傷痕
足が竦む。
手が震える。
瞬きができない。
全身の血が沸騰し、頭から急速に血の気が引いていく。
「キリル様!」
巨大な両刃の武器を握ったまま、キリルはその場に縛り付けられたかのように動けなかった。琥珀色の瞳を見開いて全身を強ばらせ、荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
目の前に迫るのは、魚人の大群。ここ数年のうちに急増した異形の魔物たちは、ただ立ち尽くす少年をじわじわと包囲し始めている――。
「アンダルク! 雷魔法で追っ払えないの!?」
「だめだ。この距離ではキリル様まで……」
「じゃあこのまま黙って見てろって言うわけ!? 多少のダメージは覚悟の上で、とりあえずあいつらの動きを封じなきゃ!」
セネカの切羽詰まった声に、アンダルクは魔法の詠唱をしかけるもすぐにやめ、歯を食いしばって俯いた。あくまでもキリルを巻き込みたくないらしい。
「ちょ、ちょっと、何やってんのよ! それじゃあキリル様は本当に……」
「――僕がやります」
この場には似つかわしくない静かな声が、セネカを制した。
前に進み出たのは、群島解放戦争の英雄である少年、カイ。中性的な顔立ちと声の持ち主だが、高い戦闘能力と冷静な判断力、さらに真の紋章の一つ『罰の紋章』の継承者であり、現在は、紋章砲を追って旅をしているキリル一行に「仲間」として同行している。特にキリルとは同じ年頃だということもあって、打ち解けるのは早かった。
互いに色々な話をしたが、まだ全てを話したわけではない。だからカイは、キリルが時折見せる〝翳り〟が気になっていた。幼少時に出会ったキリルの父・ウォルターが事故で亡くなったというのが関係しているのだろうが、それだけではない気がしてならない。
……今、キリルを救えるのは。
前方を見据えて前進し、カイは、キリルと向かい合って足を止めた。二人目の人間に気付いた魚人たちがいきり立ち、威嚇の声を出して身構える。
しかしカイは、まったく動じなかった。真っ直ぐにキリルを見つめて右手を差し伸べ、囁くように声を掛ける。
「逃げるんだ。お付きの人たちの側に。だから、僕の手を取って。ここで倒れるわけにはいかないだろう?」
「……う……うぅ……」
「大丈夫、必ず助ける。僕はいつでも君の味方だ。さあ、早く」
震えるキリルの手が伸ばされると、カイの右手はその手をしっかりと掴んで引き寄せた。そしてそのまま、二人は全速力で駆け出す。
ある程度走ったところでカイはキリルを背に庇い、怒りに燃える魚人の群れに向き直った。今にも飛びかかってきそうな魔物の群れを睨んだまま、後方に控えるアンダルクとセネカへ声だけを飛ばす。
「キリルくんを連れて、ここから離れてください」
「カイ君! あなた、まさか……!」
「すぐに戻ります。少し紋章の力を借りるだけだから……」
「必ずお戻りください、カイ様! ……行きましょう、キリル様。今はカイ様を信じるしかありません」
「……!」
カイの背中を見つめたまま何かを言おうとするキリルの手をアンダルクが掴み、走って行く。なおも後ろを振り返ろうとするキリルの視界を遮るように、セネカがその背を押した。三人が目指す先には、今は亡きウォルターの『使い魔』であったヨーンが待っている。
人がいなくなったことを確認すると、カイは『罰の紋章』を宿した左手を、魔物の群れへとかざした。手袋に隠された左手から赤い光が漏れ始め、宙に禍々 しい紋様が浮かび上がる。力を高めていくごとに光は強さを増し、カイの姿は黒い影となって光の中へと飲み込まれて行く。
「――わが真なる罰の紋章よ……」
赤い鉢巻をはためかせ、自らの左手に意識を集中させた『群島諸国の英雄』は、今にも暴走しそうなくらいに高まった紋章の力を一気に解放した。
++++
約束どおり、カイは何事もなかったかのように帰ってきた。
多くの仲間たちから無事を喜ばれ、中でもセネカからは熱い抱擁を受けて、常に淡々としている少年の顔が耳まで真っ赤になるというひと幕もあった。「英雄」といえども、年上の女性には敵わないらしい。
頬摺りせんばかりの熱烈な抱擁からようやく解放されて、カイはふらつきながらも思考を元に戻した。キャラバン内に張り巡らされたテントの一つから出てきたアンダルクが、カイを見るなり安堵の表情を浮かべる。
「カイ様! ご無事で良かった……」
「心配かけてすみません。ほんの一部の力を使っただけだから、大丈夫です。……キリルくんは?」
「今はだいぶ落ち着かれたようで、そこのテントの中で休まれています。ヨーンが傍についているので、お話ができるくらいには回復していらっしゃるかと」
「……もう少し時間を置いたほうがいいですか?」
「いいえ。しきりにカイ様を心配していらしたので、すぐに行ってさしあげてください。……私とセネカもできるだけのことはしたつもりなのですが、今のキリル様には、カイ様の存在が非常に重要なのです」
「分かりました」
生真面目な従者に真顔で言われて、カイは頷いた。幼い頃から一緒だった従者が言うのだ、キリルが己 に大きな信頼を寄せているというのは間違いないだろう。
テントの中に入ると、簡素なベッドの上で上半身を起こしたキリルの傍らに、ヨーンが立っていた。ヨーンは無言でカイを振り返り、それまで虚ろな表情をしていたキリルが、喜びに顔を輝かせる。
「大丈夫?」
「カイ! ……良かった、無事だったんだね……」
「君も元気そうで良かった。……あ、ごめんなさい、僕が出ます。僕よりヨーンさんが傍にいたほうが……」
「待って!」
テントから出て行こうとするヨーンを引き止めるが、カイ自身もキリルから引き止められた。勢い良く身を乗り出したキリルにがっちりと腕を掴まれたカイが、踏み出しかけた足を止めて振り向く。
「……キリルくん?」
「カイには、まだ言ってなかったことがあるんだ。嘘をついていたわけじゃないけど、曖昧にしか話してなかった。……この旅を続ける限り絶対に避けられないことだから、ちゃんと話しておきたいんだ……」
「……」
腕を掴む手の力が緩められ、ゆっくりと離れて行く。
何かを決意したように拳を握り締めて俯くキリルの傍に、カイが歩み寄った。気を利かせたのかヨーンはいつの間にか出て行ったようで、今は二人きりだ。
ベッドに浅く腰掛けたカイは、キリルが口を開くのを待った。自分から話すとは言ったものの、いざ口にするとなると躊躇 われることらしい。唇を噛みしめて浅く呼吸を繰り返し、キリルは、カイだけが聞き取れるほどのか細い声で言った。
「僕の父さん……ウォルターは、紋章砲の犠牲者の一人なんだ。〝スティール〟っていう海賊が持っていた紋章砲で、……魚人に、変えられて……」
「……」
「〝父さんだったもの〟は、僕たちに襲いかかってきた。僕は、その場から一歩も動けなかった……あの時アンダルクが傍にいてくれなかったら、僕はここにはいない。彼は今でも、僕を守るために父さんを手にかけたことを悔やんでいるけど……〝あれ〟は、心を持たない怪物だった。僕たちの顔の見分けも、つかなかったくらいだから。……だから僕は、父さんの遺志を継いで、紋章砲を追い続けなきゃいけない。これ以上の犠牲を出さないためにもすべての紋章砲を破壊して、人々が二度とこんな思いをしなくて済むように、戦い続けなきゃいけないんだ……」
語尾がわずかに震えたが、その言葉には、強い決意が秘められていた。
この先も、多くの紋章砲の犠牲者と関わることになるだろう。行く先々で心に負った深い傷を抉られ、苦しむことになるだろう。
それでも、キリルは戦い続けることを選んだ。父の遺志だけではなく、自分の意志でも。世界の脅威となっている紋章砲を無くそうと、未知の存在に立ち向かうことを決めたのだ。
「……大変だったね。話してくれて、ありがとう」
当時の光景を思い出したのか、握った拳を胸に当てて蹲 るキリルへ、カイは礼を言った。背中を丸め、俯いて小さく首を振る少年の表情は見えない。
片手を伸ばして、小刻みに震える肩を抱き寄せた。一瞬、びくりと身を強張らせてキリルがわずかに顔を上げかけたが、目を合わせられずに再び俯いてしまう。それでも抵抗はせず、素直に身を預けてくるキリルへ、カイは続けた。
「君は強いね。先が見えない上に辛いことばかりの戦いなのに、ちゃんと前に進んでる。大怪我をして三年間戦えなかったって言うのが、今の話のことだったんだね」
「……うん。アンダルクたちには、本当に迷惑をかけちゃって……」
「いや、そうは思っていないはずだよ。君をどう元気づけようかと悩んではいただろうけど。彼らはどんなことがあってもついてきてくれる、心強い味方だ」
「……」
「僕もできる限り力を貸すから、一緒に頑張ろう。今日はゆっくり気持ちを落ち着けて、明日からまた頑張ればいい」
肩を抱く腕の温もりや耳元で囁かれる声が優しくて、心地が良い。
様々な感情が一気に押し寄せてきて、喉の奥が熱くなった。それを察したのか、カイのもう片方の手が、キリルの艶やかな黒髪をそっと撫でる。――もう、我慢できなかった。
「……ごめん……少しだけ、このままで……」
「……いいよ。君の気が済むまで、肩を貸すから」
「……うん。ありがとう……」
カイの腕の中で、キリルはしばらく声を殺して泣いた。嗚咽に震える背中をさすってやりながら、カイは天井を仰ぎ、ゆるゆると息を吐き出す。
どんなに辛い現実に直面しても、彼は必ず目的を遂げることができるだろう。ずっと溜め込んでいた感情を涙と共に洗い流して、明日からはまた、力強く歩み始めるはず。かつての自分がそうだったように、彼にも多くの仲間たちがいるのだから。
人の言葉は話せないが空気は読むことのできるヨーンが、キリルのテントを守るようにして立っている。
外では、キリルの付き人であるアンダルクとセネカがそわそわと顔を見合わせ、しばしの間、入るタイミングを窺っていたのだった。
手が震える。
瞬きができない。
全身の血が沸騰し、頭から急速に血の気が引いていく。
「キリル様!」
巨大な両刃の武器を握ったまま、キリルはその場に縛り付けられたかのように動けなかった。琥珀色の瞳を見開いて全身を強ばらせ、荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
目の前に迫るのは、魚人の大群。ここ数年のうちに急増した異形の魔物たちは、ただ立ち尽くす少年をじわじわと包囲し始めている――。
「アンダルク! 雷魔法で追っ払えないの!?」
「だめだ。この距離ではキリル様まで……」
「じゃあこのまま黙って見てろって言うわけ!? 多少のダメージは覚悟の上で、とりあえずあいつらの動きを封じなきゃ!」
セネカの切羽詰まった声に、アンダルクは魔法の詠唱をしかけるもすぐにやめ、歯を食いしばって俯いた。あくまでもキリルを巻き込みたくないらしい。
「ちょ、ちょっと、何やってんのよ! それじゃあキリル様は本当に……」
「――僕がやります」
この場には似つかわしくない静かな声が、セネカを制した。
前に進み出たのは、群島解放戦争の英雄である少年、カイ。中性的な顔立ちと声の持ち主だが、高い戦闘能力と冷静な判断力、さらに真の紋章の一つ『罰の紋章』の継承者であり、現在は、紋章砲を追って旅をしているキリル一行に「仲間」として同行している。特にキリルとは同じ年頃だということもあって、打ち解けるのは早かった。
互いに色々な話をしたが、まだ全てを話したわけではない。だからカイは、キリルが時折見せる〝翳り〟が気になっていた。幼少時に出会ったキリルの父・ウォルターが事故で亡くなったというのが関係しているのだろうが、それだけではない気がしてならない。
……今、キリルを救えるのは。
前方を見据えて前進し、カイは、キリルと向かい合って足を止めた。二人目の人間に気付いた魚人たちがいきり立ち、威嚇の声を出して身構える。
しかしカイは、まったく動じなかった。真っ直ぐにキリルを見つめて右手を差し伸べ、囁くように声を掛ける。
「逃げるんだ。お付きの人たちの側に。だから、僕の手を取って。ここで倒れるわけにはいかないだろう?」
「……う……うぅ……」
「大丈夫、必ず助ける。僕はいつでも君の味方だ。さあ、早く」
震えるキリルの手が伸ばされると、カイの右手はその手をしっかりと掴んで引き寄せた。そしてそのまま、二人は全速力で駆け出す。
ある程度走ったところでカイはキリルを背に庇い、怒りに燃える魚人の群れに向き直った。今にも飛びかかってきそうな魔物の群れを睨んだまま、後方に控えるアンダルクとセネカへ声だけを飛ばす。
「キリルくんを連れて、ここから離れてください」
「カイ君! あなた、まさか……!」
「すぐに戻ります。少し紋章の力を借りるだけだから……」
「必ずお戻りください、カイ様! ……行きましょう、キリル様。今はカイ様を信じるしかありません」
「……!」
カイの背中を見つめたまま何かを言おうとするキリルの手をアンダルクが掴み、走って行く。なおも後ろを振り返ろうとするキリルの視界を遮るように、セネカがその背を押した。三人が目指す先には、今は亡きウォルターの『使い魔』であったヨーンが待っている。
人がいなくなったことを確認すると、カイは『罰の紋章』を宿した左手を、魔物の群れへとかざした。手袋に隠された左手から赤い光が漏れ始め、宙に
「――わが真なる罰の紋章よ……」
赤い鉢巻をはためかせ、自らの左手に意識を集中させた『群島諸国の英雄』は、今にも暴走しそうなくらいに高まった紋章の力を一気に解放した。
++++
約束どおり、カイは何事もなかったかのように帰ってきた。
多くの仲間たちから無事を喜ばれ、中でもセネカからは熱い抱擁を受けて、常に淡々としている少年の顔が耳まで真っ赤になるというひと幕もあった。「英雄」といえども、年上の女性には敵わないらしい。
頬摺りせんばかりの熱烈な抱擁からようやく解放されて、カイはふらつきながらも思考を元に戻した。キャラバン内に張り巡らされたテントの一つから出てきたアンダルクが、カイを見るなり安堵の表情を浮かべる。
「カイ様! ご無事で良かった……」
「心配かけてすみません。ほんの一部の力を使っただけだから、大丈夫です。……キリルくんは?」
「今はだいぶ落ち着かれたようで、そこのテントの中で休まれています。ヨーンが傍についているので、お話ができるくらいには回復していらっしゃるかと」
「……もう少し時間を置いたほうがいいですか?」
「いいえ。しきりにカイ様を心配していらしたので、すぐに行ってさしあげてください。……私とセネカもできるだけのことはしたつもりなのですが、今のキリル様には、カイ様の存在が非常に重要なのです」
「分かりました」
生真面目な従者に真顔で言われて、カイは頷いた。幼い頃から一緒だった従者が言うのだ、キリルが
テントの中に入ると、簡素なベッドの上で上半身を起こしたキリルの傍らに、ヨーンが立っていた。ヨーンは無言でカイを振り返り、それまで虚ろな表情をしていたキリルが、喜びに顔を輝かせる。
「大丈夫?」
「カイ! ……良かった、無事だったんだね……」
「君も元気そうで良かった。……あ、ごめんなさい、僕が出ます。僕よりヨーンさんが傍にいたほうが……」
「待って!」
テントから出て行こうとするヨーンを引き止めるが、カイ自身もキリルから引き止められた。勢い良く身を乗り出したキリルにがっちりと腕を掴まれたカイが、踏み出しかけた足を止めて振り向く。
「……キリルくん?」
「カイには、まだ言ってなかったことがあるんだ。嘘をついていたわけじゃないけど、曖昧にしか話してなかった。……この旅を続ける限り絶対に避けられないことだから、ちゃんと話しておきたいんだ……」
「……」
腕を掴む手の力が緩められ、ゆっくりと離れて行く。
何かを決意したように拳を握り締めて俯くキリルの傍に、カイが歩み寄った。気を利かせたのかヨーンはいつの間にか出て行ったようで、今は二人きりだ。
ベッドに浅く腰掛けたカイは、キリルが口を開くのを待った。自分から話すとは言ったものの、いざ口にするとなると
「僕の父さん……ウォルターは、紋章砲の犠牲者の一人なんだ。〝スティール〟っていう海賊が持っていた紋章砲で、……魚人に、変えられて……」
「……」
「〝父さんだったもの〟は、僕たちに襲いかかってきた。僕は、その場から一歩も動けなかった……あの時アンダルクが傍にいてくれなかったら、僕はここにはいない。彼は今でも、僕を守るために父さんを手にかけたことを悔やんでいるけど……〝あれ〟は、心を持たない怪物だった。僕たちの顔の見分けも、つかなかったくらいだから。……だから僕は、父さんの遺志を継いで、紋章砲を追い続けなきゃいけない。これ以上の犠牲を出さないためにもすべての紋章砲を破壊して、人々が二度とこんな思いをしなくて済むように、戦い続けなきゃいけないんだ……」
語尾がわずかに震えたが、その言葉には、強い決意が秘められていた。
この先も、多くの紋章砲の犠牲者と関わることになるだろう。行く先々で心に負った深い傷を抉られ、苦しむことになるだろう。
それでも、キリルは戦い続けることを選んだ。父の遺志だけではなく、自分の意志でも。世界の脅威となっている紋章砲を無くそうと、未知の存在に立ち向かうことを決めたのだ。
「……大変だったね。話してくれて、ありがとう」
当時の光景を思い出したのか、握った拳を胸に当てて
片手を伸ばして、小刻みに震える肩を抱き寄せた。一瞬、びくりと身を強張らせてキリルがわずかに顔を上げかけたが、目を合わせられずに再び俯いてしまう。それでも抵抗はせず、素直に身を預けてくるキリルへ、カイは続けた。
「君は強いね。先が見えない上に辛いことばかりの戦いなのに、ちゃんと前に進んでる。大怪我をして三年間戦えなかったって言うのが、今の話のことだったんだね」
「……うん。アンダルクたちには、本当に迷惑をかけちゃって……」
「いや、そうは思っていないはずだよ。君をどう元気づけようかと悩んではいただろうけど。彼らはどんなことがあってもついてきてくれる、心強い味方だ」
「……」
「僕もできる限り力を貸すから、一緒に頑張ろう。今日はゆっくり気持ちを落ち着けて、明日からまた頑張ればいい」
肩を抱く腕の温もりや耳元で囁かれる声が優しくて、心地が良い。
様々な感情が一気に押し寄せてきて、喉の奥が熱くなった。それを察したのか、カイのもう片方の手が、キリルの艶やかな黒髪をそっと撫でる。――もう、我慢できなかった。
「……ごめん……少しだけ、このままで……」
「……いいよ。君の気が済むまで、肩を貸すから」
「……うん。ありがとう……」
カイの腕の中で、キリルはしばらく声を殺して泣いた。嗚咽に震える背中をさすってやりながら、カイは天井を仰ぎ、ゆるゆると息を吐き出す。
どんなに辛い現実に直面しても、彼は必ず目的を遂げることができるだろう。ずっと溜め込んでいた感情を涙と共に洗い流して、明日からはまた、力強く歩み始めるはず。かつての自分がそうだったように、彼にも多くの仲間たちがいるのだから。
人の言葉は話せないが空気は読むことのできるヨーンが、キリルのテントを守るようにして立っている。
外では、キリルの付き人であるアンダルクとセネカがそわそわと顔を見合わせ、しばしの間、入るタイミングを窺っていたのだった。
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