Chapter2:Dreams and reality
13 不自由と安堵
まっすぐな眼差しが私を射抜く。だがそれは、矢のような鋭さが放たれたわけではない。凛然たる夜陰が、私を捕らえた。闇がじわりと染み込み、やがて身体に馴染んでいく。
――この箱庭を壊すため。
今しがたザレンダが告げた言葉は、浮薄な冗談などではない。声色だけで十分に理解させられた。だから、即座に切り返さなければならない。ヒビの広がっていくような衝撃を抑え込んで、私は思考に専念した。
この男は、現実に生きる人々の平和を奪うと、そう言ったのだ。挨拶を交わし、食事をして、豊かに笑い合い、眠りにつき、また挨拶を交わす。そのように生きる人間の居場所を、自身が踏み潰すのだと。
「つまりお前は、世界を壊そうとしていると」
顔が強張った。当たり前の日々を奪うことがどれだけ非道な行いであるかを、彼が知らないだなんて。戯言であればよかったと逃避する気もない。私は闇の双眼に見つめられた。ならば、ザレンダが嘘を吐かないことなど、既に分かりきっている。
「このような箱庭が世界に見えるというのか」
私から視線を外し、彼はソファの方へ戻りながら、静かに低音を零す。正面顔から横顔に移り変わり、ザレンダの表情は長い前髪の裏に潜んでしまった。髪を捲るだとか、横に引っ付いて追いかけるだとかは、決してしない。だが、彼の背中を瞳に残すことは、どうにもやめ難かった。
「自由な彼処を、何故箱庭などと呼ぶ?」
花園を映した紙芝居枠の下に立ち止まりながら、ザレンダに尋ねた。
箱庭という単語から連想されるのは、小さくせせこましい、支配された空間のことだ。広々とした庭園内とは、結びつきもしない。それに、あの子の生きる世界を侮辱するかのような、いけ好かない言い方は不快だ。
彼は再びソファに座る。前のめり気味になって太ももに腕を乗せているが、背筋の伸びに不真面目さは感じない。だが、肩にかかっていた髪が滑り落ちそうになっても、それを整える素振りは見せなかった。
「貴方たちは、不自由に気がついていない」
さらりと黒髪が流れ落ちる。毛先が膝の先で脱力した手首に触れて、また下へと垂れ下がった。何もかもの瞬間に、重苦しさが纏わりつく。
貴方たち、だと?
恰も、私にすら語りかけているようではないか。凛とした面持ちに、どこか切なさを滲ませたように、幼い無知を憐んで。
「そんなもの、嫌というほどに味わっている!」
腹の底を強引に押し潰されて、私だけの情動が吐き出される。はっとして嘔吐物を飲み込もうとしても、その味は眉間に皺が寄るほど苦々しく、喉を焦がすかのように熱かった。
何も知らないのはお前の方なのに、どうして憐れみなどを向けられなければならない。私はずっと、ずっと、いたくもないあのベッドルームで、あの子の帰りを待っているのに。
自由なあの子を愛しているから、不自由な己を認めようとしているのに。
「不自由と安堵が隣り合わせとなっていることに気づいていないんだ」
冷静でいて、寂しい声。まるで顔色は変わらないのに、何故この男が悲しげに訴えかけているように思えるのだろう。
刹那。カチリ、と、ピースの合わさる音がする。有耶無耶にされていたその欠片が、私を正気に戻らせると共に、肝を冷やすような真理を耳打ちしたのだ。
「それがこの箱庭の実態だ。だから壊さなければならない」
ザレンダが指をさす。芝居劇の中の景色にではなく、私を示して。
私とあの子の部屋は、あの子がいなければ不完全だ。だから、再び完全となるために、私は彼女を待つ。彼処から出るだなんて発想はなかった。出れやしないのだから。
だが、もし出られたのだとしたら。私は自分で扉を開くことができるのだろうか。不自由を捨てて、自由を選べるのか。
……壊すなど、恐ろしいことを言ってくれる。
私が外に出ている間に、あの子が帰ってきたら、どうするの。すれ違いでもして、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないのに。この場所が失われてしまえば、どうやって小指を絡め合えばいいの。またね、と明日を約束して、笑いかけてくれるあの子がいなくなるだなんて、絶対に耐えられない。
「己を失えというのか」
あの子がいないと、私は私でいられないのに。
糸が切れたように、その場に座り込む。私の存在を繋ぎとめるものは、プレゼントのリボンを解くあの瞬間のように大切で、今にも事切れそうなほど儚い。
此処には顔を埋められる枕がないから、両手で覆うしかなかった。枕のシーツが涙で濡れていくと、何処からか訪れた満足感と、剥がしても剥がし切れない虚しさが、私の心に注がれる。だから、涙の置き所には丁度よかった。でも、そればかりに頼ってしまっていたから、抱きしめるものがない今、どうすればいいのか分からない。
一室に閉じこもって塞ぎ込むように、深く背を丸める。こんな姿、誰にも見られたくない。このまま丸まって、小さくなって、知らない間に消えてしまいたかった。
「貴方の名を教えて」
手首を掴まれて、自然と顔が上がっていく。目の前で、ザレンダが膝をつきしゃがみ込んでいた。私と視線を合わせるように、大きな体をこれでもかと屈ませて。
「ユゼだと言ったろう。あの子がユーちゃんって……最初にそう呼んだんだ」
「……本当に?」
彼が僅かに、眉を下げる。なんて弱々しい憂い顔なのだろう。
「その声が本物だという証明が、貴方にはできる?」
優しく、手のひらを握られる。私の両手など、彼にとっては片手に収まる程度の小ささだ。だが、ザレンダはわざわざ二つの手で、一つ一つを確かめるように、私の両手を慈悲深く撫でる。その仕草は、私の内側にぷつぷつと棘を刺していくように、痛みを伴うものだった。
突然、可笑しなことを尋ねるじゃないか、この男は。
ミラージェンの声が、偽物だって?
朗らかな笑みを讃えて、この名を呼んでくれるあの子が、私に嘘をつくだなんて。ありえない。ありえないに決まっている。
なのに。その証明が、私にはできない。だって、私は己の名前を、知らなかった。あの子が教えてくれたものを存在証明なのだと疑わずに、名乗っているだけ。
私はあの子のことを、信じている。それなのに何故、真実なのだと言い切ることができないの。
「分からない、お前、何が言いたいの……」
唇が震えて、発声が途切れてしまう。脳内が異常なほどざわざわする。何十人もの人が立て板に水の如く流暢に、容喙を許さぬようにと一斉に喋り散らした。私は小さな箱に閉じ込められて、人々は四方から中央へと、ゆっくり追い詰める。
ぺちゃくちゃと入り乱れた話し声が止まらない。いっそのこと、耳をちぎってくれた方がマシだったのに、雑音たちは私の耳を横に引っ張って、よくお聞きになりなさいとじっとり囁く。
頭が痛い。意識が遠のくくらいに鈍い痛みが、乱暴に鍵盤を叩いたときのよう何度も響く。なんて、下品なのだろう。せめて楽譜を読めばいいというのに、その紙切れはばらばらに破かれて、復元することは一生叶わない。
今すぐに、この音を消し去りたい。過度な妄想であったのだと笑い飛ばしたい。いっぱいいっぱいになった脳を、まっさらに透き通らせたかった。
「ユゼさん、どうか諦めないで」
でも、ザレンダは、私を逃してはくれない。彼の手が、私の頬をそっと包む。
「貴方ならきっと分かる。必ず気づくことができる。だから決して、考えることを放棄してはならないんだ」
「やめて、もう喋らないで。なんでそんなことを言うの」
絞り出された拒絶は、愛想を尽かすほどに枯れきっていて、本来声音が手にしているはずの潤いは、無慈悲に私の頬を伝っていった。
「痛い、痛いよ。お前は酷く、醜い」
この雫は止まらないのだと、うんざりするほど身に染みている。誰が人前で、涙など流したいものか。ありとあらゆる感情が私と額を合わせて、制御しきれない熱を与えてくる。泣きたくなんてないのに、泣けば済むとも思っていないのに。
「私はお前なんか、大嫌いだったんだ……」
怒りが生まれたとしても、私はそれを哀しみだと名付けて、孤独にあやすしかなかった。
どれだけ眼から涙が零れても、視界が晴れることはない。ぼんやりと溺れた心地に身体を委ねながら、瞬きをする。溜まった水が少し減って、ザレンダの様子が浮かび上がっていく。変わらず彼は、私の目先にしゃがんだままだった。でも、違う。それは明らかな変化ではなく、些細な間違い探しのようで。
泣いていた。私の真似でもしたみたいに、そっくりそのままと。
「俺はずっと、貴方を……」
ザレンダは私の哀しみを、指で拭う。悲痛によって産み落とされたそれらの産声が泣き止まないと知りながらも、幾度となく拾っていく。捨てたっていいものなのに、彼は受け止めた。認めなければならないのだと、私に寄り添ってくれた。
矢も楯もたまらず、私はザレンダの頬に手を伸ばす。この人の気持ちを受け止めるのは、きっと私だ。
彼は微かに瞠目したが、仄かに愁眉を開く。笑うことを知らないようだったけれど、作り笑いよりもよっぽど穏やかだった。私の額に、ザレンダが額を当てる。それから、丁寧に口付けを交わした。
「貴方は貴方以外の何者でもない。誰にも支配されず、自己を認め、尊重されるべき存在だ」
「摩訶不思議な子供相手に、馬鹿馬鹿しいことを」
「関係がない。存在していようがいまいが、今俺の隣で貴方が生きている限りは」
この接吻は、私たちの涙を制することはできない。これからも、とめどなく溢れ出していくのだろう。だが、それでよかった。私は知らないことばかりで、真実の証明を恐れる。けれど、この塩辛さを分け合える人が、こんなにも近くにいたことに気がつけた。
私の抱える孤独と彼の抱える孤独が穴を埋めるように抱きしめ合ったとて、独りであることには変わりない。二つの孤独が、隣に並ぶだけ。でもその二つは、角度によっては重なり合う。完璧とは言えず、ただ曖昧さを信じるように。
たった一瞬の重なり。そんな不確かな結びつきが、私たちを一つにするのだった。
まっすぐな眼差しが私を射抜く。だがそれは、矢のような鋭さが放たれたわけではない。凛然たる夜陰が、私を捕らえた。闇がじわりと染み込み、やがて身体に馴染んでいく。
――この箱庭を壊すため。
今しがたザレンダが告げた言葉は、浮薄な冗談などではない。声色だけで十分に理解させられた。だから、即座に切り返さなければならない。ヒビの広がっていくような衝撃を抑え込んで、私は思考に専念した。
この男は、現実に生きる人々の平和を奪うと、そう言ったのだ。挨拶を交わし、食事をして、豊かに笑い合い、眠りにつき、また挨拶を交わす。そのように生きる人間の居場所を、自身が踏み潰すのだと。
「つまりお前は、世界を壊そうとしていると」
顔が強張った。当たり前の日々を奪うことがどれだけ非道な行いであるかを、彼が知らないだなんて。戯言であればよかったと逃避する気もない。私は闇の双眼に見つめられた。ならば、ザレンダが嘘を吐かないことなど、既に分かりきっている。
「このような箱庭が世界に見えるというのか」
私から視線を外し、彼はソファの方へ戻りながら、静かに低音を零す。正面顔から横顔に移り変わり、ザレンダの表情は長い前髪の裏に潜んでしまった。髪を捲るだとか、横に引っ付いて追いかけるだとかは、決してしない。だが、彼の背中を瞳に残すことは、どうにもやめ難かった。
「自由な彼処を、何故箱庭などと呼ぶ?」
花園を映した紙芝居枠の下に立ち止まりながら、ザレンダに尋ねた。
箱庭という単語から連想されるのは、小さくせせこましい、支配された空間のことだ。広々とした庭園内とは、結びつきもしない。それに、あの子の生きる世界を侮辱するかのような、いけ好かない言い方は不快だ。
彼は再びソファに座る。前のめり気味になって太ももに腕を乗せているが、背筋の伸びに不真面目さは感じない。だが、肩にかかっていた髪が滑り落ちそうになっても、それを整える素振りは見せなかった。
「貴方たちは、不自由に気がついていない」
さらりと黒髪が流れ落ちる。毛先が膝の先で脱力した手首に触れて、また下へと垂れ下がった。何もかもの瞬間に、重苦しさが纏わりつく。
貴方たち、だと?
恰も、私にすら語りかけているようではないか。凛とした面持ちに、どこか切なさを滲ませたように、幼い無知を憐んで。
「そんなもの、嫌というほどに味わっている!」
腹の底を強引に押し潰されて、私だけの情動が吐き出される。はっとして嘔吐物を飲み込もうとしても、その味は眉間に皺が寄るほど苦々しく、喉を焦がすかのように熱かった。
何も知らないのはお前の方なのに、どうして憐れみなどを向けられなければならない。私はずっと、ずっと、いたくもないあのベッドルームで、あの子の帰りを待っているのに。
自由なあの子を愛しているから、不自由な己を認めようとしているのに。
「不自由と安堵が隣り合わせとなっていることに気づいていないんだ」
冷静でいて、寂しい声。まるで顔色は変わらないのに、何故この男が悲しげに訴えかけているように思えるのだろう。
刹那。カチリ、と、ピースの合わさる音がする。有耶無耶にされていたその欠片が、私を正気に戻らせると共に、肝を冷やすような真理を耳打ちしたのだ。
「それがこの箱庭の実態だ。だから壊さなければならない」
ザレンダが指をさす。芝居劇の中の景色にではなく、私を示して。
私とあの子の部屋は、あの子がいなければ不完全だ。だから、再び完全となるために、私は彼女を待つ。彼処から出るだなんて発想はなかった。出れやしないのだから。
だが、もし出られたのだとしたら。私は自分で扉を開くことができるのだろうか。不自由を捨てて、自由を選べるのか。
……壊すなど、恐ろしいことを言ってくれる。
私が外に出ている間に、あの子が帰ってきたら、どうするの。すれ違いでもして、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないのに。この場所が失われてしまえば、どうやって小指を絡め合えばいいの。またね、と明日を約束して、笑いかけてくれるあの子がいなくなるだなんて、絶対に耐えられない。
「己を失えというのか」
あの子がいないと、私は私でいられないのに。
糸が切れたように、その場に座り込む。私の存在を繋ぎとめるものは、プレゼントのリボンを解くあの瞬間のように大切で、今にも事切れそうなほど儚い。
此処には顔を埋められる枕がないから、両手で覆うしかなかった。枕のシーツが涙で濡れていくと、何処からか訪れた満足感と、剥がしても剥がし切れない虚しさが、私の心に注がれる。だから、涙の置き所には丁度よかった。でも、そればかりに頼ってしまっていたから、抱きしめるものがない今、どうすればいいのか分からない。
一室に閉じこもって塞ぎ込むように、深く背を丸める。こんな姿、誰にも見られたくない。このまま丸まって、小さくなって、知らない間に消えてしまいたかった。
「貴方の名を教えて」
手首を掴まれて、自然と顔が上がっていく。目の前で、ザレンダが膝をつきしゃがみ込んでいた。私と視線を合わせるように、大きな体をこれでもかと屈ませて。
「ユゼだと言ったろう。あの子がユーちゃんって……最初にそう呼んだんだ」
「……本当に?」
彼が僅かに、眉を下げる。なんて弱々しい憂い顔なのだろう。
「その声が本物だという証明が、貴方にはできる?」
優しく、手のひらを握られる。私の両手など、彼にとっては片手に収まる程度の小ささだ。だが、ザレンダはわざわざ二つの手で、一つ一つを確かめるように、私の両手を慈悲深く撫でる。その仕草は、私の内側にぷつぷつと棘を刺していくように、痛みを伴うものだった。
突然、可笑しなことを尋ねるじゃないか、この男は。
ミラージェンの声が、偽物だって?
朗らかな笑みを讃えて、この名を呼んでくれるあの子が、私に嘘をつくだなんて。ありえない。ありえないに決まっている。
なのに。その証明が、私にはできない。だって、私は己の名前を、知らなかった。あの子が教えてくれたものを存在証明なのだと疑わずに、名乗っているだけ。
私はあの子のことを、信じている。それなのに何故、真実なのだと言い切ることができないの。
「分からない、お前、何が言いたいの……」
唇が震えて、発声が途切れてしまう。脳内が異常なほどざわざわする。何十人もの人が立て板に水の如く流暢に、容喙を許さぬようにと一斉に喋り散らした。私は小さな箱に閉じ込められて、人々は四方から中央へと、ゆっくり追い詰める。
ぺちゃくちゃと入り乱れた話し声が止まらない。いっそのこと、耳をちぎってくれた方がマシだったのに、雑音たちは私の耳を横に引っ張って、よくお聞きになりなさいとじっとり囁く。
頭が痛い。意識が遠のくくらいに鈍い痛みが、乱暴に鍵盤を叩いたときのよう何度も響く。なんて、下品なのだろう。せめて楽譜を読めばいいというのに、その紙切れはばらばらに破かれて、復元することは一生叶わない。
今すぐに、この音を消し去りたい。過度な妄想であったのだと笑い飛ばしたい。いっぱいいっぱいになった脳を、まっさらに透き通らせたかった。
「ユゼさん、どうか諦めないで」
でも、ザレンダは、私を逃してはくれない。彼の手が、私の頬をそっと包む。
「貴方ならきっと分かる。必ず気づくことができる。だから決して、考えることを放棄してはならないんだ」
「やめて、もう喋らないで。なんでそんなことを言うの」
絞り出された拒絶は、愛想を尽かすほどに枯れきっていて、本来声音が手にしているはずの潤いは、無慈悲に私の頬を伝っていった。
「痛い、痛いよ。お前は酷く、醜い」
この雫は止まらないのだと、うんざりするほど身に染みている。誰が人前で、涙など流したいものか。ありとあらゆる感情が私と額を合わせて、制御しきれない熱を与えてくる。泣きたくなんてないのに、泣けば済むとも思っていないのに。
「私はお前なんか、大嫌いだったんだ……」
怒りが生まれたとしても、私はそれを哀しみだと名付けて、孤独にあやすしかなかった。
どれだけ眼から涙が零れても、視界が晴れることはない。ぼんやりと溺れた心地に身体を委ねながら、瞬きをする。溜まった水が少し減って、ザレンダの様子が浮かび上がっていく。変わらず彼は、私の目先にしゃがんだままだった。でも、違う。それは明らかな変化ではなく、些細な間違い探しのようで。
泣いていた。私の真似でもしたみたいに、そっくりそのままと。
「俺はずっと、貴方を……」
ザレンダは私の哀しみを、指で拭う。悲痛によって産み落とされたそれらの産声が泣き止まないと知りながらも、幾度となく拾っていく。捨てたっていいものなのに、彼は受け止めた。認めなければならないのだと、私に寄り添ってくれた。
矢も楯もたまらず、私はザレンダの頬に手を伸ばす。この人の気持ちを受け止めるのは、きっと私だ。
彼は微かに瞠目したが、仄かに愁眉を開く。笑うことを知らないようだったけれど、作り笑いよりもよっぽど穏やかだった。私の額に、ザレンダが額を当てる。それから、丁寧に口付けを交わした。
「貴方は貴方以外の何者でもない。誰にも支配されず、自己を認め、尊重されるべき存在だ」
「摩訶不思議な子供相手に、馬鹿馬鹿しいことを」
「関係がない。存在していようがいまいが、今俺の隣で貴方が生きている限りは」
この接吻は、私たちの涙を制することはできない。これからも、とめどなく溢れ出していくのだろう。だが、それでよかった。私は知らないことばかりで、真実の証明を恐れる。けれど、この塩辛さを分け合える人が、こんなにも近くにいたことに気がつけた。
私の抱える孤独と彼の抱える孤独が穴を埋めるように抱きしめ合ったとて、独りであることには変わりない。二つの孤独が、隣に並ぶだけ。でもその二つは、角度によっては重なり合う。完璧とは言えず、ただ曖昧さを信じるように。
たった一瞬の重なり。そんな不確かな結びつきが、私たちを一つにするのだった。