妖魔流軽度健康診断

 これはオウミでの生活がある程度安定してきた、とある日のこと――。

 茶の間に鳴り響いた玄関チャイムの音に、部屋の中を掃除していたルージュが手を止める。
「誰だろう。またご近所さんかな」
「こんな昼間にか? 連中が来るとしたら夕方以降だろう」
「とりあえず出るね。――はい」
 自然と来客対応担当になっているルージュが早足で玄関へと向かい、扉を開けた。そこにいたのは――。
「……ヌサカーン?」
 ルージュの声に、ソファーの上で本を読んでいたブルーが顔を上げた。ヌサカーンといえばかつてのブルーの仲間の一人であり、自分たちの命の恩人でもある。真っ先にこの家の場所を教えた彼の訪問自体は充分に想定内のことなのだが、意外に思ったのは、その訪問方法だ。
「数週間ぶりだな。息災か?」
「はい、おかげさまで。でも貴方は上級妖魔なのだから、何も玄関から訪ねて来なくても」
「ここは君たち二人の家だ。部外者である私が突然室内に侵入したら、IRPOで言うところの不法侵入罪、そして何より、プライバシーの侵害になるだろう? 私とて、それくらいはわきまえている」
「……それもそうですね。わざわざありがとうございます。お茶を用意するので、どうぞ、中へ」
 ルージュと共に、ヌサカーンが部屋の中に入ってくる。ソファーの横に立っているブルーと目が合うと、ヌサカーンは、微かに目を細めた。二人の間に再会の喜びといった雰囲気は無いが、少なくとも拒絶や殺気といったものは存在しないので、ルージュは安心して、キッチンへと向かって行く。
「久しぶりだな、ブルー。目に見えて、顔色が良くなった」
「……」
「用件は何だ、という顔をしているな。単刀直入に言おう。私がここへ来た理由は、経過観察――つまり、軽い診察をするためだ。君たちは、私の元患者だからな。何も珍しいことではなかろう?」
「……本当に、それだけのために?」
「もちろん。用が済んだら、すぐに帰る。君との旅が終わった今、私も決して暇ではないのでな」
 この妖魔医師は、相も変わらずあの薄暗く湿っぽいクーロンの裏通りで、多くの訳あり患者を診ているのだろう。自分たちもその一人ならぬ二人に過ぎないはずだが、それなりに大掛かりな再生術を行使したというのだ。「その後」に興味を持たれてもおかしくはないかと、ブルーは思う。妖魔の行動原理など、そんなものだ。結果的におのれにプラスに働くのであれば、好きにさせておけばいい。腕だけは、信頼している。
「ちょうどいい、まずは君からよう。そのまま、楽にして」
 だからヌサカーンの指示に、ブルーは素直に従った。すぐにヌサカーンが向かい側に立ち、ブルーの頭から爪先までをまじまじと見つめる。それから髪や顔、首筋に触れ、最後に胸元から聴診器のチューブを突っ込まれてブルーはわずかに身じろいだが、ヌサカーンは表情を変えずに、淡々と診察を続けた。こうしていると、人間の医者とほとんど変わらないように見える。
「……ふむ。寝込んでいた間に落ちた体重はまだ戻りきってはいないようだが、至って健康体だな。一度死にかけた君がこの状態ならば、ルージュも心配は要るまい。一応、彼の診察もさせてもらうが」
「見て、軽く触れただけで体調が分かるものなのか」
「何度君をてきたと思っている。君の体のことは、君以上に把握しているつもりだ」
 ヌサカーンの言葉に一瞬ぎょっとしたが、この妖魔医師には、心の中で考えていることまで筒抜けだったことが多い。やはりどうあっても彼には敵わないのだと、ブルーは改めて思い知る。そんなブルーへ、ヌサカーンはさらに続けた。
「命を落としかけていた君を見た時、いっそ私の血を与えて妖魔にしてしまおうかとも思ったのだがな。妖魔になれば人間よりも強靭な生命力を得られる上、年老いて、その美貌が損なわれることも無くなる。実に、あらがいがたい誘惑だった」
「! ……」
「だが私は、君を支配したいとは思わない。妖魔のおきてに縛られ、覇気の無くなった君など退屈でしかないからな。まあ中には虜化妖力が作用せずにあるじから逃れ続け、それどころかたおしてしまった者もいたが、それは極めてまれなケースだ。君がそのまれなケースになる可能性は限りなく低く、そのような危険な賭けを、私は好まない」
「……貴方が理性的な妖魔で良かった。そしてそのまれなケースとは、アセルスや零姫のことですね。僕は彼女たちと旅をして魅惑の君の最期を見届けたから、よく知っています」
 盆を持ってキッチンから戻ってきたルージュが、静かに口を挟んだ。琥珀色の熱い液体が入った三客のティーカップからは白い湯気と淹れたての紅茶の香りが漂い、三人の鼻腔をくすぐる。
「紅茶か。良い香りだ」
「妖魔の貴方の口に合うかは分かりませんが」
「紅茶は好物だ。ただし、質の良い茶葉に限るがな。フレーバーティー以外の純粋な紅茶は久方振りだな」
「それは良かった。せめて、少しでも癒されて行ってください」
 ルージュがソファーの向かい側に椅子を用意し、自らはそこへ座る。ソファーにはブルーとヌサカーンが腰掛け、三人はしばし無言で紅茶の香りと味を楽しんだ。横に添えたビスケットも食べてから、ルージュは再び口を開く。
「……素朴な疑問なんですが、上級妖魔が気に入った人間の男を妖魔にした場合は、何という肩書きになるんです? 『寵姫』は、女性に対して使われるものだろうし」
「……どういう質問だ」
 ヌサカーンが答えるより早く苦い顔で突っ込んだブルーに、ルージュは悪びれもせずに続ける。
「え、気にならないかい? 妖魔って人間より性別の概念が曖昧だっていうから、そういうケースもあるんじゃないかって。『寵臣』、でいいのかな。それとも何か、別の呼び方が?」
「……どうでもいい……」
「ああ、肩書きなどどうでもいいな。重要なのは、いつまでも私が望む存在であること、だ。永遠に美しく、気高く、私を飽きさせない者。割と条件は揃っていたのだが……」
「そんな目で私を見るな!」
 残念だ、と言わんばかりに見つめてくるヌサカーンに、ブルーはさらにツッコミを入れることになった。

「うむ、君も健康体だな。再生の後遺症も見られない」
「ありがとうございます。旅の間によくお世話になったのはブルーのほうなのに、僕の分離と再生まで……本当に、どうお礼を返していけばいいか……」
「礼など要らんよ。興味本位でおこなったことだ。……さて、私はそろそろ。メカ以外のあらゆる種族の患者が、ひっきりなしに来るものでな」
 残りの紅茶を飲んだヌサカーンがソファーから立ち上がり、ルージュとブルーを見回した。二人も、妖魔医師を見送るために立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました。紅茶等をご馳走するくらいしかできませんが、またぜひ、お越しください」
「……医者の不養生、ということわざがある。いくら貴方が妖魔でも、自らの健康管理を怠って病気とばかり向き合っていたら、いずれ倒れるか、身を滅ぼすことになりかねない。妖魔だけがかかる病も、絶対に無いとは言えない……人間である私たちより先に逝くことがないよう、用心することだ」
 ブルーの言葉を聞いて、ヌサカーンはわずかに眉を上げた。それから少しだけ口元に笑みを浮かべ、彼はゆっくりと頷く。
「忠告、感謝する。私とて、美しいものはなるべく長く愛でたいのでな。――では」
 そう言って妖魔医師は、その場から一瞬で姿を消した。本来の、妖魔らしい退場の仕方だ。双子術士たちは、ヌサカーンが消えた空間から互いの顔へと、視線を移す。
「ヌサカーンは、君を気に入っているようだね。それに君も、あんな言葉を投げかけたくらいには彼を信頼している」
「……奴自身のことは、いまだによく分からん。きっと、この先も理解できないだろう。だが少なくとも、医者としての腕は信頼している。俺たちのことを被験体の一部として見ていたとしても、別に構わない。幾度となく救われた上、俺とお前がこうして生きているのは事実だからな」
「そうだね。でも本当に被験体として見ていたら、君を妖魔にしてまで生かそうとは考えなかったと思うんだけど。おそらく、君は彼好みなんだろうね」
「……」
 思い当たる節があったのか、眉間に皺を寄せて黙り込んでしまったブルーから離れ、ルージュは手際よくティーカップを片付け始める。
 流水音と陶器がこすれ合う音を聞きながら、ブルーはソファーの上でしばらく、ヌサカーンとの様々なやりとりを思い出しては首をひねっていたのだった。
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