Chapter2:Dreams and reality
12 レッツゴー怪獣さん
「あたし、サナシアさんの運命の人じゃなかった……」
悲しい。わっと泣き叫びたくなるような苦しみじゃなくて、呆然と棒立ちをして動けなくなっちゃうみたいな、そういう絶望。みたいなというか、絶賛今のあたしはそのシーンの主人公役だった。
初めてサナシアさんを見たときに感じた、あのときめきは嘘だったの? ユーちゃんとそっくりな、夢みたいに可愛い人。あの暁色との出会いがまやかしだなんて、認めたくなかった。だって、髪の毛の色だって、あたしと同じで。ユーちゃんみたいに、柔らかく瞳を細めてくれるのに。
それなのに、あたしはサナシアさんの運命じゃない。サナシアさんは、あの男の人の手を取ったから。
あの人……名前は知らないけど、まるで神様みたいに綺麗な人だった。迷いなくサナシアさんを攫っていったのも、何だか素敵に見えてしまって。こんなの勝てっこないって、思っちゃった。
負けを叩きつけられて、素直に悔しくはなれなかった。そりゃそうかって、諦めっぽく頭を前に垂れるしかなかったから。
「酷いです、こんなの……。浮かれてたあたしだけが、馬鹿みたい」
ぽろぽろと溢れる涙を、拭いはしない。誰にも拾われることなく、捨てられてしまえばいいような、価値のないものだったから。降り落ちた水滴の跡を消すみたいに、スニーカーで踏みつけた。そしてそのまま、歩き出す。
サナシアさんがお城からいなくなった直後、あたしも暫くしてからお暇させていただいた。まともに人と喋れる気分じゃなかったから、アリスさんの付き添いも断って、一人で帰路を辿っている。ボートからの景色は全く味がしなかったし、帰り道でさえもうらぶれた街並みのようで。
隣にサナシアさんがいれば、きっとそうじゃなかったはずなのに。でも、サナシアさんの運命の人はあたしじゃなくて。サナシアさんの運命の人は、他の知らない誰かさんで。彼女のお家は、あたしのお家じゃなくて。
独り言として発散する方がマシそうな鬱屈を、心の中に積み重ねていった。もしかしたら高層マンションくらい、大きく育っちゃうかも。
「何ですかそれは、壊しますよ。破壊衝動の抑えられない怪獣にでもなってやりましょうか」
自分が適当に用意した妄想に、ふっと正気が駆けつけてきた。
悲しいのは本当。だけど多分、あたしの悲しみの根源は、怒りから芽生えてる気がした。蹲って泣き喚くより、手が出て怒り狂うタイプ。
「うわあぁ……絶対に嫌です……。あたしの怪獣さん、大人しくしてくれなきゃ困っちゃいますよぉ……」
怒るより泣く方が、絶対にいい。暴力だなんてもってのほかだし、まだ周りに迷惑をかけないはずだ。それに……
「怒ってるときの顔って、可愛くないに決まってます」
涙に溺れて瞳を潤ませる方が、羨ましくて情けないくらいに可愛いんだから。
そんな確信を胸に刻んで、あたしはようやく雫を拭う気になった。今すぐ洗い落とさなきゃ、居ても立っても居られないから。
庭園内の通路を歩いていく。相変わらず、花壇には白い薔薇が沢山、美しく咲いてる。薔薇には棘があって、もし摘みたければ注意が必要だ。その佇まいは気高くて、みんなから憧れるべきで届かないべき。
そう、所謂高嶺の花的なポジション。あたしとは決して交わらない。眩しすぎる正しさは、ときに猛毒となる。自分から毒に冒されに行くだなんて、あたしは勧めない。
……だけど、不思議と。この薔薇に触れたくなった。雪みたいな純潔さに、どこか愛おしさを覚えたから。あたしは花壇に近づいて、ぐっと膝を曲げる。子猫と戯れる光景を思い浮かべながら、手を差し伸べてみた。
「なんだ、案外触れちゃうものなんですね」
花弁を左手で包む。滑らかで上品な感触が伝わったけど、甘えたな猫に頬を擦り付けられてるみたいで、くすりと口角が上がった。
「落ち込んでへこんじゃったら、また会いにきてもいいですか?」
薔薇相手に尋ねてみる。重い厭わしさは、どこかへ行ってしまったようだった。
腰を上げて、スニーカーの爪先をたんたんと鳴らす。花から視線を外して、正面を仰いだ。そこには、昔ながらな外装のミニシアターが待ってて、ネオンを発光させる看板が更に古臭さを演出してた。神秘的なアクアリウムでも、大きなお城でもない。ここだけが、あたしのお家。
今日の上映作品は何かと、中央の柱に張り出された宣伝用ポスターに目を凝らす。
「あ」
偶然もあるもので、ポスターには大きな怪獣が炎を放ってお出ましだ。題名は掠れて読めなかったけど、発音的には三文字くらいだったような。まぁ何より、今のあたしにとってもってこいに違いなかった。
「レッツゴー怪獣さん! です!」
よしと心に決める。あたしは柱から少し横に移動すると、浅い階段を一気に飛び越して、軽やかに頂上へと降りた。くるりとひと回転。自画自賛で拍手を奏でる。こんなことができるのは、劇場内だけでなく、外のチケットカウンターにさえ誰もいないからだ。
「かといって、無断で入るのは忍びないですけど、係の人もいないですからね……」
律儀に窓口に寄って、こそこそと話しかけるように呟く。言い訳をしてる人間って、どうにも不恰好だ。
「そうだ! あたし、チケット持ってたんだった」
咄嗟に思い出した。映画を見終えたあと、あたしの手に握りしめられていた、あの紙切れのことを。これまた幸運だと、ズボンのポッケに手を突っ込む。中はじんわりとあたたかくて、太ももに密着するよう手のひらを広げることができた。何の障害もなく、ぴったりと。
「あれ、あれれれれ……」
さらっとしたズボンの生地の質感が肌に染みる。利き手の左手を抜いて、右手を入れてみる。だけど、結果は変わらなかった。
「落としました!?」
平淡な事実を受け入れられなくて、自分に問いかけた。というか、声を荒げた。ポッケの内側を摘んで外に引っ張り出しても、醜態を晒しているに過ぎなくて。
「あぁ……うぅ……これじゃお家に帰れません……」
言葉にもならない。ポッケを直すのも忘れて、その場で頭を抱える。厄日だ。そうじゃないと説明がつかないくらいに災難が連続してる。嫌なことってどうして、自覚して滅入る度に重なるんだろう。ここまで畳み掛けなくたっていいのに。もうこんなに落ち込んじゃって、白薔薇に顔向けができないし。
「でもこれも、あたしの運命なわけで……」
都合のいいことだけを切り取って、これが運命だーだなんてなんて言いたくなかった。ロマンチックな物語だけが、奇跡に溢れた結末だけが、運命じゃないんだから。
でも。
「夢に恋するみたいに、自分の信じた運命をまっすぐ追いかけることの何が悪いの」
じゃあ、その信じた運命を否定されたとき、どうして泣いたりしてるの?
二つの問いが対面する。ぎしりと歯が軋んだ。でもその痛みは、他の音に被さって聞こえなくなった。
「え……?」
どきりと驚いて、音のした方に目線が吸い付けられる。カウンターの横の奥にあるドアが開いていたのだ。入場許可も取ってないのに、支配人がどうぞと案内をするみたいに、あたしを快く招いてくれてる。
独りぼっちのはずの空間に、今すぐ飛び込みたくなった。煩いを強引にでも振り落とすように、扉の先へと必死に走っていく。闇が支配するシアター内は、自分を包み隠してくれるみたいで。騒音だらけの世界で、この瞬間だけはあたしだけの世界に浸ってもいいんだって、後ろから抱きしめてくれてる。だから、ここが嫌いってわけじゃなかった。
「あ!」
通路を渡って、あたしの特等席にまでついたときだった。折り畳まれた椅子の上に、白く細長い紙が置いてある。手に取って、内容を確かめてみる。表側には『90/11/1999』と数字が並んでた。間違いなくあたしのチケットだ。
「よかったぁ〜……!」
安堵に背中を押されて、椅子の背もたれにへにょりと抱きつく。立ち上がった勢いで、ここに落としていってしまったのだろうか。でも、ポッケに仕舞った記憶はある……ようなないような。
「記憶力がないとこういうときに困りますねぇ」
アリスさんにハンカチを渡そうとしたときには、既にポッケの中身は空っぽだった。だからやっぱり、ここで落としていったと結論づけるのが妥当だろう。
自分の記憶力の無さにはつい自嘲気味に笑ってしまったけど、終わりよければ全てよしってやつだ。どうでもいいことにしてしまおう。
「やっぱり怪獣さんはまた今度! ユーちゃんに会いに行きましょう! とっとと寝ます!」
軽々と座面を下げて、ひょいっと元気よく座り込む。どれだけ憂鬱な出来事ばかりでも、ユーちゃんに聞いてもらう話のネタになると思えば、まだ可愛がれる気がした。今度はしっかりとチケットをポッケに収納する。そして、あの子に会いに行くために瞳を瞑った。
あたしは寝つきが良い。これまで眠れない心配なんてしたことがなかった。目を閉じたときの、瞼の裏に隠れた暗闇を見つめる時間も、せいぜい数分程度だ。だから今、数十分経ってもその黒に視界を独占されてる状況には、むず痒い気持ちが膨らんでいく。
映画が始まる前に眠っちゃいたいんだけどな。寝れないときって、どんな対処法があったっけ。羊を数えるとか、逆に脳をクリアにするとか、そんなくらいしか浮かばないや。でも、羊じゃなくて、ヘレンさんのネズミさんにしたら可愛いかも。でも可愛さで選ぶなら、サナシアさんかユーちゃんがいいな。二人があたしのところに来てくれるって考えるだけで嬉しいし。
ブランコを調子に乗って漕ぎすぎて、前のめりに落っこちそうになったみたいな浮遊感が近付いてくる。
『――』
あ。寝れるかも。思考もちょっとずつ、ぼんやりしてきたし。
『――み』
このままブランコの持ち手から手を離して、ハトと一緒に夕暮れを飛んじゃおう。
『――み――ン』
そしたらすぐにでも、あの子に会えるだろうから。
「おやすみ、ミラージェン」
あぁ、もう。
「うるさいな!! あと、あたしのことはミラージェンじゃなくてですね……!」
寝起きとは思えないほど、お腹から大きな声が放たれる。その姿はまるで、炎を放射する怪獣みたいで。完全に、頭に血が上ってた。知らないうちに建物の一軒でも壊してたらどうしよう。慌てて周りを見渡した。でも、上も横もまだ真っ暗で、その静けさからあたしが大暴れした雰囲気は感じられない。よかった、と安心して目を伏せる。
「……!!」
居眠りを指摘された生徒のように、ガバッと起立する。それから、一刻も早く瞳が暗黒に慣れるようにと念じて、左右に全力で目を配る。きょろきょろとあたしの眼球は走り回ってくれたけど、やがてそれらは手元に戻ってきた。
あたしの両目とお揃いの、真紅色で染められたタオルケット。また、あたしの膝にかけられてた。優しく、丁寧に。
「ねぇ、きみはどこにいるの?」
あたしの、あたしだけの運命の人。
赤い糸で紡ぎ出された毛布を抱きしめて、そう囁いた。いつの間にかスクリーンが現れて、映画は始まってたけど、あたしの耳には響きもしない。今あたしは、自分の運命が逃げてしまわないように、精一杯のハグとキスを繰り返すことしかできなかったから。
「あたし、サナシアさんの運命の人じゃなかった……」
悲しい。わっと泣き叫びたくなるような苦しみじゃなくて、呆然と棒立ちをして動けなくなっちゃうみたいな、そういう絶望。みたいなというか、絶賛今のあたしはそのシーンの主人公役だった。
初めてサナシアさんを見たときに感じた、あのときめきは嘘だったの? ユーちゃんとそっくりな、夢みたいに可愛い人。あの暁色との出会いがまやかしだなんて、認めたくなかった。だって、髪の毛の色だって、あたしと同じで。ユーちゃんみたいに、柔らかく瞳を細めてくれるのに。
それなのに、あたしはサナシアさんの運命じゃない。サナシアさんは、あの男の人の手を取ったから。
あの人……名前は知らないけど、まるで神様みたいに綺麗な人だった。迷いなくサナシアさんを攫っていったのも、何だか素敵に見えてしまって。こんなの勝てっこないって、思っちゃった。
負けを叩きつけられて、素直に悔しくはなれなかった。そりゃそうかって、諦めっぽく頭を前に垂れるしかなかったから。
「酷いです、こんなの……。浮かれてたあたしだけが、馬鹿みたい」
ぽろぽろと溢れる涙を、拭いはしない。誰にも拾われることなく、捨てられてしまえばいいような、価値のないものだったから。降り落ちた水滴の跡を消すみたいに、スニーカーで踏みつけた。そしてそのまま、歩き出す。
サナシアさんがお城からいなくなった直後、あたしも暫くしてからお暇させていただいた。まともに人と喋れる気分じゃなかったから、アリスさんの付き添いも断って、一人で帰路を辿っている。ボートからの景色は全く味がしなかったし、帰り道でさえもうらぶれた街並みのようで。
隣にサナシアさんがいれば、きっとそうじゃなかったはずなのに。でも、サナシアさんの運命の人はあたしじゃなくて。サナシアさんの運命の人は、他の知らない誰かさんで。彼女のお家は、あたしのお家じゃなくて。
独り言として発散する方がマシそうな鬱屈を、心の中に積み重ねていった。もしかしたら高層マンションくらい、大きく育っちゃうかも。
「何ですかそれは、壊しますよ。破壊衝動の抑えられない怪獣にでもなってやりましょうか」
自分が適当に用意した妄想に、ふっと正気が駆けつけてきた。
悲しいのは本当。だけど多分、あたしの悲しみの根源は、怒りから芽生えてる気がした。蹲って泣き喚くより、手が出て怒り狂うタイプ。
「うわあぁ……絶対に嫌です……。あたしの怪獣さん、大人しくしてくれなきゃ困っちゃいますよぉ……」
怒るより泣く方が、絶対にいい。暴力だなんてもってのほかだし、まだ周りに迷惑をかけないはずだ。それに……
「怒ってるときの顔って、可愛くないに決まってます」
涙に溺れて瞳を潤ませる方が、羨ましくて情けないくらいに可愛いんだから。
そんな確信を胸に刻んで、あたしはようやく雫を拭う気になった。今すぐ洗い落とさなきゃ、居ても立っても居られないから。
庭園内の通路を歩いていく。相変わらず、花壇には白い薔薇が沢山、美しく咲いてる。薔薇には棘があって、もし摘みたければ注意が必要だ。その佇まいは気高くて、みんなから憧れるべきで届かないべき。
そう、所謂高嶺の花的なポジション。あたしとは決して交わらない。眩しすぎる正しさは、ときに猛毒となる。自分から毒に冒されに行くだなんて、あたしは勧めない。
……だけど、不思議と。この薔薇に触れたくなった。雪みたいな純潔さに、どこか愛おしさを覚えたから。あたしは花壇に近づいて、ぐっと膝を曲げる。子猫と戯れる光景を思い浮かべながら、手を差し伸べてみた。
「なんだ、案外触れちゃうものなんですね」
花弁を左手で包む。滑らかで上品な感触が伝わったけど、甘えたな猫に頬を擦り付けられてるみたいで、くすりと口角が上がった。
「落ち込んでへこんじゃったら、また会いにきてもいいですか?」
薔薇相手に尋ねてみる。重い厭わしさは、どこかへ行ってしまったようだった。
腰を上げて、スニーカーの爪先をたんたんと鳴らす。花から視線を外して、正面を仰いだ。そこには、昔ながらな外装のミニシアターが待ってて、ネオンを発光させる看板が更に古臭さを演出してた。神秘的なアクアリウムでも、大きなお城でもない。ここだけが、あたしのお家。
今日の上映作品は何かと、中央の柱に張り出された宣伝用ポスターに目を凝らす。
「あ」
偶然もあるもので、ポスターには大きな怪獣が炎を放ってお出ましだ。題名は掠れて読めなかったけど、発音的には三文字くらいだったような。まぁ何より、今のあたしにとってもってこいに違いなかった。
「レッツゴー怪獣さん! です!」
よしと心に決める。あたしは柱から少し横に移動すると、浅い階段を一気に飛び越して、軽やかに頂上へと降りた。くるりとひと回転。自画自賛で拍手を奏でる。こんなことができるのは、劇場内だけでなく、外のチケットカウンターにさえ誰もいないからだ。
「かといって、無断で入るのは忍びないですけど、係の人もいないですからね……」
律儀に窓口に寄って、こそこそと話しかけるように呟く。言い訳をしてる人間って、どうにも不恰好だ。
「そうだ! あたし、チケット持ってたんだった」
咄嗟に思い出した。映画を見終えたあと、あたしの手に握りしめられていた、あの紙切れのことを。これまた幸運だと、ズボンのポッケに手を突っ込む。中はじんわりとあたたかくて、太ももに密着するよう手のひらを広げることができた。何の障害もなく、ぴったりと。
「あれ、あれれれれ……」
さらっとしたズボンの生地の質感が肌に染みる。利き手の左手を抜いて、右手を入れてみる。だけど、結果は変わらなかった。
「落としました!?」
平淡な事実を受け入れられなくて、自分に問いかけた。というか、声を荒げた。ポッケの内側を摘んで外に引っ張り出しても、醜態を晒しているに過ぎなくて。
「あぁ……うぅ……これじゃお家に帰れません……」
言葉にもならない。ポッケを直すのも忘れて、その場で頭を抱える。厄日だ。そうじゃないと説明がつかないくらいに災難が連続してる。嫌なことってどうして、自覚して滅入る度に重なるんだろう。ここまで畳み掛けなくたっていいのに。もうこんなに落ち込んじゃって、白薔薇に顔向けができないし。
「でもこれも、あたしの運命なわけで……」
都合のいいことだけを切り取って、これが運命だーだなんてなんて言いたくなかった。ロマンチックな物語だけが、奇跡に溢れた結末だけが、運命じゃないんだから。
でも。
「夢に恋するみたいに、自分の信じた運命をまっすぐ追いかけることの何が悪いの」
じゃあ、その信じた運命を否定されたとき、どうして泣いたりしてるの?
二つの問いが対面する。ぎしりと歯が軋んだ。でもその痛みは、他の音に被さって聞こえなくなった。
「え……?」
どきりと驚いて、音のした方に目線が吸い付けられる。カウンターの横の奥にあるドアが開いていたのだ。入場許可も取ってないのに、支配人がどうぞと案内をするみたいに、あたしを快く招いてくれてる。
独りぼっちのはずの空間に、今すぐ飛び込みたくなった。煩いを強引にでも振り落とすように、扉の先へと必死に走っていく。闇が支配するシアター内は、自分を包み隠してくれるみたいで。騒音だらけの世界で、この瞬間だけはあたしだけの世界に浸ってもいいんだって、後ろから抱きしめてくれてる。だから、ここが嫌いってわけじゃなかった。
「あ!」
通路を渡って、あたしの特等席にまでついたときだった。折り畳まれた椅子の上に、白く細長い紙が置いてある。手に取って、内容を確かめてみる。表側には『90/11/1999』と数字が並んでた。間違いなくあたしのチケットだ。
「よかったぁ〜……!」
安堵に背中を押されて、椅子の背もたれにへにょりと抱きつく。立ち上がった勢いで、ここに落としていってしまったのだろうか。でも、ポッケに仕舞った記憶はある……ようなないような。
「記憶力がないとこういうときに困りますねぇ」
アリスさんにハンカチを渡そうとしたときには、既にポッケの中身は空っぽだった。だからやっぱり、ここで落としていったと結論づけるのが妥当だろう。
自分の記憶力の無さにはつい自嘲気味に笑ってしまったけど、終わりよければ全てよしってやつだ。どうでもいいことにしてしまおう。
「やっぱり怪獣さんはまた今度! ユーちゃんに会いに行きましょう! とっとと寝ます!」
軽々と座面を下げて、ひょいっと元気よく座り込む。どれだけ憂鬱な出来事ばかりでも、ユーちゃんに聞いてもらう話のネタになると思えば、まだ可愛がれる気がした。今度はしっかりとチケットをポッケに収納する。そして、あの子に会いに行くために瞳を瞑った。
あたしは寝つきが良い。これまで眠れない心配なんてしたことがなかった。目を閉じたときの、瞼の裏に隠れた暗闇を見つめる時間も、せいぜい数分程度だ。だから今、数十分経ってもその黒に視界を独占されてる状況には、むず痒い気持ちが膨らんでいく。
映画が始まる前に眠っちゃいたいんだけどな。寝れないときって、どんな対処法があったっけ。羊を数えるとか、逆に脳をクリアにするとか、そんなくらいしか浮かばないや。でも、羊じゃなくて、ヘレンさんのネズミさんにしたら可愛いかも。でも可愛さで選ぶなら、サナシアさんかユーちゃんがいいな。二人があたしのところに来てくれるって考えるだけで嬉しいし。
ブランコを調子に乗って漕ぎすぎて、前のめりに落っこちそうになったみたいな浮遊感が近付いてくる。
『――』
あ。寝れるかも。思考もちょっとずつ、ぼんやりしてきたし。
『――み』
このままブランコの持ち手から手を離して、ハトと一緒に夕暮れを飛んじゃおう。
『――み――ン』
そしたらすぐにでも、あの子に会えるだろうから。
「おやすみ、ミラージェン」
あぁ、もう。
「うるさいな!! あと、あたしのことはミラージェンじゃなくてですね……!」
寝起きとは思えないほど、お腹から大きな声が放たれる。その姿はまるで、炎を放射する怪獣みたいで。完全に、頭に血が上ってた。知らないうちに建物の一軒でも壊してたらどうしよう。慌てて周りを見渡した。でも、上も横もまだ真っ暗で、その静けさからあたしが大暴れした雰囲気は感じられない。よかった、と安心して目を伏せる。
「……!!」
居眠りを指摘された生徒のように、ガバッと起立する。それから、一刻も早く瞳が暗黒に慣れるようにと念じて、左右に全力で目を配る。きょろきょろとあたしの眼球は走り回ってくれたけど、やがてそれらは手元に戻ってきた。
あたしの両目とお揃いの、真紅色で染められたタオルケット。また、あたしの膝にかけられてた。優しく、丁寧に。
「ねぇ、きみはどこにいるの?」
あたしの、あたしだけの運命の人。
赤い糸で紡ぎ出された毛布を抱きしめて、そう囁いた。いつの間にかスクリーンが現れて、映画は始まってたけど、あたしの耳には響きもしない。今あたしは、自分の運命が逃げてしまわないように、精一杯のハグとキスを繰り返すことしかできなかったから。