Chapter2:Dreams and reality

16 まるで甘い恋煩い


 あの後、クエルクスと顔を合わせることはなかった。タイミングの悪さかもしれないし、意図された状況かもしれない。
 クエルクスは、人の頼みを断らない。余裕を持って受け入れてくれる。自分にできないことなどないと言うように。だからもし、わたしが彼の自室の扉をノックしたら、その扉は開くだろう。わたしが望めば、あの時重なり合わなかった色に溶け込むことだって容易い。
 一見すると、滑らかに完成された、使い勝手のよさそうな混合色。だけれど、そうして混ぜられた色に鮮やかさはない。筆に乗せて紙に描いてみれば、じわじわと分離していくのだと、分かってしまう。
 わたしは、上辺だけの言葉なんて求めていない。本心からの対話を求めている。適当に吐かれたその場凌ぎの冗談も、思いやりから生まれた嘘も、わたしは貰いたくなんてなかった。
 慎重に心優しく言の葉を紡ぐクエルクスに、そんなことをしてほしくない。でも、わたしの気持ちを差し出してしまったら、彼はそうせざるを得ない。これは予感よりも確信に近かった。だから、クエルクスの元には行けない。
 また明日、わたしがおはようと挨拶を交わしたら、彼は返事をしてくれるのだろうか。
 わたしは布団に潜りながら、ゆらゆらと終わることのないメリーゴーランドに乗っているかのように、一人で静かに思考していた。眠る前になってから、一斉に悩み事が襲いかかってくるこの現象は何なのだろう。すんなりと寝息を立てたいのに、呼吸は詰まるばかりだ。
 でも、最近のわたしには、ちょっぴり特別なおまじないがあった。深呼吸をして、瞼を下げて、それから……あの人のことを考える。たったこれだけ。
 あの人に会いたい。あの人と話がしたい。そう祈るだけで、わたしの中に溜まった恐れは浄化されていくのだ。
 臆することなく、再度わたしは目覚める。今日も満月は、満足げに光り輝く。可愛らしい笑みに近づきたくなって、わたしは手を差し伸べた。

「あれ」

 つい腕を引っ込める。わたしと彼女では、お姫様と平民に身分の違いがあるように、この手は届かないはず。圧倒的な眩しさで惹きつけてくれる、そんな黄金色のことがわたしは好きだ。手を握り返して欲しいだなんて、思ったことはない。だけれど、今日の彼女は、やけに距離が近いように感じる。

「……!」

 何となしに俯いたわたしは瞠目する。
 足が地面についていない。宙に垂れ下がっている。まるで、下半身に空気が纏わりついたみたいに。腰が抜けるほどではなかったものの、唐突な衝撃を受けて体勢がぐらつく。わたしの背後には、何もない。ぐるりと転がりそうになって、声にもならない危ないを発しながら、藁をも掴む思いで隣にしがみつく。誰かがいる確証なんてなかったけれど、わたしはその場から落ちることはなかった。
 わたしを支えたのは、大きく立派な木の幹。どれほど力強く抱きしめられても、傷一つつかないような逞しさに漲っている。どうやらわたしは、この木の枝の上に座っていたらしい。現状を把握してほっとする。わたしは大樹に掴まりながら、改めて下を覗いてみた。
 闇の覆い被さった野原が、黄緑色を深い緑色に着替えている。風に吹かれるその揺らめきは、孤独を好む夜更けの海原のようだった。ちらちらと月明かりがそばに寄り添う様子もまた美しい。
 自らの脚で草原を歩いてばかりだったけれど、空から見下ろしてみるとまた違った世界が存在していた。不思議と、わたしにはこちらの方が馴染み深くて、うっとりと熟視してしまう。視界がこの風景に染まるほど、大らかな人柄になれるような気がした。

「……っサナシア! 何処にいるんだ、サナシア……!」

 どきりと、痛いほどに胸が鳴った。呼吸も整っていないのに、唾液を無茶に飲み込んで、わたしの名前を叫ぶ。すぐに分かった、あの人の声だと。
 わたしは草を掻き分けるように、うろうろと辺りを見渡す。彼の人影は、夜の肌に埋もれてしまいそうだった。けれど、わたしにはくっきりと映る。夜空から流れ星が落下して、原っぱの中に紛れ込んだとしても、その煌めきを内緒にすることはできないように。
 わたしは此処よ、あなたのそばにいる。
 間違いなく、わたしもそう叫んだ。なのに、また声が出ない。全て空回りして、頭の中が真っ白になったみたいで。小刻みに、顎が震える。
 どうして、どうして、この喉は言うことを聞かないの!

「はは、そうだよな。答えなんて返ってくるはずがないというのに」

 ガラガラと、掠れた笑い声が返ってくる。さながら、人気のない路地裏に捨てられた、傷だらけな布切れの質感のようで。今すぐにでも拾い上げて、包み込んであげたかった。でも、高い此処から飛び降りることはできない。そして、呼びかけることさえ不可能だった。

「……彼女に渡したんだ。庭に咲く、あの美しい白薔薇を」

 ぽつりと、あの人が語り始める。わたしは舌を噛みちぎるような思いに耐えながら、懸命に耳を傾ける。

「俺はこの花こそ、あの人に相応しいと思った。これこそが愛なのだと信じた。飾り気のない俺の心臓を、知ってほしかった」

 花には何十枚と花弁が重なっているけれど、彼はそのどれもと二人きりで会話をするみたいに、個人の気持ちを大事に扱ってくれる人だ。傷をつけないようにと慎重な気遣いを見せるわけではなくて、かさぶたを剥がさないようにそっと手を乗せてくれる。だけれど、触れた指先から過去の轍の意味を知ろうという歩み寄りを心がける。そして、自分のことも知ってほしいのだと、恐れずに伝えることができる。彼は、そんな人だった。
 とてもひたむきな人。たとえそれが自分のためだったとしても、真摯な向き合い方に偽りはない。無垢な白薔薇は、たしかにあの人の心臓とよく似ている。それを誰かに捧げるというのは、衣服を脱ぎ捨てることと同じだ。それでも、あの人は躊躇わない。

「サナシア。彼女はその白薔薇を見て、何と言ったと思う?」

 小雨が窓を気弱に叩くような音で彼は問う。
 そんなの、嬉しいに決まっている。貴方からの贈り物を、喜ばない人がいるというの? 些か自虐的な物言いに、わたしは疑問を持たずにはいられなかった。

「貴方でさえ、俺を嘲笑うのだろうな」

 彼は諦めたような事実を零す。
 ちくりと、棘が刺さった。わたしの体を巡るありとあらゆる脈に、小さな棘がぷつぷつと、不規則に穴を開ける。その黒い点から垂れるのは、鉄の味ではなく、塩の味だった。
 目尻に涙が溜まりそうになる。結膜に塩を塗りたくられたように、じわりと染みゆく衝動が込み上げた。彼は下がった拳をぐっと握りしめると、勢いよく面を上げる。

「好きに笑えばいいさ! よく聞いておくれ、サナシア!」

 感情の堤防が決壊して、抑え込まれていたものが、溢れ出す。あの人はわたしに向かって、我を忘れたように怒鳴り上げた。

「彼女は恰も軽蔑を秘めたような眼差しで、『そんな見窄らしいものを渡そうだなんて、貴方は本物の愛が何たるかを知らない』のだと、花を投げ捨てて、踏みつけて、俺に言ったんだ!」

 形の潤んだ悲痛が、虚空に放たれる。珍しい届け物に興味が湧いたのか、月は少年に褒美を与えるように、燦々としたスポットライトを降り注がせた。彼の表情が、暴かれる。

「あぁ、なんて馬鹿馬鹿しい」

 その美しい目は、涙でいっぱいだった。泣き腫らした目元は赤く、瞳でさえも一緒の色に支配されている。月光のように澄んだ肌色は象牙に変化して、ヒヤシンスのような髪色は闇に項垂れていた。

「恋や夢など、極めて非現実的だ。実在しないものに、何の価値がある? ……俺たちは愛などという醜悪なまやかしを、最も崇高なのだと愚かにも信じ込み、まんまと惑わされていたんだね」

 怒涛に打ち寄せられた波は、やがてほとぼりが冷めるかの如く、物静かに戻っていく。水の中で、あたたかな灯火を鎮火するみたいに。彼は自暴自棄になって、野原へと倒れ込む。頬を伝う雫が消えることはなくて、それが嫌で仕方がないというように、あの人は両手で顔を覆った。

「胸が破けてしまいそうなんだ。叶うなら、此処で死んでしまいたい……。愛は純朴な白ではなく、血のような真紅で染められていた。愛がこんなにも心に傷を負わせるものだっただなんて、俺は知らなかったんだ」

 ――やっと、分かった。
 白く微笑む薔薇に知りうることはなく、絶対に叶えられないもの。それは、己の心臓を切り裂くことで、ようやく知ることができるもの。流れていく真紅が辿り着く先にしか存在しない、この世で最も貴く純なるもの。

「庭に咲いていたのが赤い薔薇だったのなら、どんなによかっただろう……」

 彼は切なく呟くと、再び啜り泣いた。だけれどわたしは、その姿を見ても悲嘆に暮れることはない。

 もう大丈夫。だから泣かないで。

 あの人にそう伝えるため、わたしは木の枝から飛び立った。恰も自分の背中に翼が生えているのだと、信じて疑わずに。


 ――はっと目が覚めて、わたしは急いで身を起こす。布団を投げ捨てて、寝巻きから着替えもせず、自室の扉を潜り抜ける。階段を下るわたしの足取りは、危なっかしいものだった。一歩一歩と丁寧に木板を踏む暇なんてない。今にも足を踏み外して転けてしまいそう。でも、そんなことはどうだってよかった。もし足を挫いて、地面に伏してしまったとしても、わたしは何度でも立ち上がる。
 だって、ドアを開けたその向こう側には、きっと――

「こんな真夜中に起きてるだなんて、君も悪い子なんだね。一体どこへ行くの?」

 目の前の景色に、脳が眩んだ。さらりと、円やかな純白が広がる。その光は、わたしの眼界から去ることはなくて。とくとこの瞳に焼き付けなさいと、雪はしんしんと降り積もる。
 太陽はもう眠りについたというのに、月の瞬きでさえも受け付けないように日傘を差す、宵闇に交わらない男――シェイヴィ。何故か彼が、そこにいた。わたしは息を呑んだけれど、それよりもずっと、熱を煽るような歯痒さが膨れ上がる。

「どいて! わたしはあの人のところに、行かなくてはならないの!」
「……あの人?」

 シェイヴィはきょとんとした面持ちで、ゆったりと首を傾げる。無欲恬淡を飾りつけたような彼には、少し不釣り合いな仕草だった。でも、その貴重な麗しさでさえも、虫唾が走りそうで。わたしは獲物へ噛み付くみたいに、シェイヴィの肩を強く掴んだ。

「ようやく思い出したの! わたしが此処から出なければならない理由も、あの人に伝えたかったことも! わたしは、あの人に……!」

 衝動的に喰らいついて、つい驚いてしまう。だってこの男には、猛獣が腹を満たせるような肉はついていなかった。女のわたしに肩を掴まれただけで、骨の一本や二本折れてしまいそうなほどに、彼の身体は酷く脆い。
 この男には、肉どころか骨でさえ……もしかしたら、その中を覗いたとしても、臓器すらないのかもしれない。彼の胸に手を当てて、無音がわたしと隣り合ったとしたら。――考えるだけで、恐怖心が背筋に張り付いた。どうかバレないように、この空っぽな入れ物を壊さないようにと、わたしはシェイヴィの肩に乗せた手を浮かせる。

「……あぁ、そう」

 だけれどその瞬間。彼はわたしを捕らえたみたいに、青緑色の眼を細めた。茨が、逃げ道を塞ぐように。
 満天の青空しか知らない、幼いお姫様の足運びのような軽やかさで、シェイヴィはこちらにふわりと近づく。

「まるで甘い恋煩いでもしてるみたいだね、サナシア」

 彼は身動きの取れないわたしを愛でるみたいに微笑んでから、耳元で砂糖菓子を砕くように囁いた。

「……は……?」

 表現された言葉の意味が分からない。いや、この男の発言なんて、真に受けてはならない。……でも、彼は、嘘つきではなかった。この男は飄々としているくせに、外側に限らず内側にも不純物は混じっていなくて、どこか少女らしい幼気さが香っている。
 ……放っておけない。そう形容するのが正しいのかどうかは、判断できない。けれど実際、わたしはこの男をまだ突き放せていないのだ。恐怖と純真を、裏と表ではなく、ありのままに見せる。その不気味さが、彼の最大の武器のように思えた。
 シェイヴィはわたしから漏れた困惑を拾うと、手のひらの上でころころと転がすみたいに薄ら笑う。

「君はとても強かで、ちょっぴり強情だ。そんなところが素敵だけど、僕もこの通り驚かされちゃった。でもいいよ、叶えてあげる。それが君の望みなら」
「……シェイヴィ、あなた、何を……」

 続きを綴ろうとした唇に、優しい感触が重なる。悲鳴を上げることすらできずに、ただ溶けゆくことが運命づけられた、雪の結晶のように冷たい温度がわたしに染み込む。透明な氷柱が、わたしの身体中に根を張って、伸びていく。指先に、喉元に、脳に、そして、心臓に。それぞれ到着したころには、もう凍えるような心地はしなかった。むしろすっきりと、綺麗さっぱり洗い流されたようで。

「さ、もうベッドに戻らなくちゃ。君の大切なパパを、心配させたくないでしょ」

 わたしから離れると、シェイヴィはにこりと上品に笑む。

「明日の夜、今と同じ時間になったら、もう一度扉を開いてみて。きっと君に、喜んでもらえるはずだから」

 くるりと、レースのついた日傘が楽しげに回る。それから、彼は踵を返していった。わたしは真っ白な背中を、ぼうっと見つめる。
 すると、微睡んだ視線を感じ取ったのか、シェイヴィはもう一度こちらに振り返った。さらさらと白髪を靡かせて、安らかに眉を下げたその眼差しは、誰のものにもなれないような。そんな美しさに満ちているのだった。
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