口唇
ミドルポートで領主の用心棒を務めていた期間はそう短くはなく、頑健とまでは言わないが、虚弱でもない。日々の任務で疲れ果てて体が重く感じるのはよくあることで、熱が出たとしても次の日にはほぼ治っていたし、治りきらずに微熱がある状態でも、よほどの任務でない限り、さして支障はなかった。
だから今回も、適当にやり過ごすつもりだった。ミドルポートの軍人から、キカ海賊団の一員へ――身分や環境の劇的な変化によって、蓄積していた疲れが出てきたのだろうと軽く考えていた。
しかし、今までに経験したことのないひどい船酔いで盛大に嘔吐してしまったのが、昨日の昼過ぎのこと。仲間たちからは笑われたものの、同い年の相棒には笑われることなく背中をさすられ、ひたすら心配された。
情けなさと恥ずかしさの気持ちでいっぱいになり、付きっきりで介抱してくれた相棒や様子を見に来た主に謝った。船酔いなど一時的なものに過ぎないのだから、すぐに良くなるはずだと何度繰り返したことか。
しばらくおとなしくしていれば、今回だってすぐに――。
(……何だ? やけにだるいな……)
翌日になってもベッドから体を起こすことができず、シグルドは、激しい頭痛と倦怠感によって目を覚ました。低いはずの天井がやけに遠くに見えて、周囲の景色がぼやけている。薄手の毛布が、やけに重たく感じる。
ああ、熱が出ているのか。汗で首筋に張り付いた髪を払おうとして、腕が上がらないことに気付く。固いベッドに深く沈んでいくような体の感覚から、かなりの高熱が出ていることが予想できた。どこまでも情けない。
息苦しさに、眉間に皺を寄せて目を瞑る。喉が渇いて痛い。水を流し込んで喉を潤すことができればいいのだが、指一本動かすことすら叶わないので、渇きを満たすことができない。普段は誰にも頼らないようにしているのだが、今はそんなことなど言っていられない。冷たい水を持ってきてくれるだけでいい。――誰か。
その時、慌ただしい足音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。あまりにも乱暴な開け方をしたからか、扉が壁に当たって大きな音を立てる。
だが後ろを振り返ることなどまったくせずに、騒がしい訪問客は、来た時と同じく慌ただしい音を立てて傍 まで走り寄ってきた。その手には、洗面器と濡れたタオルが載っている。
「おいシグルド、大丈夫か? うっわ、すげえ汗。顔も真っ赤だぜ? まさかお前、熱が……げっ! あっちィ!!」
洗面器と濡れたタオルを持つ姿が似合わない青年は、シグルドの額に触れるなり飛び上がって手を引っ込めた。だがすぐに、もう一度確かめるようにおそるおそる手を伸ばし、同じ動作を繰り返して顔を顰 める。その表情は硬い。
「……昨日、お前が吐いた時点で気が付くべきだったよな。あの後、キカ様には休ませてやれって言われてたのに、俺が無理やり……」
「……お前は悪くないさ。俺が気を緩めたから……」
「気の緩みとか、そういう問題かよ。……今回は、俺が責任持って看病する。なかなか無いぜ? このハーヴェイ様に手厚く看病されるなんてよ」
明らかに悔やんでいるのを隠すように、青年――ハーヴェイが、ぎこちない笑みを浮かべた。シグルドもつられて微笑もうとするが、割れるような頭の痛みで、表情が引き攣 ってしまう。
相棒の額や首筋に浮かぶ汗を濡れたタオルで拭い、洗いに行っては再び同じ動作を繰り返す。本人が言うとおり、甲斐がいしく病人の世話をするハーヴェイの姿は、めったに見られるものではないだろう。
掠 れた声で「水が欲しい」と言われて、ハーヴェイはグラスに水を入れてから、相棒が横たわるベッドに腰掛けた。シグルドの体を支え起こして水を飲ませようとするが、うまくいかない。シグルドが口に含みきれなかった水が顎を伝って彼の胸元に零れ、ベッドのシーツをも濡らして行く。
看病の基本は学んでおくべきだったと、後悔した。具合の悪い相棒を、主であるキカの忠告も聞かずに連れ出しておいてこのザマだ。キカや先輩であるダリオならば、基本くらいは心得ているだろう。だが責任は自分にあるので、今回ばかりは他人に頼るわけにはいかない。――頼るわけには。
「苦労しているようだな」
「き、キカ様……!?」
慌てて振り返ると、気が動転していたばかりに閉め忘れていた扉の前に、キカが立っていた。その静かな表情からは、相変わらず感情が読めない。
「意気込んで看病をしに行ったというのに、肝心なものを持っていかんとはな。ぬるい水を飲ませるだけでは、熱が下がらんどころか腹を下すぞ」
「肝心なもの? ……あっ」
キカが手にしているのは、薬が入った小袋。ここ数年、熱が出たとしても薬には頼らず、自然治癒に任せていたハーヴェイは、解熱剤の存在自体が頭になかった。むしろ、「薬」というモノ自体を「危険物」と認識しているほどだ。
だから、つい疑ってしまう。不味いだけでろくに効果などないのではないか、一度服用したらやめられなくなってしまうのではないか、と。
「……そんなモノが、ホントに効くんですか?」
「体質にもよると思うが。少なくともナレオにはよく効いたと、ダリオが言っていた」
「……はあ……」
「ハーヴェイ、お前はいったん休め。二人同時に倒れられてはかなわん」
「そんな! 俺は丈夫なのが取り柄です! 今回は、俺が責任持って看病するって決めたんだ」
「……四六時中共にいるお前たちのことだ。近いうちに、お前も倒れる可能性が高い。そもそも、ろくに食事を摂っていないだろう。軽くでも良いから済ませて来い。これは命令だ」
「命令」とまで言われては、これ以上抗うことはできない。ハーヴェイにとって、キカの命令は絶対だ。
渋々立ち上がった途端に、腹が鳴って眩暈 がした。そういえばシグルドの体に異変が起こった時から、水は飲んでも酒や食べ物はほとんど口にしていなかった。確かにこれでは、自らも倒れ兼ねない状態だ。
「……メシを済ませたらまた来ます。これでキカ様まで倒れちまったら、ダリオの野郎に何言われるか分かんねえ」
「私のことより、己 の身を気遣うべきだろう。とにかく行って来い」
「じゃあ、薬だけ飲ませといてやってください。あとのことは俺がやるんで」
いつも強気で無鉄砲な青年が、海賊稼業を始めてまだ日の浅い相棒を、本気で心配している。己の片腕ともいえる存在のシグルドとハーヴェイを欠くのは戦力的にマイナスであり、口には出さないが、仲の良い二人を見ていると、ほんの少しとはいえ温かい気持ちになれる。……常識ある者からは、過度の戯 れをなんとかしてほしいと苦情が出ていたりするのだが。
特にシグルドは、荒くれ揃いの海賊の中にあって、物事を冷静に判断できる貴重な人材だ。純粋に戦士としての能力も高いが、何より機転の利く作戦や高度な紋章魔法・紋章砲の扱いにも長けている。だからこそキカは、シグルドを傍に置くことに決めた。元が敵といえ決して裏切らないと信じ、そして彼も、その期待に応えている。遠過ぎず近過ぎず、キカにとってはまさに理想的な関係だ。異性ではあるが、頭領と部下、それ以上の感情は持っていない。
だからといって、寝込んでいる部下を心配していないわけではない。慣れない生活が続いて倒れてしまった青年を気遣うくらいの思いやりはある。部下たちは、一心に己を慕ってくれているのだ。たまには〝恩返し〟もしてやらねばなるまい。
(さすがのハーヴェイも、今回ばかりは反省しているようだな。薬くらいは飲ませてやるか)
白手袋を外し、生身の指で薬を取り出す。
シグルドの頭を支え起こそうとして、やめた。青年の意識が朦朧としている今、もっと飲ませやすい方法があると思ったからだ。
(幸い、うるさい奴もいないからな。私に頼み事をしていったのだ、私がやり易い方法を取らせてもらおう。ダリオに同じことをやれと言われたら、躊躇するかもしれんが)
薬と水を自らの口に含んだキカは、長い髪を軽く耳にかけて、浅い呼吸を繰り返す青年の唇へ己のそれを重ねた。軽く舌を絡めて促してやると、青年の喉が小さく鳴り、無事薬を飲み込んだのが分かる。
女の明るい色の髪が、さらりと音を立てて青年の顔半分を覆う。その感触を不思議に思ったのか、閉ざされていたシグルドの瞳がうっすらと開いた。
目の前に、主であるキカの美貌。
唇には、温かく柔らかな「何か」の感触。
「――ッ!?」
びくりと体を震わせ、切れ長の瞳を大きく見開くシグルドから、キカはゆっくりと身を離した。驚きのあまり声も出ないらしい青年とは反対に、キカは非常に冷静だ。
「……その歳で、初めてでもないだろうに。第一、私が病人に無体なことをする女だと思うか?」
「そ、そんなことは……! で、でも今、キカさま、いったいなぜ……!?」
「落ち着け。お前らしくもない」
「~~~~!!」
「……元気になったようで、何よりだ」
勢い良く上半身を起こし、耳まで真っ赤にして口を押さえるシグルドを、キカは呆れ顔で見つめた。冷静さをすっかり欠いた青年の姿は見苦しいので、彼を落ち着けるために正当な目的を述べてやる。
「お前の相棒に頼まれて、薬を飲ませただけだ。私とお前の体格差から、最も効率が良いと思われる方法を選んだだけのこと。お前が何を考えているかは知らんが、他意はないから安心しろ」
「……」
冷静沈着なはずのシグルドの瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。これが彼に想いを寄せる女性ならば、「百年の恋も冷め」たかもしれない。幸い、キカは全く該当しなかったが。
だがキカはさらに追い討ちをかけるように、
「……せいぜい、私が同性ではなかったことに感謝するのだな」
少し意地の悪い笑みを浮かべて、悠然と部屋を後にしたのだった。
それから、数十分後――
食事を済ませて部屋に戻って来たハーヴェイは、ベッドの上で身を起こしながらも膝を抱えて蹲 っているシグルドの姿を見て、目を丸くした。すぐさま駆け寄り、声を掛ける。
「なんだ、起き上がれるようになったのか。もう薬が効いて……どうしたんだよ、シグルド? 顔が赤いし、……泣い、て……?」
「……ハーヴェイ。俺には、キカ様がどういう方なのかさっぱり分からなくなってきたよ……」
「なんなんだよ、いきなり? 何か凹むことでも言われたのか? ……ッあー! でかい図体してメソメソすんな!!」
珍しく体をあずけてきたシグルドにどぎまぎしながらも、ハーヴェイは、相棒が落ち着くまで肩や頭を宥 めるように叩いてやった。相手は高熱が出ている病人であり、病人は甘えたがるものだ。そう自分に言い聞かせて、胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。
この後、言い渋るシグルドを強引に問い詰めて聞かされた衝撃の事実にハーヴェイは度肝を抜かれ、しばらくの間、シグルドがキカの部屋から出てきた時は必ず「何を話してた」「何もされなかったか」と尋ねるようになり、これを機に二人の青年の仲は、ますます深まったという。
だから今回も、適当にやり過ごすつもりだった。ミドルポートの軍人から、キカ海賊団の一員へ――身分や環境の劇的な変化によって、蓄積していた疲れが出てきたのだろうと軽く考えていた。
しかし、今までに経験したことのないひどい船酔いで盛大に嘔吐してしまったのが、昨日の昼過ぎのこと。仲間たちからは笑われたものの、同い年の相棒には笑われることなく背中をさすられ、ひたすら心配された。
情けなさと恥ずかしさの気持ちでいっぱいになり、付きっきりで介抱してくれた相棒や様子を見に来た主に謝った。船酔いなど一時的なものに過ぎないのだから、すぐに良くなるはずだと何度繰り返したことか。
しばらくおとなしくしていれば、今回だってすぐに――。
(……何だ? やけにだるいな……)
翌日になってもベッドから体を起こすことができず、シグルドは、激しい頭痛と倦怠感によって目を覚ました。低いはずの天井がやけに遠くに見えて、周囲の景色がぼやけている。薄手の毛布が、やけに重たく感じる。
ああ、熱が出ているのか。汗で首筋に張り付いた髪を払おうとして、腕が上がらないことに気付く。固いベッドに深く沈んでいくような体の感覚から、かなりの高熱が出ていることが予想できた。どこまでも情けない。
息苦しさに、眉間に皺を寄せて目を瞑る。喉が渇いて痛い。水を流し込んで喉を潤すことができればいいのだが、指一本動かすことすら叶わないので、渇きを満たすことができない。普段は誰にも頼らないようにしているのだが、今はそんなことなど言っていられない。冷たい水を持ってきてくれるだけでいい。――誰か。
その時、慌ただしい足音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。あまりにも乱暴な開け方をしたからか、扉が壁に当たって大きな音を立てる。
だが後ろを振り返ることなどまったくせずに、騒がしい訪問客は、来た時と同じく慌ただしい音を立てて
「おいシグルド、大丈夫か? うっわ、すげえ汗。顔も真っ赤だぜ? まさかお前、熱が……げっ! あっちィ!!」
洗面器と濡れたタオルを持つ姿が似合わない青年は、シグルドの額に触れるなり飛び上がって手を引っ込めた。だがすぐに、もう一度確かめるようにおそるおそる手を伸ばし、同じ動作を繰り返して顔を
「……昨日、お前が吐いた時点で気が付くべきだったよな。あの後、キカ様には休ませてやれって言われてたのに、俺が無理やり……」
「……お前は悪くないさ。俺が気を緩めたから……」
「気の緩みとか、そういう問題かよ。……今回は、俺が責任持って看病する。なかなか無いぜ? このハーヴェイ様に手厚く看病されるなんてよ」
明らかに悔やんでいるのを隠すように、青年――ハーヴェイが、ぎこちない笑みを浮かべた。シグルドもつられて微笑もうとするが、割れるような頭の痛みで、表情が引き
相棒の額や首筋に浮かぶ汗を濡れたタオルで拭い、洗いに行っては再び同じ動作を繰り返す。本人が言うとおり、甲斐がいしく病人の世話をするハーヴェイの姿は、めったに見られるものではないだろう。
看病の基本は学んでおくべきだったと、後悔した。具合の悪い相棒を、主であるキカの忠告も聞かずに連れ出しておいてこのザマだ。キカや先輩であるダリオならば、基本くらいは心得ているだろう。だが責任は自分にあるので、今回ばかりは他人に頼るわけにはいかない。――頼るわけには。
「苦労しているようだな」
「き、キカ様……!?」
慌てて振り返ると、気が動転していたばかりに閉め忘れていた扉の前に、キカが立っていた。その静かな表情からは、相変わらず感情が読めない。
「意気込んで看病をしに行ったというのに、肝心なものを持っていかんとはな。ぬるい水を飲ませるだけでは、熱が下がらんどころか腹を下すぞ」
「肝心なもの? ……あっ」
キカが手にしているのは、薬が入った小袋。ここ数年、熱が出たとしても薬には頼らず、自然治癒に任せていたハーヴェイは、解熱剤の存在自体が頭になかった。むしろ、「薬」というモノ自体を「危険物」と認識しているほどだ。
だから、つい疑ってしまう。不味いだけでろくに効果などないのではないか、一度服用したらやめられなくなってしまうのではないか、と。
「……そんなモノが、ホントに効くんですか?」
「体質にもよると思うが。少なくともナレオにはよく効いたと、ダリオが言っていた」
「……はあ……」
「ハーヴェイ、お前はいったん休め。二人同時に倒れられてはかなわん」
「そんな! 俺は丈夫なのが取り柄です! 今回は、俺が責任持って看病するって決めたんだ」
「……四六時中共にいるお前たちのことだ。近いうちに、お前も倒れる可能性が高い。そもそも、ろくに食事を摂っていないだろう。軽くでも良いから済ませて来い。これは命令だ」
「命令」とまで言われては、これ以上抗うことはできない。ハーヴェイにとって、キカの命令は絶対だ。
渋々立ち上がった途端に、腹が鳴って
「……メシを済ませたらまた来ます。これでキカ様まで倒れちまったら、ダリオの野郎に何言われるか分かんねえ」
「私のことより、
「じゃあ、薬だけ飲ませといてやってください。あとのことは俺がやるんで」
いつも強気で無鉄砲な青年が、海賊稼業を始めてまだ日の浅い相棒を、本気で心配している。己の片腕ともいえる存在のシグルドとハーヴェイを欠くのは戦力的にマイナスであり、口には出さないが、仲の良い二人を見ていると、ほんの少しとはいえ温かい気持ちになれる。……常識ある者からは、過度の
特にシグルドは、荒くれ揃いの海賊の中にあって、物事を冷静に判断できる貴重な人材だ。純粋に戦士としての能力も高いが、何より機転の利く作戦や高度な紋章魔法・紋章砲の扱いにも長けている。だからこそキカは、シグルドを傍に置くことに決めた。元が敵といえ決して裏切らないと信じ、そして彼も、その期待に応えている。遠過ぎず近過ぎず、キカにとってはまさに理想的な関係だ。異性ではあるが、頭領と部下、それ以上の感情は持っていない。
だからといって、寝込んでいる部下を心配していないわけではない。慣れない生活が続いて倒れてしまった青年を気遣うくらいの思いやりはある。部下たちは、一心に己を慕ってくれているのだ。たまには〝恩返し〟もしてやらねばなるまい。
(さすがのハーヴェイも、今回ばかりは反省しているようだな。薬くらいは飲ませてやるか)
白手袋を外し、生身の指で薬を取り出す。
シグルドの頭を支え起こそうとして、やめた。青年の意識が朦朧としている今、もっと飲ませやすい方法があると思ったからだ。
(幸い、うるさい奴もいないからな。私に頼み事をしていったのだ、私がやり易い方法を取らせてもらおう。ダリオに同じことをやれと言われたら、躊躇するかもしれんが)
薬と水を自らの口に含んだキカは、長い髪を軽く耳にかけて、浅い呼吸を繰り返す青年の唇へ己のそれを重ねた。軽く舌を絡めて促してやると、青年の喉が小さく鳴り、無事薬を飲み込んだのが分かる。
女の明るい色の髪が、さらりと音を立てて青年の顔半分を覆う。その感触を不思議に思ったのか、閉ざされていたシグルドの瞳がうっすらと開いた。
目の前に、主であるキカの美貌。
唇には、温かく柔らかな「何か」の感触。
「――ッ!?」
びくりと体を震わせ、切れ長の瞳を大きく見開くシグルドから、キカはゆっくりと身を離した。驚きのあまり声も出ないらしい青年とは反対に、キカは非常に冷静だ。
「……その歳で、初めてでもないだろうに。第一、私が病人に無体なことをする女だと思うか?」
「そ、そんなことは……! で、でも今、キカさま、いったいなぜ……!?」
「落ち着け。お前らしくもない」
「~~~~!!」
「……元気になったようで、何よりだ」
勢い良く上半身を起こし、耳まで真っ赤にして口を押さえるシグルドを、キカは呆れ顔で見つめた。冷静さをすっかり欠いた青年の姿は見苦しいので、彼を落ち着けるために正当な目的を述べてやる。
「お前の相棒に頼まれて、薬を飲ませただけだ。私とお前の体格差から、最も効率が良いと思われる方法を選んだだけのこと。お前が何を考えているかは知らんが、他意はないから安心しろ」
「……」
冷静沈着なはずのシグルドの瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。これが彼に想いを寄せる女性ならば、「百年の恋も冷め」たかもしれない。幸い、キカは全く該当しなかったが。
だがキカはさらに追い討ちをかけるように、
「……せいぜい、私が同性ではなかったことに感謝するのだな」
少し意地の悪い笑みを浮かべて、悠然と部屋を後にしたのだった。
それから、数十分後――
食事を済ませて部屋に戻って来たハーヴェイは、ベッドの上で身を起こしながらも膝を抱えて
「なんだ、起き上がれるようになったのか。もう薬が効いて……どうしたんだよ、シグルド? 顔が赤いし、……泣い、て……?」
「……ハーヴェイ。俺には、キカ様がどういう方なのかさっぱり分からなくなってきたよ……」
「なんなんだよ、いきなり? 何か凹むことでも言われたのか? ……ッあー! でかい図体してメソメソすんな!!」
珍しく体をあずけてきたシグルドにどぎまぎしながらも、ハーヴェイは、相棒が落ち着くまで肩や頭を
この後、言い渋るシグルドを強引に問い詰めて聞かされた衝撃の事実にハーヴェイは度肝を抜かれ、しばらくの間、シグルドがキカの部屋から出てきた時は必ず「何を話してた」「何もされなかったか」と尋ねるようになり、これを機に二人の青年の仲は、ますます深まったという。
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