青き術士の朝帰り

「大丈夫か?」
 戦闘を終えた途端によろめいたブルーへ、ヌサカーンが声を掛けた。相変わらず、めざとい妖魔だ。おのれのことをよく見ているし、隠し事をしていても、すぐに見抜かれてしまう。それが少し腹立たしいが、そのおかげで今まで何度も救われてきたことも事実なので、彼には頭が上がらない。一番の原因は、己の体力不足にある。
「……問題ない」
 それでも意地を張って足に力を込め、襲い来る眩暈めまいを押し殺したが、無駄な努力に終わった。瞬時にヌサカーンがブルーの背後へと回り、片手でその視界を覆ったからだ。
「っ!? 何を――」
「ドクターストップだ。その様子だと、君は次の戦闘中にダウンすることになるだろう。今、立っているのもやっとのはずだ」
「……」
「なんか今日は戦い方にムラがあるなぁとは思ってたけどよ、やっぱり不調だったのか。大丈夫か?」
「じゃあ、今日はここまでだな。俺も酒が切れちまったから、早いところ補充したいと思っていたところだしな」
「また無茶をしてたのね。まったく、相変わらず意地っ張りなんだから。ちゃんと先生にてもらうのよ」
「ボク、もうヘトヘトー! 早く宿屋に行って休もうよ!」
「今日のブルー様は、特に運動性と集中力の低下が見られます。さらに知力・霊感・丈夫さも通常時と比べ若干の変動有り。ヌサカーン様のおっしゃるとおり、早急な休息が必要と思われます」
 仲間たちにもこう言われてしまっては、今日のところは引き上げるしかない。ヌサカーンに支えられながら、ブルーは町への帰還を宣言する。
「皆、気を遣わせてすまない。私が未熟なばかりに。……宿へ向かう。近くに集まってくれ」
 ブルーの言葉に、仲間たちが彼の周りに集結する。全員が集まったのを確認してからブルーは『ゲート』を開き、仲間たちと共に町へと移動した。

 スクラップで出会った五人組がそれぞれ部屋の中に消えて行った後、ヌサカーンは、仲間たちを無事部屋へ送り届けたことに安心したのか今にも倒れそうになっているブルーの体を抱きとめた。――これは、相当参っているな。全く抵抗しない青年の顔を、妖魔医師が覗き込む。
「うっすらとではあるが、目の下に青くまができている。血行不良によるものだな。寝不足か?」
「……実は……酷い悪夢を見て、夜中に一度、目が覚めた。そこから再び眠ったが、また……正直に言うと、今回が初めてではなく……」
「悪夢か。君のことだから、双子の兄弟に関する夢でも見たのかね」
「……」
「その顔は、図星だな。頻繁に悪夢を見るのは、それだけ君の心がささくれ立ち、不安定だからだ。君に課せられた使命を考えればそれも致し方ないのだろうが、君がこの先も旅を続けるには、まずはよく眠り、心身の回復に努めること。今の状態が続けば、君はまず間違いなく敗北する」
 ブルーの体がびくりと震え、息を呑んだ気配がヌサカーンに伝わる。おおかた宿敵である兄弟に敗れたか、追いつめられる夢でも見たのだろう。まったく、プライドは高いくせに、心身共にもろい術士殿だ。だから余計に放っておけないのだと、ヌサカーンは思う。
「やれやれ……つくづく、世話の焼ける術士殿だ。私がいなければ、君はとうの昔に死んでいただろうな。――今から移動する。しっかりつかまっていろ」
「……どこへ?」
「私の〝自宅〟だ。君がよく眠れるように」
 ヌサカーンの自宅。クーロン裏通りの彼の病院の手前にある扉の奥の、薄暗いプライベート空間。かつて口説かれた上に迫られ、危うい目に遭ったことを思い出してブルーは咄嗟に身をよじろうとしたが、妖魔医師は有無を言わさず青年を抱きかかえると、その場から一瞬で姿を消した。

◇◇

「これは、いわば睡眠薬だ。興奮を和らげ、自然に近い状態で脳を睡眠状態へ導く上、副作用や依存性といったものも出にくい。何、決して怪しい薬ではない。個人差はあるだろうが、効き目は確かなはずだ」
「……」
 ヌサカーンから薬を手渡されたものの、ブルーはそれをすぐに飲もうとはせず、目の前の男をじっと見つめた。明らかに、警戒している。この薬自体の効能を疑っているのか、寝ている間に何かされるのではないか――おそらく、両方だ。だが当のヌサカーンは特に気を悪くした様子もなく、グラスに水を注ぐと、それをテーブルの上に置いた。薬を飲むも飲まぬも自由だと言わんばかりに。
「病院に患者が来ているようだ。私はしばらくあちらにいる。寝巻はベッドの上に置いてあるから、自由に使うといい」
「……今回は、あなたを信用してもいいのだな?」
 ブルーの問いに、ヌサカーンはかすかに微笑んで頷く。
「もちろん。具合の悪い患者には、医者として適切な処置を施すだけだ」
「だがあなたは、やまいにしか興味がないのではなかったか?」
「基本はな。だが君は、死にそうな顔で私を頼ってきた。それを邪険にするほど、私は冷酷ではない。何より、君に道半ばで倒れられては困るからな。できるだけ長く生きて、私を楽しませてくれ」
「結局はそれか。ふ……いかにも妖魔らしい考え方だ」
「おや。君も、妖魔への理解が深まってきたかね」
「理解はできないが、慣れてきた。妖魔とは、そういうものなのだと」
 そう言ってブルーは薬と水を口に含むと、一気に飲み干した。それを見届けたヌサカーンは、
「――何も気にせず、ゆっくり休むといい。ではな」
 幼子に語りかけるように囁いて、消えた。

 ベッドの上に置いてあった簡素な寝巻は意外と肌触りが良く、なぜ妖魔であるヌサカーンの家にこんなものがあるのか不思議に思ったが、ありがたく使わせてもらうことにした。法衣や魔道着を脱ぎ、装飾品を外すと一気に体が軽くなり、寝巻に着替えて間もなく、ブルーはベッドへと倒れ込む。
(初めて連れ込まれた時にも思ったが……家の外観とあの男の性分からして殺伐としていそうなものなのに、妙に小奇麗な部屋だな。相変わらず薄暗いが、全体的な家具のデザインもなかなかで、嫌いじゃない。このベッドも一人用にしては大きく、寝心地もいい。趣味は悪くないようだ)
 アンティークショップで売っていそうな、ステンドグラス調のランプから漏れるほのかな明かりが心地良い。外から微かに聞こえる雨音と相まって、よく眠れそうだ。
(雨に降られるのは鬱陶しいが、雨音を聞くのは心地がいい。……こんなに静かなのは、久しぶりだ。あの男が近くにいて、外ではモンスターが徘徊しているはずなのに、不思議と生き物の気配がしない。まるで、世界に一人きりになったような……)
 あの男が、この辺り一帯に不思議な力でも働かせているのだろうか。上級妖魔であれば、それくらいのことは容易たやすいのかもしれない。相変わらず得体の知れない男だが、今は素直に感謝しておこうと、ブルーは思う。
 再度雨音に耳を傾け、これからのことを考えているうちに眠気がやってきて、やがてブルーは、徐々に眠りに落ちて行った。

 ヌサカーンが戻ってきたのは真夜中で(クーロンは表通り・裏通り共に常に薄暗くて朝晩の変化が分かりづらいが)、彼は音もなくベッドルームに現れると、すやすやと寝息を立てているブルーを見て、うっすらと微笑んだ。美しく賢い青年ではあるが、長い時を生きている己から見ればやはりガラス細工のように脆く、幼子のような存在だ。眉間に皺を寄せず無防備に眠っているその寝姿は普段より幼く頼りなく見え、庇護欲のようなものを掻き立てられる。
(……よく眠っている。まるで、全ての重責から解き放たれたかのように)
「……ん……」
 ヌサカーンがブルーの寝顔を覗き込んだその時、青年が、やや甘い声を上げて身動みじろぎした。だがその目が開くことはなく、顔をさらにこちらへと向けただけ。すっかり熟睡しているらしい。
「……」
 庇護欲が別のものに変わるまで、そう時間はかからなかった。ブルーが熟睡しているのをいいことに、ヌサカーンはゆっくりとベッドに乗り上げて横たわると、自らの腕の中に青年の体を封じ込める。
「ここまでされても目覚めないとはな。……さて。起きた時の反応が楽しみだ」
 夜が明けるまで、あと数刻。人間ほどの睡眠を必要としない妖魔であるヌサカーンは、ブルーが自然に目を覚ますまで、事を終えた恋人を優しく抱きしめる男よろしく、しばらくの間、甘い時間を堪能することにしたのだった。

 そして、さらに数時間後――
 深く心地良い眠りから目を覚ました途端にヌサカーンの顔が視界に飛び込んできたブルーが凍り付き、目の前の妖魔医師に真意を問いただしたのは言うまでもない。
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