荊棘(いばら)の王

 最大の理解者であった白薔薇姫を失い悲しみに暮れる姿も、日々の戦いの中でたびたび妖魔の力を発現し、人間と妖魔という二つの種族の狭間で苦悩する姿も、近くで見てきた。
 彼女もおのれも少しでも多くの戦力を必要とするゆえに、一時的に手を組んでいるにすぎない。「半妖」という珍しい存在の彼女が数奇な運命に翻弄される姿はとても興味深いものだったが、〝その時〟が来たら彼女の行く末がどうなろうと途中で離脱し、己の目的を果たすつもりでいた。双子の兄弟をたおし、完全な術士となることこそが己の使命。だから、青年――ルージュは表面的な付き合いを心掛け、常に一定の距離を保ちつつ静観しようと決めていた。
 だが彼も、情のある人間。気が付けば半妖の少女・アセルスのはじまりの地であるファシナトゥールにまで同行し、彼女を「半妖」にした張本人である魅惑の君・オルロワージュとの最終決戦に臨もうとしていた。成り行きとはいえ、思っていた以上の長旅大事おおごとになったなと、ルージュは思う。
 そして、アセルスをそれなりに長く見てきたからこそ感じる。白薔薇姫を失ってからの彼女はどこか吹っ切れて、妖魔の力を発現することに以前ほど思い悩むことがなくなってきているのではないか、と。むしろ積極的に「妖魔化」し、次々にモンスターの力を吸収しては、その技を戦闘で遺憾なく発揮している。つまり最近のアセルスは、人間よりも妖魔に近付いている。このままだと彼女は、第二の魅惑の君になってしまうのではないか。己を含む人間の仲間たちは彼女を密かに心配し、または恐れ、しかし誰もそれをアセルス本人の前では口にしなかった。できなかったのだ。

「悟ったわ。私はもう人間としては生きられない。ならば、妖魔として生きるだけ。そのために、あなたと決着をつける」
 オルロワージュを前にして、アセルスの凛とした声が響き渡る。ファシナトゥールの統治者である男は己に挑まんとしている少女を高揚した様子で振り返ると、嬉々として決闘を承諾し、姿を消した。ついにここまで来てしまったかと思うと同時に、不思議とアセルスが負けるかもしれないとは思わなかった。これから自分たちはアセルスと共に魅惑の君を討ち、彼の終焉を見届けることになるのだろう。いわば、歴史的瞬間を目撃することになるのだ。
 足下あしもとに巨大な薔薇が咲き誇る広間で、決戦は行われた。戦闘は熾烈を極めたが、予想していたとおりアセルスはオルロワージュを打ち破り、彼は消滅した。初めて目にした、『妖魔の君』の最期。とんでもないことをしてしまったとざわめく人間たちをよそに、ルージュは目を閉じ、静かに黙祷を捧げた。――妖魔には、必要のないことなのかもしれないが。

 新たな『妖魔王』の誕生を見ることなく、かつての仲間たちが、逃げるように針の城を後にする。彼らにはこの後もそれぞれの目的があり、またアセルスも、そんな彼らを止めることはなかった。以前のアセルスならば別れを惜しんだだろうが、身の内に流れるオルロワージュの血が完全覚醒したことで、徐々に人間らしい感情を失いつつあった。――熱い、熱い。全身が焼けるように熱い! 私はどうなってしまうの、私は私でなくなってしまうの? そんなの嫌だ、嫌だ……助けて、白薔薇――。彼女の体内で妖魔の青い血が沸騰し、猛り狂い、耐えきれずに絶叫するアセルスの頭の両脇から、指から、めりめりと異形の角と長く鋭い爪が生じた。彼女の中にわずかに残っていた人間の少女としての意識は、そこでぷつりと途切れた。

 それからのアセルスは、自身を慕っていた針子の少女・ジーナを最初の寵姫に迎え、己に従わない妖魔たちを屈服させようと、また見目麗しい女を見つけたら自分の元へ連れて来るよう、わずかに残った家臣たちに命じた。特にラスタバンという男はアセルスに忠実で、彼女のためならばどんな手段でも用いて、任務を遂行した。格の高い妖魔たちはなかなかアセルスに従おうとはしなかったが、寵姫だけはみるみるうちに増えて行き、オルロワージュが自らの寵姫たちを封じ込めていた硝子の棺は、ときおり中身ごと根っこの町外れの焼却炉に投げ入れられた。そのあまりにも冷酷な行いに誰もが震え上がり、少なくとも針の城の中には、アセルスに逆らう者はいなくなった。彼女が君主となってからのファシナトゥールはますますよどみ、常に恐怖と狂気が満ちていた。

「――私に媚びるだけの香水臭い女には、そろそろ飽いたな。たまには目先を変えて、男の寵姫を迎えてみてもいいかもしれん」
「はっ……?」
 アセルスの突然の発言に、彼女の前にひざまずいてこうべを垂れていたラスタバンが、驚いて顔を上げた。礼儀など忘れたかのようにまじまじと見つめてくるラスタバンにだがアセルスが怒ることはなく、彼女は妖しく微笑みながら、どこか懐かしむように話す。
「かつて私の仲間に、ルージュという美しい男がいた。銀色の長い髪に紅い瞳、人間の血のように鮮やかな、紅い法衣。あれを人間のままにしておくのは、あまりにも惜しい。人間の寿命は短く、老いは醜い……ならば私があの男の美貌を永遠に保ち、愛で続けよう。あれを捜し出して、連れて来い」
「……本当に、よろしいのですか? 男が相手では、女性であるあなた様には少々不都合が生じることもあろうかと」
「何が不都合なのだ? 女でも男でも、私の手に掛かれば皆等しく姫よ。抗うようであれば叩き出すか、殺してしまえばよい」
「……分かりました。では、捜してまいります」
 深々と一礼して、ラスタバンは姿を消した。一見柔和なその顔に、激しい嫉妬の感情を浮かべて。

 翌日――
 「我が君が、あなたを針の城に招待したいとおっしゃっている」。ラスタバンはオウミに滞在していたルージュを説得し、ひとまず根っこの町へと連れて来ることに成功した。だが彼は城門をくぐろうとはせず、町中まちなかでの面会を望んだ。既に、自らに迫る危機を感じ取ったらしい。
「僕にはもう、彼女に会う理由がない。ましてや針の城に入城しろだなんて、いったい何を企んでいる? 針の城は、あなたたち妖魔の領域だろう。本来ならば、妖魔以外の種族の者が足を踏み入れていい場所ではないはずだ。だから僕は、針の城には入らない」
「では、あくまでも我が君の命に逆らうと?」
「……そうだと言ったら?」
「力ずくでも、あなたを我が君の元へ送り届ける」
 ラスタバンとルージュの間に不穏な空気が流れ、両者は静かに睨み合った。それぞれが闘気を纏い、あと少しで戦闘開始というところで、突如アセルスが姿を現す。
「我が君!」
「!」
「やれやれ……このような所で、なんと野蛮な。大事な客に傷をつけられては困るぞ、ラスタバン」
「はっ、申し訳ありません。ですが、この者があなた様の命に従おうとしなかったもので」
「良い。多少の抵抗は、想定内だ。――久方振りだな、ルージュ。よく来てくれた」
「……」
 今代の妖魔王は魅惑の君以上の暴君だと、話には聞いていたが。すっかり変わり果てた姿のアセルスを見て、ルージュはしばし絶句した。赤紫色のロングドレスに身を包み、威圧的で凄艶な笑みを浮かべる目の前の女は、己の知っているアセルスではない。術のエキスパートとしてはもちろん、「いつでも冷静で知的なお兄さん」として己を頼ってくれた少女は、もういないのだ。
 そんなルージュの心境を知ってか知らずか、アセルスは一歩、また一歩と距離を詰めると、ルージュの向かい側に立った。妖魔王となっても背丈はアセルスのほうが低いが、彼女にはそれを感じさせない、圧倒的なオーラがあった。少しでも気を抜くと、屈してしまいそうだ。ルージュは全身に力を込め、アセルスと真っ向から向き合う。
「……ほう? 以前とは雰囲気が違うな。術士として、より成長した――まるで、二人分の魔力をその身に宿しているかのような――」
「よく分かったね。そう、僕は双子の兄弟を斃して一人の完全な術士となり、一部の特殊な術を除いて、あらゆる術を操れるようになった。術士としての本懐を遂げたんだよ」
「ふっ……ははは、身内殺しか、面白い。綺麗な顔をして、なんとも残忍な男だ。だがその割には、浮かない顔をしているな。本懐を遂げたというのなら、もう少し誇らしげにしても良いのではないか?」
「あの後、そうは思えなくなることが色々あったんだ。今の君には分かってもらえないだろうけれど。……妖魔王の君にとって、人間の僕は取るに足らない存在のはずだ。僕に構うくらいなら、君と心を通わせた女性たちの相手をしてあげたほうがいいんじゃないか?」
 ルージュの言葉に、アセルスはククッと低く笑った。彼女は滑るように移動しルージュの眼前に迫ると、その顎を指で持ち上げる。
「……っ!」
「……わざわざ君を招待したのはな。その姿のままの君を、永久にそばに置いておきたいと思ったからだよ。
――私の寵姫になれ、ルージュ。私はあの人と違い、私を慕う者たちを硝子の棺に閉じ込めたりはしない。君は初めての男の寵姫だ、女たちの面倒な抗争に巻き込まれぬよう、特別な部屋も用意してやろう。私が不在の時の話し相手には、ラスタバン、お前がなってやれ」
「……仰せのままに」
 抗おうにも、体が金縛りに遭ったように動かない。アセルスの深紅の瞳がよりいっそう禍々まがまがしく輝き、ルージュは、その場にくずおれかける。――このままでは針の城に引きずり込まれ、妖魔にされたあげく永遠に拘束されてしまう! ルージュは歯を食いしばり、両拳をきつく握り締めてなんとか理性を保つと、低く短く詠唱した。アセルスがルージュを抱き寄せようとした次の瞬間、ルージュの全身から凄まじい魔力が迸り、アセルスの体を吹き飛ばす。
「!?」
「悪いが、断る。僕は……僕たちは君の玩具おもちゃではないし、妖魔になる気もない。君と僕の人生が交わることは、もう無いんだ。だから僕のことは、忘れてくれ。色々言いたいことがないわけではないけど、これ以上、余計な口出しもしないから。――さようなら、アセルス。世界でたった一人の半妖だった君との旅は、有意義で楽しかったよ」
 そう言うとルージュは素早くゲートを開き、何処いずこかへと消えた。後には主君に手を差し伸べて助け起こすラスタバンと、彼の手を借りてよろよろと立ち上がるアセルスが残される。
「待て! ……くっ……よくも私を虚仮こけにしたな。だが、私は決して諦めはしない。何としてでもお前を捕らえ、身も心も支配し、絶対服従を誓わせてやる。逃がさんぞ、ルージュ……」
 針の城同様暗く澱んだ根っこの町の一角で、アセルスは、唸るような声で呟いた。

 それからも、見聞を広めるために旅をしているルージュは、ラスタバンはもちろんアセルスに永遠の忠誠を誓った側近たちに執拗に追い回され、行く先々で戦闘を繰り広げた。だが『完全な術士』となったルージュが屈することは決して無く、ラスタバンの焦りと苛立ちは募るばかりだった。――欲しいのならば、なぜ御自分で出向かれないのか? あのような人間に、如何いかほどの価値がある? 私のほうがよほどあのお方のことを理解している上、このとおり忠実だ。それなのに。負の感情は日に日に膨らみ、高みの見物を決め込んでいる主君への疑念と、紅い術士への殺意が芽生えて行った。
 今までは深手を負わせぬよう細心の注意を払っていたが、次に会った時は、必ず殺す。かのアセルス様も一度は生を終え、オルロワージュ様の血を受けて甦った。そうだ、はじめからそうすれば良かったのだ――ラスタバンの口元に、暗い笑みが浮かんだ。

 その日は、突然やってきた。
(くっ……今日はやけに、攻撃が激しい……!)
 まるで相打ちでも狙っているかのようなラスタバンと側近たちの激しい攻撃に、ルージュは、少しずつ押されていた。
 業を煮やしたアセルスに何か言われたのか、ラスタバン自身の心境の変化によるものなのか。何にせよ、このままでは危険だ。ルージュもまた様々な術を駆使し、時には複数の術を巧みに組み合わせて、全力で妖魔たちに対抗する。
 側近たちは、始末した。残るラスタバンも満身創痍で、その美しい顔や衣装は真っ青に染まっている。――大丈夫、まだ〝奥の手〟を使う程度の魔力は残っている。次の一撃で、決める――大技を放つべく少し長めの詠唱でわずかな隙が生まれたのが、災いした。
「うっ……!?」
 突如背後に気配を感じたと同時に、ルージュは、何者かの不可思議な力によって後ろへと引っ張られた。反射的に振り向いた途端、二つの禍々しいあか射竦いすくめられて、体の自由を奪われる。
(しまっ――)
「この時を、待っていた。お前が我が手に堕ちる日を。――もう逃がさぬ。もう、離さぬ。お前は永遠に、私のものだ――」
「! ぐあ……っ!」
 アセルスの鋭い牙がルージュの首筋に突き立てられ、青年の全身に、無数のいばらが巻き付いた。棘にはすぐに白い蕾が生じ、瞬く間に咲いた白薔薇は、みるみるうちに赤薔薇へと変わって行く。
 やがてアセルスが牙を引き抜くと、力の抜けたルージュの体は、彼女の腕の中へと崩れ落ちた。青年の首筋から滴り落ちる血の色と、それまで赤色だった薔薇の色は、青――アセルスの瞳が爛々と輝き、その表情が、歓喜に満ちて行く。
「ふっ……ふはははは! 今日は、記念すべき日だ。初の男寵姫の誕生を、城を挙げて祝おうではないか。アーッハハハハハ――」
 とある町外れに、妖魔王の高笑いが響き渡った。

 こうして妖魔王アセルスが統治する針の城に、史上初の男性寵姫が誕生したわけだが――
 完全に妖魔王の手に堕ちたと思われていた青年が数年後に反乱を起こし、ファシナトゥールが炎に包まれることになるのは、また別の話である。
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