Chapter2:Dreams and reality
11 だから秘密だよ
彼の残した跡を指でなぞる。口にされるのではないかと、勘違いをしてしまった。そう思ったのは、自分が年頃の乙女らしい思考回路をしているからではない。
それなら、何故。
逸らした目を壁に凝らしても、答えが返ってくるわけではない。木理が不規則なボーダーラインを泳がせているだけだ。
ぐるぐると回る脳内を落ち着かせたくて、勢いよく毛布を被った。全身が隠れるように、深々と重みを乗せる。
眠ってしまえば、稚拙な妄想も忘れられるだろう。自分に言い聞かせて、強引に瞼を閉じる。それでも胸がうるさくて、泣き止ませるように寝返りを打った。
わたしは、知っている。
声が響く。紛れもなく、わたしのものだった。けれど、自問自答にしては押し付けがましい。
何を?
暗闇に聞いても、黙りだった。ただでさえ知らないことだらけのわたしに、その対応はあまりに意地悪だ。ぴくりと瞼の先が痙攣する。
この瞳を起こしたい。でも、簡単には上げられない。後ろの壁の木目が、わたしを睨んでいる。ガタついた目玉の瞳孔から細長い腕が幾つも伸びて、ぐるりとわたしの眼を覆うのだ。
恐ろしくて仕方がない。だけれど、わたしはこうであるべきだった。そう納得させられる安寧が存在している。
だからわたしは、湧き上がった欲を封じ込めた。ベッドに身が溺れていくのと同じよう、徐々に記憶を薄める。ようやくわたしの意識は、朧げとなっていった。
「――」
瞳が見開く。今の今まで、わたしは呼吸を忘れていたのか。そう錯覚してしまうほど、乱れた呼吸音が繰り返される。横たわった体を起こして、わたしは天を振り仰いだ。
満月が、あの色を、初恋色を照らしている。
ああ、そうだった。わたしが知っていたのは、この色だった。喉と胸が酷く痛むこの黄金色が、恋しくて堪らなかったのだ。
光沢を帯びた水晶は、わたしに清らかな笑顔を見せる。まるで旧友との再会みたいに、わたしを待ち望んでいるかのようだった。
草原から身を上げて、月へと分け与えるようにして暁を細める。夜風が吹いて、スカートが靡く。腕を広げて、自然の気まぐれに己の全てを委ねた。
「――ア」
はっと、息を呑んだ。同時に、手が震える。
胸元のブローチを包むように、両手を握りしめた。冷風がわたしを誘導するみたいに回転する。その無邪気な動きに従って、後方を見返った。
「サナシア、聞いてる?」
微かに不貞腐れた少年の声が、遠くからわたしの名前を呼んだ。
自分という存在を知らないわたしに、名前を授けてくれたような。産声と共に祝福が溢れ出して、魂に歓喜が込み上げた。名を呼ばれたのは初めてのことではないのに、この世へ生まれ落ちた感動が全身に巡っていく。
「もう時期起きてもおかしくないはずだろうに、まだ眠りこけているのか」
少し離れた距離から、少年のため息が聞こえた。呆れることに慣れた口調をしている。
わたしは大きくかぶりを振って、眠ってなどいないと弁明したかった。だけれど、喉元は石化したように硬くなる。度胸がなくて足を踏み出せないわけではないのに、彼の元まで駆け寄ることはできなくて、逃げるみたいにそばで佇んでいた木陰に身を潜めた。少年の様子を窺うよう、ひっそりと顔を覗かせてみる。
「そんなことはどうだっていいけど」
彼はそう言い捨てると、座ることをやめて、草原に背を預けた。自由奔放な風の子が少年の頬を撫で、穏やかな草の民が彼の指先に絡まる。天上に君臨する黄金の姫君も、寵児を見つめるかのように輝きを注いでいた。
これほどまでに、美しい景色を見たことがあっただろうか。
感嘆の息が漏れ、目元が溶かされていく。あそこは、何者にも侵されることなく、永遠に守られるべき場所だ。容易に立ち入ろうだなんて思わないくらい、安らぎがのんびりと浸る、完成された世界。
そこに迎えられなくたっていいから、ずっと見つめ続けていたい。そう願った。
「ねぇ、サナシア」
あの人がわたしに呼びかける。目線は夜空に向けられていたけれど、彼はそのまま会話を紡ぐ。
「貴方にとっての愛はどんなもの?」
軽薄すぎず、かといって慎重すぎない調子で、少年は尋ねる。
愛。心の中で呟いて、脳内でもまた繰り返し、反芻していく。でも、まるで覚えがない。それを語れる権利が、わたしにはなかった。
クエルクスたちが与えてくれた、陽だまりのような温もり。そして、アリスとヴィクターが抱えた、不自由なしがらみ。この二つは、愛と呼べるのだろうか。
……分からない。確信が持てない。わたしはどちらも、愛だと信じて呼んでみたい。だけれど、その行為は身勝手なように思えてしまって。
だって、相反する片方を否定してしまったら、もう片方はどうなってしまうのだろう。柔らかな優しさや息苦しい庇護だけが、果たして本物の愛情なのか。わたしに辿り着く先はなかった。
唇が微かに震えるのをぎゅっと抑える。黙りこくるわたしを、彼はどう捉えるだろうか。不安げな瞳で、再びあの人を熟視する。濃紺に染まった天井よりも深く彩られた、ヒヤシンスのように黒い髪が揺れた。
「別に咎めているわけじゃない。無知は人間が責められるものではないからね。大切なのは、怠けて思考を放棄をせず、本質を見定めることだ。……と、自分に言い聞かせているわけだが」
ふふ、と控えめな笑い声が転がされる。純粋無垢な子供のようだった。
「俺にはまだ分からない。だから、知ろうとしているんだ。あの人に恋焦がれて、愛するということを知りたい」
この感情が貴く純なるものだと信じているから。
「世俗に塗れた奴らには、まるで通じない話さ。でも、貴方は俺のことを笑ったりしないだろう?」
気に食わなさそうに、彼はふんと鼻を鳴らす。ちょっぴり棘のある言い方に驚いたけれど、のびのびとした雰囲気は残ったままだ。思う存分に気を緩めて、わたしに話しかけてくれているのだと伝わった。
少年は体を起こすと、まっすぐこちらに視線を送る。互いに瞳を重ね合うには遠くて、あの人がどんな眼差しを向けてくれているのかは分からない。
それでも、彼が作った表情をこの眼に焼き付けたくて、己の身を出来る限り乗り出した。呼吸さえ押し殺すようにして、懸命に耳を澄ます。
彼の影が、ゆらりと動く。
「だから秘密だよ」
人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく微笑んだ。その肌は月明かりに劣らぬほど白く、端正な唇は真っ赤な薔薇のようだった。
まるでわたしの口元に、あの人の華奢な指が乗せられたみたいで。いや、それよりももっと、身動きなんて忘れてしまうほどに熱烈で。乗せられたのが指ではなく、彼の唇だったのではと、疑いなく思い込んでしまう。幻想的な甘美に塞がれるような強制力が、たしかにあった。
今、わたしはどんな顔をしている? 慌てた手つきで、両頬を押さえる。頬が逆上せたみたいに熱い。あまりにも、熱すぎる。
何だか居た堪れなくなって、そろそろとしゃがみ込んでしまう。今すぐ顔を膝に埋めたくなった。だけれど、あの人の一挙一動を見逃したくはなくて。僅かに面を上げて、少年を垣間見る。
彼は視界を夜空に戻していた。遍く星々を見上げながら、心地良さそうに居座っている。わたしはほっと胸を撫で下ろして、ゆっくりと起き上がる。それと同時に、少年も立ち上がった。
「サナシア、貴方は撫子色を目にしたことはある?」
弾んだ声色であの人が問いかける。
撫子色。わたしの髪と、同じ色彩を持ったものだ。己の毛先に触れながら、小さく頷いてみる。少年は返答を確認することはないけれど、いつもわたしの言葉を待ってくれているかのようだった。
「あのお嬢さんが纏う、可憐で特別な色だ。それは俺の、一番好きな色になってしまった。何かを好きになるということは、何かを奪われていくことと同じなのかもしれないね」
ゆったりとしたペースで語りつつも、逸る気持ちは誤魔化せないのだと、熱の籠った想いが吐露されていく。だけれど、それらはぞんざいに零されたものではない。一つ一つ丁寧に抱擁するような真心が込められているのだった。
「俺が何を奪われたって? 愚問だな、貴方らしくない」
少年は可笑しそうに肩を揺らす。そして左の手のひらを凝視してから、胸元に力強く添える。その指先が丸まって、赤色のベストニットに皺を描かせた。
「この音色さえ、あの人のものさ」
世界で最も幸福だというように、あの人は笑った。愛おしげに、あどけなく。
どくどくと、煩く鼓動が響いた。この音が彼のものなのか、わたしのものなのか、判別がつかない。
ねぇ、もしかして、あなたも奪っていってしまったのではないの?
そう質問をしたくても、声は失われたままで。当然、少年はわたしの問いに気づくことはない。ただ嬉しげに咲き誇った笑みのまま、星空を高く仰いだ。
「彼女に恋を告げたい。そして、愛を捧げたい。そのために、何をすればいいのだろう」
真摯に思い悩む姿に、わたしは見入る。ぼうっと空を仰ぎ見る彼は、どこか途方もなさそうに立ち尽くしていた。
月も、星も、彼らを浮かべる宵の海も、あの人に何も返してはくれない。その反応に、段々と焦ったさが生じていく。
彼に教えてあげたいことがあるはずだった。なのに、分からない。それが悔しくて、苦しくて、くしゃりと顔が歪んだ。わたしに背を向けるあの人の後ろ姿に、この手は愚かにも伸びていく。
「だが、きっと……」
駄目、待って、透明なあなた。
「あの人には、この庭に咲く白い薔薇がよく似合う」
ぶわりと、花弁が舞い散るような風が吹く。こちらを見返りながら囁いた少年の顔は、靡いた髪に隠されてよく見えなかった。でも、彼の囁きには、裏切られることすら知らない純情さだけが包まれていたのだった。
「サナちゃんおはよ」
ふと目が覚めて、すぐそばから少年の声が届く。けれどその声は、声変わりの前兆が現れたあの人のものではない。木天井の敷かれた眼球の中に、小柄な少年が映り込む。
「よく寝れたか?」
フリルエプロンを身につけて、片手に握ったフライパンを肩に乗せながら首を傾げる。ラセルティリアだ。ぱちぱちと、大きな緑色の瞳を瞬かせている。
「うん……」
瞼を擦りつつ、上体を引き上げる。眠れた気はそこまでしなかったけれど、はぐらかすことにした。
「そりゃ何より。さ、朝飯にするぞ。でもその前に、他のヤツら起こすの手伝って。セラはまだ融通が利くけど、ペペとルクスは強敵だ」
ハァ、とため息を吐きつつも、容赦のなさそうな顔つきに切り替わる。たしかに、わたしも手伝ったほうが良さそうだ。「支度が終わったら顔出して」と言い残して、ラセルティリアは急ぎ足で部屋を後にした。
わたしも再び眠気が舞い降りないようにと、恋しくなる前に布団を剥いで、ベッドから我が身を抜け出させる。ぐうっと背伸びをして、ほぐれた安心感から欠伸が流れた。床を裸足で歩きながら、ベッドの隣に配置された机に触れてみる。それから、昨晩クエルクスが閉めたカーテンを掴んで、結び目を解くよう両手で横に引っ張った。
満遍なく差し込む朝日が眩しい。窓の向こう側ではらりと揺蕩う野原は、自然のこよなき神聖さの象徴だった。
もしわたしの元におはようが与えられなくなったとしても、この麗らかな日差しだけはいつまでも朝を知らせてくれるのだろう。
そんなことを思いながら、わたしもリビングへと足を運ばせた。
彼の残した跡を指でなぞる。口にされるのではないかと、勘違いをしてしまった。そう思ったのは、自分が年頃の乙女らしい思考回路をしているからではない。
それなら、何故。
逸らした目を壁に凝らしても、答えが返ってくるわけではない。木理が不規則なボーダーラインを泳がせているだけだ。
ぐるぐると回る脳内を落ち着かせたくて、勢いよく毛布を被った。全身が隠れるように、深々と重みを乗せる。
眠ってしまえば、稚拙な妄想も忘れられるだろう。自分に言い聞かせて、強引に瞼を閉じる。それでも胸がうるさくて、泣き止ませるように寝返りを打った。
わたしは、知っている。
声が響く。紛れもなく、わたしのものだった。けれど、自問自答にしては押し付けがましい。
何を?
暗闇に聞いても、黙りだった。ただでさえ知らないことだらけのわたしに、その対応はあまりに意地悪だ。ぴくりと瞼の先が痙攣する。
この瞳を起こしたい。でも、簡単には上げられない。後ろの壁の木目が、わたしを睨んでいる。ガタついた目玉の瞳孔から細長い腕が幾つも伸びて、ぐるりとわたしの眼を覆うのだ。
恐ろしくて仕方がない。だけれど、わたしはこうであるべきだった。そう納得させられる安寧が存在している。
だからわたしは、湧き上がった欲を封じ込めた。ベッドに身が溺れていくのと同じよう、徐々に記憶を薄める。ようやくわたしの意識は、朧げとなっていった。
「――」
瞳が見開く。今の今まで、わたしは呼吸を忘れていたのか。そう錯覚してしまうほど、乱れた呼吸音が繰り返される。横たわった体を起こして、わたしは天を振り仰いだ。
満月が、あの色を、初恋色を照らしている。
ああ、そうだった。わたしが知っていたのは、この色だった。喉と胸が酷く痛むこの黄金色が、恋しくて堪らなかったのだ。
光沢を帯びた水晶は、わたしに清らかな笑顔を見せる。まるで旧友との再会みたいに、わたしを待ち望んでいるかのようだった。
草原から身を上げて、月へと分け与えるようにして暁を細める。夜風が吹いて、スカートが靡く。腕を広げて、自然の気まぐれに己の全てを委ねた。
「――ア」
はっと、息を呑んだ。同時に、手が震える。
胸元のブローチを包むように、両手を握りしめた。冷風がわたしを誘導するみたいに回転する。その無邪気な動きに従って、後方を見返った。
「サナシア、聞いてる?」
微かに不貞腐れた少年の声が、遠くからわたしの名前を呼んだ。
自分という存在を知らないわたしに、名前を授けてくれたような。産声と共に祝福が溢れ出して、魂に歓喜が込み上げた。名を呼ばれたのは初めてのことではないのに、この世へ生まれ落ちた感動が全身に巡っていく。
「もう時期起きてもおかしくないはずだろうに、まだ眠りこけているのか」
少し離れた距離から、少年のため息が聞こえた。呆れることに慣れた口調をしている。
わたしは大きくかぶりを振って、眠ってなどいないと弁明したかった。だけれど、喉元は石化したように硬くなる。度胸がなくて足を踏み出せないわけではないのに、彼の元まで駆け寄ることはできなくて、逃げるみたいにそばで佇んでいた木陰に身を潜めた。少年の様子を窺うよう、ひっそりと顔を覗かせてみる。
「そんなことはどうだっていいけど」
彼はそう言い捨てると、座ることをやめて、草原に背を預けた。自由奔放な風の子が少年の頬を撫で、穏やかな草の民が彼の指先に絡まる。天上に君臨する黄金の姫君も、寵児を見つめるかのように輝きを注いでいた。
これほどまでに、美しい景色を見たことがあっただろうか。
感嘆の息が漏れ、目元が溶かされていく。あそこは、何者にも侵されることなく、永遠に守られるべき場所だ。容易に立ち入ろうだなんて思わないくらい、安らぎがのんびりと浸る、完成された世界。
そこに迎えられなくたっていいから、ずっと見つめ続けていたい。そう願った。
「ねぇ、サナシア」
あの人がわたしに呼びかける。目線は夜空に向けられていたけれど、彼はそのまま会話を紡ぐ。
「貴方にとっての愛はどんなもの?」
軽薄すぎず、かといって慎重すぎない調子で、少年は尋ねる。
愛。心の中で呟いて、脳内でもまた繰り返し、反芻していく。でも、まるで覚えがない。それを語れる権利が、わたしにはなかった。
クエルクスたちが与えてくれた、陽だまりのような温もり。そして、アリスとヴィクターが抱えた、不自由なしがらみ。この二つは、愛と呼べるのだろうか。
……分からない。確信が持てない。わたしはどちらも、愛だと信じて呼んでみたい。だけれど、その行為は身勝手なように思えてしまって。
だって、相反する片方を否定してしまったら、もう片方はどうなってしまうのだろう。柔らかな優しさや息苦しい庇護だけが、果たして本物の愛情なのか。わたしに辿り着く先はなかった。
唇が微かに震えるのをぎゅっと抑える。黙りこくるわたしを、彼はどう捉えるだろうか。不安げな瞳で、再びあの人を熟視する。濃紺に染まった天井よりも深く彩られた、ヒヤシンスのように黒い髪が揺れた。
「別に咎めているわけじゃない。無知は人間が責められるものではないからね。大切なのは、怠けて思考を放棄をせず、本質を見定めることだ。……と、自分に言い聞かせているわけだが」
ふふ、と控えめな笑い声が転がされる。純粋無垢な子供のようだった。
「俺にはまだ分からない。だから、知ろうとしているんだ。あの人に恋焦がれて、愛するということを知りたい」
この感情が貴く純なるものだと信じているから。
「世俗に塗れた奴らには、まるで通じない話さ。でも、貴方は俺のことを笑ったりしないだろう?」
気に食わなさそうに、彼はふんと鼻を鳴らす。ちょっぴり棘のある言い方に驚いたけれど、のびのびとした雰囲気は残ったままだ。思う存分に気を緩めて、わたしに話しかけてくれているのだと伝わった。
少年は体を起こすと、まっすぐこちらに視線を送る。互いに瞳を重ね合うには遠くて、あの人がどんな眼差しを向けてくれているのかは分からない。
それでも、彼が作った表情をこの眼に焼き付けたくて、己の身を出来る限り乗り出した。呼吸さえ押し殺すようにして、懸命に耳を澄ます。
彼の影が、ゆらりと動く。
「だから秘密だよ」
人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく微笑んだ。その肌は月明かりに劣らぬほど白く、端正な唇は真っ赤な薔薇のようだった。
まるでわたしの口元に、あの人の華奢な指が乗せられたみたいで。いや、それよりももっと、身動きなんて忘れてしまうほどに熱烈で。乗せられたのが指ではなく、彼の唇だったのではと、疑いなく思い込んでしまう。幻想的な甘美に塞がれるような強制力が、たしかにあった。
今、わたしはどんな顔をしている? 慌てた手つきで、両頬を押さえる。頬が逆上せたみたいに熱い。あまりにも、熱すぎる。
何だか居た堪れなくなって、そろそろとしゃがみ込んでしまう。今すぐ顔を膝に埋めたくなった。だけれど、あの人の一挙一動を見逃したくはなくて。僅かに面を上げて、少年を垣間見る。
彼は視界を夜空に戻していた。遍く星々を見上げながら、心地良さそうに居座っている。わたしはほっと胸を撫で下ろして、ゆっくりと起き上がる。それと同時に、少年も立ち上がった。
「サナシア、貴方は撫子色を目にしたことはある?」
弾んだ声色であの人が問いかける。
撫子色。わたしの髪と、同じ色彩を持ったものだ。己の毛先に触れながら、小さく頷いてみる。少年は返答を確認することはないけれど、いつもわたしの言葉を待ってくれているかのようだった。
「あのお嬢さんが纏う、可憐で特別な色だ。それは俺の、一番好きな色になってしまった。何かを好きになるということは、何かを奪われていくことと同じなのかもしれないね」
ゆったりとしたペースで語りつつも、逸る気持ちは誤魔化せないのだと、熱の籠った想いが吐露されていく。だけれど、それらはぞんざいに零されたものではない。一つ一つ丁寧に抱擁するような真心が込められているのだった。
「俺が何を奪われたって? 愚問だな、貴方らしくない」
少年は可笑しそうに肩を揺らす。そして左の手のひらを凝視してから、胸元に力強く添える。その指先が丸まって、赤色のベストニットに皺を描かせた。
「この音色さえ、あの人のものさ」
世界で最も幸福だというように、あの人は笑った。愛おしげに、あどけなく。
どくどくと、煩く鼓動が響いた。この音が彼のものなのか、わたしのものなのか、判別がつかない。
ねぇ、もしかして、あなたも奪っていってしまったのではないの?
そう質問をしたくても、声は失われたままで。当然、少年はわたしの問いに気づくことはない。ただ嬉しげに咲き誇った笑みのまま、星空を高く仰いだ。
「彼女に恋を告げたい。そして、愛を捧げたい。そのために、何をすればいいのだろう」
真摯に思い悩む姿に、わたしは見入る。ぼうっと空を仰ぎ見る彼は、どこか途方もなさそうに立ち尽くしていた。
月も、星も、彼らを浮かべる宵の海も、あの人に何も返してはくれない。その反応に、段々と焦ったさが生じていく。
彼に教えてあげたいことがあるはずだった。なのに、分からない。それが悔しくて、苦しくて、くしゃりと顔が歪んだ。わたしに背を向けるあの人の後ろ姿に、この手は愚かにも伸びていく。
「だが、きっと……」
駄目、待って、透明なあなた。
「あの人には、この庭に咲く白い薔薇がよく似合う」
ぶわりと、花弁が舞い散るような風が吹く。こちらを見返りながら囁いた少年の顔は、靡いた髪に隠されてよく見えなかった。でも、彼の囁きには、裏切られることすら知らない純情さだけが包まれていたのだった。
「サナちゃんおはよ」
ふと目が覚めて、すぐそばから少年の声が届く。けれどその声は、声変わりの前兆が現れたあの人のものではない。木天井の敷かれた眼球の中に、小柄な少年が映り込む。
「よく寝れたか?」
フリルエプロンを身につけて、片手に握ったフライパンを肩に乗せながら首を傾げる。ラセルティリアだ。ぱちぱちと、大きな緑色の瞳を瞬かせている。
「うん……」
瞼を擦りつつ、上体を引き上げる。眠れた気はそこまでしなかったけれど、はぐらかすことにした。
「そりゃ何より。さ、朝飯にするぞ。でもその前に、他のヤツら起こすの手伝って。セラはまだ融通が利くけど、ペペとルクスは強敵だ」
ハァ、とため息を吐きつつも、容赦のなさそうな顔つきに切り替わる。たしかに、わたしも手伝ったほうが良さそうだ。「支度が終わったら顔出して」と言い残して、ラセルティリアは急ぎ足で部屋を後にした。
わたしも再び眠気が舞い降りないようにと、恋しくなる前に布団を剥いで、ベッドから我が身を抜け出させる。ぐうっと背伸びをして、ほぐれた安心感から欠伸が流れた。床を裸足で歩きながら、ベッドの隣に配置された机に触れてみる。それから、昨晩クエルクスが閉めたカーテンを掴んで、結び目を解くよう両手で横に引っ張った。
満遍なく差し込む朝日が眩しい。窓の向こう側ではらりと揺蕩う野原は、自然のこよなき神聖さの象徴だった。
もしわたしの元におはようが与えられなくなったとしても、この麗らかな日差しだけはいつまでも朝を知らせてくれるのだろう。
そんなことを思いながら、わたしもリビングへと足を運ばせた。