Chapter2:Dreams and reality
14 悩める乙女たち
優しい水色が空に広がる。その柔らかさは、居眠りする子供に母親がかけた毛布のようだった。今なら何でも包んでくれるような気がして、ふわりとため息を零してみる。吐き出された憂悶は、湿り気のない風と共に流れていった。草原がざわざわと鳴る。それらに囲まれるようにして座るわたしだったけれど、その音には聞き慣れてしまった。己の胸にそっと手を当ててみる。
「……うるさい」
生き急ぐような鼓動は収まることを忘れてしまったみたいで。わたしはその騒音を隠すように、ぐっと膝を引き寄せた。
彼のことが、頭から離れない。
ほら、また。何度切り替えようとしても、無駄だった。
落ち着いたヒヤシンスの髪色に、月光のように白い肌。そして、赤薔薇に口付けされた唇。顔こそよくは思い出せなかったけれど、彼の持つ美しい一部を、わたしは忘れない。目の前にあの人がいなくたって、昨晩の光景を鮮明に覚えているから。
少し掠れた、少年らしい声。堅苦しい口調だったけれど、誠実さが伝わってくる話し方。きっと、とても賢い人なのだろう。考えることを諦めない姿勢が、彼の博識さを物語っている。だけれどその知恵は、勉強だけで身につくものではない気がした。それは学問よりも、もっと賢いもの。
「そんなもの、あるのかしら」
三角に曲がった膝に頭を乗せて、横を向く。脳の重みを軽減しても、はっきりとした答えが浮かぶわけではない。考え事なんて、納得するまで終わらないのだから。
家で四人と喋っていても、アクアリウムを眺めても、お城で小人たちのダンスを見ても、わたしの意識は何処か遠くへと連れ出されていて。気がつけば、こうして一人で野原の上に座っていた。
「わたし、あの人に伝えたいことがあった……。でも、それも分からない」
彼が途方もなさそうに夜空を仰いでいた気持ちが、痛いほど理解できた。分かりたいのに、分からない。真っ暗な闇の中、手探りで歩き回るみたいだ。やるせなさが染み渡っていく。でも、それでも、彼は目を背けなかった。自分の信じた輝きを、揺るがすことはなかった。
ならばわたしも、あの人のように。
小さく頷くと、その場から立ち上がる。もし彼が、わたしの様子を何処かで見ていたとしたら、またあのあどけない微笑みを向けてくれるのだろうか。
「……なんて、ね」
ちょっぴり気恥ずかしくなって、誤魔化すように呟いた。
もう一度、彼に会いに行こう。そして、次こそは声を出して、わたしの話を聞いてもらいたい。
「上手く話せるかは自信がないけれど……あの人なら、必ずわたしの声に耳を澄ましてくれる」
とん、と手を添えながら、己の心臓に呼びかける。いつの間にか心音は、普段通りの穏やかさを取り戻していた。わたしは振り返って、草原から立ち去ろうとする。
だけれど……すぐそばから、何かの気配を感じた。わたしは直感のままに、視界を横に移してみる。
「……ミラージェン?」
無意識に、少女の名前を呼ぶ。
「はい! サナシアさん! ……ってうそ、バレてる!?」
草の茂みからボフッと、勢いよく伸びた撫子色が現れる。元気よく腕を上げて返事をしたのは、やはりミラージェンだった。彼女は嬉しそうに手を振ってくれたけれど、わたしと目が合うと「やっちゃいましたー!!」と叫んで、再び茂みの中に身を潜めてしまった。
「えっと……どうして隠れているの?」
「だって恥ずかしいじゃないですかぁ……」
こっそりと彼女の近くに寄る。腰を下ろして尋ねてみると、明らかにしょんぼりとした声色がミラージェンから発された。新緑の隙間からは、膝に顔を埋める少女が見え隠れしている。わたしと揃った髪色を束ねたポニーテールが靡いて、茂みの中からはみ出していった。この子は隠れんぼよりも、鬼ごっこのほうが得意そうだ。
「そばにきてくれないの?」
「……サナシアさんの迷惑になったら、嫌です」
そんなことはない。そう言いかけて、わたしの喉元は突っかかる。
この草を掻き分けて、彼女の姿をはっきりと照らし出すことが、最善だとは思わなかった。薄暗い裂け目から強引に覗いてしまえば、硝子の破片が床に砕け散るように、呆気なく割れてしまうかもしれない。この手を差し出したり、慰めるように頭を撫でてやることは、きっとミラージェンにとってお節介だ。
それに、わたしはこの子の姉でも、母でもないのだから。
「……わたしはミラージェンちゃんがいないと、ちょっぴり寂しい。でも、あなたがやりたいように……いつもみたいに笑って走ってくれたら、何よりも嬉しいの。これは、わたしの本当の気持ちよ」
それだけ知っていてくれたら十分。そう囁いて、わたしは立ち上がると踵を返す。目薬を差したように染みる名残惜しさと愛おしさが、彼女の隣にいつまでも残るように。
「あっあの!!」
無茶をして裏返った少女の声が、わたしを引き止める。咄嗟に振り返ると、ミラージェンもまた身を起こしていた。彼女は瞬きをせず、真っ赤でつぶらな瞳に、まっすぐな緊張を潤ませる。
「昨日……あたしのお家に来ましたか……?」
彼女は震えを抑え込めるように、か細い音色をわたしに聞かせた。まるでそれは、初めての演奏会で失敗を恐れる子供の演奏みたいで。汗を流しながら沢山練習をして、折れそうになった心を自分で抱きしめて、力の入らない脚を叩いて前へと踏み出す。そんな目映い勇気の籠った言葉。
だけれど……
「いいえ……。昨日は、家から出ていないから……」
わたしには、聞き覚えのないメロディだった。ありのままを伝えるように、かぶりを振る。
「そ、そうですよね! 変なこと聞いちゃってごめんなさい、本当になんでもないんです。えっと……だから、よかったら忘れてください」
にっこりと、ミラージェンが笑う。アリスやエイプリル、ヘレンさんの笑顔よりも、彼女の微笑みが最も愛らしい。出会ったときから、わたしはずっとこの子の笑った顔が好きだった。己の胸の中に包んで、わたしの体温を分け与えたい。そんな感情が、みるみると芽生える。
でも、わたしが眼に焼き付けたい笑顔は、これではない。そんな気がして、即座にミラージェンの名前を呼ぼうとする。でも、わたしが呼び止める暇もなく、彼女は草原の上をスキップするみたいに、軽やかに走り去ってしまった。
「ミラージェン……」
小柄な少女の後ろ姿を、ただじっと見守る。わたしにできることといっても、あの子が道中で転ばないようにだとか、そんなささやかな願いを風に乗せるだけだった。
◆◆◆
「ミラージェン……いい加減離れろ」
「だめです……ただいまあたしは、ラブエネルギーチャージ中です……」
「だから……私は鬱陶しいと言っている! 言葉にしないと分からないのか?」
「わーん! いーやーだー! ラブがまだ足りませんー!」
ぎゅっと抱きつくあたしを、ユーちゃんは妹を叱りつけるみたいに引き剥がす。彼女の幼い顔は、呆れることに疲れたような顰めっ面をしていた。それでもあたしはめげずに、何度もユーちゃんの腰にしがみつく。
「全く……何があったというんだ? いつもの土産話はどうした」
諦めの息を吐きながら、彼女はあたしに押し倒されるがまま後ろに体重を預けた。ぽふっと柔らかい音がベッドから鳴る。ユーちゃんはあたしの肩をとんとんとタップしてから、流れるように背中を摩った。その仕草は、あたしの予想した通りのもので。うりうりと、彼女のお腹に頭を埋める。
「色々あったんですけど、忘れちゃいました」
喋りたいことは、いーっぱいあった。アクアリウムやお城での出来事や、サナシアさんのこと。
そういえば、さっきのサナシアさん、思い悩んでるみたいだったな。……なのに、あたしに気をかけてくれた。悩める乙女たちが集まったところで、問題が円滑に解決なんてしないって、首を突っ込めずに隠れてたあたしって、笑けるくらいに弱い生き物だ。
……こういう、消化しきせずに、上手く言語化もできない感情だって、ユーちゃんなら何でも聞いてくれるだろう。でも、今のあたしが話して、この子が笑ってくれるかどうかは別。
控えめがちに肩を揺らして、子供らしく瞳を細める。そんなユーちゃんの笑顔が好き。あたしが一番、誰よりもこの子のことが大好き。
失望なんてさせたくない。本当に格好悪い姿なんて、知ってほしくない。だから、あたしはこの口を閉ざす。
「でも、またユーちゃんと会えましたから。それだけであたし、幸せなんです!」
ばっと顔を上げて、間近にいる彼女を見つめる。少女はどこか困ったみたいに、でもやっぱり朗らかに、凛とした表情を癒してくれた。
あぁ、夢みたい! どうしてこの子は、こんなに可愛いんだろう。
たった一度の微笑みだけで、きっと誰もがこの少女のことを好きになるに違いない。あたしなんかじゃ手も届かない、高嶺の花の女の子。みんながこの子を手にしたいって、心の内で憧れるみたいに願ってる。
でも、それは叶わない。
だって、この夢みたいに完璧で可愛い女の子は、あたしだけのものだから。
「ユーちゃん大好き。あたし、きみと過ごす時間が、何よりも大切です。だからずーっと、ここにいてくださいね」
彼女の髪を、頬を、順番に撫でていく。傷なんて見当たらないその無垢な正しさが、心底愛おしい。
この純粋な心を、あたしが守ってあげなくちゃ。
起き上がって、あたしはユーちゃんのおでこに、自分のおでこもこつんと重ねる。彼女の温度は、あたたかくも冷たくもなくて、あたしの熱を届けにくく感じたけど、心配することはない。認識させれば、それで事足りるだろうから。
「……ミラージェン」
「はい、ユーちゃん!」
彼女に名前を呼ばれた。あたしは喜びが溢れて、ジャンプをするような心地で返事をする。ユーちゃんは暁色の双眼に、あたしだけを閉じ込めていた。その可憐な色彩は、何故か不安げに揺らめいていて。その振動と似通った動きで、彼女は唇を開いた。
「本当に、何もない? 悩み事とか、困っていること……。私の知らない話だったとしても、聞けることはあると思うから」
ユーちゃんはあたしから視線を逸らさない。天国みたいに澄み切った、模範解答の眼差しだった。
ぐさりと、不意打ちを喰らったように、ナイフを背中に突き刺されたみたい。肉に刃が刺し込まれて、じわじわとあたしの中に見苦しさが浸透していく。うっかり血を吐き出しそうになったけど、こんなものを飲み込むだなんて、あたしにはお安いご用だった。鉄の味も、慣れてしまえば案外美味しくなってくる。……でも、服の裏には、ひっそりと汗が滲んでた。
今この子、あたしを疑った?
……そんなわけない。だって、彼女の名前を初めて呼んであげたのは、間違いなくあたしなんだから。
たとえそれが、偽りの声だったとしても。
「なーんにもありませんよ。あたしがユーちゃんに嘘をつくわけないじゃないですかぁ」
ひひ、と笑いかけて、誤魔化した。変わらぬあたしの能天気な笑みに、ユーちゃんはほっとしみたいに眉を下げる。
きみの名前はユゼ。あたしは大好きなきみのことを、ユーちゃんって呼ぶ。あたしがきみを、YOUを証明してあげる。だからきみは、ユーちゃんなんだよ。
いつまでも、この小指を握り合っていようね。きみがこの部屋から、出ることなんてないように。あたしだけを、必要としてくれるように。
優しい水色が空に広がる。その柔らかさは、居眠りする子供に母親がかけた毛布のようだった。今なら何でも包んでくれるような気がして、ふわりとため息を零してみる。吐き出された憂悶は、湿り気のない風と共に流れていった。草原がざわざわと鳴る。それらに囲まれるようにして座るわたしだったけれど、その音には聞き慣れてしまった。己の胸にそっと手を当ててみる。
「……うるさい」
生き急ぐような鼓動は収まることを忘れてしまったみたいで。わたしはその騒音を隠すように、ぐっと膝を引き寄せた。
彼のことが、頭から離れない。
ほら、また。何度切り替えようとしても、無駄だった。
落ち着いたヒヤシンスの髪色に、月光のように白い肌。そして、赤薔薇に口付けされた唇。顔こそよくは思い出せなかったけれど、彼の持つ美しい一部を、わたしは忘れない。目の前にあの人がいなくたって、昨晩の光景を鮮明に覚えているから。
少し掠れた、少年らしい声。堅苦しい口調だったけれど、誠実さが伝わってくる話し方。きっと、とても賢い人なのだろう。考えることを諦めない姿勢が、彼の博識さを物語っている。だけれどその知恵は、勉強だけで身につくものではない気がした。それは学問よりも、もっと賢いもの。
「そんなもの、あるのかしら」
三角に曲がった膝に頭を乗せて、横を向く。脳の重みを軽減しても、はっきりとした答えが浮かぶわけではない。考え事なんて、納得するまで終わらないのだから。
家で四人と喋っていても、アクアリウムを眺めても、お城で小人たちのダンスを見ても、わたしの意識は何処か遠くへと連れ出されていて。気がつけば、こうして一人で野原の上に座っていた。
「わたし、あの人に伝えたいことがあった……。でも、それも分からない」
彼が途方もなさそうに夜空を仰いでいた気持ちが、痛いほど理解できた。分かりたいのに、分からない。真っ暗な闇の中、手探りで歩き回るみたいだ。やるせなさが染み渡っていく。でも、それでも、彼は目を背けなかった。自分の信じた輝きを、揺るがすことはなかった。
ならばわたしも、あの人のように。
小さく頷くと、その場から立ち上がる。もし彼が、わたしの様子を何処かで見ていたとしたら、またあのあどけない微笑みを向けてくれるのだろうか。
「……なんて、ね」
ちょっぴり気恥ずかしくなって、誤魔化すように呟いた。
もう一度、彼に会いに行こう。そして、次こそは声を出して、わたしの話を聞いてもらいたい。
「上手く話せるかは自信がないけれど……あの人なら、必ずわたしの声に耳を澄ましてくれる」
とん、と手を添えながら、己の心臓に呼びかける。いつの間にか心音は、普段通りの穏やかさを取り戻していた。わたしは振り返って、草原から立ち去ろうとする。
だけれど……すぐそばから、何かの気配を感じた。わたしは直感のままに、視界を横に移してみる。
「……ミラージェン?」
無意識に、少女の名前を呼ぶ。
「はい! サナシアさん! ……ってうそ、バレてる!?」
草の茂みからボフッと、勢いよく伸びた撫子色が現れる。元気よく腕を上げて返事をしたのは、やはりミラージェンだった。彼女は嬉しそうに手を振ってくれたけれど、わたしと目が合うと「やっちゃいましたー!!」と叫んで、再び茂みの中に身を潜めてしまった。
「えっと……どうして隠れているの?」
「だって恥ずかしいじゃないですかぁ……」
こっそりと彼女の近くに寄る。腰を下ろして尋ねてみると、明らかにしょんぼりとした声色がミラージェンから発された。新緑の隙間からは、膝に顔を埋める少女が見え隠れしている。わたしと揃った髪色を束ねたポニーテールが靡いて、茂みの中からはみ出していった。この子は隠れんぼよりも、鬼ごっこのほうが得意そうだ。
「そばにきてくれないの?」
「……サナシアさんの迷惑になったら、嫌です」
そんなことはない。そう言いかけて、わたしの喉元は突っかかる。
この草を掻き分けて、彼女の姿をはっきりと照らし出すことが、最善だとは思わなかった。薄暗い裂け目から強引に覗いてしまえば、硝子の破片が床に砕け散るように、呆気なく割れてしまうかもしれない。この手を差し出したり、慰めるように頭を撫でてやることは、きっとミラージェンにとってお節介だ。
それに、わたしはこの子の姉でも、母でもないのだから。
「……わたしはミラージェンちゃんがいないと、ちょっぴり寂しい。でも、あなたがやりたいように……いつもみたいに笑って走ってくれたら、何よりも嬉しいの。これは、わたしの本当の気持ちよ」
それだけ知っていてくれたら十分。そう囁いて、わたしは立ち上がると踵を返す。目薬を差したように染みる名残惜しさと愛おしさが、彼女の隣にいつまでも残るように。
「あっあの!!」
無茶をして裏返った少女の声が、わたしを引き止める。咄嗟に振り返ると、ミラージェンもまた身を起こしていた。彼女は瞬きをせず、真っ赤でつぶらな瞳に、まっすぐな緊張を潤ませる。
「昨日……あたしのお家に来ましたか……?」
彼女は震えを抑え込めるように、か細い音色をわたしに聞かせた。まるでそれは、初めての演奏会で失敗を恐れる子供の演奏みたいで。汗を流しながら沢山練習をして、折れそうになった心を自分で抱きしめて、力の入らない脚を叩いて前へと踏み出す。そんな目映い勇気の籠った言葉。
だけれど……
「いいえ……。昨日は、家から出ていないから……」
わたしには、聞き覚えのないメロディだった。ありのままを伝えるように、かぶりを振る。
「そ、そうですよね! 変なこと聞いちゃってごめんなさい、本当になんでもないんです。えっと……だから、よかったら忘れてください」
にっこりと、ミラージェンが笑う。アリスやエイプリル、ヘレンさんの笑顔よりも、彼女の微笑みが最も愛らしい。出会ったときから、わたしはずっとこの子の笑った顔が好きだった。己の胸の中に包んで、わたしの体温を分け与えたい。そんな感情が、みるみると芽生える。
でも、わたしが眼に焼き付けたい笑顔は、これではない。そんな気がして、即座にミラージェンの名前を呼ぼうとする。でも、わたしが呼び止める暇もなく、彼女は草原の上をスキップするみたいに、軽やかに走り去ってしまった。
「ミラージェン……」
小柄な少女の後ろ姿を、ただじっと見守る。わたしにできることといっても、あの子が道中で転ばないようにだとか、そんなささやかな願いを風に乗せるだけだった。
◆◆◆
「ミラージェン……いい加減離れろ」
「だめです……ただいまあたしは、ラブエネルギーチャージ中です……」
「だから……私は鬱陶しいと言っている! 言葉にしないと分からないのか?」
「わーん! いーやーだー! ラブがまだ足りませんー!」
ぎゅっと抱きつくあたしを、ユーちゃんは妹を叱りつけるみたいに引き剥がす。彼女の幼い顔は、呆れることに疲れたような顰めっ面をしていた。それでもあたしはめげずに、何度もユーちゃんの腰にしがみつく。
「全く……何があったというんだ? いつもの土産話はどうした」
諦めの息を吐きながら、彼女はあたしに押し倒されるがまま後ろに体重を預けた。ぽふっと柔らかい音がベッドから鳴る。ユーちゃんはあたしの肩をとんとんとタップしてから、流れるように背中を摩った。その仕草は、あたしの予想した通りのもので。うりうりと、彼女のお腹に頭を埋める。
「色々あったんですけど、忘れちゃいました」
喋りたいことは、いーっぱいあった。アクアリウムやお城での出来事や、サナシアさんのこと。
そういえば、さっきのサナシアさん、思い悩んでるみたいだったな。……なのに、あたしに気をかけてくれた。悩める乙女たちが集まったところで、問題が円滑に解決なんてしないって、首を突っ込めずに隠れてたあたしって、笑けるくらいに弱い生き物だ。
……こういう、消化しきせずに、上手く言語化もできない感情だって、ユーちゃんなら何でも聞いてくれるだろう。でも、今のあたしが話して、この子が笑ってくれるかどうかは別。
控えめがちに肩を揺らして、子供らしく瞳を細める。そんなユーちゃんの笑顔が好き。あたしが一番、誰よりもこの子のことが大好き。
失望なんてさせたくない。本当に格好悪い姿なんて、知ってほしくない。だから、あたしはこの口を閉ざす。
「でも、またユーちゃんと会えましたから。それだけであたし、幸せなんです!」
ばっと顔を上げて、間近にいる彼女を見つめる。少女はどこか困ったみたいに、でもやっぱり朗らかに、凛とした表情を癒してくれた。
あぁ、夢みたい! どうしてこの子は、こんなに可愛いんだろう。
たった一度の微笑みだけで、きっと誰もがこの少女のことを好きになるに違いない。あたしなんかじゃ手も届かない、高嶺の花の女の子。みんながこの子を手にしたいって、心の内で憧れるみたいに願ってる。
でも、それは叶わない。
だって、この夢みたいに完璧で可愛い女の子は、あたしだけのものだから。
「ユーちゃん大好き。あたし、きみと過ごす時間が、何よりも大切です。だからずーっと、ここにいてくださいね」
彼女の髪を、頬を、順番に撫でていく。傷なんて見当たらないその無垢な正しさが、心底愛おしい。
この純粋な心を、あたしが守ってあげなくちゃ。
起き上がって、あたしはユーちゃんのおでこに、自分のおでこもこつんと重ねる。彼女の温度は、あたたかくも冷たくもなくて、あたしの熱を届けにくく感じたけど、心配することはない。認識させれば、それで事足りるだろうから。
「……ミラージェン」
「はい、ユーちゃん!」
彼女に名前を呼ばれた。あたしは喜びが溢れて、ジャンプをするような心地で返事をする。ユーちゃんは暁色の双眼に、あたしだけを閉じ込めていた。その可憐な色彩は、何故か不安げに揺らめいていて。その振動と似通った動きで、彼女は唇を開いた。
「本当に、何もない? 悩み事とか、困っていること……。私の知らない話だったとしても、聞けることはあると思うから」
ユーちゃんはあたしから視線を逸らさない。天国みたいに澄み切った、模範解答の眼差しだった。
ぐさりと、不意打ちを喰らったように、ナイフを背中に突き刺されたみたい。肉に刃が刺し込まれて、じわじわとあたしの中に見苦しさが浸透していく。うっかり血を吐き出しそうになったけど、こんなものを飲み込むだなんて、あたしにはお安いご用だった。鉄の味も、慣れてしまえば案外美味しくなってくる。……でも、服の裏には、ひっそりと汗が滲んでた。
今この子、あたしを疑った?
……そんなわけない。だって、彼女の名前を初めて呼んであげたのは、間違いなくあたしなんだから。
たとえそれが、偽りの声だったとしても。
「なーんにもありませんよ。あたしがユーちゃんに嘘をつくわけないじゃないですかぁ」
ひひ、と笑いかけて、誤魔化した。変わらぬあたしの能天気な笑みに、ユーちゃんはほっとしみたいに眉を下げる。
きみの名前はユゼ。あたしは大好きなきみのことを、ユーちゃんって呼ぶ。あたしがきみを、YOUを証明してあげる。だからきみは、ユーちゃんなんだよ。
いつまでも、この小指を握り合っていようね。きみがこの部屋から、出ることなんてないように。あたしだけを、必要としてくれるように。