Chapter1:Welcome to the White Garden

9 この箱庭を壊すため


 この想いは、我が身が朽ち果てぬ限り消えないだろう。
 想いなどと澄んだ言葉で表すのも禍々しいこの感情が土に埋もれないのなら、いっそのこと眼なんてくり抜いてしまえばいい。そうすれば、嫌でもあの子の姿を映さずに済む。
 だけれど、己の脳裏に絶え間なく浮かぶのは、いつだってあの子だった。
 小さな口を不慣れに広げて笑う顔、機嫌を損ねて頬を膨れさせた横顔、寝息を立てて微かに動く後ろ顔。
 ぼろぼろと、純潔さを瞳から零したような、痛ましい泣き顔。
 そのどれもが、己の脳や眼球、指先から足先、そして心の臓にまで刻まれている。
 遣る瀬の無い事実だった。もはやもぬけの殻にでもならなければ、抱いた感情の全てを葬り去ることはできないだろう。
 ため息すら、吐き出せるほどの余裕はなかった。浅く呼吸をする。それから暫し落としていた視線を、ゆっくりと床から戻した。ソファの背面に体が密着することはなく、拳一つ分のスペースを空けたまま、前のめりな姿勢で真向かいに目を注ぐ。
 仄かな暗闇に包まれたそこには、あの子がたった一人で座っている。その見慣れた背中に触れようとして、すぐに手を下げた。手首を切るほどの勢いだったに違いない。そうでなければならない。
 手に携えた手帳に縋る。真紅色の表紙は何も語らない。そんなことは分かりきっていた。
 馬鹿馬鹿しいことを。
 普段通り、コートの内ポケットに忍ばせる。少々太い己の眉頭を指で押さえて、皺の寄った眉間を和らげることに意識を置く。項垂れそうになった頭は、ゆらりと横へ傾いていった。まるで、解けることのない糸に導かれるように。
 起き上がって、其方へと歩んでいく。行く宛などない。だが、己に帰るべき場所があるとするのなら、恐らく此処・・なのだ。無音に聳り立つ壁に、手を伸ばした。ぴとりと、雨粒が湖に滴るように、手のひらが触れ合う。
 ――その瞬間、向こう側から、小さな心音のような気配を感じた。己に、戸惑う隙は与えられない。何者かの存在を感知すると、この手は咄嗟に壁を突き抜けて、鼓動の主である人物の手を引っ張っていた。


◆◆◆


 落ちた。後ろにかっくりと、吸い込まれるように。丸裸な背中の心地が恐ろしい。ベッドに横たわってばかりであった私を受け止めてくれるものが、何処にもない。地面に到着せず、このまま永遠に落下し続けるのかもしれなかった。
 私を突き落としたのは誰? この穴を空けたのは誰? この身を抱きしめてくれるのは、

「誰」

 臓器が無造作に切り刻まれて、口から血が溢れるように出た問い。色がつかなければ、赤色でなければ、それは血ではない。血は必ず魅惑的な赤で染まらなければならない。だが、私から落とされた音は透明な色をしている。
 当然のことだが、言葉に視覚的な情報としての彩りは授けられていない。幾ら私が純白を証明したり、真っ赤な残酷さを訴えたとて、それらは無色なのだ。そもそも意味もなければ、容易く塗り替えられることだって考えられる。
 だから、この問いかけも無意味なのだ。選択権のない私に、必要のないもの。あの小部屋であの子を待ち続ける私に、与えられないもの。

「誰なの……」

 両手で腹部を抱える。暗黒がムカデの如く腹の中を這ったような不快と恐怖がやってきた。これには、耐えられない。
 左手は、私の思った通りに行動した。ところが、右手は命令を聞かなかった。無くしてしまったのではと一瞬だけ想像したが、己の手が何者かに握られていたことを感じ取っていく。私はすぐさま、背後に振り返ろうとする。だがそれよりも先に、私は後ろへと引っ張られていった。

「ザレンダ」

 男の低音が丁寧に発音される。私はそこでようやく、見返ることを許された。男の声は私の頭上よりも、遥かに高い位置から発されたものだったため、ぐいっと顎を上げて顔を確かめてみる。
 彼は、真っ黒な男だった。長く伸びた髪も、鋭い瞳も、大きな上着も、漆黒の色合いで統一されている。私と似ていた。唯一、髪の内側に潜んだ真紅色だけは、私の持たぬものだった。

「貴方の名は」

 男――ザレンダといったか――は瞬きもせず、ただじっと私を見つめる。光のないその瞳すらも、哀れなほどに私と揃っていた。

「ユゼ」

 あの子が呼んだ名を答える。私の大切なものだ。

「ユゼさん」

 ザレンダは私の名を確認するように呼び、やっと瞼を開閉させた。だが、彼が何を考えているのか全く分からない。そういった表情をしている。私が相手をしていたのは、思ったことをそのまま顔に浮かべては、心情のままに会話を紡ぐあの子だけだ。それゆえ、この男はやりづらい。
 私が数秒間の沈黙に堪えたのち、ザレンダは僅かに屈んでいた姿勢を正した。覆うような影が私から離れていく。彼が何処かに、行ってしまう気がした。
 手を繋ぐのも離すのも、人の勝手だ。……だが、今は都合が悪い。あまりにも。
 苦々しい後悔がのしかかってくると察しながら、私は頭を地に下げては右手の力を強めようとする。その必要がなかったとはつゆ知らず。
 彼は私の手を握ったまま、そっと腹部を包んだ。左手は先ほどから腹を抱えたままで、とうとう私は己を囲ってやることができた。皮膚が震えて、段々とあたたかみを帯びていく。私の右手に添えられただけの逞しい彼の腕が、どうやら命綱のようだった。
 抱きとめてくれてありがとうだなんて言ったら、可笑しな奴だと見捨てられてしまうだろうか。

「此方へ」

 ぎゅっと私の手を掴むと、彼は踵を返して歩き始めた。急に向きを変えたので、私の体もぐるりと反対に回る。
 髪を結った黄色いリボンが宙に舞う。ふわりと、軽やかに。普段なら邪魔くさいと跳ね除けていた紐の靡きは、さながら始まりを告げる鐘のようだった。
 ザレンダは迷わずくっきりと足跡を刻む。私もその印を道標として、己の足裏で上書きしていく。とはいえ、恐らくここを踏んだのであろうという地点を予測しているだけなのだが。
 彼の羽織る上着の着丈はやけに長く、それも地面を引き摺るほどだ。おまけに服の上には、同じ程度に伸びた髪が被さっている。気にかけることなくずるずると放置していく様は、堅苦しそうな男とは合致しない素振りであった。
 彼の足跡を探ろうと床を観察していくごとに、それらは闇色に隠されていく。砂浜に描いた落書きが波に攫われていくようだ。うかうかしていると己の足すら掬われてしまいそうで、私は次第に歩くことが億劫になっていく。だが、私の内心など知る由もない彼は、立ち止まったりしない。
 言うか言わないか、そんな選択肢を口内で生成しては噛み砕く。言ったところでなんだ? この男が私のために立ち止まってくれるというのか。でも、万が一彼のコートや髪を踏んでしまったらどうする? そのときはやはり、この手を払われてしまうのではないのか。
 たった今繋がれた安寧を、私は信用することができない。惨めで愚かしいにも程があった。恥ずかしくて、一層顔が底へと沈んでいく。
 自分勝手に参ったのと同時に、気が緩んだ。ザレンダの上着の端を踏んでしまった。秘めた本音が罰を下されたようにバラされて、生きた感触が失われていく。彼は間髪を入れずこちらを顧みた。

「すまない。早かっただろうか」

 たとえば、教師が本の内容を読み上げるような。それは平行線みたいに淡々とした声色。だが、まっすぐに引かれた線の先にある言の葉は、誠実さをこれでもかと物語っている。
 疑心暗鬼な人間は、我儘だ。私は誰も信じることができないのではなく、己を信じることができない。相手に心を委ねたいと願うくせに、肝心な自分自身を裏切っているばかりで、責任転嫁がご立派にも癖になってしまった。

「いいや、それはいい。だが、お前の髪やら服やらを踏みそうで冷や冷やする」

 苦笑いを漏らしたが、それも束の間。私はザレンダを見つめて、やれやれと不満を伝えた。彼はオーバーコートがずり落ちないよう丁重に持ち上げてから、己の毛先を辿るように眺めている。

「貴方、靴は」

 ふと、何かに気づいたのか、ザレンダが問いただす。下方を探るうちに、私の足元が目についたのだろう。

「靴など不要だ。どうせ何処にも行けやしない」

 この男がするには、くだらない質問だと思った。極めて無駄な話題だ。
 そのせいか、私の返答は塵を道端に放るように冷たくなる。焦慮を伏せたくて、足の指先が丸く力んでいった。

「そんなことはない」

 それでも彼は、生じた疑問を取り下げなかった。
 否定を断定できるほど、お前に私の何が分かるのだと叫びたくなる。
 しかし、その抗言は咀嚼も忘れて、ただなだらかに嚥下していく。胃袋への収まり具合は、満更でもなかった。

「生憎、貴方の分の靴はない」

 ザレンダは自身の靴と私の足を見比べながら述べる。相変わらず大きな身を羽織に包ませているので、どのようなものを履いているかは不明だが、彼なりの悩む仕草であったことは十二分に理解していた。
 ぱっと面を起こすと、ザレンダは私に近づく。続いて手を離した。

「少し失礼」

 短く呟いて、私の脇下に手を置く。自然な動作と、泰然とした態度で。彼の様子に謎を浮かべたのも瞬く間で、私は浮遊感を味わわせられた。悲鳴が出そうになったのをどうにか抑える。

「これで問題ないだろう」

 私を縦向きに抱き上げて勝手に納得している彼に、何と声をかけてやろうかと悩んだ。気遣いを知らない子供のフリをするのならば、罵声をぶつけてやってもよかった。
 だが、もはやそんな情緒も乏しくなっている。私を支える手つきは、とても優しいものだった。

「……落とすなよ」

 ため息と一緒に吐き出された私の肯定に、ザレンダは頷く。すると再び、歩を進めていくのだった。
 先程は彼の後ろ姿についていくばかりで、周囲の景観を目にし損ねていたと気づく。改めて、私は辺りを見渡した。
 空間自体は白色で染まっており、窓や扉もなく、あのベッドルームと同様閉鎖的だ。だけれど、こちらの方が些か息がしやすいように感じる。漂う空気には何故だか温もりが混じっているようで、不思議とその籠った湿度に嫌悪感はなかった。
 そして、私たちを間に挟んで直視するかの如く、両隣にはずらりと本棚が並んでいる。木板が五段積み重なった棚には、それぞれ書物がびっしりと嵌め込まれていて、見るからに呼吸がしづらそうだ。
 膨大な量の物語や知識が込められた書を詰めた本棚は、歩いても歩いても途切れることはない。私たちの真隣に、必ず立っている。まるで、監視でもしているかのように。
 途端に瞳を逸らす。私の耳には、ザレンダの重い足音だけが響いていた。カツカツと、急ぎ足ながらもリズムに乱れはなく、冷静な落ち着きが窺える。私はこっそりと一息をつくと、彼を見上げた。
 前髪が左目を見え隠れさせているが、随分整った容姿だ。鼻が高くて、眉頭が少しだけ太い。男らしい印象を受けるが、荒っぽさは無に等しかった。
 彼の風貌は奇妙なくらい、私の眼に素早く馴染む。それがどのような要因からなのか、私には分からなかった。
 凝らすように見つめていると、視線を察知したのか、彼もまた私を見下ろす。

「降そう」

 どうやら目的地に着いたらしい。平気かと尋ねるザレンダに当たり前だと返して、私はすっかり自由の身になった。つるりとした感触が足底にくっつく。
 彼は私の前を通り過ぎて、左側に佇んだ本棚へ左の手のひらを翳した。すると、木箱は奥へと後退り、流れるように右方向へスライドしていく。ザレンダは開けた道に一歩を踏み出して、私を見返りながら手招きをした。
 彼が命じたのであって、私が選んだわけではない。
 そう心の中で唱えて、私もその先へと進んだ。
 広々とした雪色の中に、ぽつんとソファが置かれている。大人なら三人分、子供ならその倍は座れそうな大きさだ。
 ザレンダは静かに腰を下ろし、私を隣に招いた。初対面の相手の真横に座るのも如何なものかと迷った末、一人分の空白を開けて慎重に体重を乗せる。ふかふかとした生地が身を沈めていくので、だらしのない有様にならないよう浅く座り直した。

「ザレンダといったな。まさか由もなく私を連れ出したわけじゃないだろう。訳を話してもらおうか」

 足と手を組んで、彼に尋ねる。顔は合わせていない。互いの視線は正面に囚われたままだ。私たちには、これくらいが丁度よい気がしたのだった。
 それに、私が目線を変えないのは、最もたる理由がある。目の前に浮遊する巨大な横長の長方形に、注目せざるを得なかったからだ。
 その四角形は、見かけのみだと中央に留め金具のついたブリーフケースに近い。だが、革ではなく木によって組み立てられており、フラップの被さった上半分と異なって、下半分の真ん中には縦に線が切り込まれている。

「ユゼさん。貴方は全く訳の分からぬ話だと、一笑に付すかもしれない。実際のところ、そのような反応こそが正しいだろう。俺は貴方がどのような態度をなさっても気にしない」

 ザレンダが語る。夢想家の抽象的な詩を読んでいるようだったが、彼の言葉はどれも現実的だ。あの子と違って、童話なんて夢物語は生み出せないだろう。

「この世には、訳の分からぬことだらけだろう。私の存在こそがまさにそれだ」

 珍しく、己の考えに揺らぎがなかった。
 あの子の夢の中で生きる私を超えるほどの何かがあるのだろうか。たとえあったとしても、それは大したことではない。
 世界には未知や謎など、解明しようのないものでありふれている。その曖昧な存在を美しいと讃えるのも、不可解で悍ましいと恐怖するのも、そもそも存在すらしないと嘲笑うのも、またそれぞれだろう。

「遠回りな親切心なのか、私を侮っているのか、天秤にかけたらどちらが勝つというのだ?」

 それゆえ、彼が私をどう受け取るかも、また自由意志なのだ。私を試したわけではないことくらい、初めから知っている。
 ザレンダは身動きを取らず、静止したままだった。だが、無言を破るのもまた彼だ。

「どちらでもない。貴方には不要な前置きだったようだ。……不安などで呼び起こした忠告のつもりではなかった。寧ろ、安心感を抱いていたらしい」

 彼を、横目で盗み見る。本当、妙なほどに平静で、どこか馬鹿馬鹿しく。それは私もだった。
 それでも尚、彼のヒヤシンスのような黒と私の暁みたいな青は混ざり合わない。

「では、共にご覧いただこう」

 ぱん、と手が鳴り、乾いた音がはたとやむ。だが、その音色を聞き逃さないものが動き出し、正体を露わにしていく。
 真正面に浮かんでいた四角形の金具が外されて、フラップのような蓋が開けられる。切り込み線は扉が開かれる如く、両開きとなって中身を曝け出していった。
 広大な木枠に収められた光景に、私は開いた口が塞がらず、知らず識らずのうちに立ち上がってしまう。
 美しさだけを飾り立てた薔薇園。太陽光の注がぬフラワーアーチ。深海の奥に秘められたアクアリウム。煌びやかで壮麗な城。穏やかな草原に建つ一軒家。
 見たこともない夢のような場所が、紙芝居みたいにスライドしていく。私が最後に目にしたのは、薄暗く狭いシアターだった。

「ミラージェン……!」

 あの子がいた。私の愛する、純真なあの子が!
 大急ぎに駆け寄って、息を切らしながら画面を見上げる。手を伸ばしても、きっと届かない。だから、そんな馬鹿な真似はしない。ほんの少しだけ、爪先を伸ばすだけだ。
 そこに映っているのは、間違いなくあの子だろう。だが、闇に包まれているせいでよく見えなかった。目を皿のようにして、彼女の状態を探り回る。
 すると、一つの影がゆらゆらと現れた。その影は、あの子ではない。もう一人の人間がやってきたのだ。
 胸騒ぎがする。不吉な予感だった。
 そいつは徐々にあの子の元まで近づき、目の前にまで辿り着くと背を縮める。恐らく屈んだのだろうが、そいつがあの子に何をしているのかは分からない。歯痒い思いを握り潰すよう、渇望しきった劇を熟視した。

「俺は此処で彼らを観測している」

 ザレンダが隣に立っていた。過敏な私が気づかぬくらいに、彼の足音が密やかなものなのか、それとも焦りに駆られていたのか。答えなど疾うに分かりきっているだろうに。

「何のために」

 私は彼に問う。正々堂々と向き合って。ザレンダのことを知りたいわけではない。私は答えを欲しているのだ。
 彼は四角の中に描かれたワンシーンを、ただ無心に眺めているようだったが、その横顔はそこはかとなく切なさが滲んでいるようで。
 だけれど私が困惑する余地を与えず、ザレンダはこちらを見据える。そして、その口を開いた。

「この箱庭を壊すため」

 感情の起伏も見せず、粛々と彼が発したものは、滅びの声明にしてはうら寂しい調べだった。
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