、先程は除外した想いや望みとなった場合には、果たして一般常識などというものが通じるのだろうか。
私の正しさは、ミラージェンだ。だから、あの子の世界を壊すと言ったザレンダは、間違っている。
だが、箱庭を見つめる彼の横顔を知った、今。そのように断言することは、できなくなっている……のかもしれない。
自らの手で壊すのだと言ったくせに、彼の浮かべる表情はどれも感傷的で、その噛み合わなさがどうにも不愉快だった。不自由と安堵が隣り合わせとなる危うさを私に伝えたときもそうだ。
彼は、私の手を握った。
破壊とは程遠く、救済とも言えるその行為。
あの大きな手のひらは、小箱を踏み潰したいわけではないのでは? 小箱を開いて、またその中にある小箱を開いて……さながら砂を押し固めて作られたマトリョーシカに触れるよう、一際丁重に。そうして、やっと辿り着いた先の景色をひと目確認して、そっと手のひらに乗せて。
ただきゅっと、包みたい。それだけなのかもしれなかった。
本当にザレンダが考えていることなんて、私には理解しきれないだろう。多少、ほんの僅か、彼に安らぎを貰ったことは否めない。それゆえ、この男に善人であってほしいと、勝手に揺らぎゆく天秤が片方に傾いていくことも、認めざるを得ない。
それでも、私は。あの子の生きる世界の崩壊は望まない。いいや、望めない。
「戻るのか」
立ち上がった私に、ザレンダが尋ねる。横を向くと、彼もまたこちらを向いていた。変わらず、暗黒が満ちている。鋭い目つきに素っ気なさや敵意は籠っていない。恐らく、ベッドルームまで送っていこうかと、問いかける代わりの眼差しだった。私は軽く首を横に振る。黄色のリボンがゆらゆらと靡いた。
「辺りを見て回る。構わないな」
自分には無関係だと吐き捨てて、再び寝具に寝転んだとて誰も私を咎めない。事実、私には関係のないことであり、相関図を制作しても部外者という配置に収まるだろう。直接的な干渉など、生きた人間にすらできないことなのだから、世界規模となれば尤もな話だ。
しかしながら、現実という世界には、私の大切なあの子がいる。勝手に破滅していけばいいと、見過ごすわけにいかないのだ。
……それに、あの子は私に、何か隠し事をしている。ザレンダの忠言に流されてなどいないが、試すような心持ちで疑いを垣間見せると、あの子は明るく笑った。だがその微笑みは、彼女を試した罪悪感を覆っていく。
私は、悩み事や困っていることはないかと、問いを投げた。けれども彼女は「嘘」などないと答えた。わざわざ目立つように。
これは、憶測の域を出ないこじつけ。微々たる差を見比べて、都合よく解釈しようとしている可能性は十二分にある。まるであの子を悪人に仕立て上げようとでもしているようだ。
でも、私はあの子のことが大好きで、大切で、愛おしくて。信じている。
だからこそ、疑うよ。貴方の正しさを証明するために。貴方が過ちを犯すだなんて、ありえないのだから。
この不安は、貴方の心の内を解き明かせていないから、発生しているだけ。たとえ嘘を吐いていたとしても、その鏡の奥に隠れた、貴方の心優しさを皆が理解していないだけ。
大丈夫、私が正しい答えを出してみせる。そうすれば、元より強固な信頼は絶対的なものになるはずだから。
「好きにするといい。貴方の興味が深まるようなものなど大してない、つまらぬ場所だろうけれど」
そう呟くと、ザレンダは私から目線を外して、再度箱庭を眺める。私も彼のそばから離れて、自然に開いた本棚の先を渡った。すると門は物静かに閉じてゆき、ザレンダの姿は見えなくなった。背後を確認することなく、私は右へ曲がると、そのまま歩を進める。
私が存在できるのは、夢という曖昧な意識の空間のみ。あの狭いベッドルームは、ミラージェンの無意識から作り出された小部屋だ。ならば、この広々とした図書館はザレンダの夢の中だと判じて問題ないだろう。甘ったるい一室があの子の好きなもので埋め尽くされているように、此処には彼に纏わるピースが各所に散りばめられているはずだ。
ザレンダが箱庭を壊したいという願いに、私は賛同できない。だが、彼自身の想いは、きっとまだ知らない。
私はミラージェンの気持ちも、ザレンダの気持ちも、どちらも手にしたい。考えることは山ほどあるが、まずはその二つを知ることに専念しようと思った。箱庭の崩壊を防ぐためにも、必要な情報は何かしら潜んでいるはず。手始めとして、破壊者であるザレンダについて、私は知るべきだ。
ミラージェンには、なるべく悟られないように。穏便に、スムーズに、事を進めよう。私一人で解決してみせる。そうすれば、あの子はいつもみたいに、眩しい笑顔で私を照らしてくれるだろうから。
「それにしても、此処には本しかないな」
立ち止まって、ぐるりと周囲を見渡した。白を背景にして、まっすぐと道が伸びている。両脇には、配置も中身もびっしりと敷き詰められた本棚が並んでいた。ザレンダと共に歩んだときと何ら変わりない景観である。彼と別れてから暫く経つが、これといった変化は見られない。
「たしかに、つまらぬ場所だ」
申し訳なさそうにするわけでもなく、ただ事実だけを述べたであろうザレンダに、今更ながら返答する。そもそも、彼自身面白みのない人間なのだから、その性質が反映されたこの世界に愉快な要素がないことは自明だが。
ただ道をまっすぐ進んでいくだけでは埒が開かない、ということだろう。此処にあるものといっても、終わることのない行列のように佇む本棚のみ。そのどれもに、種類の豊富な書物が集められている。タイトルを確認しようにも、この位置からでは読み取れない。私は左側へ方向転換すると、書棚の前にまで訪れる。いざ対面してみると、予想よりも大きい。ザレンダの背丈に合わせているからだろうか。私では、最上部にまで手を伸ばすことは難しい。視線を下ろすのも一苦労だ。はぁ、とため息をつきながら、目先にある本に注目する。
「なに……ソクラ、テス、プラトン、アリ、ストテレス……デカルト?」
それぞれの題名に書かれた、ややこしく似通った単語たち。口内で分解しきれず、舌の上で溶け残ったままに発音してみる。何かの専門用語のようだが、もしかしたら人名かもしれない。中から適当に選び取った本を開いてみる。
「アリストテレスの哲学……ということは、やはり人の名だな」
白紙を挟んだニページ目に表記された小見出しを目に入れて、小さく頷く。それから数ページほど捲ってみると、ご丁寧に目次が現れた。私の知っている知識などないだろうが、じっくりと目を凝らしてみる。恐らく、この一覧に記されているものが哲学と名付けられる用語たち、という解釈で差し支えないはずだ。
やはり、と強調するまでもないが、私の脳内に記憶として保存されていそうなワードは見当たらなかった。どれも小難しい内容ばかりなように感じる。ミラージェンが読んだのなら、原因不明の頭痛に襲われるやもしれない。私とて、すらすらと飲み込める気はしない。
だが。何となく、ページを捲る手は止まらなかった。目の前に広がる文字が、謎から認知へ変化して、紙を擦る感覚が何れ過去の思い出となってゆく。まるで、未知なる未来への足取りのようだった。現在に生きる私たちが古い過去に触れた瞬間、其処には定められることのない未来が溢れていく。安っぽい表現になってしまうけれど、それは多分、希望という形をしている。輝きのシンボルは、存外親しみやすく、私たちのすぐそばにいた。
次に私を待つのは、形而上学と印刷された、新たなる世界。私はすいっと表紙を飛び越えて、足を踏み入れようとした。
カラン。
本の隙間から、何かが零れ落ちる。軽い音は、真下から聞こえた。顔を下に傾けると、小さな物体が転がっている。それは本棚の一番下の段の近くに居座っていた。私はしゃがみ込むと、落とし物を指先で摘む。
「何だこれは?」
問いかけたところで無意味だが、つい疑問を口に出してしまった。見たところ、小粒なカプセルのように思われる。丁度中央をラインとして上下の色が異なっており、中身は空気を詰め込んだかのようだった。試しにふらふらと振ってみる。微かに、擦れる音がした。
「粉末が入っているのか?」
揺らす手を止める。そして、暫し脳裏を巡らせる。深く悩まずとも、瞬く間に答えは浮かび上がった。
「薬だ」
漂う無機質さが、そう語っている。
「何の?」
カラン。コロコロ。
手から滑り落ちたカプセルが、肩を揺らした。痛快そうに、ケタケタと笑って。
だが、その笑い声は薄れていく。薬は器用な動きで、一番下にある棚の隙間へ隠れていった。私がザレンダの夢で目にしてきた本は、あれほどぎっちりと並べられていたというのに、此処だけは不自然なスペースが空いている。私はぐっと、背中を丸めて覗き込む。
そのエリアには、子供の好みそうな絵本ばかりだった。人魚姫にマッチ売りの少女。ヘンゼルとグレーテルにオオカミ少年。どのような内容なのか気になったが、私はすらりと目線を右に巡らせる。
すると、最後に登場したのは、鮮やかな真紅色。影に潜んでいたとは想像もつかないほど、堂々とした赤色の表紙の本だった。絵本よりも一回りは大きいだろうか。きちんと整列した隣の仲間たちとは違って、それは斜めの姿勢を維持している。そのせいで、余計な空間が生まれてしまったのだろう。手を突っ込むにもやりづらかったため、一度赤い本を取り出してから、薬を拾うことにした。
左手に取ってみて、少々驚く。ずっしりと、重みを感じた。傷のないハードカバーという見た目からしても、雑な装丁でないことは明らか。だが、それにしてもこの重量。辞典と言われても疑念を抱かないだろう。片手で持つには困難だったため、哲学書に重ねるよう太ももの上に乗せた。ふぅ、と一息つく。続いて、最終目的であった薬の回収を済ませようとした。
「……」
伸びた腕が、ぴたりと固まる。
「ない」
言葉の通りだった。其処には、何もない。赤い本がいなくなった空席だけが、其処にある。塵も埃も見当たらない、如何にも清潔な佇まいだった。
形があるか、ないか。その肌に触れられるか、触れられないか。目に見えるか、見えないか。実在するか、しないか。片方を選べば、有る。だけれど、もう片方を選べば、無い。何にも、無いのだ。私に突きつけられるのは「無」という、がらんどうで空虚な一文字だけだった。
虚しい、虚しい!
乱暴に立ち上がる。その衝撃で本が床に落ちて、ぐったりと倒れ込む。
心の叫びなんて、誰にも届かない。手を伸ばしたって、痛ましく払われる。だから、胸に抱えられた赤い本だけはぎゅっと、力強く抱きしめた。硬い。柔らかな温度だって籠っていない。涙を吸い込んで重たくなった枕の方が、まだマシだ。
でも。今、其処にいてくれたのが貴方でよかった、と。
何故このように思うのかは分からない。だが、ザレンダが私を抱き止め、手を握ってくれた、あのとき。それらと全く、同じだった。
「……そういえば、題名を見ていなかったな」
不意に、この本の背表紙にはタイトルが書かれていなかったことを思い出す。名前を知りたくなった、のかもしれない。私は改めて、表紙を確認した。
『Happy Birthday! Zarenda!』
華やかな金色で陽気に彩られた手書きの太文字は、一つ目のエクスクラメーションマークを区切りとして、二段に分けられている。一列目の端には吹き出しが加えられており、中には「6.11」と日付が書いてあった。
「本じゃない。これは恐らく……」
アルバム。
他の本と比べて大きさや質感が異なっていたのは、そもそもこれが本ではなかったからだ。すんなりと合点がゆく。
……驚くほど、都合がいい。写真という思い出の込められたものは、彼のことを知るにもってこいだった。あの男がどのような人生を歩んだのかだって、指先で仄かにでもなぞれることだろう。
ラッキーだ。こんな偶然はない。話を聞き出さずとも、容易にザレンダの情報を得ることができる。ならば、真紅を捲る他ない。そのはずだ。どのような人間が、この状況に置かれたとしても。
表紙に、触れる。内側で待ち構えているであろう、彼の時間を解き放つため。
「……違う」
もう一度、表紙に残された文字を見つめる。決して綺麗とは褒められないバランスをしていたが、それでも、頬が綻んでしまうほどに愛おしい。
このアルバムは、ザレンダが大事な誰かから貰った、プレゼントだ。
ただ純粋に、ワクワクとドキドキを同時に鳴らして。不慣れにページを開いた、その先。ふわりと、花嫁の投げたブーケから花弁が舞うように。ぱちぱちと、クラッカーの紙吹雪が飛び跳ねるように。ぎゅうっと、大切なあの子から抱きしめられたように。
数え切れないほどの祝福が、魔法のように優しく溢れかえって、彼だけに降り注ぐのだ。
「これは私のものじゃない。ザレンダのものだ」
私は、ほんの少し空いた隙間でさえも許さずに、ぐっとアルバムを閉じる。
選択から免れた安心感からか、よかった、と、強く思う。こんなときでさえも自分のことしか考えられないのかと、嫌なくらいに呆れてしまうのだが。
ザレンダの宝物を壊さぬよう、元の場所に戻そうと再度屈む。元通りにするのならば、斜めに置くのが正解だが、どうにも適当さが気に食わない。もっと上手く並べることはできないだろうかと、私はアルバムの向きを変えたりと試行錯誤した。
その刹那。アルバムの裏表紙が目に入った。表面のような煌びやかさは落ち着いており、右下には小さく文字が記されている。私は瞳を細めて、何が書かれているのかを確かめた。
『From your best friend,Shavy』
またしても、がたついた文字列が其処にある。表紙のものよりも、気が抜けているように窺えた。さらさらと、滑らかな心地で綴られたであろう、ささやかなメッセージ。
それを紡いだのは。いや、このアルバムをザレンダに贈ったのは。
「シェイヴィ」
あの箱庭の創始者だった。
扉を開けた少女を待っていたのは、日傘を差した美しい男だった。少女は男の肩を掴み、激しい剣幕で訴えかける。だが、男は悠揚迫らぬ態度で彼女の叫びを撫でつけると、父親が子供を慰めるかの如く接吻を与えた。さながら時が止まったように神秘的なワンシーンが、紙芝居劇の枠の中に流れる。ソファに腰をかける私は、その映像に目線を奪われた。
「……あの男、彼女に何をした?」
少女――サナシアは、あの家から出ようと必死な様子だったというのに、まるで記憶を奪われたかのように佇んでいる。彼女の熱を冷まして、初めからそんなものはなかったのだと微笑む男の穏やかな相好に、私はひやりとした腹の底を塗り替えるため眉を顰めた。
「マインドコントロール……と形容するには、悪意が足りない」
あの男が少女に施した口付けには、情熱を吸い取ると同時に、支配が注ぎ込まれていたに違いない。だが、それにしてはあまりにも好意的で、優しさが拭えなかった。
「支配の全てが悪意によるものだとは限らない」
以前までは一人分空いていた隣の間隔を、互いに半分に分け合った距離。そこに座るザレンダが否定する。意見を真っ二つに割るわけではなく、視野を広めるための助言。彼の言葉はいつだってそうだった。ザレンダが発するのは、表面をなぞった部分だけ。その裏面を見せつけるようなことはしない。自分の頭で考えて答えを出すべきなのだと、私に教えているようだった。
「彼……は」
「シェイヴィ。この箱庭の管理人……いや、創始者だ」
男の名と共に加えられたのは、まるで神のように絶対的な響き。
ジリリリリリリリリリリ。
けたたましいチャイムの音が、はっと私の目を覚まさせる。
妙に、聞き覚えのある名前だった。懐かしいというよりも、忘れ難き新鮮さが勝る……そのような感覚を覚える。この不可解な気分は、シェイヴィにだけ感じたものではなかった。ミラージェンと似た髪色を持つ少女サナシアにも、私は同じような印象を抱いている。単純に、あの子の面影を浮かべてしまうからだろうか。
箱庭と私は、明らかに境界線が引かれた別世界の存在だ。だが、どうにも他人事だとは思えない。この胸のざわめきの正体が分からぬうちは、そんな妄想を繰り広げてしまうのだった。
「彼は、この世界の神ということか?」
創始者。即ち、生みの親。無から有を創り出した、始まりの人。彼の恐怖すら植え付けるほどの人間離れした容姿の端正さには、最も相応しいような立場であると納得できた。
「人は神にはなれない」
しかし、ザレンダはゆっくりとかぶりを振る。その緩慢な動作には、抱えきれないほどの重みが乗せられているようで。だけれど、彼はそれらを床に置こうとはしない。もう、当たり前となってしまったのかもしれなかった。
「だからホワイトガーデンは生まれた」
箱庭を創造したシェイヴィと、箱庭を破壊しようとするザレンダ。サナシアの自由を封じた創造者と、私の不自由を解き放とうとした破壊者。何もかもが、正反対だった。
もし、どちらが「悪」であるかと問われたら、私はどう決断するのだろう。……ほら見ろ、また「選択」が迫ってくる。何でもかんでもそうだ。うんざりする。
……だが。この世界に定められた善悪などが、実在しうるのだろうか。
例を挙げるならば、社会的な規則、守るべき倫理、踏み外すことのない常識。これらは誰もにとって、生まれた瞬間から正しいものとして脳に刻まれる。
だけれど、そこに個人の強い想いや望みはない。破ってはならないのだと、皆が口を揃えて頷いているだけ。提示された道順を歩めばいいだけなのだから、これといった息苦しさはない。人は正しくあるべきだ。
ただ、これは模範的な人間としての歩み方を手本とした場合だ。もし基準となる点が、先程は除外した想いや望みとなった場合には、果たして一般常識などというものが通じるのだろうか。
私の正しさは、ミラージェンだ。だから、あの子の世界を壊すと言ったザレンダは、間違っている。
だが、箱庭を見つめる彼の横顔を知った、今。そのように断言することは、できなくなっている……のかもしれない。
自らの手で壊すのだと言ったくせに、彼の浮かべる表情はどれも感傷的で、その噛み合わなさがどうにも不愉快だった。不自由と安堵が隣り合わせとなる危うさを私に伝えたときもそうだ。
彼は、私の手を握った。
破壊とは程遠く、救済とも言えるその行為。
あの大きな手のひらは、小箱を踏み潰したいわけではないのでは? 小箱を開いて、またその中にある小箱を開いて……さながら砂を押し固めて作られたマトリョーシカに触れるよう、一際丁重に。そうして、やっと辿り着いた先の景色をひと目確認して、そっと手のひらに乗せて。
ただきゅっと、包みたい。それだけなのかもしれなかった。
本当にザレンダが考えていることなんて、私には理解しきれないだろう。多少、ほんの僅か、彼に安らぎを貰ったことは否めない。それゆえ、この男に善人であってほしいと、勝手に揺らぎゆく天秤が片方に傾いていくことも、認めざるを得ない。
それでも、私は。あの子の生きる世界の崩壊は望まない。いいや、望めない。
「戻るのか」
立ち上がった私に、ザレンダが尋ねる。横を向くと、彼もまたこちらを向いていた。変わらず、暗黒が満ちている。鋭い目つきに素っ気なさや敵意は籠っていない。恐らく、ベッドルームまで送っていこうかと、問いかける代わりの眼差しだった。私は軽く首を横に振る。黄色のリボンがゆらゆらと靡いた。
「辺りを見て回る。構わないな」
自分には無関係だと吐き捨てて、再び寝具に寝転んだとて誰も私を咎めない。事実、私には関係のないことであり、相関図を制作しても部外者という配置に収まるだろう。直接的な干渉など、生きた人間にすらできないことなのだから、世界規模となれば尤もな話だ。
しかしながら、現実という世界には、私の大切なあの子がいる。勝手に破滅していけばいいと、見過ごすわけにいかないのだ。
……それに、あの子は私に、何か隠し事をしている。ザレンダの忠言に流されてなどいないが、試すような心持ちで疑いを垣間見せると、あの子は明るく笑った。だがその微笑みは、彼女を試した罪悪感を覆っていく。
私は、悩み事や困っていることはないかと、問いを投げた。けれども彼女は「嘘」などないと答えた。わざわざ目立つように。
これは、憶測の域を出ないこじつけ。微々たる差を見比べて、都合よく解釈しようとしている可能性は十二分にある。まるであの子を悪人に仕立て上げようとでもしているようだ。
でも、私はあの子のことが大好きで、大切で、愛おしくて。信じている。
だからこそ、疑うよ。貴方の正しさを証明するために。貴方が過ちを犯すだなんて、ありえないのだから。
この不安は、貴方の心の内を解き明かせていないから、発生しているだけ。たとえ嘘を吐いていたとしても、その鏡の奥に隠れた、貴方の心優しさを皆が理解していないだけ。
大丈夫、私が正しい答えを出してみせる。そうすれば、元より強固な信頼は絶対的なものになるはずだから。
「好きにするといい。貴方の興味が深まるようなものなど大してない、つまらぬ場所だろうけれど」
そう呟くと、ザレンダは私から目線を外して、再度箱庭を眺める。私も彼のそばから離れて、自然に開いた本棚の先を渡った。すると門は物静かに閉じてゆき、ザレンダの姿は見えなくなった。背後を確認することなく、私は右へ曲がると、そのまま歩を進める。
私が存在できるのは、夢という曖昧な意識の空間のみ。あの狭いベッドルームは、ミラージェンの無意識から作り出された小部屋だ。ならば、この広々とした図書館はザレンダの夢の中だと判じて問題ないだろう。甘ったるい一室があの子の好きなもので埋め尽くされているように、此処には彼に纏わるピースが各所に散りばめられているはずだ。
ザレンダが箱庭を壊したいという願いに、私は賛同できない。だが、彼自身の想いは、きっとまだ知らない。
私はミラージェンの気持ちも、ザレンダの気持ちも、どちらも手にしたい。考えることは山ほどあるが、まずはその二つを知ることに専念しようと思った。箱庭の崩壊を防ぐためにも、必要な情報は何かしら潜んでいるはず。手始めとして、破壊者であるザレンダについて、私は知るべきだ。
ミラージェンには、なるべく悟られないように。穏便に、スムーズに、事を進めよう。私一人で解決してみせる。そうすれば、あの子はいつもみたいに、眩しい笑顔で私を照らしてくれるだろうから。
「それにしても、此処には本しかないな」
立ち止まって、ぐるりと周囲を見渡した。白を背景にして、まっすぐと道が伸びている。両脇には、配置も中身もびっしりと敷き詰められた本棚が並んでいた。ザレンダと共に歩んだときと何ら変わりない景観である。彼と別れてから暫く経つが、これといった変化は見られない。
「たしかに、つまらぬ場所だ」
申し訳なさそうにするわけでもなく、ただ事実だけを述べたであろうザレンダに、今更ながら返答する。そもそも、彼自身面白みのない人間なのだから、その性質が反映されたこの世界に愉快な要素がないことは自明だが。
ただ道をまっすぐ進んでいくだけでは埒が開かない、ということだろう。此処にあるものといっても、終わることのない行列のように佇む本棚のみ。そのどれもに、種類の豊富な書物が集められている。タイトルを確認しようにも、この位置からでは読み取れない。私は左側へ方向転換すると、書棚の前にまで訪れる。いざ対面してみると、予想よりも大きい。ザレンダの背丈に合わせているからだろうか。私では、最上部にまで手を伸ばすことは難しい。視線を下ろすのも一苦労だ。はぁ、とため息をつきながら、目先にある本に注目する。
「なに……ソクラ、テス、プラトン、アリ、ストテレス……デカルト?」
それぞれの題名に書かれた、ややこしく似通った単語たち。口内で分解しきれず、舌の上で溶け残ったままに発音してみる。何かの専門用語のようだが、もしかしたら人名かもしれない。中から適当に選び取った本を開いてみる。
「アリストテレスの哲学……ということは、やはり人の名だな」
白紙を挟んだニページ目に表記された小見出しを目に入れて、小さく頷く。それから数ページほど捲ってみると、ご丁寧に目次が現れた。私の知っている知識などないだろうが、じっくりと目を凝らしてみる。恐らく、この一覧に記されているものが哲学と名付けられる用語たち、という解釈で差し支えないはずだ。
やはり、と強調するまでもないが、私の脳内に記憶として保存されていそうなワードは見当たらなかった。どれも小難しい内容ばかりなように感じる。ミラージェンが読んだのなら、原因不明の頭痛に襲われるやもしれない。私とて、すらすらと飲み込める気はしない。
だが。何となく、ページを捲る手は止まらなかった。目の前に広がる文字が、謎から認知へ変化して、紙を擦る感覚が何れ過去の思い出となってゆく。まるで、未知なる未来への足取りのようだった。現在に生きる私たちが古い過去に触れた瞬間、其処には定められることのない未来が溢れていく。安っぽい表現になってしまうけれど、それは多分、希望という形をしている。輝きのシンボルは、存外親しみやすく、私たちのすぐそばにいた。
次に私を待つのは、形而上学と印刷された、新たなる世界。私はすいっと表紙を飛び越えて、足を踏み入れようとした。
カラン。
本の隙間から、何かが零れ落ちる。軽い音は、真下から聞こえた。顔を下に傾けると、小さな物体が転がっている。それは本棚の一番下の段の近くに居座っていた。私はしゃがみ込むと、落とし物を指先で摘む。
「何だこれは?」
問いかけたところで無意味だが、つい疑問を口に出してしまった。見たところ、小粒なカプセルのように思われる。丁度中央をラインとして上下の色が異なっており、中身は空気を詰め込んだかのようだった。試しにふらふらと振ってみる。微かに、擦れる音がした。
「粉末が入っているのか?」
揺らす手を止める。そして、暫し脳裏を巡らせる。深く悩まずとも、瞬く間に答えは浮かび上がった。
「薬だ」
漂う無機質さが、そう語っている。
「何の?」
カラン。コロコロ。
手から滑り落ちたカプセルが、肩を揺らした。痛快そうに、ケタケタと笑って。
だが、その笑い声は薄れていく。薬は器用な動きで、一番下にある棚の隙間へ隠れていった。私がザレンダの夢で目にしてきた本は、あれほどぎっちりと並べられていたというのに、此処だけは不自然なスペースが空いている。私はぐっと、背中を丸めて覗き込む。
そのエリアには、子供の好みそうな絵本ばかりだった。人魚姫にマッチ売りの少女。ヘンゼルとグレーテルにオオカミ少年。どのような内容なのか気になったが、私はすらりと目線を右に巡らせる。
すると、最後に登場したのは、鮮やかな真紅色。影に潜んでいたとは想像もつかないほど、堂々とした赤色の表紙の本だった。絵本よりも一回りは大きいだろうか。きちんと整列した隣の仲間たちとは違って、それは斜めの姿勢を維持している。そのせいで、余計な空間が生まれてしまったのだろう。手を突っ込むにもやりづらかったため、一度赤い本を取り出してから、薬を拾うことにした。
左手に取ってみて、少々驚く。ずっしりと、重みを感じた。傷のないハードカバーという見た目からしても、雑な装丁でないことは明らか。だが、それにしてもこの重量。辞典と言われても疑念を抱かないだろう。片手で持つには困難だったため、哲学書に重ねるよう太ももの上に乗せた。ふぅ、と一息つく。続いて、最終目的であった薬の回収を済ませようとした。
「……」
伸びた腕が、ぴたりと固まる。
「ない」
言葉の通りだった。其処には、何もない。赤い本がいなくなった空席だけが、其処にある。塵も埃も見当たらない、如何にも清潔な佇まいだった。
形があるか、ないか。その肌に触れられるか、触れられないか。目に見えるか、見えないか。実在するか、しないか。片方を選べば、有る。だけれど、もう片方を選べば、無い。何にも、無いのだ。私に突きつけられるのは「無」という、がらんどうで空虚な一文字だけだった。
虚しい、虚しい!
乱暴に立ち上がる。その衝撃で本が床に落ちて、ぐったりと倒れ込む。
心の叫びなんて、誰にも届かない。手を伸ばしたって、痛ましく払われる。だから、胸に抱えられた赤い本だけはぎゅっと、力強く抱きしめた。硬い。柔らかな温度だって籠っていない。涙を吸い込んで重たくなった枕の方が、まだマシだ。
でも。今、其処にいてくれたのが貴方でよかった、と。
何故このように思うのかは分からない。だが、ザレンダが私を抱き止め、手を握ってくれた、あのとき。それらと全く、同じだった。
「……そういえば、題名を見ていなかったな」
不意に、この本の背表紙にはタイトルが書かれていなかったことを思い出す。名前を知りたくなった、のかもしれない。私は改めて、表紙を確認した。
『Happy Birthday! Zarenda!』
華やかな金色で陽気に彩られた手書きの太文字は、一つ目のエクスクラメーションマークを区切りとして、二段に分けられている。一列目の端には吹き出しが加えられており、中には「6.11」と日付が書いてあった。
「本じゃない。これは恐らく……」
アルバム。
他の本と比べて大きさや質感が異なっていたのは、そもそもこれが本ではなかったからだ。すんなりと合点がゆく。
……驚くほど、都合がいい。写真という思い出の込められたものは、彼のことを知るにもってこいだった。あの男がどのような人生を歩んだのかだって、指先で仄かにでもなぞれることだろう。
ラッキーだ。こんな偶然はない。話を聞き出さずとも、容易にザレンダの情報を得ることができる。ならば、真紅を捲る他ない。そのはずだ。どのような人間が、この状況に置かれたとしても。
表紙に、触れる。内側で待ち構えているであろう、彼の時間を解き放つため。
「……違う」
もう一度、表紙に残された文字を見つめる。決して綺麗とは褒められないバランスをしていたが、それでも、頬が綻んでしまうほどに愛おしい。
このアルバムは、ザレンダが大事な誰かから貰った、プレゼントだ。
ただ純粋に、ワクワクとドキドキを同時に鳴らして。不慣れにページを開いた、その先。ふわりと、花嫁の投げたブーケから花弁が舞うように。ぱちぱちと、クラッカーの紙吹雪が飛び跳ねるように。ぎゅうっと、大切なあの子から抱きしめられたように。
数え切れないほどの祝福が、魔法のように優しく溢れかえって、彼だけに降り注ぐのだ。
「これは私のものじゃない。ザレンダのものだ」
私は、ほんの少し空いた隙間でさえも許さずに、ぐっとアルバムを閉じる。
選択から免れた安心感からか、よかった、と、強く思う。こんなときでさえも自分のことしか考えられないのかと、嫌なくらいに呆れてしまうのだが。
ザレンダの宝物を壊さぬよう、元の場所に戻そうと再度屈む。元通りにするのならば、斜めに置くのが正解だが、どうにも適当さが気に食わない。もっと上手く並べることはできないだろうかと、私はアルバムの向きを変えたりと試行錯誤した。
その刹那。アルバムの裏表紙が目に入った。表面のような煌びやかさは落ち着いており、右下には小さく文字が記されている。私は瞳を細めて、何が書かれているのかを確かめた。
『From your best friend,Shavy』
またしても、がたついた文字列が其処にある。表紙のものよりも、気が抜けているように窺えた。さらさらと、滑らかな心地で綴られたであろう、ささやかなメッセージ。
それを紡いだのは。いや、このアルバムをザレンダに贈ったのは。
「シェイヴィ」
あの箱庭の創始者だった。