番外編・短編

「On the bed」


「今夜は冷えるみたい」

 肩下に落ちたニットコートを上に持ち上げて、僅かな震えを鎮めるように身を包む。窓の表面に細い片手を乗せたのち、冷えたガラスの温度を感じ取ったのか、男はガラガラと窓を閉める。けれど、どうやら片手では力が足りなかったらしく、ふんっと両手に力を込めて窓を下ろしていた。
 疲れたように息を吐き出す男は後ろに振り返ると、一部始終を見守られていたことを理解したようで。面目ないとじわじわ頬を染める男に、傍観していた少年は遠慮もなく愉快に肩を揺らした。

「トウカ……そんなに笑う?」

 男は寝台の真上にある窓から離れて、柔らかい布団の上を膝立ちでのそのそと芋虫みたいに歩く。ギシ、と音を軋ませて、ベッドの縁に腰をかける少年――トウカの隣に男もそっと座り込んだ。疑問と不服を重ねて尋ねる男に、トウカは端正な口角を上げたままゆらゆらと脚を揺らしてみせる。

「ワゾが頑張っているなぁと眺めていただけさ」
「歳下にそんな風に思われて惨めでしかない……」

 痩せた両手を顔に覆った男――ワゾブルーは声を曇らせる。普段から小鳥の囀りのように小さな声が更にかき消されていくのを、トウカはあははと無邪気な笑い声を奏でながらも聞き逃すことはない。
 指の隙間からトウカを覗くワゾブルーは、呆れたみたいに無気力な瞳を閉じると、そのまま後ろに倒れてぽふっとベッドに身を任せた。彼に手を引かれるように、トウカも布団に体を預ける。

「すまないね。どうか拗ねないでおくれ」
「いい歳して拗ねたりしないよ」

 ワゾブルーをしっかり視界に映せるように、トウカは横向きに寝転ぶ。真っ白な布団の上で動くたびに、心が落ち着くような香りがする。それは衣服を着たまま夜の海にぼうっと漂っている感覚のようにも思えたし、丸裸の自分を大きな羽がふんわりと包んでくれるようにも感じられた。
 狭くて小さなただの長方形。けれどもここは、彼の世界だった。母なる海のように穏やかで、天使の口づけみたいに優しい。そんな世界の中に、トウカはいた。彼が、ワゾブルーがいてもいいのだと、許してくれたから。
 天井を仰いでいたワゾブルーはトウカの視線に気がついたのか、同じように横向きへと体勢を崩した。古時計の秒針みたいに重く、ゆったりと瞬きをすると、彼は長いニットコートの袖から手を伸ばす。その手を迷いもなくトウカの頬へと届かせて、ワゾブルーはきらきらと星すら敵わないくらいに煌めくサファイアに目を細めた。

「君が笑ってくれるなら、何でもいいよ」

 本当に何でもないように、ワゾブルーは呟く。熱のこもった指先は、まるで己が我が子を守るのだと、小さな少年の頬を大切に撫でつける。そして、彼の紺色の眼に浮かぶ果実が、幸せを伝えるみたいにうっとりと微笑んだ。
 ワゾブルーの生きている証を示す体温は、さながら蝋燭のロウのように純白なトウカの頬をも溶かしてしまうだろう。でも、たとえ跡形もなく姿を失ったとしても、やめて欲しいだなんて思わなかった。
 全人類を愛するトウカにとって、己を犠牲にすることは喜ばしく当たり前のはずで。それなのに、喉に詰まる想いの正体が何なのかは、考えても分からなかった。現に今だって、声の出し方を忘れてしまったのだから。

「……寒い?」

 じっと固まって動かなくなったトウカを案じたのだろう。心配そうにワゾブルーは眉を下げた。トウカははっとして、遅れたテンポながら返答しようとするが、それよりも先にワゾブルーはむくりと上体を起こす。釣られてトウカも起き上がった。
 彼は大きめのニットコートをするすると脱いで、大人の男性にしてはかなり細身な体を露わにする。いつもは青に染まった色を、珍しくリネンシャツの白一面で染め上げていた。カーテンを開くような手つきで丁寧に上着を広げると、トウカの背中を包み込むようにそれを被せて、その上から幼い背をなだらかに摩る。

「丁度ホットミルクを飲みたい気分だったんだ。もしよかったら一緒にどうかな」

 立ち上がる彼は横目でトウカに問いかける。流されるがまま浅く頷くと「ありがとう、嬉しいな」だなんて、また口元を綻ばせた。最後にトウカの頭をふわりと撫でると、スリッパを履いて台所へと向かっていく。その後ろ姿に、トウカはつい声をかけた。

「上着、君が着た方がいいんじゃ」
「それ、あったかい?」

 トウカの内心を見透かすように、ワゾブルーは振り返ると首を傾げる。実際、彼はそこまで勘の冴えた人ではないから、きっと見透かしてはいないのだけれど。それらを瞬時に悟ったうえで、トウカはニットコートに目線を落とす。
 大きな羽織りが落ちてしまわないように、きゅっと両手で襟を掴み胸元に近づける。すると、またあの落ち着くような香りが心に広がった。脱ぎ去ったあとだからか、ワゾブルーの温度はそのまま残っていて。恰も彼に抱きしめられている……そんな心地と何ら変わりなく思えた。
 本当なら、トウカがワゾブルーを抱きしめてやらなければならない。だからこの上着は、返さなければいけないのだ。それなのに、彼がトウカを離すことは一度たりともなかった。幸福色のニットコートが、トウカの全てを守るように。

「あぁ」

 か細く肯定する。トウカがそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
 
「そっか、よかった」

 トウカの返事にほっと安心を滲ませると、ワゾブルーは嬉しそうに笑いかけて再び台所へと歩いていった。
 頼りなくて、けれども大きな背中に、もう一度呼びかけることはない。ただ、微睡んだ彼の世界の中に沈みながらも息をする。それだけだった。
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