流浪の王族と名家の御曹司

(……ん? 今のは……)
 視界の端を横切った何かに気付き、ほのかな明かりの中で本を読んでいたトーマスは、カーテンの隙間から外を見遣った。
 街灯にぼんやりと照らし出された影の正体は、仲間の一人であるハリードだった。モンスターのたぐいではなかったことにひとまず安堵したが、こんな夜遅くに一人でどこへ行くのだろうと疑問に思い、だがすぐに、パブだと見当がつく。
 同室の三人の幼なじみたちはよく眠っているようで、起きてくる気配はない。トーマスは本を閉じると、極力物音を立てぬよう、そっと部屋を後にした。

「いらっしゃい。……おや、若い人がこんな時間にこんな所に来るなんて、珍しいねえ」
 パブのマスターの言葉に、既にカウンター席に座ってグラスを傾けていたハリードが振り返った。そして、その目が見開かれる。
「――トーマス。何だ、オレがここに向かうのを見てたのか」
「ああ、たまたま窓から見えてね。オレもなんとなく寝付けなかったし、たまにはこういうのもいいかと思って。……お邪魔だったら、隣は遠慮しておくけど」
「いや、いい。お前は仲間だからな。ここに来たってことは、ある程度は飲むつもりなんだろう? お前はそこそこイケる口だと見た」
「本当に、そこそこだよ。というか、いつも意識してセーブしてる。泥酔して前後不覚になるなんて、みっともない真似はしたくないからね」
「まあ、お前はそうだろうな。ベント家の男の矜持、ってヤツか。酔ってタガが外れたお前も見てみたくはあるがな」
「そんなヘマはしないよ。そもそも、度数の高い酒はあまりたしなまないからさ」
 そう言ってトーマスは、ハリードのそばに置いてあるボトルにちらりと目を向けた。強い酒を好むハリードのことだ。今飲んでいる酒もこのパブに置いてある酒の中で、最も度数の高いものなのだろう。トーマスがハリードの隣に座った途端、強烈なアルコール臭が漂ってくる。
「うっ……凄いにおいだな。オレには、とても無理そうだ」
「このくらい強い酒じゃないと、飲んだ気がしなくてな。酔っている間は多幸感に包まれて、全てがどうでも良くなる。まあ、長続きはしないがな」
 どこか投げやりに呟いてグラスの中身を一気に飲み干したハリードを、トーマスはやや心配そうに見つめた。どうやら、純粋に酒が好きだから飲んでいるというわけではなさそうだ。忘れたい過去があるのだろうか。そういえば自分はハリードのことを何も知らないなと、トーマスは思う。
 自身は度数の低い酒をグラスで頼み、少しだけ飲んでから、眼鏡の青年が褐色肌の男に問う。
「……いい機会だから、少し話を聞かせてくれないか? オレはハリードという一人の人間に、とても興味がある。これからも一緒に旅をするわけだし、仲間のことは、ある程度知っておきたくてね」
「……」
「もちろん、ここだけの話で。他の仲間たちに言いふらしたりはしないよ。約束する」
「……オレに興味があるだなんて、物好きな奴だな。下手すりゃ、せっかくの酒が不味くなるぞ」
「気にしないよ。なんにもない辺境の村で育ったオレたちなんかより、ずっと複雑な人生を送ってきたんだろう。ときおり、ひどく遠い目をしているから」
 眼鏡の奥の深い菫色すみれいろの瞳に真っ直ぐに見つめられ、ハリードは、観念せざるを得なかった。さすがはユリアンたちが何かと頼りにしている青年だ。おのれより十一歳も年下だというのに、抜群の安定感と安心感。この知的で誠実な青年にならば、本を読み聞かせるようにおのれの歩んできた人生を語るのも、悪くはないだろう。
「――分かった。そこまで言うのなら、聞かせてやろう。その代わり、今夜の酒代はお前持ちな。オレは、少なくとももう一本は飲むぞ」
「ああ、構わない。今夜は、とことん付き合おう」
「いい返事だ。……さて。それじゃ、まずはどこから話そうか――」
 とある町の、深夜のパブのカウンターにて。流浪の王族・ハリードの口から一つの亡国と、一人の男の物語が語られる。
 その語り口は郷愁と故郷を滅ぼした神王教団への憎しみに満ち、けれど生き別れになったという最愛の女性のことを話している時は、慈愛に満ち溢れていて。ハリードの語りは彼らが最後の客になるまで続き、トーマスもまた、異国の剣士の話に聞き入ったのだった。
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