Chapter2:Dreams and reality
10 貴方の元に、夜明けは必ず訪れる
ガチャリと扉が開かれていく。わたしはその先にある景色に、ほんの少し期待を膨らませながら、胸元で両手を握る。どくどくと鳴り響く心臓の音は、残り時間を数えているようだった。瞬きだと誤魔化して目を瞑る。それから、やや焦り気味に息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。上がっていた肩を下げて、再度呼吸をすると同時に、わたしは瞼を起こした。
「え」
間抜けな声が漏れる。わたしはいつも気が抜けているけれど、この瞬間に勝るものはなかったと思う。
だってそれは、わたしの真ん前で、見知らぬ女性と少女が口付けを交わしていたのだから。
「あら?」
「ぷはー」
わたしは目の前の状況を把握しようとしたけれど、すぐさま視界が白で隠された。クエルクスの背中だった。
「……ルパロセラ、ペレンニス。そのようにふしだらな行為を、扉の前でする者がいますか」
「すまんすまんクエルン、腹ぺこだったもんで。ペペちゃんとのちゅ〜は欠かせないんだ」
謝罪を述べるには軽々しい声色は、わたしよりも随分幼く聞こえる。クエルクスをあだ名で呼んでいたりと、相当肝の据わった人物らしい。もしくは、ただ単にお気楽なだけかもしれない。
そんな少女に「全く」と小さく呟くクエルクスだったけれど、不満を曝すような真似はせず、大人らしい対応が身についているようだった。
その後、彼はゆらりとこちらを見返る。わたしはこっそりと頷いて、クエルクスの隣に並ぼうとした。
「おい、このボクに何回叫ばせる気だ? とっとと手伝えって言ってるだろ!」
少年の裏返った怒声がはっきりと耳の奥にまで届く。フローリングに穴が空いてしまうほどの足踏みを叩きつけながら、その人物は俊敏にやってきた。
「嫌だわ、もう。耳障りな声でぼくに指図しないで、ラセルティリア」
また知らない人の声だ。多分、最初に見た女性だろう。伸びやかな低音から奏でられる嫌味は爽快でもあった。
「ここには食い意地しかないチビと自分のことしか頭にない自惚れ屋しかいないのか? おまけに鈍間すぎるおじさんときた。そんなヤツらのために、ボクは飯を作ってると! はっ、冗談じゃないな、こんなくだらないこと今にやめてやる」
「気の毒ね、自分ことしか頭にない小童が拗ねているのだわ。申し訳程度の哀れみを差し上げるべきかしら」
一つの文句を与えれば倍になった毒が返ってきて、そんな口論の繰り返しだった。周囲の様子を確認したくても、クエルクスとわたしの背丈は離れすぎている。気まずさが背筋をなぞって、段々と居た堪れない気持ちに急かされた。どうにかしなければと、わたしは足を前へ踏み出そうとする。
けれど、その動作は自然と止まった。クエルクスから、息が落とされたから。それはため息ではなく、本当にただの呼吸音。
「お静かになさい」
その生命活動から一拍置いて告げられた言葉は、優しい忠言などではなく、紛うことなき命令であった。
ドアは閉められているはずなのに、背後から追い抜くような風がぶわりと体を通り過ぎていく。びっくりして、反射的に彼の背中に掴まってしまう。だけれどクエルクスは、わたしを跳ね除けたりはしなかった。
「只今帰りました」
一瞬にして騒がしさの失われた空間で、さも何事もなかったというふうに彼は仕切り直す。続いて後ろを振り向くと、わたしの肩を抱いて横に配置させた。
「こんにちは……」
ようやく映った景色に、わたしは緊張を隠せず終いで、結局小声で挨拶を送る。
赤髪の縦巻きロールが似合う、蝶のように軽やかな少女がルパロセラ。長い紫髪を潤ませた、花のように麗しい女性がペレンニス。跳ねた銀髪の襟足を、トカゲのしっぽのように伸ばしている少年がラセルティリア。
一人一人の特徴と名前を一致させながら、心の中で順番に確かめていく。
「サナちゃん」
最後に瞳を見交わした少年ラセルティリアが、ふとわたしの名前を零す。だけれど、彼から零されたのは、わたしの名前だけではない。
ガタンと、ラセルティリアの手からお玉が落っこちて、床に弾んだ。一度宙に浮かんで、そのまま転がっていく。でも、それを拾う者はいなかった。
突如、前から体重がのしかかって、わたしは思わずそれを包む。見下ろした先には、一人の少年がいた。
「遅いよ……。飯、作りすぎちゃったじゃないか……」
ぎゅうっと、大切なぬいぐるみを抱きしめる子供のように、ラセルティリアがわたしを離さなかった。彼はわたしの胸に顔を埋めて、幼い声を震わせている。
「待ちくたびれて、退屈ばかりしていたわ。きみがいなかったからよ、分かる?」
彼の後をついてくるように、ペレンニスとルパロセラもやってくる。
勿体ぶるみたいに首を傾げるペレンニスの素振りは、我儘で寂しげな少女にそっくりだった。わたしの髪を触る手つきは、繊細で慈しみが滲んでいるようでもある。
三人が集うと、クエルクスはわたしを真ん中に挟んで、その長い腕で囲むように皆を抱きしめた。
「わは、あったかいなぁ」
吹き出すように笑ったルパロセラの肩が揺れる。微かな振動でさえも伝わる距離に、彼女たちはいた。
人と触れ合う温度は、こんなにもあたたかかっただろうか。
心臓の端にこびりついた氷柱が溶けて、しとしとと雫が滴っていく。冷え切った奥底にこの熱が行き渡るのは、きっとわたしが想像するよりも瞬く間なのだろうと思った。
「おじさんは触るな、気持ち悪い」
「今だけは許してあげるのだわ、特別よ」
しっしと手を払うラセルティリアと機嫌のよさそうなペレンニスに、クエルクスは雷を落とすようなこともなく、更に抱きしめる力を強める。
「我儘も結構。ですが私たちは、この子に伝えなければならないことがあるでしょう」
クエルクスの発言に、一同は彼に視線を集めると、頼もしい表情を揃えて首を縦に振る。
ラセルティリアはわたしの手を精一杯に握り、ペレンニスは嫋やかに腕を組む。ルパロセラはもう片方の腕にこてんと頭を預けて、後ろからクエルクスがわたしの両肩にそっと手を乗せた。
「おかえりなさい」
体感で味わう温度よりもいっそう温もりに溢れた愛情が、わたしのためだけに伝わってくる。
そんなプレゼントを貰っても、何と返せばいいのかと迷うわたしに、彼らはただ柔らかな眼差しを与えてくれるのだった。
◆◆◆
「アンタたちはサナちゃんと一緒に風呂に入った。じゃあ、その後の時間はボクに譲られるべきだ、絶対にな」
「いいえ? シーアはセティよりもぼくと過ごしたいに決まっているのだわ」
花柄のカーペットに座り込むわたしの両腕が引っ張られる。左腕はペレンニス、右腕はラセルティリアが独占しており、膝の上ではルパロセラが寝息を立てていた。見ての通り、自由に身動きが取れない。
ラセルティリア特製の晩食を頂いてから、されるがままにペレンニスとルパロセラに連れられてお風呂に入り、今はリビングでくつろいでいる……のだと思う。
木材で建築された家の中はほっとするような雰囲気で満ちており、ナチュラルな木の質感にはどことなく懐かしさを覚える。天井を仰ぐと、地層のように、あるいは緩やかな波のような木目が描かれていた。
相変わらずラセルティリアは怒っているし、ペレンニスはマイペースだけれど、この場所自体は奥深い森林の如く、のんびりとしているのだった。
視線を戻して、出来る限りのことはしようと二人の喧嘩を仲裁を試みる。ミラージェンとアリスの場合だと、かなり一方的なやり取りだったけれど、ラセルティリアとペレンニスの場合は両者とも譲らない。
如何にも不憫そうに微笑を湛えるペレンニスに、ラセルティリアは「気に食わない態度を改めろ」と眉を顰めながら彼女に指を指していた。彼の腕がピシッと伸ばされて、袖口のフリルが百合の花みたいに揺れる。
暴君のような言い回しが特徴的なラセルティリアだけれど、彼の装いはどれも気品がある。さながら貴族のお坊ちゃんだ。それは他の人たちも同じで、ペレンニスは幻想文学に登場する騎士のようだし、綿雲で作られたようなワンピースを纏うルパロセラも、花畑で過ごす小さな妖精みたいだった。
「こういう服、好きだっただろ?」
ひょいと顔を覗き込ませながら、ラセルティリアが襟元のリボンを見せつける。わたしの目線に気がついて、声をかけてくれたようだ。自慢げに口角を上げる彼の姿こそ微笑ましいものの、少々発言に引っかかる。
わたしは、こういう服が好きだったのだろうか。フリルや装飾が沢山施されたような、豪華で可愛らしい服が。
「でも、だからといってセティが着る必要はないんじゃ……?」
それはそれとして、と思考を切り替える。仮にわたしが好きだったとしても、ラセルティリアが着ることはない。料理中も堂々とフリルエプロンを着ていたけれど、彼が好むような服装でないことはたしかだ。もしわたしのせいで無理をさせてしまっているのなら申し訳ない。
「? ボクはサナちゃんのお兄ちゃんだぞ」
だけれど、ラセルティリアはあっけらかんとしていた。いつものキビキビとした口調がほんのり和らぐ。そんな彼の反応に、わたしは何を返すことが正解か分からず、適当な相槌しか打てなかった。
三人はそれぞれわたしに「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ぶように命じた。
明らかに歳下であろうラセルティリアやルパロセラのことを兄姉扱いするのは、冗談だとしても気が進まない。けれども、二人は当たり前のことのように指示してくるものだから、恰もわたしだけが間違った主張をしているみたいだった。最終的にはあだ名で呼ぶことを約束して、無理矢理ながらも納得してもらったのだ。
唯一クエルクスはわたしに呼び名を強制することはなかったけれど、彼をどう呼べばいいのかとちょっとだけ思い悩んだ。ただ、何となく呼び捨てがしっくりときてしまって、失礼を承知で尋ねたところ、あっさりと許可が下りた。驚くわたしにクエルクスは何も言わず、灰色の眼にわたしを映すだけ。
そういえば、彼がわたしの名を呼ばないことに勘付いたのも、あの時だった気がする。
「可愛いという存在を求めているのなら、この可愛いペペお姉様で十分でしょ。彼はちょっと……余分じゃない?」
「アンタ、自分に陶酔するのもいい加減にしろ」
再び始まった言い争いに、わたしは首を突っ込むのを控えた。恐らく堂々巡りだろう。
ふぅ、と一息をつく。すると、膝下がかたかたと、小刻みに揺れるのを感じた。
「あ……起きていたの? セラ」
「ふっふっふ。自分は寝るのも寝たふりも得意なんだ」
おぼこい横顔がころりと転がって、わたしを見上げる。実際寝ていたのか寝ていなかったのかは定かでないけれど、ルパロセラは愉快そうに笑っていた。
彼女はのびのびと欠伸をしてから、おかわりといわんばかりにもう一度口を広げる。
「なっちゃんは人気者だな」
「そんなことはないと思うけれど」
「無自覚か? そりゃモテモテなわけだ。じゃあ、今のうちにねーちゃんが独占しちゃうかー」
無気力に掲げられた腕に首を絡め取られ、ルパロセラは耳元に近づくと面白可笑しそうに囁いた。それから即座に「離れろ」「そこをどいてちょうだいね」と鋭い言葉が飛び交っていって、わたしはとうとう途方に暮れた。
「そろそろ就寝時間にしましょう」
子守唄によく似た音色が流れる。そろりと首を斜め上に浮かせると、テーブルの上に手を重ねて、上品な佇まいでウッドチェアに座すクエルクスがわたしたちを俯瞰していた。
「貴方たちはよい子ですから、私の言うことをお聞きになれますね」
有無を言わせぬトーンだった。隣から目立ちたがり屋なため息が聞こえる。
「拒否権ないじゃん。はいはい、黙っていい子ちゃんらしく寝てあげますよ」
「シーア、明日もぼくが暇なんてものに襲われないように、しっかりと守ってちょうだいね」
「貴方に安らかな夜を、なっちゃん」
三人は潔く立ち上がると、次々におやすみを告げて去っていく。リビングは誰も存在していないかのような静謐さに衣替えされていた。
「何だか、一気に静かになっちゃいましたね……」
あっという間の出来事に置いて行かれている。怒涛の嵐が過ぎ去ったようでもあった。
「寝室に案内しましょう。此方においでなさい」
クエルクスはふわりと腰を上げて、わたしのそばにまで歩む。椅子を引く音も、足の擦れる音も、彼が立てることはない。常に沈黙を連れ歩いているような人だった。迷いなく差し出された手のひらを、わたしは凝視する。
「また繋いでくれるんですか」
「えぇ。お望みとあらば、永遠に」
彼に手を引かれて、空を飛ぶように体が浮かぶ。足は床についたままだというのに、立ち上がった心地は地面に着地した安定感と似通っている。
その絶対的な安堵は、クエルクスがこの手を握ってくれているからこそ、かもしれない。
クエルクスと一緒に階段を上っていく。彼の歩幅は狭く、時間をかけて一段ずつ足を持ち上げる。わたしも歩くスピードは早くないから、このリズムには馴染みがあった。そのおかげか、踏板は悲鳴をあげることなく、物静かに役目を果たすことが許されている。
「此処が貴方の部屋です」
ドアノブが捻られて、室内の淡白な紹介がなされる。内装はリビングと同じく木製で、小さなパレットベッドと窓際に面した机が置かれていた。質素ではあるが、一人で過ごすには十分快適なスペースだろう。
「いいんですか?」
「心ゆくまで、お好きに使いなさい」
わたしの問いに、クエルクスは淡々と返す。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて感謝を伝える。彼は依然として無表情のままだけれど、わたしの気持ちをちゃんと受け取ってくれている気がした。
沓摺を跨いで、部屋に入る。足元にはスリッパが用意されていた。
実のところ、わたしは靴が苦手だ。靴自体がというよりも、窮屈さに囚われることへの忍耐力に欠ける。指先がきゅっと抑え込まれるあの感覚はどうにも慣れない。十ある指が一本ずつ叫び出しそうなのを、口を塞いで我慢している。
ヴィクターの城でも、皆は靴を履いていたけれど、わたしはスリッパを履いた。ヴィクターが勧めてくれたのだ。彼がどのような意図でその言動を取ったのかは分からないけれど、とてもありがたい心遣いだった。
「……靴って、自分の部屋でも履くのが普通ですよね……」
だけれど、私以外の皆がそうであったように、靴は普段から履くものだ。城にはヴィクターがいたけれど、ここにはクエルクスたちがいる。彼らが履くというのならば、わたしもその常識に倣うべきなのだ。
だって、『家族』だと言ってくれたから。
わたしの独り言のようなか細い問いかけに、クエルクスは暫く唇を閉ざしたままだ。ただでさえ会話が下手なのに、困らせるような内容を選んでしまった。
じわじわと後悔が蝕んで、後ろを振り返ることができない。その場に根が張り巡らされたかの如く立ち尽くす。
「いえ……」
背後にいた彼が、隣に寄る。スリッパに目を伏せた後、わたしに顔を向けた。
「念の為にと、用意しただけです。それに、私たちも履いていません。我が家は、そういう家です。ですから……先ほども言った通り、貴方のお好きになさい」
クエルクスの話し方は、辿々しいわけではないけれど、単語が途切れ途切れとなっていたり、おっとりとした印象を受ける。
でもそれは、彼が物事を見極めて、じっくりと伝えるべきことを選別してから、相手に届けてくれているからかもしれない。
視座が高く思慮深い人。いつ何時も冷静で静寂を纏っている。けれどわたしと同じく、話をするより聞き手に回る方が得意な人。
たまたま聞き役に向いている人間が隣り合ってしまっただけだった。
「うちはうち、よそはよそってことですね」
ただ心の内が読みにくいと決めつけるのは愚行だ。彼が発する文字の重みを、起こす行動の意味を、逃さず受け取りたい。
だから、冗談っぽく笑いかけてみる。クエルクスの灰色の瞳が、淡く揺らめいた気がした。
再度彼はわたしの手を取って、一室の中へと導く。パレットベッドに腰をかけたクエルクスの横に、わたしも座った。手は繋がれたままで、重ねられたわたしの右手と彼の左手がシーツに沈む。
「疲れたでしょう」
クエルクスが尋ねる。わたしは小首を捻った。
「あの三人は私と違い、多弁で愛嬌があって、賑やかな者ばかりです。だけれど、相手の機嫌を伺えるほどの配慮は備わっていませんので」
ため息こそ漏らさないものの、少々呆れたような口振りだった。けれどその様子は、彼が名乗ったように『父親』らしい。執拗に世話を焼くような人ではないけれど、駄目なことは駄目だと教えてくれて、きっとこれこそが理想的な父親像だろう。
「いえ、凄く楽しかったです。三人とも、不思議なくらいわたしに優しかったし……」
案じてくれている想いを無下にしないように、ゆっくりと首を横に振る。
人から好意を与えられること、そして愛されることは当たり前ではない。あの三人が家族だったとしても、それは例外ではなかった。
だけれど彼らは、わたしを大いに歓迎して、沢山の笑みを彩ってくれた。わたしもうっかり釣られてしまうくらいに。
家族だから愛してくれている、と言い切ってしまうには、何だか残り惜しい。彼らがわたしを、こんなにも愛してくれている理由は、上手く掴めなかった。
「貴方が帰ってくるのを、皆が心待ちにしていたのです」
わたしの疑問に染まった心を見透かしたように、クエルクスが一言を落とす。
「貴方も?」
何も分からないわたしは、質問してばかりだ。でも、今口をついて出た質問は、定かでないことを明確にしたくて投げかけたものではなかった。
「言うまでもない」
そう断言して、優艶に微笑む彼の顔が見たかったからだ。
いつもは悠然としたこの人が笑ってくれると嬉しい。笑ってほしいと願う。
全身になみなみと幸福が注がれていくのを感じながら、視線を窓辺に移す。そこには、水晶のように輝きを放つ月が、わたしを夜空から眼下に見下ろしている。
「綺麗ですね、月」
「そうですね」
あの煌めきには、ついうっとりとしてしまう。白に近しい黄金色は、丸く弧を描いている。甘くて酸っぱい果実の断面は、どんなときだってわたしの心を奪う。
「わたしの友達に、あの月みたいに綺麗な女の子がいるんです。わたし、彼女のことが大好き」
ラベンダーの香りを思い出しながら、三日月の少女を脳裏に浮かべた。友達、だなんて言ったら嫌がられてしまうだろうか。けれど、それもいいかもしれないと、わたしは忍び笑う。
「よい友人を持ちましたね」
クエルクスの肯定的な反応に、わたしは意気揚々と彼に向き合って、莞爾と笑みながら頷いた。好きな人を褒められることが喜ばしい。それが彼からなら、尚更だった。
わたしと入れ替わるように、クエルクスが月を見上げた。すらりと樹木みたいに大きな彼には、見上げたというよりも、相対したという表現の方が正しいかもしれない。
月光を浴びた彼の横顔が、頭に飾られたヴェール越しに青白く色めく。古代ギリシアの神々のように、穢れのない真っ白なキトンが美しい。風通しのよさそうな衣服から覗く素肌もまた、彫像と見間違えるほどに色白だ。
「月が空を支配することはありません。貴方の元に、夜明けは必ず訪れる。次の日も、そのまた次の日も。この景色は、明日も見れますよ。私も、そばにいます。ですから安心して、ゆっくりお眠りなさい」
するりと手を離して立ち上がると、彼はカーテンを閉めた。か弱く、布が破れてしまうことを心配しているみたいに。
「おやすみなさい、愛しい我が子。どうかよい夢を」
クエルクスは最後にそう囁くと、わたしの額に口付けをして、音もなく部屋を出て行った。
ガチャリと扉が開かれていく。わたしはその先にある景色に、ほんの少し期待を膨らませながら、胸元で両手を握る。どくどくと鳴り響く心臓の音は、残り時間を数えているようだった。瞬きだと誤魔化して目を瞑る。それから、やや焦り気味に息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。上がっていた肩を下げて、再度呼吸をすると同時に、わたしは瞼を起こした。
「え」
間抜けな声が漏れる。わたしはいつも気が抜けているけれど、この瞬間に勝るものはなかったと思う。
だってそれは、わたしの真ん前で、見知らぬ女性と少女が口付けを交わしていたのだから。
「あら?」
「ぷはー」
わたしは目の前の状況を把握しようとしたけれど、すぐさま視界が白で隠された。クエルクスの背中だった。
「……ルパロセラ、ペレンニス。そのようにふしだらな行為を、扉の前でする者がいますか」
「すまんすまんクエルン、腹ぺこだったもんで。ペペちゃんとのちゅ〜は欠かせないんだ」
謝罪を述べるには軽々しい声色は、わたしよりも随分幼く聞こえる。クエルクスをあだ名で呼んでいたりと、相当肝の据わった人物らしい。もしくは、ただ単にお気楽なだけかもしれない。
そんな少女に「全く」と小さく呟くクエルクスだったけれど、不満を曝すような真似はせず、大人らしい対応が身についているようだった。
その後、彼はゆらりとこちらを見返る。わたしはこっそりと頷いて、クエルクスの隣に並ぼうとした。
「おい、このボクに何回叫ばせる気だ? とっとと手伝えって言ってるだろ!」
少年の裏返った怒声がはっきりと耳の奥にまで届く。フローリングに穴が空いてしまうほどの足踏みを叩きつけながら、その人物は俊敏にやってきた。
「嫌だわ、もう。耳障りな声でぼくに指図しないで、ラセルティリア」
また知らない人の声だ。多分、最初に見た女性だろう。伸びやかな低音から奏でられる嫌味は爽快でもあった。
「ここには食い意地しかないチビと自分のことしか頭にない自惚れ屋しかいないのか? おまけに鈍間すぎるおじさんときた。そんなヤツらのために、ボクは飯を作ってると! はっ、冗談じゃないな、こんなくだらないこと今にやめてやる」
「気の毒ね、自分ことしか頭にない小童が拗ねているのだわ。申し訳程度の哀れみを差し上げるべきかしら」
一つの文句を与えれば倍になった毒が返ってきて、そんな口論の繰り返しだった。周囲の様子を確認したくても、クエルクスとわたしの背丈は離れすぎている。気まずさが背筋をなぞって、段々と居た堪れない気持ちに急かされた。どうにかしなければと、わたしは足を前へ踏み出そうとする。
けれど、その動作は自然と止まった。クエルクスから、息が落とされたから。それはため息ではなく、本当にただの呼吸音。
「お静かになさい」
その生命活動から一拍置いて告げられた言葉は、優しい忠言などではなく、紛うことなき命令であった。
ドアは閉められているはずなのに、背後から追い抜くような風がぶわりと体を通り過ぎていく。びっくりして、反射的に彼の背中に掴まってしまう。だけれどクエルクスは、わたしを跳ね除けたりはしなかった。
「只今帰りました」
一瞬にして騒がしさの失われた空間で、さも何事もなかったというふうに彼は仕切り直す。続いて後ろを振り向くと、わたしの肩を抱いて横に配置させた。
「こんにちは……」
ようやく映った景色に、わたしは緊張を隠せず終いで、結局小声で挨拶を送る。
赤髪の縦巻きロールが似合う、蝶のように軽やかな少女がルパロセラ。長い紫髪を潤ませた、花のように麗しい女性がペレンニス。跳ねた銀髪の襟足を、トカゲのしっぽのように伸ばしている少年がラセルティリア。
一人一人の特徴と名前を一致させながら、心の中で順番に確かめていく。
「サナちゃん」
最後に瞳を見交わした少年ラセルティリアが、ふとわたしの名前を零す。だけれど、彼から零されたのは、わたしの名前だけではない。
ガタンと、ラセルティリアの手からお玉が落っこちて、床に弾んだ。一度宙に浮かんで、そのまま転がっていく。でも、それを拾う者はいなかった。
突如、前から体重がのしかかって、わたしは思わずそれを包む。見下ろした先には、一人の少年がいた。
「遅いよ……。飯、作りすぎちゃったじゃないか……」
ぎゅうっと、大切なぬいぐるみを抱きしめる子供のように、ラセルティリアがわたしを離さなかった。彼はわたしの胸に顔を埋めて、幼い声を震わせている。
「待ちくたびれて、退屈ばかりしていたわ。きみがいなかったからよ、分かる?」
彼の後をついてくるように、ペレンニスとルパロセラもやってくる。
勿体ぶるみたいに首を傾げるペレンニスの素振りは、我儘で寂しげな少女にそっくりだった。わたしの髪を触る手つきは、繊細で慈しみが滲んでいるようでもある。
三人が集うと、クエルクスはわたしを真ん中に挟んで、その長い腕で囲むように皆を抱きしめた。
「わは、あったかいなぁ」
吹き出すように笑ったルパロセラの肩が揺れる。微かな振動でさえも伝わる距離に、彼女たちはいた。
人と触れ合う温度は、こんなにもあたたかかっただろうか。
心臓の端にこびりついた氷柱が溶けて、しとしとと雫が滴っていく。冷え切った奥底にこの熱が行き渡るのは、きっとわたしが想像するよりも瞬く間なのだろうと思った。
「おじさんは触るな、気持ち悪い」
「今だけは許してあげるのだわ、特別よ」
しっしと手を払うラセルティリアと機嫌のよさそうなペレンニスに、クエルクスは雷を落とすようなこともなく、更に抱きしめる力を強める。
「我儘も結構。ですが私たちは、この子に伝えなければならないことがあるでしょう」
クエルクスの発言に、一同は彼に視線を集めると、頼もしい表情を揃えて首を縦に振る。
ラセルティリアはわたしの手を精一杯に握り、ペレンニスは嫋やかに腕を組む。ルパロセラはもう片方の腕にこてんと頭を預けて、後ろからクエルクスがわたしの両肩にそっと手を乗せた。
「おかえりなさい」
体感で味わう温度よりもいっそう温もりに溢れた愛情が、わたしのためだけに伝わってくる。
そんなプレゼントを貰っても、何と返せばいいのかと迷うわたしに、彼らはただ柔らかな眼差しを与えてくれるのだった。
◆◆◆
「アンタたちはサナちゃんと一緒に風呂に入った。じゃあ、その後の時間はボクに譲られるべきだ、絶対にな」
「いいえ? シーアはセティよりもぼくと過ごしたいに決まっているのだわ」
花柄のカーペットに座り込むわたしの両腕が引っ張られる。左腕はペレンニス、右腕はラセルティリアが独占しており、膝の上ではルパロセラが寝息を立てていた。見ての通り、自由に身動きが取れない。
ラセルティリア特製の晩食を頂いてから、されるがままにペレンニスとルパロセラに連れられてお風呂に入り、今はリビングでくつろいでいる……のだと思う。
木材で建築された家の中はほっとするような雰囲気で満ちており、ナチュラルな木の質感にはどことなく懐かしさを覚える。天井を仰ぐと、地層のように、あるいは緩やかな波のような木目が描かれていた。
相変わらずラセルティリアは怒っているし、ペレンニスはマイペースだけれど、この場所自体は奥深い森林の如く、のんびりとしているのだった。
視線を戻して、出来る限りのことはしようと二人の喧嘩を仲裁を試みる。ミラージェンとアリスの場合だと、かなり一方的なやり取りだったけれど、ラセルティリアとペレンニスの場合は両者とも譲らない。
如何にも不憫そうに微笑を湛えるペレンニスに、ラセルティリアは「気に食わない態度を改めろ」と眉を顰めながら彼女に指を指していた。彼の腕がピシッと伸ばされて、袖口のフリルが百合の花みたいに揺れる。
暴君のような言い回しが特徴的なラセルティリアだけれど、彼の装いはどれも気品がある。さながら貴族のお坊ちゃんだ。それは他の人たちも同じで、ペレンニスは幻想文学に登場する騎士のようだし、綿雲で作られたようなワンピースを纏うルパロセラも、花畑で過ごす小さな妖精みたいだった。
「こういう服、好きだっただろ?」
ひょいと顔を覗き込ませながら、ラセルティリアが襟元のリボンを見せつける。わたしの目線に気がついて、声をかけてくれたようだ。自慢げに口角を上げる彼の姿こそ微笑ましいものの、少々発言に引っかかる。
わたしは、こういう服が好きだったのだろうか。フリルや装飾が沢山施されたような、豪華で可愛らしい服が。
「でも、だからといってセティが着る必要はないんじゃ……?」
それはそれとして、と思考を切り替える。仮にわたしが好きだったとしても、ラセルティリアが着ることはない。料理中も堂々とフリルエプロンを着ていたけれど、彼が好むような服装でないことはたしかだ。もしわたしのせいで無理をさせてしまっているのなら申し訳ない。
「? ボクはサナちゃんのお兄ちゃんだぞ」
だけれど、ラセルティリアはあっけらかんとしていた。いつものキビキビとした口調がほんのり和らぐ。そんな彼の反応に、わたしは何を返すことが正解か分からず、適当な相槌しか打てなかった。
三人はそれぞれわたしに「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ぶように命じた。
明らかに歳下であろうラセルティリアやルパロセラのことを兄姉扱いするのは、冗談だとしても気が進まない。けれども、二人は当たり前のことのように指示してくるものだから、恰もわたしだけが間違った主張をしているみたいだった。最終的にはあだ名で呼ぶことを約束して、無理矢理ながらも納得してもらったのだ。
唯一クエルクスはわたしに呼び名を強制することはなかったけれど、彼をどう呼べばいいのかとちょっとだけ思い悩んだ。ただ、何となく呼び捨てがしっくりときてしまって、失礼を承知で尋ねたところ、あっさりと許可が下りた。驚くわたしにクエルクスは何も言わず、灰色の眼にわたしを映すだけ。
そういえば、彼がわたしの名を呼ばないことに勘付いたのも、あの時だった気がする。
「可愛いという存在を求めているのなら、この可愛いペペお姉様で十分でしょ。彼はちょっと……余分じゃない?」
「アンタ、自分に陶酔するのもいい加減にしろ」
再び始まった言い争いに、わたしは首を突っ込むのを控えた。恐らく堂々巡りだろう。
ふぅ、と一息をつく。すると、膝下がかたかたと、小刻みに揺れるのを感じた。
「あ……起きていたの? セラ」
「ふっふっふ。自分は寝るのも寝たふりも得意なんだ」
おぼこい横顔がころりと転がって、わたしを見上げる。実際寝ていたのか寝ていなかったのかは定かでないけれど、ルパロセラは愉快そうに笑っていた。
彼女はのびのびと欠伸をしてから、おかわりといわんばかりにもう一度口を広げる。
「なっちゃんは人気者だな」
「そんなことはないと思うけれど」
「無自覚か? そりゃモテモテなわけだ。じゃあ、今のうちにねーちゃんが独占しちゃうかー」
無気力に掲げられた腕に首を絡め取られ、ルパロセラは耳元に近づくと面白可笑しそうに囁いた。それから即座に「離れろ」「そこをどいてちょうだいね」と鋭い言葉が飛び交っていって、わたしはとうとう途方に暮れた。
「そろそろ就寝時間にしましょう」
子守唄によく似た音色が流れる。そろりと首を斜め上に浮かせると、テーブルの上に手を重ねて、上品な佇まいでウッドチェアに座すクエルクスがわたしたちを俯瞰していた。
「貴方たちはよい子ですから、私の言うことをお聞きになれますね」
有無を言わせぬトーンだった。隣から目立ちたがり屋なため息が聞こえる。
「拒否権ないじゃん。はいはい、黙っていい子ちゃんらしく寝てあげますよ」
「シーア、明日もぼくが暇なんてものに襲われないように、しっかりと守ってちょうだいね」
「貴方に安らかな夜を、なっちゃん」
三人は潔く立ち上がると、次々におやすみを告げて去っていく。リビングは誰も存在していないかのような静謐さに衣替えされていた。
「何だか、一気に静かになっちゃいましたね……」
あっという間の出来事に置いて行かれている。怒涛の嵐が過ぎ去ったようでもあった。
「寝室に案内しましょう。此方においでなさい」
クエルクスはふわりと腰を上げて、わたしのそばにまで歩む。椅子を引く音も、足の擦れる音も、彼が立てることはない。常に沈黙を連れ歩いているような人だった。迷いなく差し出された手のひらを、わたしは凝視する。
「また繋いでくれるんですか」
「えぇ。お望みとあらば、永遠に」
彼に手を引かれて、空を飛ぶように体が浮かぶ。足は床についたままだというのに、立ち上がった心地は地面に着地した安定感と似通っている。
その絶対的な安堵は、クエルクスがこの手を握ってくれているからこそ、かもしれない。
クエルクスと一緒に階段を上っていく。彼の歩幅は狭く、時間をかけて一段ずつ足を持ち上げる。わたしも歩くスピードは早くないから、このリズムには馴染みがあった。そのおかげか、踏板は悲鳴をあげることなく、物静かに役目を果たすことが許されている。
「此処が貴方の部屋です」
ドアノブが捻られて、室内の淡白な紹介がなされる。内装はリビングと同じく木製で、小さなパレットベッドと窓際に面した机が置かれていた。質素ではあるが、一人で過ごすには十分快適なスペースだろう。
「いいんですか?」
「心ゆくまで、お好きに使いなさい」
わたしの問いに、クエルクスは淡々と返す。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて感謝を伝える。彼は依然として無表情のままだけれど、わたしの気持ちをちゃんと受け取ってくれている気がした。
沓摺を跨いで、部屋に入る。足元にはスリッパが用意されていた。
実のところ、わたしは靴が苦手だ。靴自体がというよりも、窮屈さに囚われることへの忍耐力に欠ける。指先がきゅっと抑え込まれるあの感覚はどうにも慣れない。十ある指が一本ずつ叫び出しそうなのを、口を塞いで我慢している。
ヴィクターの城でも、皆は靴を履いていたけれど、わたしはスリッパを履いた。ヴィクターが勧めてくれたのだ。彼がどのような意図でその言動を取ったのかは分からないけれど、とてもありがたい心遣いだった。
「……靴って、自分の部屋でも履くのが普通ですよね……」
だけれど、私以外の皆がそうであったように、靴は普段から履くものだ。城にはヴィクターがいたけれど、ここにはクエルクスたちがいる。彼らが履くというのならば、わたしもその常識に倣うべきなのだ。
だって、『家族』だと言ってくれたから。
わたしの独り言のようなか細い問いかけに、クエルクスは暫く唇を閉ざしたままだ。ただでさえ会話が下手なのに、困らせるような内容を選んでしまった。
じわじわと後悔が蝕んで、後ろを振り返ることができない。その場に根が張り巡らされたかの如く立ち尽くす。
「いえ……」
背後にいた彼が、隣に寄る。スリッパに目を伏せた後、わたしに顔を向けた。
「念の為にと、用意しただけです。それに、私たちも履いていません。我が家は、そういう家です。ですから……先ほども言った通り、貴方のお好きになさい」
クエルクスの話し方は、辿々しいわけではないけれど、単語が途切れ途切れとなっていたり、おっとりとした印象を受ける。
でもそれは、彼が物事を見極めて、じっくりと伝えるべきことを選別してから、相手に届けてくれているからかもしれない。
視座が高く思慮深い人。いつ何時も冷静で静寂を纏っている。けれどわたしと同じく、話をするより聞き手に回る方が得意な人。
たまたま聞き役に向いている人間が隣り合ってしまっただけだった。
「うちはうち、よそはよそってことですね」
ただ心の内が読みにくいと決めつけるのは愚行だ。彼が発する文字の重みを、起こす行動の意味を、逃さず受け取りたい。
だから、冗談っぽく笑いかけてみる。クエルクスの灰色の瞳が、淡く揺らめいた気がした。
再度彼はわたしの手を取って、一室の中へと導く。パレットベッドに腰をかけたクエルクスの横に、わたしも座った。手は繋がれたままで、重ねられたわたしの右手と彼の左手がシーツに沈む。
「疲れたでしょう」
クエルクスが尋ねる。わたしは小首を捻った。
「あの三人は私と違い、多弁で愛嬌があって、賑やかな者ばかりです。だけれど、相手の機嫌を伺えるほどの配慮は備わっていませんので」
ため息こそ漏らさないものの、少々呆れたような口振りだった。けれどその様子は、彼が名乗ったように『父親』らしい。執拗に世話を焼くような人ではないけれど、駄目なことは駄目だと教えてくれて、きっとこれこそが理想的な父親像だろう。
「いえ、凄く楽しかったです。三人とも、不思議なくらいわたしに優しかったし……」
案じてくれている想いを無下にしないように、ゆっくりと首を横に振る。
人から好意を与えられること、そして愛されることは当たり前ではない。あの三人が家族だったとしても、それは例外ではなかった。
だけれど彼らは、わたしを大いに歓迎して、沢山の笑みを彩ってくれた。わたしもうっかり釣られてしまうくらいに。
家族だから愛してくれている、と言い切ってしまうには、何だか残り惜しい。彼らがわたしを、こんなにも愛してくれている理由は、上手く掴めなかった。
「貴方が帰ってくるのを、皆が心待ちにしていたのです」
わたしの疑問に染まった心を見透かしたように、クエルクスが一言を落とす。
「貴方も?」
何も分からないわたしは、質問してばかりだ。でも、今口をついて出た質問は、定かでないことを明確にしたくて投げかけたものではなかった。
「言うまでもない」
そう断言して、優艶に微笑む彼の顔が見たかったからだ。
いつもは悠然としたこの人が笑ってくれると嬉しい。笑ってほしいと願う。
全身になみなみと幸福が注がれていくのを感じながら、視線を窓辺に移す。そこには、水晶のように輝きを放つ月が、わたしを夜空から眼下に見下ろしている。
「綺麗ですね、月」
「そうですね」
あの煌めきには、ついうっとりとしてしまう。白に近しい黄金色は、丸く弧を描いている。甘くて酸っぱい果実の断面は、どんなときだってわたしの心を奪う。
「わたしの友達に、あの月みたいに綺麗な女の子がいるんです。わたし、彼女のことが大好き」
ラベンダーの香りを思い出しながら、三日月の少女を脳裏に浮かべた。友達、だなんて言ったら嫌がられてしまうだろうか。けれど、それもいいかもしれないと、わたしは忍び笑う。
「よい友人を持ちましたね」
クエルクスの肯定的な反応に、わたしは意気揚々と彼に向き合って、莞爾と笑みながら頷いた。好きな人を褒められることが喜ばしい。それが彼からなら、尚更だった。
わたしと入れ替わるように、クエルクスが月を見上げた。すらりと樹木みたいに大きな彼には、見上げたというよりも、相対したという表現の方が正しいかもしれない。
月光を浴びた彼の横顔が、頭に飾られたヴェール越しに青白く色めく。古代ギリシアの神々のように、穢れのない真っ白なキトンが美しい。風通しのよさそうな衣服から覗く素肌もまた、彫像と見間違えるほどに色白だ。
「月が空を支配することはありません。貴方の元に、夜明けは必ず訪れる。次の日も、そのまた次の日も。この景色は、明日も見れますよ。私も、そばにいます。ですから安心して、ゆっくりお眠りなさい」
するりと手を離して立ち上がると、彼はカーテンを閉めた。か弱く、布が破れてしまうことを心配しているみたいに。
「おやすみなさい、愛しい我が子。どうかよい夢を」
クエルクスは最後にそう囁くと、わたしの額に口付けをして、音もなく部屋を出て行った。