第一章「死神の館」

第五話『ひたむきな願い』


 不慣れなスリッパが床に引っ掛からないように、ライムントは館を立ち回る。手洗いを済まして部屋に戻ろうと、通ってきた道をそのまま辿りながら、今日起こった出来事を薄暗い中思い出す。
 自分でも信じられないが、人生で初めて盗みを犯した。幼少期から異様な正義感が染み付く自分が、だ。ライムントは誰かを傷つけたりすることが大嫌いだ。だが、それをしてしまった。ましてや自分よりも幼いルシアス相手にだ。ルシアスはカッとなりやすいが、無駄に己を責めるような発言はしなかった。だからこそ、ライムントは非行を悔悟している。
 盗みをしようだなんて、考えるはずもなかった。理由もあやふやで、あんな訳の分からない答えを飲み込んだルシアスたちは本当に情け深い。気が動転していた、今になってこの言葉にしっくりと納得した。

「もう何年も前なのにな」

 誰かに話しかけるように、独り言をぽつりと漏らす。当然返事なんて来ない。悄々と星屑を連れる夜の海は、月を浮かべている。どうも夜というものは気持ちを深く沈めてしまうらしい。顔をブンブンと左右に振り、ライムントはさっさと自室に戻ろうとした。

「……ん?」

 トントン、カタカタ、コトコト。
 どこからか音が微かに聞こえた。それは妙に一定のリズムを刻んでおり、ライムントが連想したのは料理中の光景だ。しかしこんな時間から料理を始める人がいるだろうか。

「お化け……とかじゃねぇよな、はは……」

 不気味な洋館でただ一人廊下を歩いている現状に、今更ながらひやりと背筋が凍る。飾られた絵画たちに見つめられている気がするくらいに、ライムントの想像力は余計に膨らんでいた。だが、それと同じくらいには子供らしい好奇心の湧いた自分もいるのだ。
 ええいと恐怖を掻き消すべく、ポケットから三番目にお気に入りの苺味キャンディを取ってからんと口に入れる。この世の全ては糖分で解決するに違いない、だなんて気を紛らわせながら先へと進んだ。

 
 忍足で廊下を歩いていくと、先程までは暗かった景色にぼんやりと明かりの灯る部屋が見えた。音も次第に近づいていき、掛けられたドアプレートにはキッチンと書かれている。どうやら憶測は当たっていたらしい。ガリっと飴玉を砕いて、少し開いた扉を恐る恐る覗き込むと、上品なロイヤルブルーがライムントの目に映った。

「……ノエル?」
「わわっ! ラ、ライムント様……!」

 突然声をかけたので、酷く驚かせてしまったようだ。呼びかけた彼女は小さく弾んで声を裏返させる。この部屋で料理をしていたのはノエルであった。お化けじゃなくて良かった、とライムントはほっと一息つく。

「ビビらせちまってごめんな。こんな時間まで料理か?」

 広々と清潔感のあるアイランドには人参、じゃがいも、玉ねぎ、鶏肉、などの炒められた具材が均等な形で切り揃えられて、別々のボウルの中に収まっている。そばには銀色の大きめな鍋と、カップに注がれた牛乳と水があった。

「もしかして、シチューか?」
「え、えっと! 今日のはあまり美味しくなかったかもと思いまして、作り直しているんです!」

 片手に持つ包丁を慌ただしくぶんぶんと上下に揺らすノエルは、恥ずかしそうに言葉を急がせた。危ないのでノエルに包丁を下ろすようライムントはどうどうと落ち着かせる。なんせ聞いた話によれば、この少女はカロンに銃を向けたらしいじゃないか。物騒なものはなるべく手に取って欲しくない。
 だが、ノエルには大人らしい印象を抱いていたものの、想像よりも感情豊かなようだ。その姿にライムントは少し安心する。

「んなことねぇよ。お前の飯、すっげー美味かった!」

 今頃胃袋に眠るムニエルの感動的な美味しさをライムントは思い出す。あぁもっと味わって食べれば良かった、と何度も後悔するくらいに、彼女の料理はお世辞抜きに素晴らしかった。料理人として旅をしているカロンですら惜しみなく褒め称えていたのだから、この料理たちが美味しくないだなんてことはまずあり得ないだろう。

「ありがとうございます、少し考え込み過ぎたかもしれません……」

 ノエルは少し俯く。色とりどりの具材たちを見つめて、コロコロとボウルを揺らし転がす。丸く少し釣り上がったロイヤルブルーの瞳は、瞬きをするたびに見えない悲しみをぽつぽつと零しているみたいで。一切の疲れも感じさせない彼女が思い悩んでいる、なんとなくそう感じた。
 ライムントはアイランドに背を預けて肘を置き、俯くノエルをちらりと覗く。

「オレ、下に兄弟が沢山いてさ。人の話聞くの好きなんだよな」
「……?」

 そっと顔を上げたノエルはライムントの言葉にこてんと首を傾げる。そんなノエルに、ライムントは小さな子供を見守るように柔らかな顔つきを向けた。

「案外他人に話したほうがスッキリするかもしれねぇし、オレでよければ聞かせてくれよ」

 な、とライムントは八重歯を見せるようににかっと笑ってみせる。出会って間もないのに烏滸がましいかと思いながらも、ライムントはノエルに気さくな提案をした。
 自分よりも小さな少女がこんな辛そうな顔をするだなんて、あってはならないだろうから。誰にも話せなくて、溜め込んで、気づかれなくて終わりだなんて、そんなやりきれない気持ちは子供に負わせるものではないのだ。

「……ライムント様」

 ぽけ、と拍子抜けした様子のノエルだったが、ライムントの頼り甲斐のあるどこかお兄さんらしい雰囲気に気が緩んで、くすりと微笑んだ。

「僕、結構おしゃべりな方なんです」

 それでもよろしいですか?
 
 控えめに、けれど年相応にノエルはライムントに問いかける。ライムントは肯定を示してアホ毛をぴょこんと動かすと、ノエルは引き続き料理を再開しながら話を紡ぎ始めた。


「さらりと指からすり抜けてしまう透き通った髪に鋭く見えて穏やかな朱色の瞳から造形される愛らしく幼いご尊顔はこの世界が最も誇るべき至宝ですし低い背丈を気になさっているお姿に僕が何度心打たれたかだなんて数えきれませんけれども五センチのヒールを姿勢も崩さず履きこなす体格の良さを隠しきれていらっしゃらないのですそれに意外にも骨の目立つ手つきがたまらなくて細くしなやかな指先に触れられるもの全てはもっと感謝を述べるべきではないのでしょうかあぁそうです僕だってこれっぽっちも足りていませんなんと不敬今すぐ感謝の祈りを捧げなければ」
「待て待て、ノエル、おい」
「大丈夫ですよライムント様、そう焦らなくても今からで構いませんから。僕と一緒にレドナー様の尊さに感謝しましょう!」
「頼むから! ちょっと待って!」

 まるでマシンガンの如く、ノエルの口から永遠と文字の羅列がライムントの耳と脳へと襲いかかる。ぐるぐると鍋を煮込みながら、息継ぎもなく瞳をキラキラとかっ開くノエルにライムントはお化けですら感じなかった恐怖を今になって覚える。一体何が起こっているというのか。自分は新手の宗教勧誘にでも絡まれているのだろうか。
 ライムントが制止しようとしても、ノエルの饒舌は止まることを知らない。けれどライムントはこれが自業自得だと分かっている。ノエルはしっかりと忠告まで添えてくれたのだ。だからと言ってこんなことになるとは予想も出来なかったが。弟妹たちの自慢話の方がよっぽど可愛いものだと、ライムントは白目を剥きそうな気分だった。

「正直レドナー様のあの髪の惚れ惚れするような感触は布団にでもして永久保存したいくらいです世界中ヒット間違いありませんそういえばレドナー様の背丈は百六十程で体重は四十六と非常に小柄なんですよ可愛らしいですよねあと鎖骨にほくろがあるんですほらもうたまらないでしょうレドナー様はどんな部分を話しても分かるのは尊さなのです他にも」
「ウワー! ストーップ! 止まってくれヤバい予感がするから!」

 ライムントはとうとうまずいと声を荒げた。夜分遅くにスミマセン……と小声で呟きながらも、こうするしかなかっただろう。どう考えても話の路線が怪しくなっている。ノエルはレドナーのどこまで知っているのだろうかだなんて考えたら負けだ。
 というかレドナーって誰だよ、とカロンにフライパンで気絶させられたライムントは、別に知りたくもないし知り合ってもいないレドナーのあれこれを布教されて罪悪感が芽生える。なるべくレドナーとは顔を合わせたくないなぁと、ライムントは偏見しかない脳内のレドナーに思いを巡らす。

「……はっ! すすすすみません! ついまたお喋りしすぎちゃいました……」
「い、いやいいんだ。オレが聞きたかったし」

 ようやく正気に戻ったのか、ノエルはぐったりと体を沈ませるライムントに気がつくとぺこぺこと頭を下げる。ついまた、ということは、このマシンガントークの被害者が他にもいるのだろうか。お気の毒に……とライムントは心の中で見ず知らずの戦友の健闘を祈った。
 ノエルは頬をほんのり染めながら、はぐらかすように鍋へと視線を移す。ふんわりと優しい香りがライムントの鼻腔をくすぐる。ノエルは小皿に一口注いで、ふーふーと注意深く冷まして味見をすると、微かに頷いて目を細めた。別の小皿を用意すると、ノエルはライムントにそっと差し出す。

「よろしければ味見をお願いしたいのですが……」
「いいのか? ありがとな」

 火傷しないように手渡すノエルから皿を受け取り口へと運ぶ。とろりとしたクリームが舌を包むが飲み込みやすく、濃厚すぎない味付けながら香ばしい牛乳の甘みが身に染み渡る。じんわりと喉から胃にまで伝わるあたたかさが気持ち良い。あぁ、これは……

「美味い……」
「ふふ、嬉しいです」

 こちらもどうぞとじゃがいもまで頂いてしまった。ライムントは熱さを気にせずぱくりと一口で噛み締める。噛もうとしてもすぐに溶けてしまうくらいほろほろとした具合がまた楽しい。笑顔でグットマークを送ると、ノエルは満足そうに手を口へ添える。

「僕の作る料理は、全てレドナー様から教えていただいたものなんです」

 シチューを見つめながら、ノエルはしめやかな幸福を大事に抱きしめる。きっとそれは彼女にとって誇りであり、宝物なのだろう。鍋の具材を宝石のように丁寧にかき混ぜて、ノエルは思いを馳せているようだった。ライムントは変に口を出さず、ただノエルの話を聞いている。

「一人で行く宛もなかった僕に、レドナー様は帰る場所をくれました」

 ノエルはライムントの故郷でもある、冬の国『ハリシュクロート』の出身らしく、数十年前には頻繁に行われていた戦争の被害を受けて両親を亡くしたと教えてくれた。ライムントも幼い頃は近くの街が戦地にされて大変なことになっている、という話も珍しくはなかった。
 国々が安寧を保ち始めたのもつい最近だ。それまでは他国を自分の国の領土にしようと、様々な者たちが武器を握り魔法で生き物を殺した。戦争孤児なんて少なくはないのが現状だ。ノエルも被害者の内の一人であることに、ライムントは胸が痛む。

「……僕は、焼けていく故郷に家族を見捨てたんです」

 最低ですよね、とノエルは自嘲気味に枯れた笑みを貼り付ける。

「あの時僕が逃げ出していなければ、誰か助かったかもしれないのに。でも、出来なかったんです」

 ぎゅっと目を瞑り腑を抉られるような想いで、ノエルは過去を懸命に思い出そうとする。
 吹雪の降り注ぐ白銀で満ちた美しい故郷が燃え盛ったあの日。じりじりと熱で痛む素足で駆け抜けて、死にゆく家族を見捨てた臆病な自分。
 鮮明にこびり付いた記憶に、ノエルは吐き気がしてつい蹲る。隣のライムントは焦燥を滲ませてノエルのそばにしゃがみ込み背中を摩る。凍えて震えるノエルは、縋るように両手を握り締めて魔法を使った。何もなかった両手には銃が現れてライムントはぎょっとしたが、ノエルはその銃を触ると少しだけ気が休まったようで、そっと銃を抱きしめた。

「これは、僕のお守りなんです」

 よく銃を見てみると、傷のようなものがあった。ガタガタと規則性がなく思えたが、凝視するとそれは文字のようだ。一文字ずつ並べて読んでみると、『Norman』と記されていることが分かった。この銃の持ち主か誰かだろうか。

「逃げ出していた最中に、軍人の男性がこれをくださいました」

 傷で出来た文字に触れながら、ノエルは銃を大事に包み込む。

「きっと僕の故郷に奇襲をかけた軍の方だったと思います。それなのに、僕を攻撃から庇ったんです」

 ごめんな、大丈夫だよ、怖かったね、と優しく抱きしめられたあの瞬間を忘れた日はなかった。恐ろしい炎で包まれた雪景色を見えないようにと、大きな体で隠してくれた彼のことを。
 ノエルには分からなかったが、きっと軍人の男の背にはノエルを庇った代わりの傷があって、それなのに彼の温もりはずっとそばにあった。
 男はノエルにそっと銃を手渡すと、綺麗なターコイズブルーの瞳を細めていた。これを持って森の奥まで逃げるんだと、ノエルの頭を力無く撫でて。あともう一つ、と付け加えるように男性はノエルに笑いかけた。
 
「生きていてくれてありがとう、そう言ってくれたんです」

 その後はがむしゃらに森の中を駆け巡って、走り回った。今までのことが夢であればいいのにだなんて願いながら。
 気がつけば意識を失っていて、目が覚めるとノエルはレドナーの館で看病を受けていた。レドナーはノエルから無理に話を引き出そうとはせず、いつまでもここにいてもいいと、冷たい手のひらでノエルの小さな手を覆ってくれただけだった。でも、ノエルにはそれが十分すぎて、どれだけ恵まれているのだろうかと泣きじゃくった。

「僕は、色んな方のおかげで今生きています。だから、僕に出来る最大限でお返ししたいんです。レドナー様にも、あのお兄さんにも」

 もう大丈夫だと、ノエルは涙ぐむのをぐっと抑えて銃をしまう。
 ライムントは、何度も彼女にどう声を掛けようか迷っていた。だが、きっと己の言葉なんてなくとも、ノエルは歩いていけるのだろう。過去の呪いを解き放って前を向くことが出来る、強かな少女だ。つい癖で子供扱いしてしまったことが申し訳なくなった。
 ライムントは摩る手をひっそりと離して、ポケットからキャンディを取るとノエルに渡す。

「かっこいいな、ノエルは」

 オレ、情けねぇなぁと頭を掻くライムントは、彼女と異なった味の飴を新しく転がしながらなははと笑った。ノエルも微笑んで、同じく飴玉を小さな口で味わう。

「最近悩んでいたのは、レドナー様がお食事を摂らなくなってしまったからなんです」

 片頬にキャンディを寄せて、ノエルはうーん……と思い煩う。ただ単に食欲がないだけではないか、と聞いてみるが、これまでレドナーが食事を摂らないことはなかったという。華奢な体つきのわりにはよく食べるのだと、ノエルの惚気が始まりそうだったのでライムントは上手い具合に回避する。

「僕の料理の出来が悪いから、嫌気がさしたのかと思ったんです。でも……」

 口数の少ないレドナーだが、毎度食後に感謝の言葉は欠かさなかった。ありがとう、美味しかったよ、と汚れの一つもない皿を残して去る彼の称賛がノエルはたまらなく嬉しかった。だから、きっと理由は他にあるのだと確信した。

「レドナー様は、誰よりも優しい御方なんです」

 にこりと隠せない喜びで溢れるノエルの笑顔に、ライムントも釣られて八重歯を見せる。なんてまっすぐなのだろうか。こんな少女に慕われているレドナーはとんだ幸せ者だ。よーしと体を伸ばして、ライムントはひょいと人差し指を立てた。

「明日の晩飯は、レドナーの部屋に直接持って行こうぜ」

 ライムントはノエルにちょっとした提案を持ちかけた。彼女は控えめな性格だから、わざわざ部屋に押し入るだなんてことはなかっただろう。だがアクションを起こさなければ始まらない。ノエルのひたむきな願いだって、レドナーに届かなければ意味がないのだから。
 ノエルは少し目を見開いて、けれどもライムントに信頼の視線を返すと、はいと頷いて答えた。


◆◆◆


「ばぁっ! 驚いた?」

 ノエルと話し終えて、ライムントは部屋に戻るかと角を曲がろうとした時だった。ふわりと綿飴みたいに浮かぶ白が見えた気がして、そっと覗き込もうとすると、ジェシーが両手を顔の横に広げて愉快に登場した。

「あ……あぁ……はは……」

 そして驚かされた当の本人は崩れるように腰を抜かして表情を青白く染め上げている。もうお化けなんていないと爽やかな気持ちで歩いていたというのに、こんなの酷いんじゃないのか。ありゃまとジェシーは地面に尻餅するライムントに視線を合わせるため腰を曲げる。ライムントに近づいて、ジェシーは朱色の瞳をぱっと明るくした。

「ありがとう。ノエルの相談に乗ってくれて」

 ジェシーは幼い顔立ちに似合わないような、大人らしい笑みをライムントに向けた。

「な、聞いてたのかよ」
「盗み聞きみたいに言わないで欲しいなぁ〜ちょっと小耳に挟んだだけだよっ」
「それを盗み聞きって言うんだぜ……」

 およよ〜酷いぜ〜とわざとらしく泣き真似をするジェシーにライムントは苦笑する。おちゃらけた言動にイマイチついていけないので、ライムントはジェシーとの会話が得意ではない。掴みどころがないとも言えるだろうか。そんなジェシーが真面目に感謝を述べたことも、ライムントにはびっくりな行動だった。

「お前が話を聞いてやれば良かったんじゃねぇのか?」

 彼女はノエルの姉のような存在なのだろう。しかもジェシーはノエルの変化には気づいている口ぶりだ。ならばノエルが溜め込んでしまう前に話を聞いてやるべきではないのか。ライムントは少々鋭い考えをジェシーに問う。そんなライムントにも、ジェシーはへぇ、とふわふわ柔らかい表情を見せた。

「ノエルはさ、私たち兄妹に迷惑かけたくないっていつも抱え込んじゃうんだよね」

 よっこらせとライムントの隣に三角座りして、ジェシーは窓からこちらを伺う月夜を眺めながら飄々と呟いた。

「もっと頼ってくれてもいいのにって気持ちが半分、残りは……」

 ゆるりと膝を抱える腕に頭を預けて、赤色のパンプスの爪先をつんつんとくっつけて遊ばせる。ジェシーはふぅとため息をついて、空気に溶かすように、なるべく聞こえないように、と声を漏らした。

「歩み寄るのって怖いじゃん」

 前下がりの髪がゆらめいて、彼女の顔をすらりと隠してしまう。ぽつりとジェシーが呟いたそれは、夜半に落とされた小さな本音だ。
 はっとしてライムントはジェシーを見つめる。彼の視線に気づいて、ジェシーはこちらを向くと悪戯に唇の弧を描いた。

「なんちゃって」

 軽い身を飛ぶように起こして、ジェシーはライムントを見上げる。ぱっぱとスカートについたゴミを払うと、ライムントのアホ毛をちょんと触り、へへと無邪気に笑った。

「またノエルと話してあげてね。あの子は友達があんまりいないから、きっと喜ぶよ」

 じゃあね、おやすみ、と言い残すと、ジェシーははらはらと花弁が舞うようにその場から消えていった。
 ライムントは未だ振動するアホ毛の動きを片手で抑える。誰もいない廊下に侘しく残されて、脳内でジェシーのどこか憂愁の漂う声を思い出しながら、改めて月を見やる。
 なんだか今日は忘れられない夜になりそうだと、もやついた心情に答えは出ないまま部屋に戻ることにした。


◆◆◆


「私の名前はカロンよ、カロン・フロテシア!」
「知ってる」
「一人前の料理人になるために旅をしているの!」
「あぁ」
「得意料理はオムライス、苦手料理はハンバーグ!」
「そうか」

 カロンの怒涛の自己紹介に、レドナーは間に挟んで返答する。これはもはや会話ではなく一方的なものになっているのだが、カロンは楽しそうに自分のことを話し始める。今まで作った料理の中での傑作の話や、今日あった出来事など、おしゃべり好きなカロンはまるで御伽噺のように語っていた。

「じゃあ次はレドナーの番よ!」

一段落して、カロンはレドナーにどうぞ! と会話の続きを差し出した。目線の合わない彼がちらりとカロンを見ると、少々困ったように髪を弄り出す。

「……話すことなんてない」
「そんなことないはずよ。私を知ってくれた貴方のことを、もっと知りたいわ」

 カロンは向かい合うように座っているレドナーに満面の笑みを綻ばせる。
 相手のことを知りたいのならば、まずは自分から。これはクラウンベリーから教わったマナーだ。それを上手く活用してレドナーについて知ろうとするカロンの思惑は至って純粋なものだが、レドナーはバツが悪そうに髪を解いた。

「レドナーだ。知っているだろう」
「ぜひフルネームで!」
「……レドナー・ブレットだ」

 吐き捨てるように、レドナーは自分の名前を教えてくれた。そうそう! とカロンはささやかな拍手を送る。心底鬱陶しそうなレドナーのことなんてカロンは気にしちゃいない。
 レドナーの気分が変わってしまう前にと、引き続き質問を投げかけた。好きな動物は大型犬、好きな食べ物はシチューとパン、趣味は紅茶集め、とレドナーはカロンの問いかけに思いの外返してくれる。おかげでカロンはレドナーについてどんどん知りたいことが増えていくばかりだ。

「……?」
 
 月明かりに照らされる彼を見ていると、何かがこちらを呼んでいる、そんな気がした。聞こえるはずもない声に耳を傾けても意味はなくて、でもそれがレドナーの左手から感じるものであることだけが分かった。じっと観察しているとレドナーが呆れたように目をジトっと下げた。

「見過ぎだ」

 はぁ、とため息をついて、レドナーは左手を月に合わせるよう顔の前にあげた。薬指から輝く光に目を細めて、レドナーは愛おしそうに眺める。
 水面がゆらめくみたいにキラキラと踊る宝石のついたそれは、指輪だった。指の隙間からカロンを覗いたレドナーは、何故か慈しみに溢れた表情を滲ませている。
 あぁ、そうか、とカロンは納得した。あの指輪は、彼の大切なものだ。彼は愛を知っている。だからあんなにも、レドナーは優しい表情を自分にも向けてくれるのだろう。また一つ、彼について知れた気がした。

「……もういいだろう」

 指輪から目を離して、レドナーはどこか急かすように、カロンにおしゃべりは終わりだと告げた。

「そこをなんとか! 駄目かしら?」
「もう夜も遅い。チビはさっさと寝ろ」
「そんなこと言ったらレドナーだって子供よ?」

 カロンと僅かしか変わらない身長差に童顔の彼は、威厳を纏わせながらも年齢はカロンより下だろう。さっきから子供扱いをしてくるレドナーに、カロンは言葉をそのままお返しする。それにレドナーはむきっと眉間に皺を寄せて不機嫌な態度を表した。

「お前たちと一緒にするな」

 ふんとそっぽ向いたレドナーは、どうやらもう口を聞いてくれそうにない。しまった、これは彼にとって嫌な表現を選んでしまったなとカロンは反省する。だが変に煽てたとて、彼の機嫌が戻ることもなさそうだ。そもそもレドナーは常に機嫌が悪いのだから、ここまで会話を交わしてくれたこと自体、運が良かったようにも思える。
 お邪魔してごめんなさい、とカロンは席を立とうとすると、レドナーは窓を見つめながら口を開いた。

「気づかないか」

 何かを伝えようと、レドナーはカロンに問いかけた。遠回しな表現にカロンは頭を捻らせたが、その隙もなく窓の外から何かがコツンと当たった音がして視線を変える。
 金平糖のように色鮮やかな星が飛び跳ねて、ころりと落下していった。見覚えのある魔法に、カロンはわぁっとツインテールを弾ませると、ぱたぱたと足を急がせて扉に手をかけた。あっ! と思い出したようにカロンは振り返ると、レドナーに笑いかけた。

「とっても楽しかったわ。ありがとう! おやすみなさい、良い夢を」

 返答を待たずに部屋から去っていくカロンをレドナーは静かに見守る。明るい嵐が過ぎ去ったのを確認すると、ちらりと窓に映る自分と目が合った。幼な子同然の顔つきに、酷く嫌気がさした。濃く刻まれた隈は簡単に消えることはないだろう。

「今日は、眠れないな」

 咽せる感覚が喉まで込み上げてきて、レドナーは口元に手のひらを被せる。ごぽり、と滴る赤が指に絡みついてきて、あぁまただと鬱屈した気持ちにやるせなくなった。窓に頭を傾けて、レドナーは重々しく瞳を閉じる。ふさりと肩にかかった髪が落ちて、それを戻す気力すらレドナーには湧かない。
 それでも、左手の薬指に宿るリングをすらりと撫でる。カロンのいなくなった椅子を寂しげに、愛おしげに、ほんのりと口角をあげて見つめた。
 
「……案内人、何の用だ」

 カロンと会話していた時よりも極めて低く、レドナーは扉の先にいる人物を呼びかけた。
 すらりと伸びた姿勢で部屋に入る青年の姿がレドナーの目に入る。自分とは少し異なった赤色の瞳が青月を浴びて、テオフィールの表情は普段より奇怪に映った。レドナーの元までゆっくりと近づくと、テオフィールは帽子を下げた。

「誰も気づいていない……いいえ、皆様が知らないだけでしょう。けれど私には分かりました」

 テオフィールはレドナーの容姿をまじまじと一つ一つ確かめた。やはり、と確信を得てレドナーに向き合う。

「何が言いたい」
「白い髪に鮮血な赤色の瞳、悪魔のように尖った耳……彼が言っていた通り……」

 ――貴方は死神でしょう。

 テオフィールは冷淡に、レドナーを如何にも不吉な単語で形容した。真実を言い渡したと林檎を煌めかせるテオフィールに迷いは無い。そんなテオフィールの堂々とした振る舞いに、レドナーは眉を顰め敵意を突き返した。

「勘違いはよして下さい。私は貴方の敵ではありませんから」

 場に相応しくない、お得意の爽やかな笑みでテオフィールはレドナーを宥める。けれどレドナーには、圧のある一種の脅しのようにも感じた。警戒心を怠ることなく、レドナーはテオフィールを追い出そうとするが、テオフィールはその気迫にも動じることなくレドナーの元へと足を前に進める。
 テオフィールはにこりと、月光を浴びた林檎の実った瞳にレドナーを映した。その果実は、まるで全てを見透かしているようで。厚みのある整った唇をゆったりと開けて、テオフィールはレドナーに手のひらを指した。

「私と貴方は、きっと同じことを願っていますよ」
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