人はそれを、痴話喧嘩と呼ぶ。
ハーヴェイにとっては、敵の群れに突っ込み、最前線で剣を振るうのが常だった。軽い怪我はよくあることで、戦闘が終わると同時に心配性の相棒・シグルドが駆けつけてきて、すぐさま回復魔法で治癒してくれる。それが当たり前になっていたから、今回も存分に剣を振るった。多少の傷などものともせずに、向かってくる敵を豪快に蹴散らしていく。
残りの敵は少なく、しかもかなり弱っている。後は他の連中に任せて、そろそろ相棒の所に戻るか。そう考えて、身を翻した――その時だった。
脇腹に、鈍い衝撃。足下に倒れ伏していたはずの敵が起き上がり、真っ赤に充血した目で剣を突き出していた。淡い色の服の一部がみるみるうちに赤黒く染まり、何滴もの赤い雫が滴り落ちる。眼前の血走った目と、驚きに見開かれた翠の瞳が絡み合い――両者の瞳が、細められる。
「ハーヴェイ!!」
自分を呼ぶ、鋭い声。いつも穏やかに話すシグルドも、こんな声を出すことがあるのか。次第に意識が遠のき、四肢から力が抜けて行くのを感じながら、ハーヴェイはぼんやりと考えた。目の前の敵を何とかしなければと思いながらも、手足はまったく動かない。
「……おとなしく伏せていれば良かったものを」
すぐ傍 で、相棒の低く押し殺した声が聞こえる。
……もしかして、かなり怒ってんのか? そう思ったところで、ハーヴェイの意識は途切れた。
◇◇
負傷した相棒が横たわるベッドから、シグルドは、片時も離れなかった。常に生き生きと輝いている翠の瞳は閉ざされ、小麦色に焼けた肌は血色が悪く、青白い。負った傷は治癒魔法ですぐに塞いだが、激しい消耗のために凛々しい眉が険しく寄せられ、ほつれた前髪がかかった額には、無数の汗が浮き出ている。
(……頭の中が真っ白なのに、目の前は真っ暗だった。けれど、体は勝手に動いていて……あんなことは、初めてだ)
あの時は、理性などというものは存在しなかった。相棒に大怪我を負わせた敵に激しく怒り、憎しみを抱き、その額へ有無を言わさず刃を突き立てて頭を踏み躙った後、「モノ」と化した体を海に投げ捨てた。相棒の怪我のことがなかったら、さらにえげつない仕返しをしていただろう。あれほど怒ったのはハーヴェイと敵対関係にあった頃以来で、さすがの海賊たちからも「本気で怖い」と言われたくらいだ。
冷たいタオルで汗を拭うついでに、乱れた前髪も退けてやる。ひんやりとした感触に気付いたのか、翠色の瞳がうっすらと開かれた。真っ先に視界に入ったのは、背高い相棒の端正な顔。
「……気が付いたか」
「……シ、グ……? ……ってことは、俺……なんとか、生きてるんだ、な」
「ああ。お前も俺も、ちゃんと生きてるよ。……お前を殺そうとした奴は、しっかり始末しておいたからな」
「そりゃすまねえ……ってお前、そんな怖い顔すんなって……うぐっ」
「無理だ、まだ寝てろ。傷は塞がっても、体力の回復が追いついてないんだ」
体を起こそうとするも腕にまったく力が入らずに、ハーヴェイはあえなく撃沈する。そんな相棒に苦笑を浮かべ、シグルドは捲 れた毛布をかけて相棒を寝かし付けようとした。だがハーヴェイは、せっかく整えられた毛布を跳ね飛ばして、再び起き上がろうと試みる。
「何をしてるんだ。おとなしく寝てろと言っただろう」
「んなこと言ってられるかよ。俺はとんでもない失態を犯しちまったんだぜ? こうして意識が戻ったんだから、まずはキカ様に謝りに行かねえと」
「どれだけ自分が消耗しているか分からないのか? お前がまともに歩けるようになるまでは、俺が代わりを務めるから心配するな」
無理に起き上がろうとする相棒をベッドに押し付けて、再び毛布を掛け直す。その直後に、またもや跳ね除けられる毛布。
「じっとなんてしてられるかよ! ダラダラ眠りこけてたら体がなまっちまうし、キカ様にも迷惑がかかる。ダリオの奴にもバカにされる、手柄も他の奴らに……」
「今日おとなしくしていれば、明日には出られるかもしれないじゃないか。その体で出ていって、役に立つと思――」
「うるせえ!!」
突然の怒鳴り声に、驚いたシグルドがタオルを床に落とす。予想外の出来事だ。
「俺の体は俺のものだ。他人につべこべ言われる筋合いはねえ! ちょっと歩けば自然に治る。この程度で突っ伏してるなんて、みっともないことできるかよ」
「何がみっともないんだ? 怪我をしたら安静にするのは当たり前、完全に治るまでは前線に出ないこと。基本だろうが」
「俺は大丈夫だって言ってんの。なんだって、そんなに口うるさいわけ?」
「口うるさいって……そもそもこれは、お前の不注意が招いたことじゃないか」
「!!」
溜め息混じりに呟かれた相棒の言葉。これが、ひどく癇に障った。シグルドの言ったことは当たっている。……当たっているはずなのに。
「お前、俺の何なんだよ? 保護者か何かか、ああ!? 休め休めってしつこいんだよ。それに、俺の代わりは誰にも務まらねえんだよ!」
「……だったら、俺も言わせてもらうけどな。お前はどうしてそう、自信過剰なんだ? 絶対無敵の人間なんているわけがないし、ただただ無鉄砲に突っ込んでいけばいいってものじゃないんだ。あの時だって、俺が傍 にいなかったらお前はどうなっていたと思う? 死んでいたかもしれないんだぞ。しかも、一度や二度じゃない。お前と組むようになってから、ほとんどがそうだ」
「文句があるなら他の奴と組めば? 俺には俺のポリシーってもんがある。第一、お前みたいな説教臭い奴となんて組んでられるかってんだ!」
「……聞き入れるつもりはまったくないみたいだな。それならいいさ。俺は今後、二度とお前のフォローなんてしない。怪我をしたって、治してなんかやらない。粗末な応急処置でしばらく痛い思いをすればいい!」
激しい体力の消耗と戦闘の興奮を引きずっているせいか、ただでさえ負けん気の強い相棒は、非常に気が立っている。それはシグルドにもよく分かっていた。だが、シグルド自身も相棒を失いかけて激しく動揺し、一人で懸命に相棒の看病を続けていたため、精神的にかなり参っていたのだ。双方共に、尋常な精神状態ではなかったのが災いしたらしい。
無理をして体を起こし、ベッドに片膝を立ててシグルドを睨みつけるハーヴェイと、右手を腰に当てて、冷ややかにハーヴェイを見下ろすシグルド。こんな時まで見下ろされる羽目になってしまう自分の身長を恨めしく思いつつも、ハーヴェイは、無言で部屋を出ていく長身の相棒の背に向かって、盛大に舌を出したのだった。
◇◇
「あ、シグルドさん! ハーヴェイさんの具合はどうですか?」
ダリオの息子であるナレオにすれ違いざま尋ねられて、シグルドはわずかに顔を顰 めた。アジト内では「ハーヴェイ行く所にシグルドあり」と言われるほどの名コンビっぷりだが、今はそれが不愉快にすら思える。しかし、この健気な少年相手に大人げない態度は取りたくない。……あいつじゃあるまいし。
「元気過ぎるほど元気だよ。俺がいなくても全然大丈夫だから、あとで見舞いに行ってやるといい」
「そうですか、良かったぁー! ……実は、お父さんも心配してるんですよ。『あいつが元気になったら報告しろ、見舞いついでに一発ぶん殴ってやる』なんて言ってて。殴るのはだめですよね……」
「また〝ぶん殴る〟発言か……まったく、困ったもんだな。怪我人相手に……いや。今回ばかりは、俺の代わりに一発殴ってもらうのもいいかな」
「えっ?」
「まあ、とにかく。俺はキカ様の所に……じゃなかった、少し散歩でもしてくるよ。ダリオにもよろしく」
「は、はい」
――シグルドさん、なんだか怒ってるみたいだったけど。どうしたのかな? アジトの外へ出ていくシグルドの後ろ姿を、ナレオは不思議そうに首を傾げながら見送った。
重く感じる手足を充分にほぐした後、ハーヴェイは部屋の外へと出た。
途端に駆け寄ってくる仲間たち。その足取りが少しふらついているのに気付いて、仲間たちはすぐに肩を貸してくれる。
「すっげえな、もう目が覚めたのか。腹をザックリやられてたってのに」
「まだフラフラしてんじゃねえか。顔色もあんまり良くないぜ? 歩いて大丈夫なのかよ」
「それにしてもよ、シグルドの奴が回復魔法をパパッと使ったおかげでなんとかなったんだよな。下手すりゃ出血多量で……」
「……今からキカ様のとこに行く。一人で歩けるから離せよ」
低い声で言ったハーヴェイを、仲間たちが目を丸くして見下ろす。一人が思わず顔を覗き込み、
「まあ、そう落ち込むなって。いくら天下無敵のおめえにだって、たまにはこういうこともあるさ。だからおめえにはシグルドが……」
「アイツと俺は関係ねえ!!」
海賊仲間たちが、さらに目を丸くして動きを止める。先ほどと違って、誰も動かない。
「俺とアイツは常に一心同体、みたいな言い方はやめろよ! 恋人とかじゃねえんだ。別に俺は、アイツにいつも一緒にいてほしいだなんて頼んでない」
「……ど、どうしたんだ、おめえ……?」
「……まさか、ケンカ……」
「うるせえっ! いいから退け!!」
仲間たちの腕を乱暴に振り払ったハーヴェイは、肩を怒 らせながらキカの部屋へと歩いて行く。残された仲間たちは、というと。
「……ケンカ、だな」
「あいつらがケンカぁ!? いったい、何が原因だってんだ」
「とにかく仲良しこよしのあいつらがケンカ……こりゃあ、天変地異の前触れだぜ」
せっかくの好意を踏み躙られたことに怒りもせずに、仲間たちは、茫然とその背を見送った。
「……ふう」
一人で海を眺めながら、シグルドは物憂げな溜め息を吐いた。
常に隣にいるはずの相棒の姿が、今はない。ついムキになってあんなことを言ってしまったが、冷静に考えてみたら、いい年をした大人にあれこれと世話を焼き過ぎていた自分にも原因があるのかもしれない。
(……だが、今回はあいつのほうが悪い。俺は敵を始末して、あいつの傷を治してやって、看病までした。なのに逆ギレするなんて……何を考えてるんだ。あの礼儀知らずが)
感謝されたくて行 ったことではないにしろ、あんな態度を取られたら、誰だって腹が立つに決まっている。だから、あいつが頭を下げてくるまで許してはやらないし、口を聞くつもりもない。一緒に戦うつもりはないし、協力だってしてやる義理はない。勝手にすればいい。憤 りと物足りなさを半分ずつ感じながら、シグルドは肩を落としてもう一度、溜め息を吐いた。
ハーヴェイは、自らキカの元へ出向いて失態を犯したことを詫びた。案の定、キカの返事はあっさりしたもので、話題はすぐに違うものへと移る。
「その様子ではまだ、最前線には立てんな。……が、どうしても体を動かしたいと言うのなら、違う仕事を頼もう。やるか?」
「もちろん! じっとしてるなんて性に合いませんよ!!」
「では。……先刻の戦いで、敵方が持っていた宝のいくつかが海に放り出されて沈んだらしい。現在も何名かが探しに行っているのだが……巨大な船だったからな、広範囲に散らばっている可能性が高い。お前には、この宝を探し出す仕事を頼みたい」
「了解! 俺は海に潜るのも得意です。どっさり見つけてやりますよ!」
「ああ、期待している。……だがくれぐれも、無理はしないようにな」
「分かってますって。それじゃさっそく!」
張り切って部屋を出て行くハーヴェイの姿は、いつもと変わらないはずなのだが――何か不自然なものを感じて、キカはわずかに眉をひそめた。言うなれば、「空 元気」。元気な声を出しながらどこか伏し目がちで、キカの言葉が終わるなり、背を向けて部屋を出て行った。あまりにも、「らしくない」行動。個人的なことにはあまり興味がないが、一応訊 いておくか。キカは、近くにいた部下に尋ねる。
「……何かあったのか?」
「ええ。……彼ら、ケンカしたみたいですよ。何が原因なのかは分かっていませんが」
「……珍しいこともあるものだな」
「……やっぱりそう思います?」
そもそも過去の二人は敵対関係にあり、海賊島に来てからも、しばらくは険悪な雰囲気が続いていたのだ。あれからいくら和解したとはいえ、性格の違い上、喧嘩の一つや二つが起きてもおかしくはないだろう。特に詮索をするつもりはないが、ぼんやりとそう思ったのだった。
◇◇
(……ん? あれは……)
岸に座ってぼんやりと海を眺めていたシグルドの目が、見覚えのある姿を捉 える。視線の先に、首のスカーフに肩と左腕の鎧、靴を脱ぎ捨てて海に飛び込んで行くハーヴェイが見えた。思わず、その場で溜め息を吐く。
(あのバカ……海に潜るのも相当な体力を使うだろうに)
本当に考え無しだ。また怪我でもしたら……いや、もう構わないことに決めたじゃないか。あいつがどこで何をしていようと、俺には関係無い。酒でも飲んで心を落ち着かせようと、立ち上がって海に背を向ける。
酒場に入ったところで、誰かとぶつかりそうになった。オーバーアクションで構えて目を見開く、ずんぐりとした体型のその男は。
「コラア! 気を付けやがれ!」
「……ダリオ……すまん」
「いいからそこを退け! でかい図体で道を塞ぐなってんだ!」
「……」
無言で横に退くシグルドに、何を思ったかダリオは両手を腰に当てて仁王立ち。退けと言っておいて、この行動は矛盾している。
「……?」
「……おめえ、何か深刻な悩みでもあんのか? 今にも泣きそうな顔しやがって」
「悩み? 俺の悩みなんて、昔のことだけだ。当時のことを思い出して、なんとなく気分が優れなくて……それだけだよ」
「またかよ! ……ったく、いつまでもウジウジしやがって。おめえはキカ姉に忠誠を誓ったんじゃねえのか。海賊を続けてくって決めたんじゃねえのか!? それがなんで、まだ一人でクヨクヨ悩んでやがる。暗い顔してやがる! ……そうだ、アイツはどうした。いつもどおり、ハーヴェイの奴に相談すりゃいいだろうが」
「……無駄だ。これは、俺自身で解決しなければならない問題だから。あいつに相談したところで、何にもならないさ」
懸命に感情を抑えて話したものの、かえってそれが、シグルドの声を弱々しいものにした。一人で考え込めば考え込むほど深く落ち込んでしまい、自分がいかに相棒に力づけられていたのかを思い知らされる。
無理に微笑むことでごまかし、シグルドはそっと、ダリオに道を譲った。そんな後輩へすれ違いざま、ダリオの不器用で乱暴な激励。だが身長差があり過ぎる(※30cm)ために肩ではなく、背を思いっきり引っ叩く く……はずが、尻を叩く羽目になってしまい――
「……っ!?」
「ぎゃっ! 野郎の尻を触っちまった!! ……とにかくな! 海賊を続けるって言うんなら、つまんねえ過去なんざとっとと捨てちまえ! 昔のことに囚われたまんまじゃ、楽しい日なんて一生来ねえぞ。おめえの本当の実力も出しきれねえまま終わっちまうぞ! そこんとこ、よーく肝に銘じておけ!!」
「……わ、分かった」
「声が小せえ!!」
「分 か り ま し た !!」
自棄 になって返事をすると、今度こそ背中を叩かれた。文句を言う前に、ダリオは去って行ってしまう。
引っ叩 かれた尻と背中は痛むが、荒々しくも自分を気遣ってくれた先輩海賊に、シグルドは、心の中で感謝した。
(あいつとダリオは、よく似ている。……あんな励まされ方に、俺は弱いのかもな)
結局、酒は飲まずにノンアルコールのホットティーで。近くの席に座った海賊仲間たちの自慢話を聞きながら、静かにカップを傾ける。あれから数刻経っているから、今頃は夕焼けで海が金色に染まっているかもしれない。夜も近いだろう。もうじき、一日が終わる。
一日が終わるとあいつは、自分の部屋に押しかけてきてはなんだかんだと話し、ひととおり話し終えると、机の上に突っ伏して寝てしまう。部屋に戻れと言っても、聞きやしない。仕方なく薄手の毛布だけを掛けてやってからベッドに戻って眠ると、翌朝にはなぜか、当たり前のように潜ってきている相棒の寝顔が目の前に。最初の頃こそ驚いたが、慣れるのも早かった。果ては、「お前の体温が気持ち良くてよく寝れる」とまで言われる始末。……この時点で何かがおかしいはずなのだが、シグルド自身にもどこかズレている所があったために、それを容易に許してしまった。今では、一つのベッドで仲良く一夜を共にするのが日常。常識では有り得ない。
(……久々にベッドを広々と使えるんだ。蹴られたり乗っかられたりする心配はないんだから、これは喜ぶべきじゃないか)
仲間たちの話に適当に相鎚を打ちながら、心の中で言い聞かせる。と、そこへ、外から戻って来たばかりらしい仲間が発した、耳を疑うような言葉。
「何でえ! あんなにでかい船だったのに、お宝はあれだけかよ。めぼしいモンなんて、両手で数えられるぐらいしかなかったぜ」
「それも、高く売り飛ばせるかどうかも分からねえ。俺の拾ったやつだって……そういや、ハーヴェイの奴も一緒に潜ってなかったか?」
「あんな怪我をしたばっかりだったのにな。無茶しやがってとは思ったが……あれから見てねえよなあ」
「!!」
椅子を派手に倒した音が、酒場に響く。驚いて、こちらを振り向く海賊たち。彼らの視線は、椅子を倒した張本人である長身痩躯の青年に注がれていた。いつも冷静で感情をあまり表に出さないシグルドが、表情を強張らせて立ち竦 んでいる。
「……いつから見ていないんだ?」
「海ん中で見たから無理すんなとは言ったけどよ……あれから、結構経ってると思うぜ? 俺が見た時は、この辺からまだそんなに離れちゃいなかったが」
「元気に泳いでたけどなあ。確か、片手にでかい樽を抱えてたような……あっ、おい!」
最後まで聞かずに、シグルドは酒場を飛び出した。
足が、勝手に動いていた。心臓が早鐘を打つように高鳴り、最悪の結末を予想してしまう。
(ハーヴェイ……!!)
喧嘩をしてまだ数時間しか経っていないのに、この名を呼ぶのは久しい気がする。
砂浜に走り出て、夕日に染まった金色の海を見渡した。すぐ足下に、波が打ち寄せる。だが、迷っている暇はない。すっかり冷静さを失ったシグルドは、靴を脱ぐことも忘れて海の中へと入って行った。追って来ていた仲間たちが、慌てて叫ぶ。
「バカ野郎! そんな恰好で海に入ったら溺れちまうぞ!!」
「溺れ死ぬ気かー!!」
しかし、シグルドは既に海中の人。もはや、影すら見えない。
「ああああ! 誰か、誰かもっと人を呼んで来い!!」
「俺はあいつらを探しに行く! 野郎ども、手分けして探せ!!」
海賊島の岸辺は、二人の青年のせいで大騒ぎとなってしまった。
その頃、シグルドは――
(だ、駄目だ……服が重くて自由が利かない……!)
案の定、溺れかけていた。だが、後悔してももう遅い。たっぷりと水を含んだ服は重い枷 となり、……そもそも、自分はあまり泳ぎが得意ではない事実に、今更気付いた。まさに、絶体絶命。
それでもなんとかもがいていると、ゆらゆらと揺れる海藻の間に、何かが見えた気がした。――「何か」が。
(! 見つけた……!!)
樽を抱えたまま沈んでいるハーヴェイの姿が、そこにあった。少々息が苦しいが、シグルドは懸命に手足を動かし、相棒の元へと泳いで行く。
ハーヴェイには悪いが、樽までは持って上がれそうにない。相棒の体をしっかりと胸に抱きしめて、樽は海藻にくれてやった。呑気に揺れる海藻が、無数の腕を広げて樽を抱え込む。
力を振り絞って、岸辺を目指す。限界を感じて沈みかけたところを、仲間の手に引っ張り上げられた。気を失っているハーヴェイを先に上がらせ、自らも小舟に引っ張り上げてもらう。
激しく咳き込むシグルドと、ハーヴェイの口元に耳を近付けて、安堵の表情を浮かべる仲間たち。力いっぱい胸を押されて、ハーヴェイの口から勢い良く水が吹き出した。直後に聞こえる、激しい咳。
「……ま、無事で良かったな」
「ったく、どこまでも人騒がせな奴らだぜ!」
「……すまん。つまらない意地を張ったばかりに……」
「意地を張った?」
相棒の背中をさすってやりながら呟いたシグルドの言葉に、仲間たちが目を丸くする。全員が事情を知っているわけではなかったらしい。
「……喧嘩、したんだ。ちょっとした行き違いで。俺もあいつも、気が立っていて……いつもならうまくまとまる所が、言い争いに発展してしまった」
「ってことは。おめえらの痴話喧嘩のせいで、俺たちまで迷惑をこうむったってわけか」
「……ち、痴話喧嘩……?」
「しかも、一日も持たなかった痴話喧嘩だ! ……かーっ、アッツアツだねえ!!」
「……言葉の使い方が間違っていないか……? 痴話喧嘩っていうのは、男女間の……」
低い唸 り声を発した後に、ハーヴェイが目を覚ました。彼は濡れて張り付いた髪をかきあげ、虚ろな目で目の前の仲間たちを見つめる。
「……あ……? どこだ、ここ……?」
「やーっと目ェ覚ましたな! このバカ野郎が!」
「俺……海に潜って、それから……」
翠の瞳が、ダークブラウンの切れ長の双眸とぶつかる。――ハーヴェイが行動を起こすのは、早かった。
「――っ悪りぃ! ホントにすまねえ!!」
「!? ……いきなり何だ?」
「……マジで死ぬかと思った……っていうか、もう死んだと思った。頭のどっかで、本気でお前に謝ってた……」
「……」
「俺がお前を相棒にするって言ったのによ。お前に当たり散らして、意地張って。……でもこんなことがなかったら、お前の顔を見ても無視して通り過ぎてたと思う。何を話してもムカつく言葉しか出なかったと思うからさ」
「……俺も、大人げなかったよ。お前の性格を知った上で組んでるっていうのに。嫌ならとっくに見放してるはずなのに、ついあれこれ手助けを」
「ちょっとお前の助けがなかっただけで、こうだもんな。……けどよ」
謝った時に合わせた両手を下ろして、ハーヴェイは続ける。
「何でも心配し過ぎるのはやめろよな。俺が言わなかったら一週間ぐらい外出禁止にされたんじゃねえかって思うと、ゾッとするぜ」
「それはお前次第だよ。数日間我慢すれば、それだけ治りも早くなる。すぐに無理をするから、治るものも治らないんだ」
「そう言うけどな。寝たきりより、ちょっと歩いたほうがいい時だってあるんだぜ? 部屋の中を歩くぐらいのことはできたんだし、何が何でも突っ伏してろって言うのはさ」
「いったん歩かせたら、お前はどんどん調子に乗るじゃないか」
「だからって、アジトの外には出ねえよ。アジトからあんまり離れたら、お前にまた説教食らって……」
「……おい、お二人さんよ。俺たちの存在を忘れてるわけじゃねえだろうな……」
ハーヴェイが身を乗り出してどんどんシグルドとの距離を詰めているために、小舟が徐々に傾いてきている。
漕ぐことを手伝おうともせずに「二人の世界」を醸し出している迷惑な青年たちには、その声はまったく届いていない様子。あっさり仲直りはできたようだが、至近距離でじっと見つめ合う二人を見ていると、途轍もなく危険な世界に足を踏み入れてしまった気がする。
「……とにかく、無事で良かったよ。お前が死んでしまったらどうしようかと思った……」
「当分死にたくないね。……けど、お前が俺より先に死ぬのは許さねえからな」
「だああああ! お前ら、いい加減にしろーッ!!」
そのまま口付けでも交わすのではないかと思えるくらいの体勢で話す二人の青年に向かって、彼らの無事を喜んでいた仲間たちが、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたのだった。
残りの敵は少なく、しかもかなり弱っている。後は他の連中に任せて、そろそろ相棒の所に戻るか。そう考えて、身を翻した――その時だった。
脇腹に、鈍い衝撃。足下に倒れ伏していたはずの敵が起き上がり、真っ赤に充血した目で剣を突き出していた。淡い色の服の一部がみるみるうちに赤黒く染まり、何滴もの赤い雫が滴り落ちる。眼前の血走った目と、驚きに見開かれた翠の瞳が絡み合い――両者の瞳が、細められる。
「ハーヴェイ!!」
自分を呼ぶ、鋭い声。いつも穏やかに話すシグルドも、こんな声を出すことがあるのか。次第に意識が遠のき、四肢から力が抜けて行くのを感じながら、ハーヴェイはぼんやりと考えた。目の前の敵を何とかしなければと思いながらも、手足はまったく動かない。
「……おとなしく伏せていれば良かったものを」
すぐ
……もしかして、かなり怒ってんのか? そう思ったところで、ハーヴェイの意識は途切れた。
◇◇
負傷した相棒が横たわるベッドから、シグルドは、片時も離れなかった。常に生き生きと輝いている翠の瞳は閉ざされ、小麦色に焼けた肌は血色が悪く、青白い。負った傷は治癒魔法ですぐに塞いだが、激しい消耗のために凛々しい眉が険しく寄せられ、ほつれた前髪がかかった額には、無数の汗が浮き出ている。
(……頭の中が真っ白なのに、目の前は真っ暗だった。けれど、体は勝手に動いていて……あんなことは、初めてだ)
あの時は、理性などというものは存在しなかった。相棒に大怪我を負わせた敵に激しく怒り、憎しみを抱き、その額へ有無を言わさず刃を突き立てて頭を踏み躙った後、「モノ」と化した体を海に投げ捨てた。相棒の怪我のことがなかったら、さらにえげつない仕返しをしていただろう。あれほど怒ったのはハーヴェイと敵対関係にあった頃以来で、さすがの海賊たちからも「本気で怖い」と言われたくらいだ。
冷たいタオルで汗を拭うついでに、乱れた前髪も退けてやる。ひんやりとした感触に気付いたのか、翠色の瞳がうっすらと開かれた。真っ先に視界に入ったのは、背高い相棒の端正な顔。
「……気が付いたか」
「……シ、グ……? ……ってことは、俺……なんとか、生きてるんだ、な」
「ああ。お前も俺も、ちゃんと生きてるよ。……お前を殺そうとした奴は、しっかり始末しておいたからな」
「そりゃすまねえ……ってお前、そんな怖い顔すんなって……うぐっ」
「無理だ、まだ寝てろ。傷は塞がっても、体力の回復が追いついてないんだ」
体を起こそうとするも腕にまったく力が入らずに、ハーヴェイはあえなく撃沈する。そんな相棒に苦笑を浮かべ、シグルドは
「何をしてるんだ。おとなしく寝てろと言っただろう」
「んなこと言ってられるかよ。俺はとんでもない失態を犯しちまったんだぜ? こうして意識が戻ったんだから、まずはキカ様に謝りに行かねえと」
「どれだけ自分が消耗しているか分からないのか? お前がまともに歩けるようになるまでは、俺が代わりを務めるから心配するな」
無理に起き上がろうとする相棒をベッドに押し付けて、再び毛布を掛け直す。その直後に、またもや跳ね除けられる毛布。
「じっとなんてしてられるかよ! ダラダラ眠りこけてたら体がなまっちまうし、キカ様にも迷惑がかかる。ダリオの奴にもバカにされる、手柄も他の奴らに……」
「今日おとなしくしていれば、明日には出られるかもしれないじゃないか。その体で出ていって、役に立つと思――」
「うるせえ!!」
突然の怒鳴り声に、驚いたシグルドがタオルを床に落とす。予想外の出来事だ。
「俺の体は俺のものだ。他人につべこべ言われる筋合いはねえ! ちょっと歩けば自然に治る。この程度で突っ伏してるなんて、みっともないことできるかよ」
「何がみっともないんだ? 怪我をしたら安静にするのは当たり前、完全に治るまでは前線に出ないこと。基本だろうが」
「俺は大丈夫だって言ってんの。なんだって、そんなに口うるさいわけ?」
「口うるさいって……そもそもこれは、お前の不注意が招いたことじゃないか」
「!!」
溜め息混じりに呟かれた相棒の言葉。これが、ひどく癇に障った。シグルドの言ったことは当たっている。……当たっているはずなのに。
「お前、俺の何なんだよ? 保護者か何かか、ああ!? 休め休めってしつこいんだよ。それに、俺の代わりは誰にも務まらねえんだよ!」
「……だったら、俺も言わせてもらうけどな。お前はどうしてそう、自信過剰なんだ? 絶対無敵の人間なんているわけがないし、ただただ無鉄砲に突っ込んでいけばいいってものじゃないんだ。あの時だって、俺が
「文句があるなら他の奴と組めば? 俺には俺のポリシーってもんがある。第一、お前みたいな説教臭い奴となんて組んでられるかってんだ!」
「……聞き入れるつもりはまったくないみたいだな。それならいいさ。俺は今後、二度とお前のフォローなんてしない。怪我をしたって、治してなんかやらない。粗末な応急処置でしばらく痛い思いをすればいい!」
激しい体力の消耗と戦闘の興奮を引きずっているせいか、ただでさえ負けん気の強い相棒は、非常に気が立っている。それはシグルドにもよく分かっていた。だが、シグルド自身も相棒を失いかけて激しく動揺し、一人で懸命に相棒の看病を続けていたため、精神的にかなり参っていたのだ。双方共に、尋常な精神状態ではなかったのが災いしたらしい。
無理をして体を起こし、ベッドに片膝を立ててシグルドを睨みつけるハーヴェイと、右手を腰に当てて、冷ややかにハーヴェイを見下ろすシグルド。こんな時まで見下ろされる羽目になってしまう自分の身長を恨めしく思いつつも、ハーヴェイは、無言で部屋を出ていく長身の相棒の背に向かって、盛大に舌を出したのだった。
◇◇
「あ、シグルドさん! ハーヴェイさんの具合はどうですか?」
ダリオの息子であるナレオにすれ違いざま尋ねられて、シグルドはわずかに顔を
「元気過ぎるほど元気だよ。俺がいなくても全然大丈夫だから、あとで見舞いに行ってやるといい」
「そうですか、良かったぁー! ……実は、お父さんも心配してるんですよ。『あいつが元気になったら報告しろ、見舞いついでに一発ぶん殴ってやる』なんて言ってて。殴るのはだめですよね……」
「また〝ぶん殴る〟発言か……まったく、困ったもんだな。怪我人相手に……いや。今回ばかりは、俺の代わりに一発殴ってもらうのもいいかな」
「えっ?」
「まあ、とにかく。俺はキカ様の所に……じゃなかった、少し散歩でもしてくるよ。ダリオにもよろしく」
「は、はい」
――シグルドさん、なんだか怒ってるみたいだったけど。どうしたのかな? アジトの外へ出ていくシグルドの後ろ姿を、ナレオは不思議そうに首を傾げながら見送った。
重く感じる手足を充分にほぐした後、ハーヴェイは部屋の外へと出た。
途端に駆け寄ってくる仲間たち。その足取りが少しふらついているのに気付いて、仲間たちはすぐに肩を貸してくれる。
「すっげえな、もう目が覚めたのか。腹をザックリやられてたってのに」
「まだフラフラしてんじゃねえか。顔色もあんまり良くないぜ? 歩いて大丈夫なのかよ」
「それにしてもよ、シグルドの奴が回復魔法をパパッと使ったおかげでなんとかなったんだよな。下手すりゃ出血多量で……」
「……今からキカ様のとこに行く。一人で歩けるから離せよ」
低い声で言ったハーヴェイを、仲間たちが目を丸くして見下ろす。一人が思わず顔を覗き込み、
「まあ、そう落ち込むなって。いくら天下無敵のおめえにだって、たまにはこういうこともあるさ。だからおめえにはシグルドが……」
「アイツと俺は関係ねえ!!」
海賊仲間たちが、さらに目を丸くして動きを止める。先ほどと違って、誰も動かない。
「俺とアイツは常に一心同体、みたいな言い方はやめろよ! 恋人とかじゃねえんだ。別に俺は、アイツにいつも一緒にいてほしいだなんて頼んでない」
「……ど、どうしたんだ、おめえ……?」
「……まさか、ケンカ……」
「うるせえっ! いいから退け!!」
仲間たちの腕を乱暴に振り払ったハーヴェイは、肩を
「……ケンカ、だな」
「あいつらがケンカぁ!? いったい、何が原因だってんだ」
「とにかく仲良しこよしのあいつらがケンカ……こりゃあ、天変地異の前触れだぜ」
せっかくの好意を踏み躙られたことに怒りもせずに、仲間たちは、茫然とその背を見送った。
「……ふう」
一人で海を眺めながら、シグルドは物憂げな溜め息を吐いた。
常に隣にいるはずの相棒の姿が、今はない。ついムキになってあんなことを言ってしまったが、冷静に考えてみたら、いい年をした大人にあれこれと世話を焼き過ぎていた自分にも原因があるのかもしれない。
(……だが、今回はあいつのほうが悪い。俺は敵を始末して、あいつの傷を治してやって、看病までした。なのに逆ギレするなんて……何を考えてるんだ。あの礼儀知らずが)
感謝されたくて
ハーヴェイは、自らキカの元へ出向いて失態を犯したことを詫びた。案の定、キカの返事はあっさりしたもので、話題はすぐに違うものへと移る。
「その様子ではまだ、最前線には立てんな。……が、どうしても体を動かしたいと言うのなら、違う仕事を頼もう。やるか?」
「もちろん! じっとしてるなんて性に合いませんよ!!」
「では。……先刻の戦いで、敵方が持っていた宝のいくつかが海に放り出されて沈んだらしい。現在も何名かが探しに行っているのだが……巨大な船だったからな、広範囲に散らばっている可能性が高い。お前には、この宝を探し出す仕事を頼みたい」
「了解! 俺は海に潜るのも得意です。どっさり見つけてやりますよ!」
「ああ、期待している。……だがくれぐれも、無理はしないようにな」
「分かってますって。それじゃさっそく!」
張り切って部屋を出て行くハーヴェイの姿は、いつもと変わらないはずなのだが――何か不自然なものを感じて、キカはわずかに眉をひそめた。言うなれば、「
「……何かあったのか?」
「ええ。……彼ら、ケンカしたみたいですよ。何が原因なのかは分かっていませんが」
「……珍しいこともあるものだな」
「……やっぱりそう思います?」
そもそも過去の二人は敵対関係にあり、海賊島に来てからも、しばらくは険悪な雰囲気が続いていたのだ。あれからいくら和解したとはいえ、性格の違い上、喧嘩の一つや二つが起きてもおかしくはないだろう。特に詮索をするつもりはないが、ぼんやりとそう思ったのだった。
◇◇
(……ん? あれは……)
岸に座ってぼんやりと海を眺めていたシグルドの目が、見覚えのある姿を
(あのバカ……海に潜るのも相当な体力を使うだろうに)
本当に考え無しだ。また怪我でもしたら……いや、もう構わないことに決めたじゃないか。あいつがどこで何をしていようと、俺には関係無い。酒でも飲んで心を落ち着かせようと、立ち上がって海に背を向ける。
酒場に入ったところで、誰かとぶつかりそうになった。オーバーアクションで構えて目を見開く、ずんぐりとした体型のその男は。
「コラア! 気を付けやがれ!」
「……ダリオ……すまん」
「いいからそこを退け! でかい図体で道を塞ぐなってんだ!」
「……」
無言で横に退くシグルドに、何を思ったかダリオは両手を腰に当てて仁王立ち。退けと言っておいて、この行動は矛盾している。
「……?」
「……おめえ、何か深刻な悩みでもあんのか? 今にも泣きそうな顔しやがって」
「悩み? 俺の悩みなんて、昔のことだけだ。当時のことを思い出して、なんとなく気分が優れなくて……それだけだよ」
「またかよ! ……ったく、いつまでもウジウジしやがって。おめえはキカ姉に忠誠を誓ったんじゃねえのか。海賊を続けてくって決めたんじゃねえのか!? それがなんで、まだ一人でクヨクヨ悩んでやがる。暗い顔してやがる! ……そうだ、アイツはどうした。いつもどおり、ハーヴェイの奴に相談すりゃいいだろうが」
「……無駄だ。これは、俺自身で解決しなければならない問題だから。あいつに相談したところで、何にもならないさ」
懸命に感情を抑えて話したものの、かえってそれが、シグルドの声を弱々しいものにした。一人で考え込めば考え込むほど深く落ち込んでしまい、自分がいかに相棒に力づけられていたのかを思い知らされる。
無理に微笑むことでごまかし、シグルドはそっと、ダリオに道を譲った。そんな後輩へすれ違いざま、ダリオの不器用で乱暴な激励。だが身長差があり過ぎる(※30cm)ために肩ではなく、背を思いっきり引っ
「……っ!?」
「ぎゃっ! 野郎の尻を触っちまった!! ……とにかくな! 海賊を続けるって言うんなら、つまんねえ過去なんざとっとと捨てちまえ! 昔のことに囚われたまんまじゃ、楽しい日なんて一生来ねえぞ。おめえの本当の実力も出しきれねえまま終わっちまうぞ! そこんとこ、よーく肝に銘じておけ!!」
「……わ、分かった」
「声が小せえ!!」
「分 か り ま し た !!」
引っ
(あいつとダリオは、よく似ている。……あんな励まされ方に、俺は弱いのかもな)
結局、酒は飲まずにノンアルコールのホットティーで。近くの席に座った海賊仲間たちの自慢話を聞きながら、静かにカップを傾ける。あれから数刻経っているから、今頃は夕焼けで海が金色に染まっているかもしれない。夜も近いだろう。もうじき、一日が終わる。
一日が終わるとあいつは、自分の部屋に押しかけてきてはなんだかんだと話し、ひととおり話し終えると、机の上に突っ伏して寝てしまう。部屋に戻れと言っても、聞きやしない。仕方なく薄手の毛布だけを掛けてやってからベッドに戻って眠ると、翌朝にはなぜか、当たり前のように潜ってきている相棒の寝顔が目の前に。最初の頃こそ驚いたが、慣れるのも早かった。果ては、「お前の体温が気持ち良くてよく寝れる」とまで言われる始末。……この時点で何かがおかしいはずなのだが、シグルド自身にもどこかズレている所があったために、それを容易に許してしまった。今では、一つのベッドで仲良く一夜を共にするのが日常。常識では有り得ない。
(……久々にベッドを広々と使えるんだ。蹴られたり乗っかられたりする心配はないんだから、これは喜ぶべきじゃないか)
仲間たちの話に適当に相鎚を打ちながら、心の中で言い聞かせる。と、そこへ、外から戻って来たばかりらしい仲間が発した、耳を疑うような言葉。
「何でえ! あんなにでかい船だったのに、お宝はあれだけかよ。めぼしいモンなんて、両手で数えられるぐらいしかなかったぜ」
「それも、高く売り飛ばせるかどうかも分からねえ。俺の拾ったやつだって……そういや、ハーヴェイの奴も一緒に潜ってなかったか?」
「あんな怪我をしたばっかりだったのにな。無茶しやがってとは思ったが……あれから見てねえよなあ」
「!!」
椅子を派手に倒した音が、酒場に響く。驚いて、こちらを振り向く海賊たち。彼らの視線は、椅子を倒した張本人である長身痩躯の青年に注がれていた。いつも冷静で感情をあまり表に出さないシグルドが、表情を強張らせて立ち
「……いつから見ていないんだ?」
「海ん中で見たから無理すんなとは言ったけどよ……あれから、結構経ってると思うぜ? 俺が見た時は、この辺からまだそんなに離れちゃいなかったが」
「元気に泳いでたけどなあ。確か、片手にでかい樽を抱えてたような……あっ、おい!」
最後まで聞かずに、シグルドは酒場を飛び出した。
足が、勝手に動いていた。心臓が早鐘を打つように高鳴り、最悪の結末を予想してしまう。
(ハーヴェイ……!!)
喧嘩をしてまだ数時間しか経っていないのに、この名を呼ぶのは久しい気がする。
砂浜に走り出て、夕日に染まった金色の海を見渡した。すぐ足下に、波が打ち寄せる。だが、迷っている暇はない。すっかり冷静さを失ったシグルドは、靴を脱ぐことも忘れて海の中へと入って行った。追って来ていた仲間たちが、慌てて叫ぶ。
「バカ野郎! そんな恰好で海に入ったら溺れちまうぞ!!」
「溺れ死ぬ気かー!!」
しかし、シグルドは既に海中の人。もはや、影すら見えない。
「ああああ! 誰か、誰かもっと人を呼んで来い!!」
「俺はあいつらを探しに行く! 野郎ども、手分けして探せ!!」
海賊島の岸辺は、二人の青年のせいで大騒ぎとなってしまった。
その頃、シグルドは――
(だ、駄目だ……服が重くて自由が利かない……!)
案の定、溺れかけていた。だが、後悔してももう遅い。たっぷりと水を含んだ服は重い
それでもなんとかもがいていると、ゆらゆらと揺れる海藻の間に、何かが見えた気がした。――「何か」が。
(! 見つけた……!!)
樽を抱えたまま沈んでいるハーヴェイの姿が、そこにあった。少々息が苦しいが、シグルドは懸命に手足を動かし、相棒の元へと泳いで行く。
ハーヴェイには悪いが、樽までは持って上がれそうにない。相棒の体をしっかりと胸に抱きしめて、樽は海藻にくれてやった。呑気に揺れる海藻が、無数の腕を広げて樽を抱え込む。
力を振り絞って、岸辺を目指す。限界を感じて沈みかけたところを、仲間の手に引っ張り上げられた。気を失っているハーヴェイを先に上がらせ、自らも小舟に引っ張り上げてもらう。
激しく咳き込むシグルドと、ハーヴェイの口元に耳を近付けて、安堵の表情を浮かべる仲間たち。力いっぱい胸を押されて、ハーヴェイの口から勢い良く水が吹き出した。直後に聞こえる、激しい咳。
「……ま、無事で良かったな」
「ったく、どこまでも人騒がせな奴らだぜ!」
「……すまん。つまらない意地を張ったばかりに……」
「意地を張った?」
相棒の背中をさすってやりながら呟いたシグルドの言葉に、仲間たちが目を丸くする。全員が事情を知っているわけではなかったらしい。
「……喧嘩、したんだ。ちょっとした行き違いで。俺もあいつも、気が立っていて……いつもならうまくまとまる所が、言い争いに発展してしまった」
「ってことは。おめえらの痴話喧嘩のせいで、俺たちまで迷惑をこうむったってわけか」
「……ち、痴話喧嘩……?」
「しかも、一日も持たなかった痴話喧嘩だ! ……かーっ、アッツアツだねえ!!」
「……言葉の使い方が間違っていないか……? 痴話喧嘩っていうのは、男女間の……」
低い
「……あ……? どこだ、ここ……?」
「やーっと目ェ覚ましたな! このバカ野郎が!」
「俺……海に潜って、それから……」
翠の瞳が、ダークブラウンの切れ長の双眸とぶつかる。――ハーヴェイが行動を起こすのは、早かった。
「――っ悪りぃ! ホントにすまねえ!!」
「!? ……いきなり何だ?」
「……マジで死ぬかと思った……っていうか、もう死んだと思った。頭のどっかで、本気でお前に謝ってた……」
「……」
「俺がお前を相棒にするって言ったのによ。お前に当たり散らして、意地張って。……でもこんなことがなかったら、お前の顔を見ても無視して通り過ぎてたと思う。何を話してもムカつく言葉しか出なかったと思うからさ」
「……俺も、大人げなかったよ。お前の性格を知った上で組んでるっていうのに。嫌ならとっくに見放してるはずなのに、ついあれこれ手助けを」
「ちょっとお前の助けがなかっただけで、こうだもんな。……けどよ」
謝った時に合わせた両手を下ろして、ハーヴェイは続ける。
「何でも心配し過ぎるのはやめろよな。俺が言わなかったら一週間ぐらい外出禁止にされたんじゃねえかって思うと、ゾッとするぜ」
「それはお前次第だよ。数日間我慢すれば、それだけ治りも早くなる。すぐに無理をするから、治るものも治らないんだ」
「そう言うけどな。寝たきりより、ちょっと歩いたほうがいい時だってあるんだぜ? 部屋の中を歩くぐらいのことはできたんだし、何が何でも突っ伏してろって言うのはさ」
「いったん歩かせたら、お前はどんどん調子に乗るじゃないか」
「だからって、アジトの外には出ねえよ。アジトからあんまり離れたら、お前にまた説教食らって……」
「……おい、お二人さんよ。俺たちの存在を忘れてるわけじゃねえだろうな……」
ハーヴェイが身を乗り出してどんどんシグルドとの距離を詰めているために、小舟が徐々に傾いてきている。
漕ぐことを手伝おうともせずに「二人の世界」を醸し出している迷惑な青年たちには、その声はまったく届いていない様子。あっさり仲直りはできたようだが、至近距離でじっと見つめ合う二人を見ていると、途轍もなく危険な世界に足を踏み入れてしまった気がする。
「……とにかく、無事で良かったよ。お前が死んでしまったらどうしようかと思った……」
「当分死にたくないね。……けど、お前が俺より先に死ぬのは許さねえからな」
「だああああ! お前ら、いい加減にしろーッ!!」
そのまま口付けでも交わすのではないかと思えるくらいの体勢で話す二人の青年に向かって、彼らの無事を喜んでいた仲間たちが、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたのだった。
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