風呂、そして初めての夜と朝

「ううーん……ねえ、弟。これ、どうやって外すの?」
 風呂に入るために、脱衣所でてきぱきと上半身の衣服を脱いでズボンのベルトを外しかけていた膝丸が、兄の声に顔を上げる。
「膝丸だ、兄者。……そのシャツのボタンのことか?」
「うん。これを外さないと、服が脱げないよね。お風呂にも入れない」
「俺は割とすぐにできたのだが……仕方がないな。俺がいくつかやってみせるから、最後の二つほどは自分で外すのだぞ」
 膝丸が髭切のシャツに手をかけ、一つ、また一つとボタンを外して行く。その横を通り過ぎようとした風呂上がりのにっかり青江が、おやおやおや……と呟いて足を止め、妖しく微笑む。
「ッフフ……君たち、本当に仲良しだねぇ。こんな所で、初めての夜の練習かい?」
「? 練習……?」
「はーいはい。ただでさえここは混雑しがちなんだから、着替えが済んだらとっとと出るー」
 後ろから早足で歩いてきた加州清光が、立ち止まっているにっかり青江の背を強引に押して脱衣所から出て行く。さらにその後ろからやってきた大和守安定もぎこちなく笑い、「気にしないで」と言って去って行った。一方で、当の膝丸と髭切は、というと。
「……練習、って何だろうね? 何の練習?」
「……分からん」
 不思議そうに首を傾げ、三振りが消えて行った方角をしばらく見つめたのだった。

「わあ、結構広いんだねえ」
 途中、何度か膝丸の手を借りて服を脱ぎ、腰にタオルを巻いて浴室へと繰り出した髭切が、きょろきょろと辺りを見回した。湯煙が漂う中でたくさんの刀たちが思い思いに風呂を楽しんでおり、当然ながら皆、裸だ。
「兄者、まずは洗い場で体を洗うのだ。湯船に浸かるのはその後だぞ」
 兄を先導するように前に立った膝丸が、洗い場を指差す。その前を、岩融と山伏国広が笑いながら横切って行った。腰にタオルも巻かず、堂々と――それを見た髭切は目を見開き、彼は思ったことをそのまま口にする。
「……おお……体が大きい人のは、やっぱり大きいねえ」
「兄者、いくらここが風呂とはいえ、他人の体をじろじろ見るのは良くないぞ。あと、そういうことはなるべく口に出さないほうがいい」
「だって、たまたま目に入ったんだもの。……って、なんだかちょっと駄洒落みたいになってしまったねえ、〝たまたま〟だけに。あはは」
「兄者ッ!!」
 ケラケラと笑う髭切を、膝丸が慌てて咎める。だが髭切は何を思ったか自らのタオルの中を覗き、それからあろうことか、膝丸のタオルを捲った。そして、再び目を丸くする。
「……あれ? なんでお前の、そんなになってるの?」
「……なっ……!?」
「熱膨張、ってやつ? でもまだお湯を浴びてすらいないのに、どうして」
「た、ただの生理現象だ。いいから、行くぞ」
 兄の脱衣を手伝っているうちになぜか体が熱くなっただなんて、とても言えない。やんわりと髭切の手を押し退け、耳や頬を赤くした膝丸が洗い場へと向かって行く。椅子に座るなりまるで滝行でもするかのように頭からシャワーを浴び始めた膝丸の隣で、髭切は改めて人の体に対する神秘や疑問を感じながらも、弟の動作を真似ることにした。

 洗い場で充分に体を清めた膝丸と髭切は、いよいよ湯船へと向かった。かけ湯をし、湯船の外で絞ったタオルを頭に乗せて、ゆっくりと湯の中に体を沈めて行く。
「おお、なるほど。お湯に浸かるのって、こんな感じなのかぁ」
「気持ちがいいだろう。実は露天風呂もあるのだ。もう少ししたらそちらへも行ってみるか」
 入浴剤が入れてあるのだろう、湯は白く濁っていて浸かっている部分は見えず、独特な匂いもした。何もかもが新鮮で、きらきらと目を輝かせながら髭切が掌で湯を掬っていると、一振りの髪の長い短刀が湯船の縁にしゃがみ、かけ湯をし始めた。自分たちや周りの者とは違い、胸から太腿を隠すようにタオルを巻いている。
(……あれ? この本丸って、男しかいないんじゃなかったっけ?)
 女子? 混浴? といくつもの「?」マークを浮かべつつ成り行きを見守っていると、その者が立ち上がったタイミングで、背後から、いかにも神経質そうな顔をした男がずんずんと近付いてきた。ああ、これはひと悶着あるなと、髭切は直感する。
「乱藤四郎! タオルを巻いたまま湯船に入るのは禁止だ!」
 そのままの恰好で湯船に入ろうとした髪の長い短刀――乱藤四郎を、へし切長谷部が鋭く止める。
「えーっ、どうして?」
「湯船にタオルを入れるのはマナー違反だ。湯が汚れる」
「汚れる、って……このタオルは、体を洗ったタオルじゃないよ? タオルも洗濯したばかりのものだし」
「ともかく、ルールはルールだ! 湯船に浸かりたいのならタオルを取ってからにしろ!」
 へし切長谷部の手が、有無を言わさず乱藤四郎のタオルを剥ぎ取ろうとした――直後。キャー! と高い悲鳴を上げ、乱藤四郎は、しっかりとタオルを押さえながら勢いよく飛びすさる。
「もうっ信じらんない! 長谷部さんのエッチ! ヘンタイ!!」
「へ、へん……っ!?」
「あーあーいっけないんだー、こぉんなカワイイ子に手を出そうとするなんて。それともアンタ、そういう趣味があるのかい?」
 自分の体を抱きしめて震えている乱藤四郎を庇うように前へと出てきた次郎太刀が、へし切長谷部を半目で見下ろした。さらに体を洗い終わったばかりの宗三左文字が腰にタオルを巻いて立ち上がり、追い打ちをかけるように軽蔑の眼差しを向ける。
「マナー、ルール……まるで、ご自分がこの本丸を仕切る人物にでもなったかのような言い草ですね。彼は嫌がっているではないですか。なのに、無理やり暴こうというのですか?」
「なっ……」
「乱ちゃん、だっけ? かわいそうに、怖かったねえ。気にすることないからね。アイツが許さなくても、アタシが許す」
「お湯は毎日入れ替えていると聞きましたしね。温泉だったらもっと……いえ、それだと僕たちは皆、錆びてしまいますか」
 次郎太刀と宗三左文字が保護者のように乱藤四郎の両脇に並び、三振りは湯船に身を沈める。長い髪を頭の上でまとめ、肩に湯をかけて楽しむ彼らを、へし切長谷部は茫然と見つめた。その後ろから日本号がやってきて、同情するように右肩をぽん、と軽く叩く。
「……これは、俺が間違っているのか……?」
「お前は間違っちゃいねえが、俺たちとあいつらは、住んでる世界が違うってことさ。ああいう連中は、下手に怒らせねえこった」
「……」
 とぼとぼと去って行くへし切長谷部と彼について行った日本号、自分たちからは少し離れた場所できゃっきゃと雑談している乱藤四郎たちを、膝丸と髭切は交互に見遣った。なんだか一方的に責められていたへし切長谷部が気の毒でならないと膝丸は密かに同情したが、髭切の関心は依然乱藤四郎のほうにあるようで、彼は膝丸に身を寄せると、小声で尋ねてくる。
「……『彼』って言ってたから、あの子も男……だよね?」
「……あ、ああ。俺たちは刀剣〝男士〟なのだから皆、男のはずなのだが……まあ、色々な者がいるのだ。それぞれの個性を把握して、上手くやっていかねばな」
 膝丸の言葉に、髭切も無理やりおのれを納得させるしかなかった。

 それから間もなく露天風呂へと移動した膝丸と髭切は、先客の太郎太刀、江雪左文字、小夜左文字に軽く挨拶し、内風呂では味わうことのできなかった温かい湯とひんやりとした外の空気の対比をしばらく堪能してから、風呂を後にした。
 着衣にも苦戦している髭切をまたしても膝丸が手伝い、初めての風呂体験でのぼせたのもあってか、部屋に帰ってくるなり髭切は、座布団の上に倒れ込んだ。疲れたのも無理はないだろうと、膝丸は二人分の布団を敷き始める。
「兄者、まだやることが残っているぞ。寝るには今着ている服を脱いで、寝巻に着替えるのだ」
「えー、また着替えるの? ……いや、うん……それはさすがに分かってるけどさ」
「今度は、手は貸さんぞ。毎回俺が手伝っていたのでは、いつまで経っても上達しないからな。『鬼切丸』である兄者にこう言うのは何だが、これからは、心を鬼にする」
「へえ……お前が鬼に? じゃあ、すぱすぱーっと斬らなきゃいけないねぇ」
「……冗談で言っているのではないぞ、兄者。俺は本気だ。この布団も、明日からは自分で敷いてもらう。俺が全てこなしていたのでは、兄者のためにもならん」
 二人分の布団を敷き終わって一息ついている膝丸を、ごろんと体の向きを変えた髭切は、やや不満そうに見上げた。だがすぐに気を取り直して座布団から身を起こすと、寝巻に着替えるべくのろのろと立ち上がる。
「……お前に世話されるの、好きなんだけどなぁ」
「なっ……!? お、おだてても、駄目なものは駄目だ。着替えるぞ」
 兄のためを思うからこそ、心を鬼にすると決めたのだ。風呂へ行っていた間に用意されていた寝巻を髭切に渡し、膝丸は兄に背を向けて着替え始めた。背後から脱衣にしばらくもたついている気配が伝わってきたが、膝丸は一度も振り向かず、手も貸さなかった。自らは早々に着替え終わって待つことしばらく、「よし、できた」という声を聞いてからようやく、彼は後ろを振り返る。
「おお、やればできるではないか、兄者! だが、これで終わりではないぞ。脱いだ衣服は皺や型崩れ防止のために、この『はんがー』と呼ばれるものに掛けるのだ。しかし、ものによっては『はんがー』には掛けずに畳んで保管したほうがいい場合もある。例えば、下着がそうだ。ちなみに新しい下着はあの箪笥の中に入っているから、毎日替えるのだぞ」
「はいはい。……僕も長いこと人の営みは見てきたつもりだけど、やっぱり見ているのと自分で実際にやるのでは違うねえ。覚えなきゃならないことが多くて大変だ」
 膝丸にならって脱いだ衣服をハンガーに掛け終えてから、この一日で様々なことを体験した髭切は、盛大に欠伸あくびをした。そんな兄を見て膝丸は、小さな冷蔵庫から今朝作ったお茶を取り出す。
「……うむ、なんとか二人分はあるな。水出し緑茶だから、風呂上がりにも就寝前にもちょうどいい。これを飲んだら、歯を磨いて寝るか」
「さっきから、ちょっとフラフラするんだよね。これが疲労とか眠気、ってやつかな?」
「それだけ充実した一日を過ごすことができた、という証ではあるが……もう少しだけ頑張るのだ、兄者」
 再び欠伸をした後によろめいた髭切の体を支えた後、膝丸は、グラスに冷たい茶を注いで兄に差し出した。それを一気飲みし、髭切はぷはあ、と息を吐く。
「よく冷えてて美味しかったぁ。……で? 次は、歯磨き?」
「ああ。体だけではなく、口の中も綺麗にしなければな。虫歯になどなってしまったら、目も当てられん」
 洗面所で膝丸から歯磨きの仕方を教わり、歯磨き粉の辛味に顔を顰めたものの無事口内を綺麗にした髭切は、膝丸より先に毛布を捲って布団へと潜り込んだ。全身を柔らかく包み込まれるような感覚に、風呂の湯とは違う心地良さを覚える。
「わあ、ふかふかだぁ。すごく気持ちいい」
「その布団一式も新品だからな、気持ち良く眠れるだろう。夢すら見ないかもしれない。……兄者、今日はお疲れ様、だ。俺にとっても、今までで最も充実した一日だった。兄者がこの本丸に来てくれて、本当に良かったと思っている」
 兄の隣の布団に横たわって向かい合い、穏やかな表情と声音で話す膝丸へ、髭切はふふ、と笑う。
「僕は幸いすぐにお前と会うことができたけど、お前は一週間、待っていたのだものねえ。僕を初めて見た時のお前の顔は、忘れられないよ。ちょっと泣いてたよね」
「な、泣いてなど……! だが、この上なく嬉しかったのは確かだ。今日は兄者と初陣を果たし、寝食を共にすることが叶った特別な日……そしてこれからも俺は、兄者と共に在りたい」
 真っ直ぐに、正直に自らの気持ちを伝えてくる膝丸に、髭切は、微笑んだまま答える。
「僕もだよ。戦わなければならない以上、いつ何が起こるかは分からないけれど……出来得る限り、お前と一緒にいたいと思ってる。この本丸はそれを叶えてくれたし、これからも叶え続けてくれる場所だと思うよ」
「……兄者……」
 膝丸の胸に、何とも言えない高揚感が込み上げた。目の前の兄に、触れたい。その温もりを、感じたい――突如湧き出た感情に戸惑いながらも、膝丸は、髭切を熱のこもった目でじっと見つめる。
「……あ、兄者。その……」
「ん?」
「触れても、いいだろうか」
 膝丸の申し出に、髭切はほんの一瞬目を丸くしたものの、再びふわりと微笑んだ。その表情は慈愛にすら満ちていて、膝丸の胸の奥が、どくん、と脈打つ。
「いいよ。僕も、お前に触れたいし」
「!」
「触れ合うことも〝気持ちいい〟からねえ。人の身って、本当に不思議だよね」
 髭切が片手を伸ばし、膝丸の頬を優しく撫でる。膝丸もやや遠慮がちに片手を伸ばし、髭切の頬から顎のラインをなぞるように触れた。二人はしばし軽い触れ合いを楽しみ、やがてどちらからともなくもう片方の手を伸ばして、そっと重ねる。
「……うん、やっぱり触れ合うって楽しいね。お前の肌の感触も体温も、すごく心地がいい」
「疲れているというのに俺の我儘わがままに付き合わせてすまなかった、兄者。だが今、とても心が満たされている。不思議なものだな」
「うんうん。……ねえ、せっかくだから、このまま寝ない?」
 髭切が膝丸の手をきゅっと握り、二人は手を繋ぐ形になった。膝丸はまたもどきりとしたが、離れがたかったのは己も同様だったのでわずかに頬を赤らめ、ぼそぼそと小声で答える。
「兄者が、そう望むのなら」
「……お前は嫌なのかい?」
「……嫌ではない」
「あはは、恥ずかしがっちゃって。お前は僕の弟なんだから、もう少し甘えてくれてもいいんだよ。……じゃあ、そろそろ寝ようか」
「ああ。……では、明かりを消すぞ。いったん手を離してくれ」
 髭切が言われたとおりにすると膝丸は起き上がり、部屋の明かりを落とした。だが室内は完全に真っ暗になったわけではなく、外から差し込む月明かりで、互いのシルエットがうっすらと見えた。膝丸はそれを頼りに布団に戻って横たわり、再度、髭切と手を繋ぐ。
「……おやすみ、兄者。明日からも、よろしく頼む」
「うん。……おやすみ、膝丸」
「! 兄者、今、俺の名を……!?」
 「弟」としか呼んでくれなかった兄が、初めて正しく己の名前を。興奮のあまりに思わず体を起こしかけた膝丸に、だが髭切が答えることはなかった。一気に眠気が来たのか繋いだ手の力は緩み、ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
(狸寝入り……では、なさそうだな。本当に眠ってしまったのか)
 まったく、自由過ぎる。初日から振り回されっぱなしだったなと、膝丸は、薄闇の中で小さく微笑んだ。明日からも振り回されて苦労を背負い込む己が容易に想像できたが、兄が楽しそうに笑っていてくれれば、何でも許せる気がしてしまう。――今、俺はとても幸せだ。
 すぐ傍に兄がいる幸福感とその手の温もりを感じながら目を閉じ、やがて膝丸も、眠りに落ちて行った。

◇◇

 鳥たちの声と部屋の中に射し込む光で、目が覚めた。どうやら、朝が来たらしい。
 膝丸がゆっくりと目を開けると、髭切はまだ眠っていた。昨夜とは違って寝顔がよく見え、手も繋がれたままだ。
 二人で迎えた、初めての夜と朝。改めて幸せを噛み締めながら無言でしばらくその寝顔を見つめていると、髭切も朝が来たことに気付いたのか、うっすらと目を開けた。起きてすぐに膝丸と目が合い、髭切は寝惚け眼で弟に声をかける。
「ん……おはよう、ええと……弟」
「寝起きはやはり駄目か……膝丸だ、兄者。ああ、おはよう。よく眠れたか?」
「うーん……熟睡、できたのかな? 夢は、見なかったから」
「眠りが深かった証拠だな。かくいう俺も、夢は見た記憶がないが。よし、今日からも頑張って……寝るな、兄者!」
 徐々に閉じて行く兄の目を見て、膝丸は髭切の肩を揺さぶる。目覚まし時計が鳴る前ではあるが、兄はまだ、朝の準備に時間がかかるから。このやりとりもきっと、毎朝繰り返されることになるのだろう。だから、己がしっかりしていなければならない。
(それでも兄者とこうして過ごせることが、俺は嬉しくてたまらないのだ)
 新しい朝が始まった。今日は何が起こるのだろう、どんな日になるのだろう。なんとか起き上がったもののしきりに目をこすっている髭切に「あまり目をこすってはならない」と注意し、膝丸は起床したらまず行うことについて、はきはきと説明し始めたのだった。
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