Chapter2:Dreams and reality

15 嵐


「自分でやれるって言ってるだろ!! おい!? 聞こえてるのかおじさん!!」

 椅子に座るラセルティリアが、じたばたと手足を振り回す。彼は口を大きく開いて懸命に叫んでいるようだったけれど、その声はドライヤーの温風に掻き消されていく。ぶわりと銀髪が逆立って、傘が裏返ってしまったみたいだった。だが、こんな嵐如きに負けて堪るものかと、ラセルティリアは勇猛果敢に立ち向かう。

「……何かを喋っているようですが、聞こえませんね」

 だけれど、彼の必死な抵抗は大きな手に頭を撫でられて、あっという間に無意味なものとなった。わしゃ、わしゃ。ゆったりとした動きでラセルティリアの髪を乾かすクエルクスは、耳を澄まそうともせずに淡々と父の役目を果たす。けれどドライヤーを扱う手つきは少々覚束なく、設定の仕方も分からないのか、彼は強風を無慈悲にラセルティリアへと向けている。

「二度とボクの頭を触るな」

 乾かし終わって、青筋を立てながら吐き捨てていったラセルティリアの後ろ髪は、さらさらと綺麗に艶めいていた。

「次は貴方ですね。では、お座りなさい」
「はい、でもその前に……ここのボタンで風量を調節できたりしますよ。わたしは真ん中くらいでお願いします」

 鏡越しに軽い説明を加えると、クエルクスは何度かスイッチを押し始める。ピ、ピピ、ピピピ。三段階に分けられていることを把握した彼は、「なるほど」と小さく頷く。彼はわたしの指示通り中央のボタンを選択すると、機械からは正解を伝えるようにピピッと高い音が鳴った。

「ケアも忘れてはいけないわ。こんなに可愛らしいのだもの、しっかりお手入れするのだわ」

 視界にヘアミルクのボトルが映る。隣へ顔を上げると、ペレンニスがわたしを見下ろしていた。ふわりと甘い花の蜜の香りが彼女から漂う。

「ありがとう、ペペ」
「うふふ、ちゃんとお礼を言える子は好きよ」

 ペレンニスはチャーミングに微笑むと、ご機嫌な足取りでリビングに足を運ばせていった。彼女が貸してくれたヘアミルクで髪をケアし終えると、クエルクスはドライヤーの電源を入れてわたしの撫子色を軽やかに撫で始める。
 複雑に絡まらないように、引っかかって痛みを感じないように。そんな気遣いが、彼の繊細な動作からよく滲む。不慣れそうなことに変わりはなかったけれど、そんなクエルクスの様子が嬉しかった。わたしは彼に身を委ねるよう、静かに目を閉じる。
 くぐもった音色に包まれる心地は、広い野原で一人佇むようでもあるし、水平線に立って遠くの世界を眺めるようでもあった。ころりと空から落っこちて、雲の中に潜り込んでいくみたい。生活音を遮断された状態で視覚をも無くすことには、妙な安心感がある。わたしは闇の綿毛が集まってできたふかふかのベッドに寝転んで、空想に浸る。
 脳裏に思い描かれたのはやっぱり、月影に照らされたあの人のこと。彼に声をかけるときに緊張して失敗をしないよう、ひそひそと予行練習をした。大したことはしていないけれど、行動にしてみるだけで自信のつき方には変化が齎される。大丈夫、上手くいくはず。
 ……そういえば、あの人の名前は、何というのだろうか。呼びかけるときに、少しだけ不便だ。あの、とか、すみません、とか。深く悩まず自然に話しかければいいのだろうけれど。
 今日は、名前も聞いてみよう。そして、わたしの話を聞いてもらって、彼からの言葉を貰いたい。それらはきっと、わたしの宝物になる。誰もが皆持っている、心の奥底の、柔らかくてあたたかい場所。そこには、あの人の感性が生み出した細やかな結晶が、幾度となく置かれていくだろう。そう想像するだけで、この胸には陽だまりのようなぬくもりが染み渡っていく。とくんと鼓動が響いて、つい鼻歌を口遊みたくなるような気持ちだった。
 でも、そんな麗らかな気分は続かなかった。わたしははっとして、反射的に瞼を起こす。それから、自分の喉元に手を添えた。

「……どうしましたか」

 ピーっと、完了の合図が知らされる。クエルクスはドライヤーを洗面台の端に寄せると、わたしの髪にブラシをかけながら問いかけた。僅かな間互いに瞳が重なって、たったその数秒の出来事だけでも、彼がわたしに気をかけてくれているとすぐに感じ取る。わたしは首を摩りながら、ぽつりと会話を零した。

「……わたし、この前アクアリウムに行ったときに、歌を歌ったんです。でも、何故か血を吐いてしまって。どうしてだったんだろうって、今ふと思い出して……」

 皆と過ごす時間が朗らかで楽しくて、この記憶が砂の中に埋もれていたように思う。短期間で何層も積み重なったそれに、わたしはスコップで中身を掘り起こす。底にあるのは、わくわくと好奇心が膨れ上がるような秘宝ではない。どろりと砂浜に滴った、真っ赤な魂を持つ妖艶な事実だ。
 ヘレンさんも大丈夫だと頼もしく励ましてくれたのだし、心配を長引かせる方が却って不調を蘇らせてしまうだろう。……でも、原因不明の事態という限り、未だ謎は残ったままだ。
 だから、クエルクスに尋ねてみた。問題が解決してもしなくても、自分の内側で育ててしまった不安を、彼ならそっと摘んでくれる。この人にはずっと背中を預けたくなるような、遥か昔から守られてきた平穏で満ちた信頼感があった。

「う、た……」

 ブラシを滑らせる手が、ぴたりと止まる。小さな花冠が解けたみたいに、単語として形を成せなかった残骸が、ぼそりと落下していく。その微かな揺れは、クエルクスが起こしたものだった。喋ることが得意ではない彼だとしても、ここまで不安定な文字を並べることはない。

「クエルクス……?」

 鏡に見入りながら、わたしは呼びかける。だけれど、彼は椅子に腰をかけるわたしを見つめていて、先程のように目線は合わなかった。

「なりません」

 ぐっと、しがみつくように。クエルクスは両手でブラシを握っていた。誤って落としてしまわないようにと、自身に言い聞かせるみたいに。でもその願いは、彼に従わなかった。いや、むしろ従順なくらいだったのか。カタン、と床に打ちつけられたそれに、クエルクスは視線を傾けなかった。
 彼は、落とさざるを得なかった。呼吸を失って固まってしまった身体に、たった一瞬だけでも酸素を取り込めるように。

「貴方は、歌を歌ってはならない」

 それは、わたしに『否定』を与えるため。

「……どうして……」

『絶対にその薔薇を赤に染めてはならないよ』

 純白に見染められた男の声が、密やかに脳内へと囁かれる。
 同じ、だ。
 シェイヴィがわたしに結ばせようとした誓いと、クエルクスがわたしに突きつけた否定は、指で輪郭をなぞる道筋さえもそのままで。わたしの指先に残った感触の正体は、胸をキリキリと握りしめられるような悲しみだった。この人から拒まれたことに、暗然たる面持ちが更に深くなっていく。

「貴方の望みは、私が叶えます。どんな願いだったとしても、必ずや全てを実現してみせましょう。……ですから、お願いです。決して、歌を歌わないで。私と、消えることのない約束を……してください」

 クエルクスはわたしの肩に手を乗せる。彼は大樹に生えた葉が天上の太陽を隠すように俯いた。堪えたものが溢れないように、ヴェールで顔色を濁らせながら。
 この人は、わたしのために屈むことはない。そしてわたしも、彼のために背を伸ばすことはない。でもそれは、二人の粗末な関係性を表しているわけではなかった。だってわたしたちは、この瞳を合わせることができる。たとえ声が出せなくなって、違う生き物になってしまったとしても、それだけで想いは通い合うと信じている。だから、必要なかった。
 だけれど、彼の薄い灰色がわたしの暁色を選んでくれなければ、この想いは簡単に散っていってしまう。はらはらと、透明な花弁が宙に浮かんで、無色な体は粉々となって連れ去られていく。それらを拾おうとしても、わたしの手元と触れ合うことは叶わず、ひらりと雪が降り注ぐように透き通っていくだけだった。

「おーい、ねーちゃんの番はまだか?」

 のんびりとした声色が近くから聞こえて、わたしは意識を引き戻す。再度鏡の景色を確かめてみると、頭にバスタオルを巻いたルパロセラが、ドアからひょっこりとこちらを覗いていた。

「あ、えっと……」
「……ルパロセラ、自分でできますか?」

 素早く頭が回せなくて、しどろもどろと不自然な対応をしてしまった。けれどクエルクスは、いたって平常心を保っているようで。横目に質問を投げかけた彼に、ルパロセラは小首を捻ると軽快に笑った。

「当たり前だろ。自分はティーくんやぺぺちゃんみたいに、甘えん坊じゃないさ」

 食いしん坊ではあるが、と冗談混じりに肩を揺らしながら、彼女はクエルクスからドライヤーを受け取る。席を交代する際にも、ルパロセラは陽気に笑いかけてくれた。わたしも普段のように笑顔を返したかったけれど、果たして上手く取り繕えたのだろうか。
 そうこう考えている間に、ピピピッと音がして、ルパロセラは濡れた赤髪を大きく靡かせていた。落ち着いた仕草で髪を乾かす彼女は、既に自分の世界へと居座っているようだ。

「あの、クエルクス……」

 今ならまだ間に合う。そう思って、隣にいるだろう彼の名前を呼ぶ。だけれど、わたしのそばに、クエルクスの姿はなかった。開いた扉の通路にも、その先でさえも、まるであの人の足跡は刻まれていないようで。足音を立てない人だから、恐らくわたしが気づかなかっただけだろう。
 でも、これでよかったのだろうか。わたしはクエルクスに、酷いことをしてしまった。そしてわたしも彼に、冷たい涙の原料を見せつけられた。そんな気がする。
 荒々しい風の騒音が、わたしの鼓膜を包む。ごうごうと渦巻く嵐には、べとりと打ち付けるような大粒の雨が付き物だ。荒天の中、わたしは立ち竦む。暴風は金箔を剥がすかの如くわたしの温度を奪い去り、その盗みを上書きするみたいに横殴りの雨が襲いかかる。
 いずれ何も感じなくなって、何も聞こえなくなってしまうのだろうか。そんなわたしの問いは音にもならずに、ただ掻き消されていくだけだった。
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