【誰が為に桜舞う】



オンボロ寮の談話室。
その壁に掛けられているカレンダーにはいくつも書き込みがされている。
日付を赤や青いペンで囲った横には『実験日!』や『試験!』と書かれていたり、日付の下にある空欄部分には『街を散策』と、この寮の寮長とも呼ぶべき監督生──優海の予定などが色々と記されているようだ。


そんな中、ソファに座ってカレンダーを眺めていたジェイドが気になったマークが一つ。
それはピンク色のペンで29の日付が囲われていたのだが、あまり見たことがない形のマークで記されていた。星の形に多少似ている気もするが、星ではないのだろう。

「先輩?じっとカレンダー見つめて、どうしたんですか?」
「え?ああ、すみません。人の予定が書かれたカレンダーをまじまじと見るなんて、不躾でしたね」
ただ、あの29日のマークが気になりまして、と。すると赤い髪の少女はあぁ、と小さく微笑んで「あれは『サクラ』って花のマーク、ですよ」と答えた。
「『サクラ』…ですか。聞き慣れない花の名ですね」
「ウチの国の…国花…?って言うのかな。その日付の頃になると咲くんです。うっすらピンク色の小さくて綺麗な花で…。みんなその花が好きで、桜の木の下で花を見ながらお弁当とか食べる、『花見』っていう習慣があって」
「『花見』ですか。それはおもしろそうですね」
ジェイドは紅茶をひと口啜る。その花はどんな香りと味がするのだろう、と想像しながら。


しかしジェイドにはもう一つ気になることがあった。日付はそのサクラという花のマークで囲まれているが、空欄の部分には予定らしきものが何も書かれていない。それはマークが付いている中ではその日だけだった。先ほど彼女は「その日付けの頃になるとサクラが咲く」と話していたから、開花の目安に付けているだけなのだろうか。

カップを再び唇に運びながら、チラリと少女を盗み見た。彼女はその視線に気づかない。ぼんやりと空虚を眺めている。急にどうしたのだろう。
「…監督生さん?」
声を掛けると、ハッと意識を戻した彼女は、ははっと苦く笑って自分の頭を掻く。
「すみません、ぼーっとしちゃって」
「いいえ。謝ることではありませんよ」
ジェイドはそう言ったが、二人の間には妙な沈黙が出来てしまった。別段沈黙には居心地の悪さなどは感じない。だが、少女の態度が気になった。
「…僕は貴方に、何か失礼なことを言ってしまいましたか?」
かちゃり。カップをソーサーに置き、さらにそのソーサーをローテーブルにそっと置く。そして監督生をまっすぐ見つめた。
「…へ?あ、いや!違うんです…!ごめんなさい…」
太ももの上に置いていた両手は制服のスラックスをギュッと握り、肩を少しすくめる。顔を項垂れるように前に倒してから、少女は口を静かに小さく開いた。
「……29日、は…。友達…の誕生日、だったんです」
──誕生日『だった』という過去形──
(…ああ)
それだけで分かってしまった。
以前、彼女が大切にしているというブレスレットを植物園で失くし、一緒に探して見つけてあげたことがあった。そしてそのブレスレットは『大切な親友』の手作りで、自分の誕生日にプレゼントされたものだと。
その親友が海で溺れて亡くなったという話を聞いたのは、ブレスレットを見つけて数日経ってから。アクアリウムへ一緒に行った帰り、海岸に足を運んだ時だ。
「…前に話して頂いた、貴方の『親友』のことですね?」
ジェイドの優しい音色に、優海はハッと顔を上げる。
「はい…そうなんです。…葵ちゃんって名前なんですけど。葵ちゃんは、桜の花が大好きだったから…」
以前ジェイドに話したことを、彼は覚えていてくれたのだ。胸がぎゅうっと苦しくなった。喜びからくるものか。しかしもういない彼女のことを思うとその感覚は間違っている気もして、落ち着かない。
ジェイドは目を再び伏せた優海を見つめた後、談話室のフロアにある大きな窓の外に視線を移した。
「その方は嬉しいでしょうね。貴方にいつまでもそうやって思い出してもらえて。貴方にそんなに大切に想われて、幸せ者ですよ」
花壇に植えられた植物たちには、まばらに蕾はあるものの花は開いていない。まだ寒々しい光景が広がっていて、『春』が来たとは言えない景色。だがやがて満開に咲き誇り、それが訪れるのはそう遠くないのだろう。

窓の外を眺めているジェイドの顔を、優海は潤んだ瞳で見つめた。
この人はどうしてこの間から、こんなに胸に響く言葉をくれるのだろう。気まぐれなのか、気休めなのかは分からない。でもその言葉に自分が救われているのは事実だ。
「そう…ですね!ウチにこんなに想われてるなんて、世界一幸せ者ですよね、葵ちゃんは!」
取り繕わない、心からの笑顔を咲かせる。
窓から少女に視線を戻したジェイドは、その眩しい笑顔を瞳に閉じ込め、ふっ、と優しく微笑んだ。

「あーあ、桜が見たいなぁ。先輩、桜の花…魔法で咲かせられないんですか?」
「おや?それは『依頼』でしょうか?対価は高くつきますよ?」
さっきの優しい笑顔から一転、ギザっとした歯を見せていつもの意地悪なニヤリ顔。
「…冗談です!」

こうやって笑いながら言い合える。
最初に比べたらずいぶん壁がなくなったものだ。
むしろ最近では変に意識してしまうから悩ましい。だけど、それすら今は楽しいと思う自分がいる。


──これから先のことは分からない。
帰れるのかもまだ分からないけれど。
でも、来年のカレンダーには、もう悲しい気持ちで桜を咲かせない──
そう心に誓った。






*****



「なるほど。『サクラ』の花はアーモンドの花に非常によく似ているのですね」

自室で大量の本を読み漁っていたジェイドは、独り言ちる。
監督生にかの花の話を聞いてから、どんなものかと気になったので図書館で本を借りてきて調べた。桜はツイステッドワンダーランドにはないが、ここよりはるか東にある国には咲いているという。桜と非常によく似た花はこの国にもあり、それはアーモンドの花だと本に記されていた。そして、アーモンドの花はバラ科のサクラ属であり、つまりは桜の仲間とも言えるのである。
しかしアーモンドの花すら今まで見たことがない。普段目にするそれは、すでに食べられる状態になっているものばかりで、花までは知らなかった。
今読んでいる本にはアーモンドの花の写真が掲載されている。花の色は主に濃い桃色、薄紅色、白色のものがあるようだ。花弁は五枚、中央に一つの雌しべ、その雌しべの周りを囲うように雄しべが伸びている花の姿。花弁は先端が割れている。
「監督生さんが記していたマークとよく似ていますね」
しかし残念ながら桜そのものの写真はどの本にも載ってはいない。そもそもNRCの図書館には東の国にまつわる書物自体が少ないのだ。
非常によく似た花達の見分け方についての記述はあった。アーモンドと桜の違いと言えば花柄の長さらしい。花柄とは花と枝を結ぶ茎のようなもので、桜はそれが長く、アーモンドには花柄はないか、あってもとても短い。あとは花の咲く時期の違いだが、桜より少し早く、三月上旬頃に咲くのだとか。

桜の花自体のイメージはだいたいだが掴めた。
問題はそれを咲かすことが出来るのか、だ。
花を咲かせる魔法はもちろんある。方法としては、咲かせたい花の基となる魔法薬を適当な植物に掛け、呪文を唱えて花に変えさせる、というのが主流だ。
だが実際に見たことがない花となると、その魔法薬を作ることに手間取るだろう。アーモンドの花を見ることが出来れば魔法薬作りに役立つと思うのだが、ジェイドの記憶の中では、この学園の植物園にはなかったように記憶している。写真のように可憐な花ならば、一度見れば忘れるはずがないからだ。

『サクラ』の花を咲かせる。
別にあの少女に頼まれたから──ではない。
単純に自分が見てみたいから、咲かせてみたくなっただけだ。そう思いながら「どうしましょうか」と、ジェイドは思案する。
そんな時、ガチャリと自室のドアが開いた。
「あ〜だりぃ。今日の練習試合クソつまんなかったわ〜」
部活を終えたフロイドがぼやきながら入室してきた。
「おや。おかえりなさい、フロイド」
「ただいま〜。てかなんだよその大量の本。何読んでんの」
どうせキノコとかそうゆうたぐいの本だろう──そう思っているのか、怪訝そうな顔で尋ねる。それがおかしくて、ジェイドはクスッと笑った。
「植物の本ですよ。『サクラ』という花がどんなものか知りたくて調べていたんです」
「『サクラ』ぁ?聞いたことねーな。なんでそれ調べてんの?」
「監督生さんの故郷の花だそうです。可憐な花とのことなので一度見てみたかったのですが」
「小エビちゃんの?へぇ〜」
アーモンドの花に似ていること、この学園にアーモンドの木は植えられていないこと、桜の花を咲かせるために魔法薬を作りたいこと、それらを片割れに説明すると、彼はさして興味がなさそうに、ふーん、と呟くだけだった。しかし、一箇所だけフロイドが気になった部分がある。
「小エビちゃんが見たいって言ったから、魔法薬で咲かせてあげようと思ったわけ?」
「いいえ?僕自身興味があったからですよ」
笑顔であっさりと否定する。
確かにジェイドという男は利己主義な人、いや人魚だ。他人のために何かをする、ということはほとんどない。
(いや、それはオレもだけど…)
でも、最近『小エビちゃん』が絡むと、ジェイドは彼女のために色々してあげているような気がする。
人が嫌いだと言ってるしいたけを無理矢理まかないに混ぜたり、アズールの黒歴史を涼やかな顔で暴露したりするこのジェイドが、だ。
それはつまり、そうゆうことなんじゃないかと。人魚は番にすると決めた相手には、とことん甘くなる習性がある。もっともジェイド本人が小エビを番にしようとしている、なんて話をしたことはないし、ジェイドに言うと「それは貴方の妄想ですよ」と嘲笑われるだけなのは分かっているから言葉にはしないが。
ただ、楽しそうに植物の本に目を向けるジェイドの横顔を、フロイドも同じように楽しげに笑って眺めた。



それから数日後の放課後。
魔法薬学室の一角を借り、ジェイドは魔法薬作りに勤しんでいた。
フロイドには「アズールに手伝ってもらえばいーじゃん」と言われたが、あの守銭奴が絡むと必ず「それは好機です!花を咲かせて花見をするならお弁当がいる、つまりはモストロで特別花見セットを作って売れば儲けれるということ!」という流れになることは目に見えているため、今回は己の力のみで桜を咲かせる魔法薬を作ることにした。

材料を机の上に並べる。ブルームストーンと呼ばれる花を咲かせるために必要な石を砕いた粉、効果を長持ちさせる粘り草、チェリーの種子などもろもろ。そして──。
「まさかサムさんの店に、『アーモンドのエキス』が売っているとは思いませんでした。流石というか」
なんでも化粧品に使われることもあるらしい。だとしても学園内でこれを必要とする人間が一体どのくらいいると言うのだろう。美に拘りのあるヴィル・シェーンハイトぐらいしか思い浮かばないが、エキスが入った小瓶は埃を被っていたので彼にも必要とされなかったようだ。
「まぁ、なんにせよ助かりました。これがあれば完全には再現出来なくとも、近いものは出来るかもしれません」
『花咲き魔法薬』を作る手順通り、熱した鍋の中に材料を放り込む。しばらくして溶け出した材料は摩訶不思議な光を放ち始める。ジェイドはそれを真剣な眼差しでゆっくりとかき混ぜ始めた。



出来上がったばかりの魔法薬の効果を調べるため、ジェイドは魔法薬学室から退出すると、人気のない庭の一角へと足を運ぶ。
一本のなんの変哲もない広葉樹の根本に魔法薬を流し込む。胸元のマジカルペンを取り出し、根本に向かって振り下ろす。
呪文を唱えると広葉樹全体が光に包まれ、そして光が飛び散ったかと思うと目の前の樹は、薄紅色の可憐な花を無数に咲かせた樹へと変わっていた。木の形状も元のものではなくなっていて、幹や枝は横に縞模様が入っている。

「成功…でしょうか」
目線の高さにある枝の先に咲いた薄紅色の花たち。花弁の先端は割れていてハート型に見える。写真で見たアーモンドの花に酷似しているが、花柄は長い。
監督生が言った「みんなに愛されている花」という言葉に深く頷けるほど、可憐な姿。
しばらくの間、ジェイドは自分が咲かせた桜の花に見惚れた。
どこか儚げに見えるのは何故だろう。薔薇の様に豪華でも、百合のように凛とした美しさを持つわけでもないのに。この花は、一目見た自分を惹きつけてやまない。

脳裏にこの花を教えてくれた少女の姿が浮かぶ。
桜とは似ても似つかないのに、重ねて見てしまう。
(いえ──似ていないわけでは、ないですね)

彼女はジェイドの知る限り、普段はグリムやエース、デュース達と和気藹々と、時には喧嘩もしながらはしゃいでいる姿を目にすることが多い。
困っている人間をほうっておけない性格なのか、よく要らぬことに首を突っ込んでは自分で自分の首を絞めて困り果てていたり、素直すぎるのかすぐに人が言った嘘やジョークを鵜呑みにして信じてしまったり。
自分から言わせると、よくいる「おバカさん」なタイプの人間だ。
(最初は、そう思っていたんですが…)
彼女に対する印象が変わったのは、アクアリウムに二人で出かけた時あたりだろう。
『親友』との想い出と、悲しい離別の話を消え入りそうな声で語る少女。普段見せることはないであろう涙。あの時からだ。
それからどうしようもなく、この『人間』のことが気になり出した。
いつも天真爛漫なのは、寂しさや悲しさを紛らわすためなのかもしれない。普段は、自分とはまた違った『本性』の隠し方をしているだけにすぎないのかもしれない。
そう考えると、彼女のことを知りたくなってたまらなくなった。だからそれ以来、何かと理由をつけて彼女を構うように。
今までフロイドやアズール以外の他人にさほど興味を持てなかったこの自分が。一人の人間に執着するのは、自分でも意外に思う。
桜を咲かせたかったのは、自分が見たかったから、という言い訳をして。本当はあの少女に見せたかっただけなのだろう。
彼女がこの花を見て、どんな反応を見せてくれるのか。
「…僕は何を考えているんでしょう」
フッと自嘲する。
その瞬間、風もないのに花弁が飛び散り始めた。無数の花弁が一斉に、だ。
これにはジェイドも驚き目を見開かせた。
満開に咲いていた桜の木は、あっという間に丸裸となり、地面は落ちた花弁に埋め尽くされ薄紅色の絨毯のよう。
「これは一体…」
失敗だったのだろうか。初めて作った魔法薬だし、桜の花を知らないものがイメージだけで調合したのだから、失敗作だったとしても仕方はない。
手を顎にあて、ふむ、と考え込む。
桜の花は咲いたので本体の不具合ではないだろう。となれば魔法薬の持続効果に問題があるのか。
色々試すしかないようですね、とジェイドはため息を溢す。
それから数日間は、ひたすら花咲き魔法薬作りに勤しんだウツボの人魚。放課後だけでなく、モストロ・ラウンジでの仕事を終わらせた後にも作っては試すことを繰り返したが、作るもの全て、花は咲くものの数分経つと全て散ってしまう。魔法薬学の本はくまなく読んだが、何が悪いのかジェイドには分からなかった。

そうこうしているうちに、日付はもう28日。
「本来ならば完璧なものを監督生さんにお見せしたかったのですが…」
──しかし桜の花自体は咲きますし、不本意ではありますが、これを披露するほかないでしょう──
そう自分を納得させ、次の行動へと移った。




「ここにいたんですね、監督生さん」
一年の教室で、頬杖をついて窓の外を眺めていた優海は声をした方へ振り向くと、教室の入り口にジェイド・リーチが立っていた。いつも通り笑みをたたえた彼は、静かに監督生の側へと歩み寄る。
「あ、ジェイド先輩。こんにちは!こんなところに来るなんて、珍しいですね。何かありました?」
授業が終わったあと、エースやデュース達と軽く雑談を交わし、クラブに向かう彼らを見送った後。今日は特にやることもないし、と自分以外の生徒がいなくなった教室で黄昏れていたのだ。そんな時に普段は一年のクラスに来ることなど滅多にないジェイドが来たのが不思議だった。しかし想い人の姿を見れたのは素直に嬉しい。知らず頬が紅くなり綻ぶ。
「何か、というほどではないのですが…。明日の放課後、少しお時間ありますでしょうか?お見せしたいものがありまして」
「明日…ですか?」
明日…29日は、特に予定などない──ただ親友の誕生日というだけで。
「大丈夫ですよ。何見せてくれるんですか?」
ふわりと笑って尋ねると、それは明日のお楽しみです、とはぐらかし教えてくれない。
「明日の放課後、鏡舎の前でお待ちしております。それでは」と言って彼は一年の教室から出ていった。





翌日の放課後。
授業が終わってからなるべく早く来たつもりが、ジェイドはすでに鏡舎の前で待っていた。
彼に促されるまま、運動場の隅の人気のない場所へと移動する。

広葉樹が連なる道で立ち止まったジェイドは、懐から小瓶を取り出し、幾本かの樹の根本に瓶の中身をぶちまけた。そして胸元に差していたマジカルペンを持つと、それを樹の方に向かって振りかざし、呪文を唱える。
それまでぼ〜っと彼の行動を眺めていた監督生はハッとし、一体何が始まるんだと少し身構えた。
(まさかウチ…なにかの実験台にされちゃう?!)
この人こうゆうとこあるもんね…!と心の中で叫ぶ。だがそう思ったのも束の間。瞳に映り込んだ景色に別の意味で彼女は絶句した。

「うわぁぁ…!きれい…!!」
数本の広葉樹は見事なまでに姿を変えていた。それは彼女が良く知る、可愛くて大好きな花。
「…桜だ!」
魔法で咲かせてくれたんですか?!とジェイドの方に顔をバッと向かせ、問いかける。
「ええ。『サクラ』という花がどんなものなのか、興味がありましたから。見たこともない花を咲かせる魔法薬を調合するのは苦労しましたが…」
苦労したようには見えないくらい涼しげな表情で話すジェイドを、やっぱりこの人は変わってる人だなと思いながら見つめる。
どうしてこれを見せようとしてくれたのだろう。
(ウチがこないだ話したから…?)
それに今日は29日。この日は桜が好きだった親友の誕生日だと話したことを、彼はきっと覚えているはず。

──勘違いしたくないのに、勘違いしそうになる。
自分のために咲かせてくれたんじゃないか、なんて──

「どうして、この花をウチに見せてくれたんですか?」
こないだ冗談で、咲かせてくれないかなーって言ったら、対価は高くつきますよって言ったじゃないですか。
今払えるものなんかないですよ、と。
「これは貴方のために咲かせたのではありませんから。対価は必要ありませんよ。僕が見たかっただけなので」
ああ言えばこう言う人魚。なんだかおかしくて、ふふっと笑みが溢れてしまう。
「ただ、残念ながらまだ未完成な魔法なので、後数分も経てば全て散ってしまうんですよ。これでは貴方が話していた『花見』も出来ませんね」
「そうなんですか…それはほんとに残念だなぁ。先輩やみんなとお花見、したかったです」
咲いている桜に寂しそうな目を向けている監督生を、ジェイドは瞳を細めて見つめたあと、自分も同じように可憐な花へと視線を移す。
「来年には完全な魔法でサクラを咲かせてみせますよ。それまでのお預けですね」
「……来年…」
その言葉は、今は少し重い。
「ウチは…来年はここにいないかもしれないですよ」
声のトーンが落ちたことに気づいたジェイドは少女の方に顔を向けた。笑ってはいる。だがその顔はジェイドの瞳には酷く寂しげに映った。
「やはり、貴方は自分の世界に戻る方法が見つかれば、帰るおつもりで?」
出来るだけ平静を装って。ジェイドは尋ねる。
「……もちろん、です」
ここは自分がいるべき場所じゃない。魔法も使えないし、元の世界には家族や友人や、いなくなった親友との想い出もある。
この世界に留まるなんて選択肢はありえないのだ──例え想った相手がこの世界にいたとしても。
「…ウチはこの世界の『人魚姫』と違って、何もかも捨てて別の世界で生きる、なんてこと…できませんしね」
あはは、とおどけて言ってみせる。だけれどそれすら虚しくなり、取り繕った笑顔はやがて消えた。
「そうですね、貴方はそういう方だ」
射抜くように真顔で自分を見つめてくるジェイドの視線が痛い──『臆病者』と言われているような気がして──
居た堪れなくなった優海は、体ごとジェイドから背く。出来れば今すぐこの場から消え去りたい。そう思った。
「…すみません先輩、今日…やらなきゃいけないことがあったの忘れてたんで…もう、帰りますね」
背を向けたままでは失礼だろう。だから振り向いて「今日は素敵な桜の花をありがとうございました」と挨拶をしようと思った、その刹那。
「……優海さん!」
拒絶されたように感じたジェイドは咄嗟に監督生の腕を掴み、手前に引いた。酷く驚いた表情で、名を呼ばれた少女は目の前の男を見る。
「…な、まえ…」
「え?…あぁ、すみません。勝手に呼んでしまって」
本当は少し前から、彼女の名を呼んでみたかったのだ。監督生という無機質なものではなく、『彼女自身の名』を。
「いえ…。先輩に名前呼ばれるの、嬉しいです…」
腕を掴まれたまま、頬を赤らめてはにかみながら優海は小さく言葉を発した。羞恥のためか、目線は横に流してはいるが。
そんな少女の姿をみて、ジェイドの心臓はギュッと何かに握られたかのように苦しくなる。
普段は恥ずかしがるくせに、どうしてこうやって素直にこんなことを言えるのだろう。

──ああ、彼女を力の限り抱きしめてみたい──
脳裏にそう過ぎった。

「……みんな、言うんですよ」
「…?何を、です?」
ジェイドの思考を呼び戻すように、監督生はぽそりと掠れた声で呟く。
「…来年はこうしよう、とか、来年もまたやろうな、とか…。グリムだって、お前とオレ様はずっと一緒だからな、とか」
言われるたびに辛かった。来年はもう自分はここにいないかもしれないのに。ずっと一緒にいれるわけじゃないのに。
話を聞いているだけのジェイドは、少女の腕を掴む手に知らず力を入れてしまう。顔を一瞬歪めた優海はしかしそれを咎めなかった。
「ここはウチのいるべき世界じゃない…。お父さん、お母さんだってきっとすごく心配してる。ウチの両親、なかなか子供が出来なくてずっと悩んでたって。だからウチが生まれた時、眩しいくらい世界が輝いたって…だから、絶対帰らなきゃ……いけないんです」
俯き泣き出しそうな声。瞳は潤み今にも涙が零れ落ちそうで。
彼女のその言葉だけで分かる。彼女がどれほどの愛を家族に与えられたか。そして彼女は、与えられた愛以上のものを持っているのだと。両親、生まれ育った世界、友人、そしていなくなった親友──大切なものたちに囲まれて、大切に育てられてきたのだろう。
「でも、帰りたくないなって、思う時もあるんです。どうして簡単に行き来出来ないんだろうって」
帰りたくないと思う時もある──そんな言葉に、ジェイドの胸は一瞬高鳴りを感じた。何を喜んでいるのだろう。
「どうして…帰りたくないと思う時もあるのですか?」
その問いかけに、監督生の感情はぐらついた。
グリムや、デュースやエース、エペルやジャック達。それ以外のみんな。先生達。たくさんの人にここで出会えて、仲良くなれたから。
もちろんそれもある。でも一番は。
「……ここには……ジェイド先輩が、いるから」
遠回しな告白。今は胸がいっぱいで、もうこの気持ちを閉じ込めておくのは無理だった。
自分のことはなんとも想われていなくてもいい。ただ吐き出したかった。
──ああ、もう。
ジェイドは耐えきれず、優海の体を抱きしめた。
彼女の腰に片手を回し、頭を抱え込む。自分の体にすっぽりと収まってしまう少女。改めて彼女の小ささに驚く。こんな華奢な体で、かつて自分達と対峙していたのだから感服する。
「貴方から言わせるなんて、僕は意気地がありませんね」
苦く笑う。

──本当はずっと前から分かっていたのだ。
彼女に対する自分の気持ちも、彼女が自分に向ける眼差しの意味も。
でも優海が元の世界に帰りたがっていることは知っていたから、そんな想いは見て見ぬふりをした。
だがもう手遅れだ。
欲しいものを我慢するなんて、自分らしくない──

優海は抱きしめられたことに驚き、一瞬迷いはしたが、自分もジェイドの腰にそっと腕を回して彼を抱きしめた。
衣服に纏われていても、互いの体温は伝わる。あたたかさに胸が締め付けられた。
「僕は……優海さん。貴方が──」
いっそう少女を抱きしめる力を強め、ジェイドが伝えようとした瞬間。
桜の木々がざわめき出し、散りゆく無数の花弁が吹雪くように舞い踊り、二人を優しく包み込む。
「好きです」
桜の乱舞の中届いた言葉は、少女の人生の中で最も美しく響く。
こらえていた涙は優海の頬を伝い、きらめいた。
「ウチも、先輩が…大好き、です」
──葵ちゃん、ウチ、先輩に気持ち伝えたよ──
彼女がいたら、きっと自分と一緒になって喜んでくれただろう。
ジェイドが優海のために作り上げた桜色の世界は。
ただただ、優しさを滲ませていた。






*****



もう日は暮れ始めている。
あの後、ジェイドと何を話したかすら記憶にない。
ただ、今はその人魚と手を繋いでオンボロ寮までの道のりを歩いている。幸いにも誰ともすれ違わなかった。
優海からは自分の手を引いて一歩前を歩くジェイドの背中しか見えず、彼がどんな表情をしているのか分からない。だが、いつものように余裕のある笑みをたたえていそうだ。
(先輩、手袋してくれてて良かった…)
じゃないと熱く汗ばむ手のひらから、自分がどれだけ緊張しているか伝わってしまう。きっとこんな自分とは正反対で、彼はこんなことには慣れているんだろうなぁ、と少女は思った。
そんな彼女の気持ちとは裏腹に、ジェイドは至極真剣な面持ちだ。
──僕としたことが……感情に流され過ぎました──
まさか今日この日に、優海に好きだと伝えるなんて思いもしなかった。
あの『サクラ』という可憐な花のせいなのかもしれない。
少女を抱きしめたいと思い、伝えるはずがなかった想いを口にしてしまったのは。
魔性の花とは桜のことを言うのではないか。そんなことばかりつらつら浮かぶ。
今、自分が手袋をしていて良かったと心底思う。
でないと手汗をかいていることが優海にバレてしまうから。こんなことは滅多にないから、自分でも驚くばかりだ。

──でも。この手に舞い込んで来たのならば、もう遠慮はいりませんね──と、口の端は静かに弧を描く。




そうこうしているうち、オンボロ寮の前に。

「着いてしまいましたね。…優海さん」
ジェイドは繋いでいた手をゆっくりと離し、監督生と向き合う。離れたぬくもりに少し寂しさを感じたのは二人お揃いだ。
「あ、はい。えっと…送ってくれて、ありがとうございます…」
ぺこりと会釈。すぐ顔をあげても、ジェイドと面と向かうのは落ち着かなくて、瞼を伏せる。
そんな少女を見てくすりと笑ったジェイドは「一つ、確認なのですが」と真面目そうな顔で尋ね、優海は何でしょう?と聞き返す。
「僕と貴方は同じ気持ちだった…つまりは今この時から恋人同士──ということで間違いないですね?」
「えっ?あ…、はい……」
そうなるのだろうか。改めて言われると恥ずかしいのだが。なにしろ告白するのも、その相手に好きだと言われるのも初めての体験なので、その後のことなんて考えもしなかった。『両想い』というやつなら、確かに恋人同士になったと言っていいのだろうけど。
「あぁ…それなら良かった」
それはもう満面の笑みを浮かべるジェイド。
「貴方が元の世界に帰りたいと常日頃から思っていることは承知しています」
「えっ…」
──そんなにいつも帰りたい帰りたいって、先輩の前で言ってたかな…と疑問に思うのも束の間。
ジェイドの大きな手に両肩をガシッと掴まれ、耳元に唇を寄せられた。かかる吐息がくすぐったくて、身を捩る。

「…ですが。『もう帰りたくない』と思うくらいに、僕の事しか考えられなくして差し上げますよ」

なんという甘美な殺し文句。
それは初心な少女の心をいとも簡単に撃ち抜く。

「うぅっ…お手柔らかに…お願いします」
熟した赤い果実のように頬を染め、嬉しそうに少し微笑んで優海は囁いた。



fin



あとがき
当初はジェイドが桜を咲かせて、みんなで花見をする、という流れにする予定だったのに、いつもと同じようにジェイドと監督生二人だけの世界になってしまいました。告白もさせるつもりじゃなかったのに……気づけば勝手に二人とも告白してました笑

告白シーンは何パターンか考えています…推しの告白なんてなんぼあってもいいですからね!!!()


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