癒えない傷
「よーうハーヴェイ。飲んでるかぁ?」
酒臭い息を吐き出しながら荒々しく肩を抱いてきた仲間の男海賊に、ハーヴェイは思わず顔を背ける。
「くせぇ! 近寄んな、触んな!」
「おお? 飲んでねえのか? あーそうか、これから愛 しのアイツと二人っきりのデートか。酒臭ぇキスなんざしたくねえってか」
「バカ野郎。だから俺とシグルドは、そんな関係じゃねえって言ってんだろ。町で食材の調達をして来るだけだ」
ゲラゲラと笑いながらからかってくる男の腕から逃れようとハーヴェイは懸命に身を捩 ったが、相手のほうがはるかに体格が良く、殊 の外 がっちりと抱き込まれているため、なかなか抜け出すことができない。酔っていい気分になっている筋肉ダルマの相手をするのは、本当に面倒だ。
「だあーっ! いい加減、放せよ! 鬱陶しいんだよ!」
「ヘッヘッヘ。どうせならあんなスカした野郎じゃなくて、俺と遊ぼうぜえ」
「――ッ!?」
不意に尻を撫で上げられ、ハーヴェイの全身が粟立った。とてつもない嫌悪感。激しい怒り。ハーヴェイは渾身の力を振り絞って男を突き飛ばし、やっとのことでその腕から逃れる。
「……てめえ……何のつもりだ。海の底に沈められてえのか」
「おお、怖っ。冗談だよ、冗談。いくらおめえがカワイコちゃんだからって、野郎の尻を掘る趣味はねえよ。どうせアイツに操 を立ててんだろ? がはは!」
「……チッ、バカバカしい。付き合ってらんねえぜ」
盛大に舌打ちして、ハーヴェイはその場から大股で去った。だが鳥肌と体の震えは、しばらく治まることはなかった。
シグルドと合流してからは普段どおりに振る舞うことができたが、相棒がどことなく元気がないことを感じ取ったのだろう。買い物を終えて再び船へと戻る道中で、シグルドがハーヴェイの顔を覗き込む。
「……なんだか元気がないな。何かあったのか?」
「いや、別に」
「嘘だな。いつも張り切って俺の前を行くお前が、今日は俺と並んだり、少し後ろを歩いてみたり。明らかに、考え事をしている時の歩き方だ」
「……」
「何かあったのなら、聞くぞ? 身長のこと以外なら」
「……お前なぁ」
最後の一言は余計だ。だが怒る気も失せて、ハーヴェイは一気に脱力した。きっと、シグルドなりに元気づけてくれているのだろう。冗談を交えて、できるだけ深刻な雰囲気にならないように。肩の力を抜いて、話ができるように。そんな相棒の気遣いはありがたいが、果たしてこれは他人に話すべきことなのだろうかと、再び考え込んでしまう。
話そうか、どうしようか。落ち着きなく視線をさまよわせるハーヴェイを、シグルドは根気強く待った。無言で歩き続けることしばらく、港が見えてからようやく、ハーヴェイが重い口を開く。
「……さっき酔っ払い野郎に絡まれたせいで、昔のことを思い出しちまったんだよ。キカ様はもちろんお前とも会う前の、日々適当に生きてた頃のことを」
「昔のこと?」
「ああ、まだ二十歳 にもなってなかった頃だ。今よりずっとヒョロヒョロで、背だってその辺の女とそう変わらなかった。そんなヒョロヒョロのチビが、図体のでかい筋肉野郎どもに囲まれたらどんな目に遭うか、想像はつくよな?」
「えっ……まさか……」
「安心しろ、どれも未遂だ。俺はとにかくすばしっこかったからな、頭突きを食らわせたりタマを思いっきり蹴り上げたりして、全員返り討ちにしてやった。だが肌をまさぐられた感覚は、今でも忘れられねえ。酔っ払い野郎に尻を撫でられた時、その最悪な記憶が甦っちまって、しばらく震えが止まらなかった」
「……」
まさか、そういった話だとは。何と言っていいか分からず、シグルドは絶句した。そんなシグルドへ、ハーヴェイはふん、と鼻を鳴らす。
「ま、そんなことが何回かあったもんだから、頑張って鍛えまくったんだがな。おかげでそんじょそこらの野郎には負けなくなったし、ここに来てからはさっきみてえな悪ふざけはたまにあるが、襲われたりすることはなくなった。……お前はいいよな。マッチョじゃ全然ねえけどでかいから、いきなり野郎に襲われたりすることなんてなかっただろ」
「……」
返ってきたのは、沈黙。軽い調子で言葉を放ったハーヴェイがぎょっとし、シグルドの顔を下から覗き込む。
「っておい、お前もあんのかよ!?」
「……いや……ない。だがそういう話を、耳にしたことはある。ラインバッハ二世の趣味は最悪だった、らしいから」
どこかぎこちない返答にハーヴェイは身を乗り出し、シグルドをほぼ真下から見上げた。そんなハーヴェイへ、シグルドは無理やり笑顔を作ってみせる。
「……ミドルポートにいた時のことは、本当に思い出したくないんだ。すまんな。二世のご子息の三世は、礼儀正しく好感が持てた人物だったんだが。――さて、船に戻ろう。仲間たちが、腹を空 かせて待っている」
シグルドは、何か隠している。そう思ったが、彼の口からはそれ以上、ラインバッハ家に仕えていた頃の話題が出ることはなかった。緩やかな拒絶を感じ取り、さすがのハーヴェイも執拗に問い詰めることはしなかったが、グリシェンデ号に戻り厨房に入ってからもモヤモヤとした気持ちは晴れず、出来上がった料理を食べながら酒を飲んで盛り上がっている仲間たちにもハーヴェイは、空 返事をするばかりだった。
(シグルド……お前は何を隠してる? 俺は思いきって話したのに、なんで自分のことになると頑 なに拒む? 今じゃ立派な相棒の俺にすら話したくないことって何だよ。お前がラインバッハ二世に命じられて非道なことをしてたっていうのは知ってる。それ以上に口外したくない何かが、まだあるっていうのか……?)
この日の夜の飯と酒は、ほとんど味がしなかった。
酒臭い息を吐き出しながら荒々しく肩を抱いてきた仲間の男海賊に、ハーヴェイは思わず顔を背ける。
「くせぇ! 近寄んな、触んな!」
「おお? 飲んでねえのか? あーそうか、これから
「バカ野郎。だから俺とシグルドは、そんな関係じゃねえって言ってんだろ。町で食材の調達をして来るだけだ」
ゲラゲラと笑いながらからかってくる男の腕から逃れようとハーヴェイは懸命に身を
「だあーっ! いい加減、放せよ! 鬱陶しいんだよ!」
「ヘッヘッヘ。どうせならあんなスカした野郎じゃなくて、俺と遊ぼうぜえ」
「――ッ!?」
不意に尻を撫で上げられ、ハーヴェイの全身が粟立った。とてつもない嫌悪感。激しい怒り。ハーヴェイは渾身の力を振り絞って男を突き飛ばし、やっとのことでその腕から逃れる。
「……てめえ……何のつもりだ。海の底に沈められてえのか」
「おお、怖っ。冗談だよ、冗談。いくらおめえがカワイコちゃんだからって、野郎の尻を掘る趣味はねえよ。どうせアイツに
「……チッ、バカバカしい。付き合ってらんねえぜ」
盛大に舌打ちして、ハーヴェイはその場から大股で去った。だが鳥肌と体の震えは、しばらく治まることはなかった。
シグルドと合流してからは普段どおりに振る舞うことができたが、相棒がどことなく元気がないことを感じ取ったのだろう。買い物を終えて再び船へと戻る道中で、シグルドがハーヴェイの顔を覗き込む。
「……なんだか元気がないな。何かあったのか?」
「いや、別に」
「嘘だな。いつも張り切って俺の前を行くお前が、今日は俺と並んだり、少し後ろを歩いてみたり。明らかに、考え事をしている時の歩き方だ」
「……」
「何かあったのなら、聞くぞ? 身長のこと以外なら」
「……お前なぁ」
最後の一言は余計だ。だが怒る気も失せて、ハーヴェイは一気に脱力した。きっと、シグルドなりに元気づけてくれているのだろう。冗談を交えて、できるだけ深刻な雰囲気にならないように。肩の力を抜いて、話ができるように。そんな相棒の気遣いはありがたいが、果たしてこれは他人に話すべきことなのだろうかと、再び考え込んでしまう。
話そうか、どうしようか。落ち着きなく視線をさまよわせるハーヴェイを、シグルドは根気強く待った。無言で歩き続けることしばらく、港が見えてからようやく、ハーヴェイが重い口を開く。
「……さっき酔っ払い野郎に絡まれたせいで、昔のことを思い出しちまったんだよ。キカ様はもちろんお前とも会う前の、日々適当に生きてた頃のことを」
「昔のこと?」
「ああ、まだ
「えっ……まさか……」
「安心しろ、どれも未遂だ。俺はとにかくすばしっこかったからな、頭突きを食らわせたりタマを思いっきり蹴り上げたりして、全員返り討ちにしてやった。だが肌をまさぐられた感覚は、今でも忘れられねえ。酔っ払い野郎に尻を撫でられた時、その最悪な記憶が甦っちまって、しばらく震えが止まらなかった」
「……」
まさか、そういった話だとは。何と言っていいか分からず、シグルドは絶句した。そんなシグルドへ、ハーヴェイはふん、と鼻を鳴らす。
「ま、そんなことが何回かあったもんだから、頑張って鍛えまくったんだがな。おかげでそんじょそこらの野郎には負けなくなったし、ここに来てからはさっきみてえな悪ふざけはたまにあるが、襲われたりすることはなくなった。……お前はいいよな。マッチョじゃ全然ねえけどでかいから、いきなり野郎に襲われたりすることなんてなかっただろ」
「……」
返ってきたのは、沈黙。軽い調子で言葉を放ったハーヴェイがぎょっとし、シグルドの顔を下から覗き込む。
「っておい、お前もあんのかよ!?」
「……いや……ない。だがそういう話を、耳にしたことはある。ラインバッハ二世の趣味は最悪だった、らしいから」
どこかぎこちない返答にハーヴェイは身を乗り出し、シグルドをほぼ真下から見上げた。そんなハーヴェイへ、シグルドは無理やり笑顔を作ってみせる。
「……ミドルポートにいた時のことは、本当に思い出したくないんだ。すまんな。二世のご子息の三世は、礼儀正しく好感が持てた人物だったんだが。――さて、船に戻ろう。仲間たちが、腹を
シグルドは、何か隠している。そう思ったが、彼の口からはそれ以上、ラインバッハ家に仕えていた頃の話題が出ることはなかった。緩やかな拒絶を感じ取り、さすがのハーヴェイも執拗に問い詰めることはしなかったが、グリシェンデ号に戻り厨房に入ってからもモヤモヤとした気持ちは晴れず、出来上がった料理を食べながら酒を飲んで盛り上がっている仲間たちにもハーヴェイは、
(シグルド……お前は何を隠してる? 俺は思いきって話したのに、なんで自分のことになると
この日の夜の飯と酒は、ほとんど味がしなかった。
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