目覚めと始まり

 至る所に大きな蓮の花が咲き誇り、あたたかな光に満ちた“楽園”に、ブルーは居た。仲間たちの姿は無い。いつの間にはぐれたのだろうか。いったい、何があった? まずは自らが置かれた状況を確認すべく周囲を見回したが、仲間たちはおろか、魔物の気配すら感じられない。
 青年は、知っていた。美しいこの場所が、見た目どおりの“楽園”などでは無いことを。此処ここは天使に擬態した凶悪な魔物が蔓延はびこる「地獄」と呼ばれる空間で、故郷であるマジックキングダムは、此処ここから湧き出た魔物たちの襲撃によって、瓦礫の王国と化した。「完全な術士」となったおのれは、この禍々まがまがしい偽りの“楽園”を再び封印するために、仲間たちと共に此処ここへと降り立った――はずなのだが。
(……いや、待て。おかしい……俺は、俺たちは、最深部にいた化け物と、確かに戦った。最後には全魔力を解放して……それからどうした? 俺は、仲間たちは、どうなった? 俺は、なぜ一人でここにいる?)
 自然と、足が動く。視線の先の、降り注ぐ光のもとへ。仲間の誰かが、ああいう光のことを「天使の梯子」などと呼んでいたな。そんなことを思いながら、歩を進める。そして――青い瞳が、驚きに見開かれた。
 光の中に、紅い法衣をまとった人物が立っていた。この手で命を奪い、肉体を消滅させたはずの、おのれの片割れが。道理で、今まで“意識”を感じられなかったわけだ。だが、これはどういうことだ? この空間に、この身に、何が起こっている?
「……ルージュ」
 その名を呼ぶと、こちらに背を向けていた紅い青年が、わずかに振り返った。長い銀の髪に遮られて目元は見えないが、口元に、穏やかな笑みをたたえている。彼は無言のまま再び背を向けると、青い法衣の青年を導くように光の向こうへと進んで行く。
 見たところ、他に道は無い。――もう、どうにでもなれ。一刻も早く此処ここから脱け出すべく、ブルーも後に続いた。

 次に視界に映ったのは、薄暗い部屋の天井。全身を包み込むような心地良い感触で、おのれがベッドに横たわっているのだと知る。
(……ここはどこだ? 俺は、眠っていた? では、今まで見ていたものは、夢……? ルージュは?)
 すぐに“意識”を探ったが、ルージュの気配は無い。――ルージュが、いない。ブルーの顔が、一気に青褪めた。つまりあの「地獄」は夢とうつつの狭間の世界で、ルージュはおのれを光の外へと導いた後に、魂までも消滅したということなのか。“意識”を共有したことで、少しながら互いを分かり合えたと思っていたのに。
「……ッ」
 体を起こそうとするもそれは叶わず、シーツをきつく握り締めた、その時だった。扉が開き、一人の人物が部屋へと入って来た。黒髪に白衣の男、上級妖魔のヌサカーンだ。
「ようやく目覚めたか、ブルー。……ああ、そのままでいい。まだ体を起こすのはつらかろう」
 この妖魔医師の世話になるのは何度目か。旅の最中に幾度も助けられたことを思い返す。何を考えているのかよく分からない上に胡散臭いが医師としての実力は確かで、そういった意味では信頼している。まともに体を動かすことができない今も、彼に頼るほかはなさそうだ。
「……ここはどこだ? 私は、どれくらい眠っていた?」
 ブルーの質問に、ヌサカーンは淡々と答える。
「ここはクーロン裏通りの、私の病院の隣にある家の一室だ。君が眠っていた期間は『地獄の君主』との戦いから、一週間ほど」
「私たちは『地獄の君主』を倒すことはできたのか? 『地獄』は? 他の仲間たちは、どうなった?」
「“君たち”が全魔力を解き放ったおかげで『地獄の君主』は消滅し、あるじを失ったことで崩れ出した『地獄』からも生還できた。仲間たちも、全員無事だ。それぞれの目的を果たすべく散り散りにはなったものの、皆、君のことを気にかけていたぞ」
「……」
 ブルーが明らかに表情を強張らせ、口をつぐんだ。予想していたとおりの反応に、ヌサカーンは目を細める。
「……君が今最も気になっているのは、ルージュのことではないか?」
「! なぜそれを……」
「今の君からは、二人分の魂が感じられない。つまり、君の中に在ったルージュの魂は消えている。加えて妖魔の君をも圧倒した凄まじい魔力も、融合前とほぼ同程度に戻っている。そのことで君は、深い喪失感に苛まれている……術士としての矜持から来るものと、意識を共有したことで芽生えた肉親への情で」
「……」
 何もかも見透かされている。この男には絶対に敵わないと、改めて思った。しかし、だからこそいてみたかった。自らの身に何が起こったのか、ルージュの魂は、本当に消えてしまったのか。彼ならば何か知っているかもしれないと、ブルーは再度、ヌサカーンに問う。
「貴方の言うとおり、今の私の魔力は元に戻り、使用可能な術も私自身が資質を会得したもののみという状態だ。……なぜ融合が解けた? もう半分の力はどうなった? ルージュは、本当に――」
 突如、ブルーの言葉が途切れた。外に何者かの気配を感じ取り、青年は息を呑む。現れたのは、街の入口あたりだろうか。ごちゃごちゃとしたこの町においても異質な存在感を放つ“それ”は、真っ直ぐにこちらへと近付いてくる。――この感じを、おのれはとてもよく知っている。
「帰って来たか」
 事も無げに言うヌサカーンへ、ブルーはしばし茫然とした顔をした後、低く抑えた声で問いただす。
「この気配は、間違いない。……ルージュの魂は消えた、と言っていなかったか?」
「私は“君の中に在った彼の魂は消えた”と言っただけで、彼自身が消えたとは言っていない。君の術に関する能力が元に戻っているのが、何よりの証拠ではないかね?」
「奴は生きていると、なぜ先に言わなかった! もしや、私を揶揄からかったのか!?」
「君が早合点しただけだと思うのだが」
「ぐ……っ」
 どこまでも冷静なヌサカーンとは裏腹に、ブルーが再びベッドのシーツを握り締めた、その直後。玄関の扉が軋みながら開かれる音が聞こえ、二人は会話をぴたりと止めた。静まり返った室内に、ブルーと同じ声が響き渡る。
「今、戻りました」
 扉の閉まる音と、ガサガサと紙が擦れる音がする。どこかで何かを買ってきたのだろう。入室してもヌサカーンの姿が見当たらないことに紅い法衣の青年は首を傾げたが、すぐに何かに気付いた様子で奥へと進んだ。ブルーとヌサカーンがいる部屋の扉が、勢いよく開かれる。
「――ブルー。やっと、目が覚めたんだね」
「……ルージュ」
 気を利かせてヌサカーンは後方に下がり、ルージュがブルーのベッドへと歩み寄った。魔術空間で対峙した時の鋭い殺気は、当然無い。ルージュがまとう空気は柔らかく、顔には安堵の表情が浮かんでいる。
「ヌサカーンからもう色々聞いているだろうけど、君は一週間も眠っていたんだ。でもその様子だと、まだまだ休息が必要そうだ。君が動けるようになるまではここにいていいと彼も言ってくれているし、お言葉に甘えようと思う。これからのことも、じっくり話し合おう。
……そうだ、食事は出来るかい? ちょうどシュライクで、うどんの材料を買ってきたんだ。うどんなら胃に優しいから、少しは食べられるはず――」
「……」
 無言でそっぽを向いたブルーに、ルージュは目を瞬かせた。そんな紅い青年に、青い青年は非情な言葉をぶつける。
「……やはり“仲良くする”など不可能だ。こうして実際に顔を合わせると、気色が悪いとしか思えん」
「……なっ……!」
「ふっ……」
 素直ではないブルーの態度に、ヌサカーンが小さく笑う。これから“仲良く”なれるかどうかは彼ら次第だが、時間はある。小さな言い争いを続けている兄弟を二人きりにしてやるべく、妖魔医師は、そっと部屋を後にしたのだった。
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