番外編・短編

「シーグラスの涙」


 軽い足取りで、昼下がりの晴れやかな空の下を歩く。

「ぽかぽかで気持ちのいいお天気ですねぇ」

 今日は街中でスキップを弾ませてしまうくらいに、見事な天気模様だ。
 ○○の住む秋の都こと「チェルクバルト」は、基本的に涼やかな温度が広がる国で、天候がころころと変わりやすい。そのため、今日のように青空の澄み渡る景色は、より一層味わい深いものだった。
 ○○は天を仰ぎながら、ふわふわした麹色のくせ毛を揺らして鼻歌を口遊む。昼の散歩は彼の日課だ。早起きは得意ではないので、この通り十二時過ぎくらいになることがほとんどである。目覚ましをかけたとて、○○には鳥の囀りと同じくらいの音量にしか聞こえていない。寝坊助な○○は特に行くあてもなく、気の赴くままに道を歩いていく。

「あ、そうだ。お昼でも食べに行こうかな? こんなにお天道様が輝いていて、素敵な日ですもの」

 パン! と思いついたように両手を鳴らす。簡単なレシピならまだしも、○○は料理にはイマイチ才能が無い。才能というか、手先の不器用さによる影響なのだが。キッチンを丸こげにしてしまっては大惨事なので、店で出来上がった食材を購入するか、まれに外食をするかの二択だった。
 にこにこと微笑むみたいにあたたかさを分け与えてくれる太陽を見つめながら、今日は贅沢しちゃおうと○○はご機嫌に笑みを湛える。

「あちらのさつまいも入りミネストローネも食べたいけれど、きのこレストランのドリアも捨て難いですねぇ〜」

 ○○は家でゆっくりと食事をするのも好きだが、外食も好きだった。周りの人たちが自分と同じように、幸せな表情で満ちているあの空間はここでしか堪能できないに違いないから。脳内に浮かぶ美味しそうなご飯たちに「こっちこっち」と誘惑されて、○○はうーんと悩み声を零す。


「まぁ、そう遠慮なさらないで。こうして出会えたご縁ですもの」
「あ……すみません、今ちょっと急いでて……」

 さらりとした清風と共に、ある話し声が○○の耳に届く。空想のご飯たちからそちらに意識を向けてみると、少し先の方に二人の男女が見える。艶やかで小綺麗な身なりの女性と黒髪の爽やかそうな青年は、道の真ん中で何やら話し込んでいた。恋人同士だろうか? と○○は首を傾げる。

「なら、せめてご一緒させていただける? わたくし、貴方の宝石のように輝くターコイズブルーの瞳に、すっかり心を奪われてしまったの」

 女性は懇願するように、纏わりつくように、するりと青年の手を握る。
 その一瞬だった。青年の息が詰まって、微かに震えているように見えたのは。そして、宝石みたいに美しいと称揚された瞳が、ぐらりとゆらめいて潤む。

 ――あぁ。麗らかな太陽に、雨が降ってしまう。

 そう思った頃には、○○の体は勝手に動いていて。悴んで身動きの取れない青年の後ろに辿り着くと、その小さな背中をつんつんと突いた。

「!」
「こんにちは。遅れてしまってごめんね」
「……?」

 驚いたように肩を跳ねる青年に、○○は極めて親しげに声をかける。状況を飲み込めていないのか、青年はぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせて○○を見つめていた。

「……ノーマンさん、そちらの方はどなたでして?」

 突然現れた○○に、女性は上品に口角をあげる。だが、彼女からは僅かに警戒心が滲む。良いところだったのに、邪魔をされて不愉快なのだろう。深いことを考えない○○でも、そのくらいは分かる。繋いだ手を離す気がないのだから尚更だ。そんな女性の敵意なんてまるで知らないみたいに、○○ははんなりと笑ってみせる。

「はじめまして、私は○○と申します」
「ご丁寧に感謝いたします。けれど……今彼はわたくしとお話ししているの。ご用件なら後ほどお願いできるかしら」

 頑なにノーマンから遠ざけようとする女性は、ぐいっと彼の手を引き寄せる。ノーマンは抵抗も出来ずに、ただ俯いて口を閉ざしていた。

「まぁ、そうだったのですね!」

 けれども、刺々しい空気が淀む中、○○はその場に不相応なくらいに明るい声音を発した。

「今日はノーマンくんとお出かけの予定だったのですが、ご覧の通り少々寝坊してしまって」
「は、はぁ」
「彼が退屈していないか心配だったのですが、君のおかげでその不安はなかったみたいですねぇ。とっても助かりました」
「ちょ……」
「本当に本当にありがとう〜」

 ぽやん、と周りに花が咲くかのように、○○はのびのびとお礼を伝える。女性は気が抜けてしまいそうな○○のペースに流されて、間抜けに口をあんぐりと開いていた。○○は彼女が生んだほんの少しの隙を見逃さず、ノーマンの垂れ下がったもう片方の手を選び取って、強引さを感じさせない控えめな仕草で引いてやる。

「君の時間を奪ってしまうのも申し訳ないですし、私たちはこれにて失礼いたします。良い一日を〜!」

 女性の回答を待つことなく、○○はゆらゆらと手を振りながらそそくさと走り去っていく。遠くの方で何かを叫んでいる女性も、隣で慌てつつも一緒に走るノーマンのことも、○○は大して気にしちゃいない。草地を軽々と疾駆するように街を駆け抜ける○○たちであった。が。

「わ〜」

 躓いてノーマンの手が離れたのを合図に、○○はこてんっとおむすびが回るみたいにくるくると転がっていく。至って平地、何もないところで。ノーマンは悲鳴を漏らしては顔面を蒼白に染め上げて、○○がこのまま穴にでも落ちたら大変なので急いで駆けつけた。

「大丈夫ですか!? けけ怪我とか骨折とかしてませんか!?」
「あらあらすみません、大丈夫ですよぉ」

 動揺してわなわなと子鹿の如く小刻みに震えるノーマンに、○○は何事もなかったように穏やかな笑顔を向ける。それでも疑いの晴れないノーマンに、手のひらや額が無傷なことを「ほらほら」と教えてやると、ようやく安心したのかほっと胸を撫で下ろしているようだ。

「あのまま転がっていったらどうしようって焦りましたよ。あれだけの距離を転がったのに、傷一つもないなんてなぁ……」
「よくあることなので慣れちゃったかなぁ〜」
「えぇっよくあるんですか? 危ないから気をつけてくださいね……」

 万が一回転が止まらなかったら……とノーマンはありもしない想像に冷や汗が走る。そんな彼のことなどつゆ知らず、○○は服についた汚れを払うとゆったりと立ち上がった。

「改めまして、私は○○です。さっきはいきなりごめんね」
「! 俺はノーマンっていいますっごめんだなんてそんな! 本当に、凄く助かったんです。ありがとうございました! いくら礼の言葉があっても足りないな……」

 ぺこぺこと律儀に何度もお辞儀をしてくるノーマンに、○○はいいよいいよと朗らかに受け入れる。自分はただ散歩をしていて、せっかくの晴れ日和に雨が降ってしまっては悲しいと思っただけだ。

「お急ぎだと仰られていましたが、どこかに行く予定だったのですか?」
「はい。手芸店に向かってる途中だったんですけど、まぁあんな感じで……」

 先程の女性を思い出しながら、ノーマンは力無く眉尻を下げる。どこか諦めともとれる彼の微笑みが、○○にはなんだか侘しく映った。
 もしかして、己が何もないところで転けるのと同じように、ノーマンにも「よくあること」なのだろうか。

「……ノーマンくん。もしご迷惑でなければのお話なのですが、私もそのお店にご一緒してもよろしいでしょうか?」
「○○さんもですか?」
「はい。またお声をかけられても、無下には出来ませんものね。この○○を用心棒だと思って、どうぞお隣に置いてやってください」

 任せて! と○○は意気込みを表明して双葉のアホ毛を動かした。きょとん、とノーマンはビー玉のように目を丸めたが、やがてその瞳はやんわりと細まっていく。

「それじゃあ、お言葉に甘えます。すっかり心強いや」

 ノーマンの嬉しそうな返答に、○○もそっくりな顔色を彩った。


「わぁ〜!」

 店内を見渡しながら、○○は感激に浸る。物静かでアンティーク調の小さなショップには、ぎゅっと詰め込まれるかのように商品が並んでいた。可愛らしい柄のリボン、色数豊富な毛糸、ころりと煌めくアクセサリーパーツなど、初めて目にするものたちに○○はテーマパークに訪れている気分だ。ちょこちょことひよこみたいに歩き回る○○を視界に入れながら、ノーマンは気掛かりでもあるのか申し訳なさそうにしている。

「○○さん、全然外で待ってくれてて大丈夫ですよ。俺の我儘に付き合わせて、つまらない思いをさせたくはないし……結構時間もかかっちゃうと思うんで、勿論帰ってもらっても……」
「ノーマンくん〜あのガラスやワッペン素敵です! あ、この花柄のリボンもとっても可愛らしいですねぇ」

 頬を掻きながら○○が退屈してしまわないかと案ずるノーマンをよそに、○○はあちこちの商品を手に取っては物珍しそうに見せびらかす。

「そっそれは……!」

 ○○が広げた赤色のリボンを認識した途端、ノーマンははっと息を呑む。次第に彼の顔が紅潮していって、ドタバタと呼吸を切らしながらこちらへとやってきた。ノーマンは○○の手と一緒にそのリボンを両手に包むと、まるで恋人を目の前にした乙女みたいにはにかむ。リボンと見つめ合っていたノーマンは勢いよく顔を上げると、彼の眼鏡がきらりと光った。

「○○さんお目が高いなぁ! これ、今日発売の新作なんですよ! 俺すっげー楽しみにしてて! 品のある赤色がこれまた綺麗で見てくださいよ! 細かく施された花柄も可愛いんです! この子のために来たと言っても過言ではない! は〜……売り切れてなくてよかった……」
「うんうん」

 何作ろっかなぁ……とにまにましていたノーマンだったが、ひとしきり饒舌に語り終えたのち、にっこりと話を聞いてくれていた○○に気がつく。その姿はまさに、弟を見守る兄のよう。あたたかく綻ぶ○○に、ノーマンはやらかした、とでも叫ぶみたいに握っていた手を即座に離した。

「うわわわすみませんすみません、俺今変なこと口走ってましたよね!? しかも長ったらしく高速で!!」
「え? そんなことないよ?」
「あ〜〜俺の馬鹿野郎、あれほど自制しろって……。う〜□□〜恥ずかしい兄ちゃんでごめんな……って言っても届かないか……」

 魂でも抜けたようにへにゃりと座り込んで、ノーマンは面目ないと顔を覆う。彼はもそもそと首元から何かを取り出すと、金色のそれを手の中へと大切に包む。○○は不思議そうにノーマンを覗きながら、隣にしゃがみ込んだ。

「ノーマンくんノーマンくん」
「はい、俺がオタクトーク炸裂のノーマンです……」
「ふふ、新しい自己紹介?」

 どんよりと落ち込んだ様子のノーマンに、○○はくすりと肩を揺らして笑う。

「こちらのリボンの他にも、おすすめのものはありますか?」
「そ、それはもう、言い出したらキリがないくらいには……」
「まぁ素敵! その分、君のお話が沢山お聞きできるのですねぇ」
「……え……?」

 ○○は上機嫌に体を左右に動かす。わざとらしい気遣いだなんて微塵もなくて、○○はただ純粋に喜びを溢れさせる。○○の和やかさに惹きつけられるように、ノーマンは埋めていた顔を静かに起こした。それを隣で待っていたみたいに、ノーマンと瞳が照らし合わさると、○○はノーマンの手にそっとリボンを乗せる。

「そのリボンのことも、他の商品のことも、よろしければ教えてください。君の解説は、聞いているだけでわくわくしちゃいますから」
「……!」

 するりと解けるように、ノーマンの手元からリボンが落ちていく。
 あらら、と汚れがないかを確かめてから渡してくる○○に、ノーマンはほんの少し力を込めてリボンを掴んだ。

「任せてください。俺、好きなものの話ならいくらでも出来るんで!」


◆◆◆


「いや〜幸せだった……」

 大きな紙袋を悠々と抱えながら、ノーマンは満悦の笑みを輝かせる。夕暮れが顔を出す帰路を、二人はのんびりと歩く。幸がいっぱいのため息を漏らすノーマンに、○○もにっこりと笑顔をお裾分けされた。

「欲しいものが買えて良かったですね〜」
「はい! 普段は引きこもってるんで、この時間が俺の癒しです……」

 ぎゅーっと愛おしげに袋を抱きしめる。紙袋のカサカサと擦れる音は、ノーマンからの愛を素直に喜んでいるみたいだった。

「今日はほんとにありがとうございました。○○さんがあそこにいなかったら、今頃どうなってたか……」

 ノーマンは再び深々と頭を下げる。どこまでも誠実で真面目な性格はきっと彼の長所なのだなぁ、と○○は長閑に微笑む。

「帰りはお一人で大丈夫ですか?」
「多分大丈夫です。人気も少なくなってきたみたいだし、家もそう遠くないので」
「そっかそっか」

 辺りを見回してみても、若い女性はいない。これならノーマンも安心して帰れそうだ。

「……○○さん」

 ノーマンの細やかな呼びかけに、○○は視線を移す。彼は○○と目を合わせることなく、まっすぐに夕月夜の明かりの主を眺めていた。

「貴方には俺が、どう見えますか」

 炭酸水みたいに透き通った声で、ノーマンはそう問いかける。彼の凪のような静けさにしゅわしゅわとしたほろ苦さが混ざって、気がついたころには浮かぶ泡がまっさらに消えてしまう気がした。心許なく目を伏せるノーマンの手を、○○は引き止めるように掴む。

「ノーマンくん。私ね、君のひ……」

 ぐ~~~……

「……で、でか……。今の、なんの音だ……?」
「あ、そういえば……お昼を食べ忘れていたことを今思い出しました! すみません、どうやら私のお腹の声みたい」
「……えぇ!?」

 照れ臭そうに頭を掻く○○に、ノーマンは打っ魂消て大声を響かせる。昼なんてとっくの前に過ぎているというのに、腹が鳴るまで気が付かないだなんて。腹部を摩りながら「ごめんねぇ」と謝る○○を見れば、妙にすんなりと納得していったのだが。

「そうだ! それじゃ、今日の礼に何か奢らせてください。○○さんの好きなのとかあれば、どれでも買うんで」
「まぁ、お礼だなんていいのに。でもそうですねぇ……」

 名案だというように提案してくるノーマンに○○は首を振ろうとしたが、少々悩むように唸ってからぴょこりとアホ毛を弾ませた。

「では、私のお家で一緒に食事をとる……というのはどうでしょう?」
「それは……礼どころかまた俺が世話になってません?」
「いえいえ。私、誰かとご飯食べるのって大好きなんだ。なので十分ですよ」
「そうですか? いや、その提案はかなり……嬉しいんです。でも、出会って数時間の他人にそこまでしてもらわないでも……」

 ノーマンは○○の案を聞いて、どこか嬉しげに反応する。けれども、まるで目が覚めたみたいに遠慮の言葉を口にした。ふらふらと片手を振りながら、ノーマンは慎ましげに眉を下げる。

「あら……そういえば」
「はい、なのでここら辺で……」
「まだ君と出会って数時間しか経っていないのですねぇ。楽しくて気がつかなかったな、びっくりです!」

 せかせかとその場から去ろうとしたノーマンであったが、そんな彼に○○は朗らかにはしゃぐ。
 ノーマンにとってはたったの数時間だったのに、○○にとっては楽しいひとときだった。それを包み隠さず率直に述べる○○は、いつだって無垢な人柄が表れている。
 ぽかぽかと破顔一笑する○○に、ノーマンはじんわりと心が溶かされていくようだった。ノーマンは進もうとしていた一歩を後ろに下げて、○○に向き直る。

「はは、確かにそうだ。俺も凄く……楽しかったんです。だから、やっぱりお邪魔してもいいですか?」

 ○○に尋ねるノーマンは、慣れなさそうに幼なげな綻びをこっそり見せる。彼のアンサーに勿論ですと頷いて、○○はうきうきとノーマンの片手を引いた。


◆◆◆


「ただいま〜」
「あぁ、おかえり」

 ドアを開けながら、○○が帰宅を告げる。それに対して返答する声が伝わってきて、誰もいないと思い込んでいたノーマンは耳を欹てた。居間の扉からひょっこりと姿を見せた人物は、杖を突いてこちらへとやってくる。

「おじいちゃん、こちらはノーマンくん。今日お友達になったんです〜」
「ノーマンと申します。いきなりすみません」
「ノーマンくん、だね。いらっしゃい」

 垂れた目元に、ふんわりとした癖毛。○○とよく似た柔和な風采の老人は、どうやら彼の祖父のようだ。突然訪れたノーマンを、〇〇の祖父は寛容に歓迎する。

「上でご飯を食べたいと思っているんだけどいいかな?」
「構わないよ。ゆっくりしていくといい」
「ありがとうございます……! 美味しくいただきます」
「喉に詰まらせないように気をつけるんだよ……だなんて、僕が言えることでもないか」

 円やかに冗談を挟む彼に、ノーマンはつい笑い声が零れる。○○に手招きされると、慌てて階段を登っていく。そんなノーマンを、○○の祖父はにこやかに見送った。
 

「お待たせいたしました〜」

 ウッドトレイに二つの皿を乗せて、○○が陽気に呼びかける。

「ありがとうございます。うわー美味そう……」
「だねぇ。ノーマンくんのナイスアイデアのおかげだよ」

 ミネストローネかドリアかと迷っていた○○に「半分こしてシェアしませんか」とノーマンが持ちかけてくれたことにより、○○はどちらとも購入することが出来た。もし一人であれば叶わなかったに違いない。
 ○○はローテーブルに食器を並べて、ノーマンの正面に座る。手芸店で手に入れた雑貨品を眺めていたノーマンも、それらをひっそり袋にしまった。

「それじゃあ食べましょうか」
「はい」

 軽やかに両手を握って、二人は神々への感謝、そして祈りを捧げる。いただきます、と音を揃えると、互いにスプーンを取って皿の中の景色をかき混ぜた。

「○○さんはお爺さんと二人で暮らしてるんですか?」
「えぇ。お若い頃に酷い戦傷を負ってしまったみたいでして。少しでも生活に不自由がなくなればいいなぁと思って、ここにお邪魔させていただいています」

 戦傷という単語を聞いて、ノーマンは○○の祖父が杖を持っていたことを思い出す。恐らく、足を悪くしているのだろう。彼の温和なオーラが、痛ましさを感じさせないようにしてくれていたのかもしれない。

「おばあちゃんも、ちょっぴり早めにお空の方にいかれたらしくて。私は会ったことがありませんが……母や父よりも、おばあちゃんにそっくりだとよく言われます」
「それは……きっと、優しい方なんですね」
「ふふ、お散歩は好きですかねぇ。お料理も出来なかったのかな?」
「何もないところで転けたかも?」
「目が離せなくて魅力的ですね〜」
「いや貴方のことですから!」

 え? と何も分かっていない○○に、ノーマンは呆れながらも愉快そうに瞼を重ねる。

「でもお爺さん、○○さんがいてくれて嬉しかっただろうな」
「そうでしょうか? 勝手に居座っているだけですけれど」
「なんて言うか……一人で暮らすのって、思いの外寂しいんですよね」

 ノーマンはワイシャツの襟をきゅっと扼して、白色にシワを刻んだ。

「俺、生まれはレイベクトなんです。こっちには色々あって引っ越してきて」

 レイベクト……となると、彼は隣国にあたる夏の都出身ということだろう。健康的な肌色に色素の濃い黒髪は、酷熱の地に住まうレイベクトの人々の特徴と当てはまる。

「私より歳も若いのに、一人暮らしだなんて凄いなぁ。尊敬です」
「まだ全然慣れなくて、手探りの毎日……って感じですけどね。朝には強くないんで、起きるのは昼になりがちだし、料理も質素なものしか作れなくて。夜の時間も、随分長く感じるようになりました」

 ドリアを口に運びながら、ぽつぽつとノーマンは会話を広げていく。○○もミネストローネを味わいながら、彼の話に耳を澄ませた。

「それでふと気づいたんですよ。朝起きれてたのは、母さんが布団を引っぺがしてくれてたから。美味い飯が食べれてたのは、料理上手な父さんが毎日作ってくれたおかげ。寝る時間まであっという間だったのは、弟が俺の長話を聞いてくれたからなんだって……」

 コト、とスプーンを皿に置いた音がやけに響く。ノーマンは懐かしむように記憶を回顧していた。彼の横顔は、夏の暮れのようにどこか切ない。

「こんなに寂しいだなんて、一人になるまで分からなかった。いや……俺の事情で家族に迷惑かけたのもあったんで、離れて暮らすべきではあったんですけどね。……だから……」

 暗い顔色で語るノーマンであったが、再度スプーンでドリアを掬うと、曇りを晴らすよう莞爾と微笑む。こちらに振り向いた彼の髪が、ひんやりと風鈴みたいに揺れた。

「○○さんのおかげで、久々に飯が美味いなーって思えたんです。本当は家に帰りたくなくて……貴方には、今日で何回助けられたんだろう」

 数えきれないな、と笑うノーマンの青緑の双眼が、きらきらと煌めく。爽やかな輝きが酷く焼き付いて、○○はある心当たりにころっと目を見開いた。

「あ……! そうです、私……」

 ○○は瞬きひとつせず、ノーマンを見つめる。

「君の瞳がね、あれにそっくりだなぁって思ったんだ! お店で見かけたガラス片……確か名前は……」

 ――シーグラス。

 黄昏時の帰り道に言いかけた答えを、○○はノーマンに届ける。
 〇〇が手芸店で最初に視線を奪われたのは、あのシーグラスだった。名前すら知らなかった○○の袖を引っ張って心を射止めた、さざ波の旅人。

「……俺の目が、シーグラスに?」

 消え入りそうに、唇を震わせながらノーマンは呟く。彼は思いがけないことでも聞いたかのように、ただ唖然として声を失っていた。彫像みたいに固まった指先からスプーンが滑っていって、机に転げ落ちる。はっとして、○○は地面に横たわるスプーンを拾ってから、ノーマンに渡してやろうともう一度顔を合わせた。

「……!」

 ゆくりなくも、○○は再び呼吸を忘れさせられた。

 何故なら……ぽろ、ぽろ、とノーマンの頬に大きな雫が滴っていたのだから。
 いけない、自分は言ってはならないことを、口にしてしまったのかもしれない。○○はいつになく泡を食って、スプーンを周辺へと適当に放ると、ノーマンに手を差し伸べようとした。

「! あれ、俺、なんで……す、すみません……!」

 けれど、ノーマンはその手から遠ざかるように、必死にその瞳を腕で隠そうとする。彼がどれだけ擦って拭っても、とめどなく流れる潮は引かない。迫り上がるような熱が喉を刺激して、求めてもいない苦痛に堪えきれず咳が止まらなかった。○○はすぐさま立ち上がって、彼の隣に座り込む。○○はノーマンの背中を摩りながら、ただ口を噤んでいた。

「……さっきの人も、そうでした。毎日家を訪ねてきた女性も、隣に住む女の子も、街ゆくご婦人も……皆口を揃えて言ってくれます。俺のこの目は宝石のように美しいと、時には朝に輝く海のターコイズブルーを宿したようだと、次には梅雨晴れの澄んだ青空そのものなんだって……」

 雨粒がレンズを叩いて、景色を濁りで濡らす。無気力に眼鏡を外すと、ノーマンは賛美の捧げられた青緑色を閉じた。居場所のない悲しみを吐き出すみたいに、一筋の海を落としていく。

「光栄なことだ……。そのはず、なんです。だけど……彼女たちはその言葉を、俺が欲しいものなんだって、勘違いをしてる。水面下で彼女たちは、俺の知らない争いを起こしてて……。俺はきっと、その勝利の対価なんだと、思わずにはいられなかった」

 そんな価値なんて、俺にはないのに。

「いくら断っても無駄で、いつしか家から出るのも怖くなりました。弟にそっくりな見た目が、嫌いになってしまいそうで。もう駄目かもしれないって、諦めかけてました。……でも、でも……っ!」

 ゆっくりと、壊れてしまわぬよう、湿ったまつ毛の奥に閉ざされたそれを開く。彼の視界には、たった一人。麹色の青年が映されていた。沈痛により歪められた眉が、段々と安らいでいく。

「貴方はこの目を……シーグラスのようだと、そう言ってくれた。俺の大好きな、シーグラス……!」

 ノーマンは整わない息遣いで体を揺らしながら、一言一言を宝物のように並べていく。大好きだと、泣き腫らした顔で口角を上げる彼は、心の底から幸せで仕方がないと感極まった。そばにいることしか出来なかった〇〇は、彼のちょっぴり幼い笑い方に安堵して、目尻に溜まる涙をそっと掬ってやる。

 何度も何度も激浪にのまれて、酸素すら目一杯吸い込めず、いつ溺れてしまってもおかしくなかった、彼の長い長い旅路。だけれど、その果てに辿り着いたものが、このあたたかい雫だったのなら。優しい青年が望んで流した、喜びから生まれた涙なのならば。きっとそれは、何よりも美しくて、愛おしいのだと、そう思った。

「シーグラスも君も、とっても可愛らしいですからねぇ」
「可愛いって……俺も!? は、初めて言われたな……」
「あらあら、皆様はお気づきになられていないのかな? それはちょっぴり勿体無いなぁ。今日出会った私ですら、分かっちゃうくらいなのですけれどね〜」
「えぇー……?」

 綺麗やかっこいいなら身に余るくらい貰ってきたが、可愛い……には馴染みのないノーマンは、気恥ずかしそうに目線を逸らす。合点のいかない態度で眼鏡を拭く彼に、○○は「かわいい~」と思わずほっぺたに両手を当ててうっとりする。

「あとね、おじいちゃんの愛用している蛇柄のニット帽も、ノーマンくんの瞳と同じ色なんですよ〜。だから尚更ときめいてしまって……」
「この色で蛇柄の……ニット帽……!? その、なんというか、結構ワイルドですね……」

 鮮やかな青緑を被る〇〇の祖父を思い浮かべて、ノーマンはつい吹き出す。いや、似合っていないわけではないのだが、落ち着いたあの人がまさか蛇柄を選ぶだなんて。絶妙なチョイスに、口元を抑えてプルプルと笑いを堪える。フェルトハットやベレー帽だとか、他にももっとあっただろうに。もし受け取ってくれるのなら、作ってプレゼントするのもありかもしれない、とノーマンは脳内で構想を練った。

「さて……ご飯、食べちゃいましょうか。もう冷めちゃったかな? 温め直してきますね」
「すみません、つい勝手に話し込んじゃって……」
「いえいえそんな、私は君のお話がいっぱい聞けて楽しかったな。あ、そうだ! 下に行くなら、おじいちゃんも呼んで三人でお話ししませんか? おじいちゃんもね、ノーマンくんのこと知りたそうにうずうずしていらっしゃったので」
「そうだったんですか? そりゃ嬉しいな……俺でよかったら、ぜひ! 俺も一緒に手伝います」

 ウッドトレイを持って起き上がる〇〇の横に、眼鏡をかけ直したノーマンが皿を持って付き添う。ノーマンの方が僅かながら高いが、二人ともさほど背丈は変わらない。そのおかげで彼のシーグラスがよく見つめられることに気がついて、〇〇は嬉しそうに笑いかける。

「蛇柄のニット帽も、お願いしたら被ってくれると思いますよ。おじいちゃん、あぁ見えて目立ちたがり屋なので」
「まっマジですか!? み、見たい……!!」
「決まりですね!」

おじいちゃんファッションショーに胸を躍らせたノーマンは、〇〇よりも先に階段を降りていく。砂浜を裸足で走るように無邪気な彼の後ろ姿を見守りながら、〇〇も部屋から出ていった。
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