You're my first and last lover
長いようで短かった旅は、『完全な術士』となったブルーが自身の生まれ故郷であるマジックキングダムの真の姿を暴き、長らくその存在が秘されていた『地獄』を再び封印し、生きて地上へ帰還するという完璧な形で終わった。
ただしマジックキングダムは地獄の住人たちによって壊滅し、ブルーはまず、故郷を復興するところから始めなければならなかった。加えて、地下深くに隠されていた新生児処理施設で眠っていた赤ん坊たち――未来を担う術士たちも育て上げなければならない。やることは山積みだ。
マジックキングダム復興の指導者となったブルーは、共に旅をした仲間たち一人一人に礼を述べた。リュート、ゲン、クーン、メイレン、T260、ヌサカーン……今となっては皆、かけがえのない〝友〟だ。
「ブルー、また会えるよね?」
「ああ。だがそれにはまず、シップ発着場を復旧しなければならないな。人の往来が出来なければ、復興もままならない」
縋り付いてくるクーンの頭をひと撫でして、ブルーは今一度、仲間たちの顔を見回した。二度と会えないわけではないだろうが、当分は見納めになるだろう。彼らはマジックキングダムとは全く無関係の者たちで、それぞれの人生があるのだから。
「今から、クーロンへの『ゲート』を開く。――改めて、世話になった。必ずまた会おう」
「ええ、再会できる日を楽しみにしているわ。復興、頑張ってね。それじゃ、また」
「必ずだぞ! 元気でな~!」
「俺も、ワカツの復興が待ってる。こっちはもう少し先の話になりそうだが、お互い頑張ろうな」
「ぜったいまた遊びに来るからねー! バイバーイ!」
「ブルー様との再会も、大切な任務の一つです。どうか、お元気で」
「短い間ではあったが、悪くはない旅だった。……ではな」
開かれた『ゲート』の先に、クーロンの街並みが見える。仲間たちの後ろ姿を見送った後、ブルーは何かを堪 えるようにひと呼吸置いてから『ゲート』を閉ざした。
――仲間たちとの別れから、数週間後。
忙 しない一日が終わり、ようやく一人になることができたと胸を撫で下ろしていたブルーの元へ、その者は前触れもなく、音もなく現れた。ふと視界の端に映った白い影に、ブルーはぎょっとして振り返る。
「!? ……何だ、あなたかヌサカーン。相変わらずだな。私の旅は終わったというのに、まだ何か?」
ブルーの問いに、ヌサカーンはふ、と小さく笑う。
「君の様子を見に来た。それから、少し話をしに」
「話?」
「なかなかに面白いことがあったのでな。あれから再びあの面子 で旅をした時の話を聞きたくはないか?」
どうやら、彼らの旅はまだ続いていたらしい。それをわざわざ話してくれるというのだ。初めはただの戦力として利用するだけのつもりだった彼らに少なからず情が移った今、「その後」のことを聞きたくないわけがない。二度目の旅に自身が含まれていないことに一抹の寂しさも覚えたが、ブルーは己 の好奇心に素直に従うことにする。
「……聞かせてくれ」
「フフ、旅を経て随分丸くなったものだ。出会った当初の君ならば、興味がないと即突っぱねていただろうに。……では、さっそく。此度 の主役はクーン。滅びゆく故郷・マーグメルを救うべく、各地に散らばる『指輪』を集めるための二度目の旅――」
長くなりそうだと思いブルーがヌサカーンに椅子を勧めると、彼は「すまんな」と短く礼を述べた。向かい合って座った二人の間には、今までのように冷たくも妖しくもない、限りなく穏やかな空気が流れる。
マジックキングダムの新たな指導者となった青年は、妖魔医師の心地良い低音で語られるクーンたちの冒険譚に、しばし耳を傾けることにした。
「そうか、そんなことが……」
ヌサカーンの話は至極簡潔にまとめられていて長話とまではいかなかったが、メイレンの件には少なからず驚いた。彼女の印象はクーンのやや口うるさい母のようであり、ゲンやリュートといった酒飲み男たちを叱咤するしっかり者であり、ブルーにとっては話の分かる同志、そして頼れる姉のようでもあった。そんな彼女が無垢なクーンを利用し、仲間たちの目をも欺 いて、最後に敵対までしていたとは。
「初対面時から、既に違和感はあったのだがな。あれは、彼女が隠し持っていた黒の指輪によるものだった。何より、彼女が元から持っていた指輪への探求心、好奇心、執着心……それらが黒の指輪によって悪い方向に増幅され、あのようなことになったのだろう。だがクーンは終始毅然と向き合い、全てを赦 した。大団円だ」
「マーグメルは滅びの運命からは逃れられなかったようだが、クーンを始めとしたラモックスたちならば、新天地でも逞 しく生きて行けるだろう。あなたの話を聞いた限りでは、クーンはまだ一つ所に留まる気はないようだが」
無邪気に懐いてくるクーンの顔を思い浮かべたのだろう、ふ、と優しく微笑んだブルーを見て、ヌサカーンはからかうように言う。
「ふむ……やはり君は、クーンには甘いな。さては子供好きか?」
「いや、クーンが少し特殊なだけで、子供は苦手だ。だがこれからは、嫌でも多くの子供たちと関わっていかなければならない……だからせめて、苦手意識は克服するつもりでいる」
「慣れない子育てに奮闘し、やがては先生と呼び慕われる君か。面白い。これはこの先も見守り甲斐がありそうだ」
どうやらヌサカーンは、これからもブルーの元を訪れる気満々らしい。やはり変わった妖魔だと、ブルーは半ば諦めの溜め息を吐く。
「……わざわざ来てくれたんだ。大したものはないが、何か飲み物でも……」
「そこまで気を遣う必要はない。私が勝手に押しかけたのだからな。だが、どうしても礼をしたいと言うのならば――」
そう言ってヌサカーンは立ち上がり、ブルーの淡い金の髪のひと房を手に取った。先程までの穏やかな空気が一転、一気に妖しい雰囲気が漂い始める。
「……本当に……あなたは、変わらないな。物好きな人だ」
「反面、君は変わったな。血の通った人間らしくなった。しかし、それでも君は美しい……今でも私のものにしてしまいたいと思うくらいに」
ヌサカーンの長く青白い指がブルーの首筋に触れ、続けて頬から顎のラインを優しく撫でた。反射的に身を竦 めたブルーの反応に気を良くし、ヌサカーンは腰を屈めてブルーに顔を近付ける。
青年の薄い唇に妖魔医師の吐息がかかり、室内に映し出された二つの影がゆっくりと重なった。
それからもヌサカーンは不定期に、だが割と頻繁に訪れてはブルーと妖しく戯れ、秘密の逢瀬を重ねた。
だが少しずつ復興して行くマジックキングダムの様相が気になったのか、ヌサカーンはそのうち、街中にも堂々と姿を現すようになった。幼いゆえに病気がちな子供たちを診てほしいと頼まれた時には意外にも快く引き受け、普通の医者として診療した。その腕前から彼はたちまち評判となり、子供たちが言葉を話し出すようになってからは「ブルーせんせい」「ヌサカーンせんせい」と、それぞれ呼び慕うようになった。ヌサカーンが子供たちに優しいわけでは決してなかったが、おませな少女たちはブルーとヌサカーンの美貌に頬を赤らめ、恋慕し、「大きくなったら先生のお嫁さんになる」と言い出すこともあった。そんな少女たちの可愛らしい求婚をブルーは笑って受け流したが、ヌサカーンは「既に意中の人がいるのでな」と真顔で断り、「いちゅうのひと?」と不思議そうに首を傾げる少女たちに気付かれぬように、ブルーがひと睨みするという一幕もあった。それを目撃した大人たちの多くは二人の関係になんとなく気付き始めていたが、深く追求する者はなかった。
かつての仲間たちが自らの子を連れて来ることが増え、そのたびに、成長したマジックキングダムの子供たちが遊び相手となった。広場には子供たちのはしゃぐ声とぱたぱたと走り回る靴音が響き、新しく建てられた魔術学校の校長室の窓からそれを見守るのが、ブルーの日課だった。その背後に、自身の用事を終えたヌサカーンが現れる。
「……君は、実子を持とうと考えたことはないのか?」
「無い。キングダムの子供たちが、私の子供のようなものだからな」
それに、とブルーは小声で続けて、ヌサカーンを振り返った。直後、珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「もし私が妻帯すれば、あなたとのこういった時間の大半が失われるだろう。子が生まれれば、尚更。それでもいいと?」
「……ふむ。それは確かに面白くはないな」
真顔且 つ本音で答えたヌサカーンにブルーが小さく吹き出すと、ヌサカーンは一瞬、何とも言えない表情になった。以前「あなたは変わらない」と言われたが、人間であるブルーと長く共に在るうちに、自身にも少しずつ変化が生じているのかもしれない。それが妙におかしく、愉快にさえ思えて、ヌサカーンも微かに笑った。
「あれから結構経ってるのに、ブルーはほとんど変わらないなあ」
どことなく貫禄がつき、わずかに白髪の交じった青髪を掻き揚げながら、リュートがぼやいた。彼はかつての旅の仲間の一人であると同時に、「親友」を超えた「心友」と呼べる男だ。
「若さの秘訣はやっぱりアレか、ヌサカーンか。もしかして、もう血は青とか紫だったり……?」
「血は赤いままだ。……奴は俺を手に入れたいと言う割には、人間の俺に固執している。だが見た目は維持しろとうるさくてな。だから時術を応用して、肉体の老化を止めている」
「ええ……つまり、いつまでもキレイでいろって? さっすが、筋金入りの面食い妖魔。ホントにお前の見た目にゾッコンなんだなぁ」
「奴のためだけではないぞ。子供たちを一人前の術士に育て上げ、彼らにキングダムを完全に任せられるようになるまで、俺は老いるわけにも死ぬわけにもいかない。俺の中のルージュもそう言っている」
「そっか。でもな、あんまり一人で何でも背負い込むなよ? いくらお前の中にルージュが生きてても、体は一つしかないんだ。たまにはフリーの日を作って、ちゃんと息抜きしろよ~? で、どこかでまたみんなで集まって、色々話そうぜ」
「……ああ」
それからもリュートは賑やかに喋り、途中からやってきたヌサカーンにも朗らかに接した後、シップ発着場へと消えて行った。リュートと別れた後のブルーは、いつも寂しげだ。
「君にそうまで想われているとはな。幸せな男だ」
「……」
「先程リュートが言っていた件は、できるだけ早めに実現したほうがいいだろう。いつ、誰がどうなるか分からんからな。忙しいからと先延ばしにしていると〝全員〟での再会が叶わず、生涯後悔することになるやもしれんぞ」
ヌサカーンの言葉にゾッと身を震わせたブルーは、近日中にかつての仲間たちに声を掛けることに決めた。
それから半月も経たないうちに六人と一体は無事全員での再会を果たし、その日は各々 の近況報告に旅の思い出話にと、大いに盛り上がったのだった。
ブルーの外見年齢を超えたかつての子供たちはそれぞれの道を歩み始め、彼らの子供たちも魔術学校の生徒となり、マジックキングダムの術士として日々修練を重ねた。
そして、さらに月日が経ち――顔見知りの者たちが祖父母になったという話、ある者が天寿を全うできずにこの世を去ったという話、またある者が天寿を全うしたという話も聞かれるようになってきた。
マジックキングダムは以前より遥かに賑わい、開かれ、ブルーが思い描いていたとおり健全且つ壮麗なリージョンとなった。広場中央の噴水にはブルーの像が立ち(横からヌサカーンが散々口出しして、完成までに相当な時間がかかった)、このリージョンに古くから伝わる御名無き三女神が司る「魔力」「叡知」「慈愛」の全てを体現する存在として、術士たちはブルーを神のように崇 めた。彼の側近でさえも用事がある時以外は近付かず、ブルーのプライベートに踏み込むことができる者は、最早ヌサカーンのみだった。
「――君はこの数十年間、充分過ぎるくらいにキングダムの復興に貢献した。リージョン自体も安定し、後進も育った。よって、そろそろ指導者兼魔術学校の校長の座を退いても良いのではないか?」
ある時、ヌサカーンがこう言った。尤 もだ、とブルーも頷く。
「そうだな。私がこれ以上頂点に居座っていては、キングダムのさらなる発展の妨げになるかもしれないな」
「だろう? 君はもう、ここに留まる必要などないのだ。……どうだ、私と共に、再びリージョン中を廻 るというのは。程度の差はあるが、どのリージョンも様変わりして――」
「……いや、いい」
首を横に振ったブルーに、ヌサカーンが言葉を途切らせた。ブルーは穏やかに、微笑さえ浮かべて続ける。
「私はもう、充分に生きた。時術で肉体の老化を止めてまで。だが、それにも限界が来ている。ただでさえ一つの体に二つの魂、複数種の相反する術の所持による負担に加えて、長年時術で肉体に流れる時間を捻じ曲げてきたからか、少しずつがた が来ているんだ」
「つまり、私にも分からぬほどの微かな自覚症状がある、と? ならば、私の血を分け与えよう。さすれば君は半妖となって今より肉体は頑健になり、魔術も妖術も使いこなせる上、半永久的に生き続けることができる」
ヌサカーンの提案にも、ブルーは首を横に振った。妖魔医師の戯れには応じてきた青年の、緩やかな拒絶。ブルーは、さらに続ける。
「私は、キングダムで一生を終えたい。なぜなら、キングダムを愛しているから。もちろん私やルージュに過酷な宿命を背負わせた大人たちを恨みはしたが、他にはないキングダムの景色が、文化が好きだ。キングダムを愛する一人の術士として、一人の人間として、この地で最期を迎えたいと思っている」
固く決意した者の目だ。いくらヌサカーンが妖魔の力を駆使して思考力を奪ったところで、ブルーを永遠に繋ぎ止めておくことはできないだろう。意思疎通のできなくなったブルーになど、何の魅力も感じない。
ヌサカーンができることといえば、おそらくもう長くはないであろうブルーの苦痛をできるだけ和らげ、彼の最期を傍 で看取ること。それしか、残された道は無かった。
ヌサカーンに決意を告げたブルーは、翌日から自身が編み出した〝時術の応用〟を少しずつ解き始めた。いきなり止めたのでは一瞬で老い、死に至ると考えたからだ。
それでも、反動は大きかった。上級妖魔であるヌサカーンとの長年の戯れが影響したのか見た目が極端に変わることはなかったが、眠っている時間が徐々に長くなり、体調が優れずベッドから起き上がることができない時もあった。彼の異変にマジックキングダム中が大騒ぎとなり、ブルーの部屋には毎日、多くの術士たちが押しかけた。彼らはブルーと最も近しい関係であり、名医としても名高いヌサカーンを「あんたが傍にいながら」と非難したが、妖魔医師は「これは彼自身が選んだ道だ。そろそろ彼を休ませてやっても良いのではないか?」と静かに諭 し、術士たちを黙らせた。
一つの時代の終焉、濃厚な死の気配を感じ取りながらも、誰もがブルーの回復を祈った。ヌサカーンもブルーに付きっきりで、少しでも彼が苦しまぬように、自らの気を送り続けた。
何度かの夜を越え、何度目かの朝を迎え――ある日のある時間、ブルーは眠ったまま、静かに旅立った。二度と開くことのない青年の瞼を、長い睫毛を、妖魔医師は労 わるようにそっと撫でた。
翌日、マジックキングダムでは荘厳な葬儀が行われ、人々が悲しみに暮れる中で、新たな指導者と魔術学校の校長がそれぞれ選出された。両者共に、ブルーの側近だった者だ。
長く傍に在ったヌサカーンにも特別な位 を、という声が上がったが、彼は丁重に断り、ブルーのいなくなったマジックキングダムになど用は無いとばかりに姿を消した。結局あの男は、ブルー様の何だったのか。様々な憶測が飛び交ったが、当の本人たちが去った今、誰も真相を知る由がなかった。
ブルーが冷たい土の下で永遠の眠りについたその日の深夜、妖魔医師は再びマジックキングダムに現れた。驚きざわめく見張りの兵たちを魅了してその場から追い出し、ヌサカーンは、ブルーの真新しく立派な墓の前に立つ。
「……あの時、君が『あなたの血が欲しい』と答えていれば、私は君の人間としての尊厳を守りつつ、妖魔の力も惜しみなく与えてやれたというのに」
無人の空間に、妖魔医師の囁くような独り言が響く。
「だが君が終生人間であることにこだわったように、私も君が人間であるからこそ興味を持ったことも事実だ。人間は脆く短命な生き物だが、ときおり我々妖魔以上の強さや鮮やかさを垣間見せる時がある。君も、その一人だった」
「つくづく惜しいな。この先、君ほどの美しく気高く、からかい甲斐のある人間を見つけることができるかどうか」
「君の絹のようなプラチナブロンドの髪、白くきめ細かい肌、細くしなやかな四肢……今でも触れた時の感触が、色彩が、瑞々しく蘇る」
「しかし君は、最期まで私を完全に受け入れることは無かった。長い時を生きてきて我が物にしたいと思った者は、君だけだ。チャンスは幾度となくあったのだから、無理矢理にでも手に入れてしまえば良かったか」
「だが、もう遅い。さすがの私でも、物言わぬ死体を抱く趣味はない」
感情が、溢れ出す。独白が、止まらない。
「……もう二度と君に触れることも、君の声を聞くことも叶わないのだな。とうとう、君の真意を知ることはできなかった」
「このような気持ちになることは、初めてだ。……『このような気持ち』とは何だ? 退屈とも空 しさとも違う、これは」
「……寂しい、苦しい、悲しい……これだ。負の感情が、まるで泉のように湧き出てくる」
「目の前が、霞んで見える。頬が、冷たい」
「私は君を独占できる時間が、何よりも楽しみだった。私は君を、気に入っていた。――私は君を、愛していた。……愛して、いた」
ああ、これが嘘偽りのない己の本心だったのだ。陳腐な言葉であるはずなのに、口にしてみると、なんと清々 しいことか。今は亡き青年への想いをようやく認め、ヌサカーンは自嘲気味に笑う。
「愚かなものだ、妖魔が人間を愛すなどと。いっそのこと堕ちる所まで堕ち、消されるというのも良かろう。どちらにしろ、君と同じ場所へは行けないだろうが」
「これからも、たまに会いに来る。私が生きている限りは、君が、君たちが見ることの叶わなかった世界の話を聞かせてやろう。それが今の私にできる、最大限の愛情表現だ」
ふ、と息を吐き出し呼吸を整えてから、ヌサカーンは様々な思いを内包した笑みを浮かべた。そして、
「――さらばだ、ブルー。私の愛しい人よ」
白衣を翻し、愛する者へ別れを告げて、妖魔医師は消えた。しばらくしてから魅了効果が切れた見張りの兵たちが慌てて戻ってきたが、自分たちの身に何が起こったのか、なぜ持ち場を離れていたのかは誰も分からず、彼らは揃って首を傾げるばかりだった。
翌朝――
ブルーの墓はファシナトゥールにしか自生しないと言われる無数の青薔薇で埋め尽くされ、それらは不思議なことに、翌日の朝には跡形もなく消えていた。
その後も毎年、ブルーの命日になると一日限りの青薔薇が艶 やかに咲き誇り、それを仕掛けた妖魔医師がひっそりと墓所を訪れることになるのだが、彼が姿を現すとマジックキングダムの住人たちは何処 かへと立ち去り、ブルーと〝二人きり〟にしてやるのが暗黙の了解となっていた。ヌサカーンは甘く囁くようにブルーに語りかけ、話し終わると忽然と姿を消した。それは実に十数年もの間続いたが、どういうわけか、ある年を境にぴたりと止まった。
クーロン裏通りの病院ももぬけの殻となり、彼がそこに存在したことは、町の住人たちの記憶からも次第に忘れ去られて行った。そして彼を知る妖魔たちでさえも、その姿を見かけることは二度と無かったという。
ただしマジックキングダムは地獄の住人たちによって壊滅し、ブルーはまず、故郷を復興するところから始めなければならなかった。加えて、地下深くに隠されていた新生児処理施設で眠っていた赤ん坊たち――未来を担う術士たちも育て上げなければならない。やることは山積みだ。
マジックキングダム復興の指導者となったブルーは、共に旅をした仲間たち一人一人に礼を述べた。リュート、ゲン、クーン、メイレン、T260、ヌサカーン……今となっては皆、かけがえのない〝友〟だ。
「ブルー、また会えるよね?」
「ああ。だがそれにはまず、シップ発着場を復旧しなければならないな。人の往来が出来なければ、復興もままならない」
縋り付いてくるクーンの頭をひと撫でして、ブルーは今一度、仲間たちの顔を見回した。二度と会えないわけではないだろうが、当分は見納めになるだろう。彼らはマジックキングダムとは全く無関係の者たちで、それぞれの人生があるのだから。
「今から、クーロンへの『ゲート』を開く。――改めて、世話になった。必ずまた会おう」
「ええ、再会できる日を楽しみにしているわ。復興、頑張ってね。それじゃ、また」
「必ずだぞ! 元気でな~!」
「俺も、ワカツの復興が待ってる。こっちはもう少し先の話になりそうだが、お互い頑張ろうな」
「ぜったいまた遊びに来るからねー! バイバーイ!」
「ブルー様との再会も、大切な任務の一つです。どうか、お元気で」
「短い間ではあったが、悪くはない旅だった。……ではな」
開かれた『ゲート』の先に、クーロンの街並みが見える。仲間たちの後ろ姿を見送った後、ブルーは何かを
――仲間たちとの別れから、数週間後。
「!? ……何だ、あなたかヌサカーン。相変わらずだな。私の旅は終わったというのに、まだ何か?」
ブルーの問いに、ヌサカーンはふ、と小さく笑う。
「君の様子を見に来た。それから、少し話をしに」
「話?」
「なかなかに面白いことがあったのでな。あれから再びあの
どうやら、彼らの旅はまだ続いていたらしい。それをわざわざ話してくれるというのだ。初めはただの戦力として利用するだけのつもりだった彼らに少なからず情が移った今、「その後」のことを聞きたくないわけがない。二度目の旅に自身が含まれていないことに一抹の寂しさも覚えたが、ブルーは
「……聞かせてくれ」
「フフ、旅を経て随分丸くなったものだ。出会った当初の君ならば、興味がないと即突っぱねていただろうに。……では、さっそく。
長くなりそうだと思いブルーがヌサカーンに椅子を勧めると、彼は「すまんな」と短く礼を述べた。向かい合って座った二人の間には、今までのように冷たくも妖しくもない、限りなく穏やかな空気が流れる。
マジックキングダムの新たな指導者となった青年は、妖魔医師の心地良い低音で語られるクーンたちの冒険譚に、しばし耳を傾けることにした。
「そうか、そんなことが……」
ヌサカーンの話は至極簡潔にまとめられていて長話とまではいかなかったが、メイレンの件には少なからず驚いた。彼女の印象はクーンのやや口うるさい母のようであり、ゲンやリュートといった酒飲み男たちを叱咤するしっかり者であり、ブルーにとっては話の分かる同志、そして頼れる姉のようでもあった。そんな彼女が無垢なクーンを利用し、仲間たちの目をも
「初対面時から、既に違和感はあったのだがな。あれは、彼女が隠し持っていた黒の指輪によるものだった。何より、彼女が元から持っていた指輪への探求心、好奇心、執着心……それらが黒の指輪によって悪い方向に増幅され、あのようなことになったのだろう。だがクーンは終始毅然と向き合い、全てを
「マーグメルは滅びの運命からは逃れられなかったようだが、クーンを始めとしたラモックスたちならば、新天地でも
無邪気に懐いてくるクーンの顔を思い浮かべたのだろう、ふ、と優しく微笑んだブルーを見て、ヌサカーンはからかうように言う。
「ふむ……やはり君は、クーンには甘いな。さては子供好きか?」
「いや、クーンが少し特殊なだけで、子供は苦手だ。だがこれからは、嫌でも多くの子供たちと関わっていかなければならない……だからせめて、苦手意識は克服するつもりでいる」
「慣れない子育てに奮闘し、やがては先生と呼び慕われる君か。面白い。これはこの先も見守り甲斐がありそうだ」
どうやらヌサカーンは、これからもブルーの元を訪れる気満々らしい。やはり変わった妖魔だと、ブルーは半ば諦めの溜め息を吐く。
「……わざわざ来てくれたんだ。大したものはないが、何か飲み物でも……」
「そこまで気を遣う必要はない。私が勝手に押しかけたのだからな。だが、どうしても礼をしたいと言うのならば――」
そう言ってヌサカーンは立ち上がり、ブルーの淡い金の髪のひと房を手に取った。先程までの穏やかな空気が一転、一気に妖しい雰囲気が漂い始める。
「……本当に……あなたは、変わらないな。物好きな人だ」
「反面、君は変わったな。血の通った人間らしくなった。しかし、それでも君は美しい……今でも私のものにしてしまいたいと思うくらいに」
ヌサカーンの長く青白い指がブルーの首筋に触れ、続けて頬から顎のラインを優しく撫でた。反射的に身を
青年の薄い唇に妖魔医師の吐息がかかり、室内に映し出された二つの影がゆっくりと重なった。
それからもヌサカーンは不定期に、だが割と頻繁に訪れてはブルーと妖しく戯れ、秘密の逢瀬を重ねた。
だが少しずつ復興して行くマジックキングダムの様相が気になったのか、ヌサカーンはそのうち、街中にも堂々と姿を現すようになった。幼いゆえに病気がちな子供たちを診てほしいと頼まれた時には意外にも快く引き受け、普通の医者として診療した。その腕前から彼はたちまち評判となり、子供たちが言葉を話し出すようになってからは「ブルーせんせい」「ヌサカーンせんせい」と、それぞれ呼び慕うようになった。ヌサカーンが子供たちに優しいわけでは決してなかったが、おませな少女たちはブルーとヌサカーンの美貌に頬を赤らめ、恋慕し、「大きくなったら先生のお嫁さんになる」と言い出すこともあった。そんな少女たちの可愛らしい求婚をブルーは笑って受け流したが、ヌサカーンは「既に意中の人がいるのでな」と真顔で断り、「いちゅうのひと?」と不思議そうに首を傾げる少女たちに気付かれぬように、ブルーがひと睨みするという一幕もあった。それを目撃した大人たちの多くは二人の関係になんとなく気付き始めていたが、深く追求する者はなかった。
かつての仲間たちが自らの子を連れて来ることが増え、そのたびに、成長したマジックキングダムの子供たちが遊び相手となった。広場には子供たちのはしゃぐ声とぱたぱたと走り回る靴音が響き、新しく建てられた魔術学校の校長室の窓からそれを見守るのが、ブルーの日課だった。その背後に、自身の用事を終えたヌサカーンが現れる。
「……君は、実子を持とうと考えたことはないのか?」
「無い。キングダムの子供たちが、私の子供のようなものだからな」
それに、とブルーは小声で続けて、ヌサカーンを振り返った。直後、珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「もし私が妻帯すれば、あなたとのこういった時間の大半が失われるだろう。子が生まれれば、尚更。それでもいいと?」
「……ふむ。それは確かに面白くはないな」
真顔
「あれから結構経ってるのに、ブルーはほとんど変わらないなあ」
どことなく貫禄がつき、わずかに白髪の交じった青髪を掻き揚げながら、リュートがぼやいた。彼はかつての旅の仲間の一人であると同時に、「親友」を超えた「心友」と呼べる男だ。
「若さの秘訣はやっぱりアレか、ヌサカーンか。もしかして、もう血は青とか紫だったり……?」
「血は赤いままだ。……奴は俺を手に入れたいと言う割には、人間の俺に固執している。だが見た目は維持しろとうるさくてな。だから時術を応用して、肉体の老化を止めている」
「ええ……つまり、いつまでもキレイでいろって? さっすが、筋金入りの面食い妖魔。ホントにお前の見た目にゾッコンなんだなぁ」
「奴のためだけではないぞ。子供たちを一人前の術士に育て上げ、彼らにキングダムを完全に任せられるようになるまで、俺は老いるわけにも死ぬわけにもいかない。俺の中のルージュもそう言っている」
「そっか。でもな、あんまり一人で何でも背負い込むなよ? いくらお前の中にルージュが生きてても、体は一つしかないんだ。たまにはフリーの日を作って、ちゃんと息抜きしろよ~? で、どこかでまたみんなで集まって、色々話そうぜ」
「……ああ」
それからもリュートは賑やかに喋り、途中からやってきたヌサカーンにも朗らかに接した後、シップ発着場へと消えて行った。リュートと別れた後のブルーは、いつも寂しげだ。
「君にそうまで想われているとはな。幸せな男だ」
「……」
「先程リュートが言っていた件は、できるだけ早めに実現したほうがいいだろう。いつ、誰がどうなるか分からんからな。忙しいからと先延ばしにしていると〝全員〟での再会が叶わず、生涯後悔することになるやもしれんぞ」
ヌサカーンの言葉にゾッと身を震わせたブルーは、近日中にかつての仲間たちに声を掛けることに決めた。
それから半月も経たないうちに六人と一体は無事全員での再会を果たし、その日は
ブルーの外見年齢を超えたかつての子供たちはそれぞれの道を歩み始め、彼らの子供たちも魔術学校の生徒となり、マジックキングダムの術士として日々修練を重ねた。
そして、さらに月日が経ち――顔見知りの者たちが祖父母になったという話、ある者が天寿を全うできずにこの世を去ったという話、またある者が天寿を全うしたという話も聞かれるようになってきた。
マジックキングダムは以前より遥かに賑わい、開かれ、ブルーが思い描いていたとおり健全且つ壮麗なリージョンとなった。広場中央の噴水にはブルーの像が立ち(横からヌサカーンが散々口出しして、完成までに相当な時間がかかった)、このリージョンに古くから伝わる御名無き三女神が司る「魔力」「叡知」「慈愛」の全てを体現する存在として、術士たちはブルーを神のように
「――君はこの数十年間、充分過ぎるくらいにキングダムの復興に貢献した。リージョン自体も安定し、後進も育った。よって、そろそろ指導者兼魔術学校の校長の座を退いても良いのではないか?」
ある時、ヌサカーンがこう言った。
「そうだな。私がこれ以上頂点に居座っていては、キングダムのさらなる発展の妨げになるかもしれないな」
「だろう? 君はもう、ここに留まる必要などないのだ。……どうだ、私と共に、再びリージョン中を
「……いや、いい」
首を横に振ったブルーに、ヌサカーンが言葉を途切らせた。ブルーは穏やかに、微笑さえ浮かべて続ける。
「私はもう、充分に生きた。時術で肉体の老化を止めてまで。だが、それにも限界が来ている。ただでさえ一つの体に二つの魂、複数種の相反する術の所持による負担に加えて、長年時術で肉体に流れる時間を捻じ曲げてきたからか、少しずつ
「つまり、私にも分からぬほどの微かな自覚症状がある、と? ならば、私の血を分け与えよう。さすれば君は半妖となって今より肉体は頑健になり、魔術も妖術も使いこなせる上、半永久的に生き続けることができる」
ヌサカーンの提案にも、ブルーは首を横に振った。妖魔医師の戯れには応じてきた青年の、緩やかな拒絶。ブルーは、さらに続ける。
「私は、キングダムで一生を終えたい。なぜなら、キングダムを愛しているから。もちろん私やルージュに過酷な宿命を背負わせた大人たちを恨みはしたが、他にはないキングダムの景色が、文化が好きだ。キングダムを愛する一人の術士として、一人の人間として、この地で最期を迎えたいと思っている」
固く決意した者の目だ。いくらヌサカーンが妖魔の力を駆使して思考力を奪ったところで、ブルーを永遠に繋ぎ止めておくことはできないだろう。意思疎通のできなくなったブルーになど、何の魅力も感じない。
ヌサカーンができることといえば、おそらくもう長くはないであろうブルーの苦痛をできるだけ和らげ、彼の最期を
ヌサカーンに決意を告げたブルーは、翌日から自身が編み出した〝時術の応用〟を少しずつ解き始めた。いきなり止めたのでは一瞬で老い、死に至ると考えたからだ。
それでも、反動は大きかった。上級妖魔であるヌサカーンとの長年の戯れが影響したのか見た目が極端に変わることはなかったが、眠っている時間が徐々に長くなり、体調が優れずベッドから起き上がることができない時もあった。彼の異変にマジックキングダム中が大騒ぎとなり、ブルーの部屋には毎日、多くの術士たちが押しかけた。彼らはブルーと最も近しい関係であり、名医としても名高いヌサカーンを「あんたが傍にいながら」と非難したが、妖魔医師は「これは彼自身が選んだ道だ。そろそろ彼を休ませてやっても良いのではないか?」と静かに
一つの時代の終焉、濃厚な死の気配を感じ取りながらも、誰もがブルーの回復を祈った。ヌサカーンもブルーに付きっきりで、少しでも彼が苦しまぬように、自らの気を送り続けた。
何度かの夜を越え、何度目かの朝を迎え――ある日のある時間、ブルーは眠ったまま、静かに旅立った。二度と開くことのない青年の瞼を、長い睫毛を、妖魔医師は
翌日、マジックキングダムでは荘厳な葬儀が行われ、人々が悲しみに暮れる中で、新たな指導者と魔術学校の校長がそれぞれ選出された。両者共に、ブルーの側近だった者だ。
長く傍に在ったヌサカーンにも特別な
ブルーが冷たい土の下で永遠の眠りについたその日の深夜、妖魔医師は再びマジックキングダムに現れた。驚きざわめく見張りの兵たちを魅了してその場から追い出し、ヌサカーンは、ブルーの真新しく立派な墓の前に立つ。
「……あの時、君が『あなたの血が欲しい』と答えていれば、私は君の人間としての尊厳を守りつつ、妖魔の力も惜しみなく与えてやれたというのに」
無人の空間に、妖魔医師の囁くような独り言が響く。
「だが君が終生人間であることにこだわったように、私も君が人間であるからこそ興味を持ったことも事実だ。人間は脆く短命な生き物だが、ときおり我々妖魔以上の強さや鮮やかさを垣間見せる時がある。君も、その一人だった」
「つくづく惜しいな。この先、君ほどの美しく気高く、からかい甲斐のある人間を見つけることができるかどうか」
「君の絹のようなプラチナブロンドの髪、白くきめ細かい肌、細くしなやかな四肢……今でも触れた時の感触が、色彩が、瑞々しく蘇る」
「しかし君は、最期まで私を完全に受け入れることは無かった。長い時を生きてきて我が物にしたいと思った者は、君だけだ。チャンスは幾度となくあったのだから、無理矢理にでも手に入れてしまえば良かったか」
「だが、もう遅い。さすがの私でも、物言わぬ死体を抱く趣味はない」
感情が、溢れ出す。独白が、止まらない。
「……もう二度と君に触れることも、君の声を聞くことも叶わないのだな。とうとう、君の真意を知ることはできなかった」
「このような気持ちになることは、初めてだ。……『このような気持ち』とは何だ? 退屈とも
「……寂しい、苦しい、悲しい……これだ。負の感情が、まるで泉のように湧き出てくる」
「目の前が、霞んで見える。頬が、冷たい」
「私は君を独占できる時間が、何よりも楽しみだった。私は君を、気に入っていた。――私は君を、愛していた。……愛して、いた」
ああ、これが嘘偽りのない己の本心だったのだ。陳腐な言葉であるはずなのに、口にしてみると、なんと
「愚かなものだ、妖魔が人間を愛すなどと。いっそのこと堕ちる所まで堕ち、消されるというのも良かろう。どちらにしろ、君と同じ場所へは行けないだろうが」
「これからも、たまに会いに来る。私が生きている限りは、君が、君たちが見ることの叶わなかった世界の話を聞かせてやろう。それが今の私にできる、最大限の愛情表現だ」
ふ、と息を吐き出し呼吸を整えてから、ヌサカーンは様々な思いを内包した笑みを浮かべた。そして、
「――さらばだ、ブルー。私の愛しい人よ」
白衣を翻し、愛する者へ別れを告げて、妖魔医師は消えた。しばらくしてから魅了効果が切れた見張りの兵たちが慌てて戻ってきたが、自分たちの身に何が起こったのか、なぜ持ち場を離れていたのかは誰も分からず、彼らは揃って首を傾げるばかりだった。
翌朝――
ブルーの墓はファシナトゥールにしか自生しないと言われる無数の青薔薇で埋め尽くされ、それらは不思議なことに、翌日の朝には跡形もなく消えていた。
その後も毎年、ブルーの命日になると一日限りの青薔薇が
クーロン裏通りの病院ももぬけの殻となり、彼がそこに存在したことは、町の住人たちの記憶からも次第に忘れ去られて行った。そして彼を知る妖魔たちでさえも、その姿を見かけることは二度と無かったという。
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