出会い・後編2
「き、キカ姉! 何もキカ姉がわざわざ出向く必要はねえでしょう! よりにもよって、俺たちの敵ですよ? 俺たちの顔を見た途端に、何を言い出すか分かったもんじゃあ……」
「何でも言わせておくさ。私はただ、目の前で海の底に沈みかけていた命を地上に引き上げてやっただけだ。吠えられる元気があるのなら、それでよかろう」
「むっ……じゃあ、せめて俺が護衛役に……」
「いや、私一人でいい。どうしてもと言うのなら、もう一人のほうの世話を頼む。……相手は怪我人だ。くれぐれも乱暴な真似はするなよ、ダリオ」
「へ、へえ。分かりやした」
かけがえのない二人の仲間を一度に失ってしまった女海賊は、部下たちから見えない場所まで来ると不意に足を止め、手の中に握っていた「何か」を細い紐に通した。紐の両端を軽く縛って輪状にすると、それを自らの胸へと吊り下げる。
彼女の胸元に下げられた、無骨な首飾り。その正体は――先刻、島の浜辺でエドガーの遺体を火葬した後に取り出した、小さな人骨だった。
やっと、楽になれる。己 を苦しめるすべてのものから、ようやく解放される――意識を手放す直前に、そんなことを思った。
もう、冷酷非情な主に従う必要は無い。人々の好奇の眼差しを受ける必要も、俺の前にさんざん現れた憎たらしいあの海賊に翻弄されることも……何もかもが、これで終わる。
だから、目の前に光が差し込み、死の世界には存在するはずのない「痛み」を感じた時は、心底絶望した。それでもなんとか意識を遠ざけると、自分を罵り嘲笑 う声が、海の底へ消えて行った人々の嘆きの声が、闇に閉ざされた世界に響き渡る――。
「……ッ……来る、な……来るなァ……ッ……!!」
「ひどい魘 されようだな……熱も高い。当分の間は、誰かが付き添ってやらねばなるまい」
「そうですね。ここに運び込まれてから、ずっとこの調子で。……彼は彼なりに、複雑な立場だったんでしょう。うわ言を聞いていたら、なんとなくそんな気がしてきましたよ」
「敵とはいえ、この男も被害者の一人だからな。助けた以上は、私が最後まで責任を持って面倒を見るさ。……ご苦労だった。ろくに寝ていないのだろう? あとは私がやる。もう休むといい」
「そんな、キカ様。あなたこそずっと……」
「エドガーが死に、ブランドの行方が分からぬ今、私が彼らの後を継がねばならない。よって、島にいるすべての者たちを束ね、守る必要がある。それが、残された私の役目だ」
「……」
静かに、だが力強く言い放つキカの言葉に、魘 され続ける青年の世話を任されていた海賊は、口を噤 んだ。確かにほとんど寝ていないし、ひどく疲れている。食事も摂っていないので、あともう少しこの部屋で看病を続けていたら、間違いなく倒れていただろう。だから、キカの気遣いはとてもありがたい。
しかし、それ以上にキカのことが心配だった。まだ若く、荒々しい海賊たちの中にあって気の優しい性分の青年海賊は、自分を拾ってくれた海賊王たちの紅一点であるキカに最も憧れ、好意を寄せている。それを表に出すことはなかったが、本人をこうして目の前にしている今、彼女の身を案じずにはいられなかったのだ。
そんな青年にどこか寂しげな笑顔を向けたキカは、彼が今まで座っていた椅子に腰掛けて、それきり何も言わなかった。これ以上食い下がっては、かえって彼女の気分を害するだけだろう。
素直に部屋の出入り口まで歩いて行った青年は、女海賊の後ろ姿に、無言で深く頭を下げた。扉を閉める音も、非常に控えめだった。
ひんやりとした感触に身を強張らせて、反射的に目を開けた。
剥き出しの岩、室内を照らす小さな明かり、柔らかく湿った布、――白く華奢な、人間の手。自分以外の人間がすぐ傍 に在 ると分かった途端に、急激に視界が開けていく。
首を動かすと、一人の女が己 を静かに見下ろしていた。日に焼けて色褪 せた長い栗色の髪に、若草色の細い瞳。類を見ないほどの美人だが、限りなく無表情に近く、冷たい印象さえ受ける。
ここはどこで、この女性は何者であるのか。しばらく戸惑っていると、女が先に口を開いた。その声音は低く、お世辞にも可憐とは言い難い。
「意識はあるようだな。だが、随分と魘 されていたぞ。熱も高い」
「……ここ、は……? あなたは、いったい……」
「それを今のあんたに教えるのは、酷 だと思うんだがね」
「酷 も何も……一度死んだも同然の俺に、今さら怖いものなどありません。仮に生き延びたとしても国には戻れず、逃亡生活を送ったとしても、かつての主が放った刺客の手にかかって殺されるだけです。主の執拗な追跡からは、決して逃れることなどできない……」
自嘲気味に呟いて顔を背けた青年の額から、汗が流れ落ちた。高熱のため息は荒く、形の良い眉が苦しげに寄せられている。
女は、手にした布で男の額の汗を拭ってやった。そしてその優しい動作とは裏腹に、青年をさらにどん底に突き落とすような「事実」を告げる。
「まあ、どのみち隠し通せるとは思っていなかったからな。単刀直入に言おう。――ここは『海賊島』だ。あんたが敵とみなしている、海賊どもの本拠地さ」
「……!!」
「つい昨日まで、エドガーという男がこの島の頭だった。その相棒のブランドと私の3人で、気ままな日々を送っていた。海賊を取り締まる立場にあったというあんたなら、エドガー・ブランド・キカの3人の名は知っているだろう? その一人、キカが私だ。エドガーはスティールとの戦いで死に、ブランドが姿をくらませた今、私がこの島の頭となったのさ。……よりにもよって海賊に、という顔だな。私が憎いか」
細い脚を組み、淡々と話し続ける女海賊から顔を背けたまま、青年は、毛布の下できつく拳を握り締めた。死の苦しみから逃れた先に待っていたのは、死よりも苛酷な現実。まったくといっていいほど体を動かせない状態の今、逃げ道はない。
「……その海賊が……なぜ、敵である俺を助けた? 今までの仕返しにと、よってたかって俺を拷問し、嬲 り殺すつもりか。……ならば殺すがいい。俺には生き延びねばならない理由など、どこにもない」
長い沈黙の後、青年は絞り出すように言った。何もかもを諦めたような、暗く虚ろな声。目の前にいる大海賊に今ここで殺されたとしても、逆にこの青年は、喜んで死を受け入れるだろう。
一人で来て正解だったと、キカは改めて思った。ダリオなどの血の気の多い海賊たちが傍 にいたら、まず間違いなくこの青年は殴り飛ばされていただろう。「キカ姉に無礼な口を聞くんじゃねえっ! 若造がッ!!」。……表情や声までもが、容易に想像できる。
あくまでもこちらを見ようとしない青年に、だがキカが怒ることはなかった。こうなることは分かっていたし、何より彼女自身が、この青年ともう少し話をしてみたいと思ったからだ。
二人の仲間を失った代わりに、二人の青年がこの島に運び込まれた。彼らには迷惑な話かもしれないが、不思議な巡り合わせだと思わずにはいられない。まるで「彼ら」が遺していった「形見」のよう――。
「そう死に急ぐ必要はなかろう。私にも、お前を殺す理由などない。……ここにいる間は、私がお前の命を保証する。何者にも、手出しはさせん。逃げたくば、どこへでも勝手に逃げればいい。ただし、お前が再び我々の敵として現れたなら、その時は容赦しない。……そもそも、島の外へ逃れて生き延びることができれば、の話だがな」
「……」
心の中の思いなどおくびにも出さず、女海賊は、静かに部屋を出て行った。静まり返った部屋に、青年が歯を食い縛った音が一度だけ響いた。
その日以来、この島の頭であるキカは自ら部屋を訪れ、青年の看病に当たった。
だが彼女は言葉少なに容態を尋ねるだけで、必要最低限の返事しかしない青年の態度を責めることはない。それでも、意外と種類豊富で贅沢な食事は少なからず青年を驚かせ、そんなふうにときおり素顔を垣間見せる彼を、女海賊は静かに見守るのみだった。
それから、数日が経った。相変わらず気分は塞ぎ込んでいたが、体力は順調に回復し、なんとか一人で体を起こせるようにまでなった、ある日――青年に、新たな試練が待っていた。
ノックもせずに扉を開け放ち、騒がしい足音を立てて突如現れた来訪者。部外者は自分のほうだとはいえ、無礼な来訪者を睨みつけてやるべく身構えた青年の表情が、一瞬にして強張った。あろうことか、その正体は。
「!! ……なっ……」
「よーう! お互いに、無様 無様な恰好だよなぁ。俺もお前も、あっちこっち包帯だらけだ。……また会えて嬉しいぜ、シグルドさんよ」
「……き……貴様、ハーヴェイ! あの時、海の底に消えたんじゃなかったのか!」
「残念ながら、このとおり。このハーヴェイ様、人より少々タフにできてるみたいでね。正直、揃ってダメかと思ったが、運良く生き残ることができたってわけだ。……せっかくこうして再会できたんだ。もっと喜んでくれたっていいんじゃねえかい?」
「ふざけるな! 俺は貴様と馴れ合うつもりは……うわっ! こっちへ来るな!!」
忘れもしない、その名前。忘れたくとも忘れられない、精悍な顔。右頬の小さな傷も勇ましいその青年――ハーヴェイは、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、怒りに青ざめたシグルドの肩へ、馴れ馴れしく腕を回した。その腕から逃れようとシグルドが必死に身を捩 り、
「いっ……!!」
「……っ、てぇ……ッ!!」
二人同時に、苦痛の声を上げた。シグルドは壁に、ハーヴェイは床に、ずるずるとへたり込む。
「……何をしている?」
痛みで声もなく悶え苦しむ青年たちを見たキカが、呆れた表情を浮かべた。彼女の後ろには、この島にいる事が不思議なくらいに可憐で幼い少年――ダリオの息子として、後に立派な海賊の一員となるナレオという――が、大きな目を瞬かせて立っている。ナレオの艶やかな黒髪を軽く撫でてやってから、キカは冷静に言った。
「……仲がいいという話は聞いていないぞ」
「それは違う、誤解だ! こいつが一方的に……くそっ、よりにもよってこいつまでいたなんて……歩けるようになったら、一刻も早くこんな島から出て行ってやる!」
「ばっかやろう! 天下の大海賊様に助けてもらっておいて、この恩知らずが! ミドルポートの人間ってのは、自分を助けてくれた人に対して礼も言えねえのかよ!?」
「うるさい! 貴様がいるのなら話は別だ! そもそも俺は、助けてくれなんて一言も……」
「てめえらあぁぁ!! キカ姉の前で、なに騒いでやがる!!!!」
ひときわ大きい怒鳴り声が聞こえたと同時に、鈍い音が二発、部屋の中に響いた。それに比例して、二つの短い呻 き声が上がる。
いつの間に来ていたのか、ずんぐりとした体型の男が、怒りの形相で拳を突き出していた。彼に殴られた頬を押さえた青年たちは、またもや声もなく悶え苦しむ羽目となる。
ナレオは、血の気の多い父と大人たちの顔を不安そうに見回し、女海賊は、自分より背の低いその男――ダリオを、冷たく見下ろした。正義の味方気取りだったダリオの表情が、みるみるうちに強張り始める。
「……だ、だって、キカ姉……こいつら、キカ姉に向かって失礼な口を……」
「……ダリオ。怪我人を殴るなと、あれほど言ったはずだが……?」
「……」
「いってぇ……おい、ちょっと待てよ、おっさん! 俺は何も言ってねえぞ! なのに、なんで殴られなきゃなんねえんだよ!?」
「部下が失礼したな。こいつは後で、よく叱っておく。……ハーヴェイといったか。私の部下になりたいと申し出てくれたのはありがたいが、それならまず、言い付けを守ることだ。私は、もうしばらく安静にしていろと言ったはずだぞ? 共に叱られたくなければ、おとなしく部屋に帰れ」
「……へい。……いや、はい……」
女海賊の一声でダリオは気の毒なくらいに肩を落とし、よろめくハーヴェイと、そんな彼を健気にも支えようと手を差し伸べたナレオが、最後にキカが「すまんな」と短く詫び、そっと扉を閉めて去って行った。再び静かになった部屋では、たった一人残されたシグルドが、茫然と出入り口をしばらく見つめ続ける。
やがて――大きな溜め息を一つ吐くと、いくらか気分が落ち着いた。そして、自分の心の中にわずかな変化が生まれつつあることに気付く。
(馬鹿な……ここに俺の居場所などないんだ。奴らは海賊じゃないか。ここの連中が、俺が思っていたのと違うという点は認めるが……ここなら、怪我が完全に治るまでの間は退屈しなさそうだ。だから、もうしばらく世話になってみるのも悪くはない……などと)
今までに味わったことのない、この気持ち。
あの女海賊がこの部屋を再び訪れた時は、もう少しまともに話すことができると思う。胸を張って正面から顔を見据えて、こんな命でも救ってくれたことに、素直に感謝の言葉を述べることができるかもしれない。その後どうするかは、その時次第だ。
翌日――女海賊の前に、見目麗しい二人の青年が立っていた。
一人は右頬の傷も勇ましい、やや小柄ながら精悍な顔立ちの青年。
もう一人は、背筋を堂々と伸ばした姿も美しい、長身痩躯の青年。
彼らの後ろには、太い腕を組んで仁王立ちしているお騒がせ海賊・ダリオと、新しい仲間を迎える喜びにきらきらと目を輝かせているナレオの姿もある。
少々形は違えど、自ら女海賊の部下となることを望んだ青年たちの新たな日々は、こうして始まったのだった。
「何でも言わせておくさ。私はただ、目の前で海の底に沈みかけていた命を地上に引き上げてやっただけだ。吠えられる元気があるのなら、それでよかろう」
「むっ……じゃあ、せめて俺が護衛役に……」
「いや、私一人でいい。どうしてもと言うのなら、もう一人のほうの世話を頼む。……相手は怪我人だ。くれぐれも乱暴な真似はするなよ、ダリオ」
「へ、へえ。分かりやした」
かけがえのない二人の仲間を一度に失ってしまった女海賊は、部下たちから見えない場所まで来ると不意に足を止め、手の中に握っていた「何か」を細い紐に通した。紐の両端を軽く縛って輪状にすると、それを自らの胸へと吊り下げる。
彼女の胸元に下げられた、無骨な首飾り。その正体は――先刻、島の浜辺でエドガーの遺体を火葬した後に取り出した、小さな人骨だった。
やっと、楽になれる。
もう、冷酷非情な主に従う必要は無い。人々の好奇の眼差しを受ける必要も、俺の前にさんざん現れた憎たらしいあの海賊に翻弄されることも……何もかもが、これで終わる。
だから、目の前に光が差し込み、死の世界には存在するはずのない「痛み」を感じた時は、心底絶望した。それでもなんとか意識を遠ざけると、自分を罵り
「……ッ……来る、な……来るなァ……ッ……!!」
「ひどい
「そうですね。ここに運び込まれてから、ずっとこの調子で。……彼は彼なりに、複雑な立場だったんでしょう。うわ言を聞いていたら、なんとなくそんな気がしてきましたよ」
「敵とはいえ、この男も被害者の一人だからな。助けた以上は、私が最後まで責任を持って面倒を見るさ。……ご苦労だった。ろくに寝ていないのだろう? あとは私がやる。もう休むといい」
「そんな、キカ様。あなたこそずっと……」
「エドガーが死に、ブランドの行方が分からぬ今、私が彼らの後を継がねばならない。よって、島にいるすべての者たちを束ね、守る必要がある。それが、残された私の役目だ」
「……」
静かに、だが力強く言い放つキカの言葉に、
しかし、それ以上にキカのことが心配だった。まだ若く、荒々しい海賊たちの中にあって気の優しい性分の青年海賊は、自分を拾ってくれた海賊王たちの紅一点であるキカに最も憧れ、好意を寄せている。それを表に出すことはなかったが、本人をこうして目の前にしている今、彼女の身を案じずにはいられなかったのだ。
そんな青年にどこか寂しげな笑顔を向けたキカは、彼が今まで座っていた椅子に腰掛けて、それきり何も言わなかった。これ以上食い下がっては、かえって彼女の気分を害するだけだろう。
素直に部屋の出入り口まで歩いて行った青年は、女海賊の後ろ姿に、無言で深く頭を下げた。扉を閉める音も、非常に控えめだった。
ひんやりとした感触に身を強張らせて、反射的に目を開けた。
剥き出しの岩、室内を照らす小さな明かり、柔らかく湿った布、――白く華奢な、人間の手。自分以外の人間がすぐ
首を動かすと、一人の女が
ここはどこで、この女性は何者であるのか。しばらく戸惑っていると、女が先に口を開いた。その声音は低く、お世辞にも可憐とは言い難い。
「意識はあるようだな。だが、随分と
「……ここ、は……? あなたは、いったい……」
「それを今のあんたに教えるのは、
「
自嘲気味に呟いて顔を背けた青年の額から、汗が流れ落ちた。高熱のため息は荒く、形の良い眉が苦しげに寄せられている。
女は、手にした布で男の額の汗を拭ってやった。そしてその優しい動作とは裏腹に、青年をさらにどん底に突き落とすような「事実」を告げる。
「まあ、どのみち隠し通せるとは思っていなかったからな。単刀直入に言おう。――ここは『海賊島』だ。あんたが敵とみなしている、海賊どもの本拠地さ」
「……!!」
「つい昨日まで、エドガーという男がこの島の頭だった。その相棒のブランドと私の3人で、気ままな日々を送っていた。海賊を取り締まる立場にあったというあんたなら、エドガー・ブランド・キカの3人の名は知っているだろう? その一人、キカが私だ。エドガーはスティールとの戦いで死に、ブランドが姿をくらませた今、私がこの島の頭となったのさ。……よりにもよって海賊に、という顔だな。私が憎いか」
細い脚を組み、淡々と話し続ける女海賊から顔を背けたまま、青年は、毛布の下できつく拳を握り締めた。死の苦しみから逃れた先に待っていたのは、死よりも苛酷な現実。まったくといっていいほど体を動かせない状態の今、逃げ道はない。
「……その海賊が……なぜ、敵である俺を助けた? 今までの仕返しにと、よってたかって俺を拷問し、
長い沈黙の後、青年は絞り出すように言った。何もかもを諦めたような、暗く虚ろな声。目の前にいる大海賊に今ここで殺されたとしても、逆にこの青年は、喜んで死を受け入れるだろう。
一人で来て正解だったと、キカは改めて思った。ダリオなどの血の気の多い海賊たちが
あくまでもこちらを見ようとしない青年に、だがキカが怒ることはなかった。こうなることは分かっていたし、何より彼女自身が、この青年ともう少し話をしてみたいと思ったからだ。
二人の仲間を失った代わりに、二人の青年がこの島に運び込まれた。彼らには迷惑な話かもしれないが、不思議な巡り合わせだと思わずにはいられない。まるで「彼ら」が遺していった「形見」のよう――。
「そう死に急ぐ必要はなかろう。私にも、お前を殺す理由などない。……ここにいる間は、私がお前の命を保証する。何者にも、手出しはさせん。逃げたくば、どこへでも勝手に逃げればいい。ただし、お前が再び我々の敵として現れたなら、その時は容赦しない。……そもそも、島の外へ逃れて生き延びることができれば、の話だがな」
「……」
心の中の思いなどおくびにも出さず、女海賊は、静かに部屋を出て行った。静まり返った部屋に、青年が歯を食い縛った音が一度だけ響いた。
その日以来、この島の頭であるキカは自ら部屋を訪れ、青年の看病に当たった。
だが彼女は言葉少なに容態を尋ねるだけで、必要最低限の返事しかしない青年の態度を責めることはない。それでも、意外と種類豊富で贅沢な食事は少なからず青年を驚かせ、そんなふうにときおり素顔を垣間見せる彼を、女海賊は静かに見守るのみだった。
それから、数日が経った。相変わらず気分は塞ぎ込んでいたが、体力は順調に回復し、なんとか一人で体を起こせるようにまでなった、ある日――青年に、新たな試練が待っていた。
ノックもせずに扉を開け放ち、騒がしい足音を立てて突如現れた来訪者。部外者は自分のほうだとはいえ、無礼な来訪者を睨みつけてやるべく身構えた青年の表情が、一瞬にして強張った。あろうことか、その正体は。
「!! ……なっ……」
「よーう! お互いに、
「……き……貴様、ハーヴェイ! あの時、海の底に消えたんじゃなかったのか!」
「残念ながら、このとおり。このハーヴェイ様、人より少々タフにできてるみたいでね。正直、揃ってダメかと思ったが、運良く生き残ることができたってわけだ。……せっかくこうして再会できたんだ。もっと喜んでくれたっていいんじゃねえかい?」
「ふざけるな! 俺は貴様と馴れ合うつもりは……うわっ! こっちへ来るな!!」
忘れもしない、その名前。忘れたくとも忘れられない、精悍な顔。右頬の小さな傷も勇ましいその青年――ハーヴェイは、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、怒りに青ざめたシグルドの肩へ、馴れ馴れしく腕を回した。その腕から逃れようとシグルドが必死に身を
「いっ……!!」
「……っ、てぇ……ッ!!」
二人同時に、苦痛の声を上げた。シグルドは壁に、ハーヴェイは床に、ずるずるとへたり込む。
「……何をしている?」
痛みで声もなく悶え苦しむ青年たちを見たキカが、呆れた表情を浮かべた。彼女の後ろには、この島にいる事が不思議なくらいに可憐で幼い少年――ダリオの息子として、後に立派な海賊の一員となるナレオという――が、大きな目を瞬かせて立っている。ナレオの艶やかな黒髪を軽く撫でてやってから、キカは冷静に言った。
「……仲がいいという話は聞いていないぞ」
「それは違う、誤解だ! こいつが一方的に……くそっ、よりにもよってこいつまでいたなんて……歩けるようになったら、一刻も早くこんな島から出て行ってやる!」
「ばっかやろう! 天下の大海賊様に助けてもらっておいて、この恩知らずが! ミドルポートの人間ってのは、自分を助けてくれた人に対して礼も言えねえのかよ!?」
「うるさい! 貴様がいるのなら話は別だ! そもそも俺は、助けてくれなんて一言も……」
「てめえらあぁぁ!! キカ姉の前で、なに騒いでやがる!!!!」
ひときわ大きい怒鳴り声が聞こえたと同時に、鈍い音が二発、部屋の中に響いた。それに比例して、二つの短い
いつの間に来ていたのか、ずんぐりとした体型の男が、怒りの形相で拳を突き出していた。彼に殴られた頬を押さえた青年たちは、またもや声もなく悶え苦しむ羽目となる。
ナレオは、血の気の多い父と大人たちの顔を不安そうに見回し、女海賊は、自分より背の低いその男――ダリオを、冷たく見下ろした。正義の味方気取りだったダリオの表情が、みるみるうちに強張り始める。
「……だ、だって、キカ姉……こいつら、キカ姉に向かって失礼な口を……」
「……ダリオ。怪我人を殴るなと、あれほど言ったはずだが……?」
「……」
「いってぇ……おい、ちょっと待てよ、おっさん! 俺は何も言ってねえぞ! なのに、なんで殴られなきゃなんねえんだよ!?」
「部下が失礼したな。こいつは後で、よく叱っておく。……ハーヴェイといったか。私の部下になりたいと申し出てくれたのはありがたいが、それならまず、言い付けを守ることだ。私は、もうしばらく安静にしていろと言ったはずだぞ? 共に叱られたくなければ、おとなしく部屋に帰れ」
「……へい。……いや、はい……」
女海賊の一声でダリオは気の毒なくらいに肩を落とし、よろめくハーヴェイと、そんな彼を健気にも支えようと手を差し伸べたナレオが、最後にキカが「すまんな」と短く詫び、そっと扉を閉めて去って行った。再び静かになった部屋では、たった一人残されたシグルドが、茫然と出入り口をしばらく見つめ続ける。
やがて――大きな溜め息を一つ吐くと、いくらか気分が落ち着いた。そして、自分の心の中にわずかな変化が生まれつつあることに気付く。
(馬鹿な……ここに俺の居場所などないんだ。奴らは海賊じゃないか。ここの連中が、俺が思っていたのと違うという点は認めるが……ここなら、怪我が完全に治るまでの間は退屈しなさそうだ。だから、もうしばらく世話になってみるのも悪くはない……などと)
今までに味わったことのない、この気持ち。
あの女海賊がこの部屋を再び訪れた時は、もう少しまともに話すことができると思う。胸を張って正面から顔を見据えて、こんな命でも救ってくれたことに、素直に感謝の言葉を述べることができるかもしれない。その後どうするかは、その時次第だ。
翌日――女海賊の前に、見目麗しい二人の青年が立っていた。
一人は右頬の傷も勇ましい、やや小柄ながら精悍な顔立ちの青年。
もう一人は、背筋を堂々と伸ばした姿も美しい、長身痩躯の青年。
彼らの後ろには、太い腕を組んで仁王立ちしているお騒がせ海賊・ダリオと、新しい仲間を迎える喜びにきらきらと目を輝かせているナレオの姿もある。
少々形は違えど、自ら女海賊の部下となることを望んだ青年たちの新たな日々は、こうして始まったのだった。
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