【Bittersweet Symphony】


「もうすぐバレンタインか…」
オンボロ寮の自室、机の上の卓上カレンダーをみてぽそりと呟いた少女が一人。この寮を仮住まいとしている監督生──優海だ。

この世界に飛ばされてはや五ヶ月。一向に帰る手段をクロウリーが見つけてくれないまま、いたずらに月日だけが流れてゆく。
最初は帰りたい帰りたいと時には泣く日もあったが、最近は「もうなるようにしかなんないわ」と少し吹っ切れたというか、帰れないもんは仕方ない、流れに身を任せよう。多少はそう考えれるようになった。
そう考えれるようになったのには一つ、理由がある。
「…先輩に渡そうかな…」
思い浮かべたのは慈悲の心を持つ海の魔女の精神に基づく寮の副寮長、ジェイド・リーチ。
海を想わせるターコイズブルーの髪と切れ長のオッドアイ、常に笑みをたたえる唇。そんな風貌の彼は、出会った頃こそ良い印象は持たなかったものの、今や憧れの人だ。

思い返せば、オーバーブロットしたアズールの暴走をジェイドやフロイド達と共に食い止めたあたりからだろうか。
興味を持たれてしまった…のかどうかは分からないが、ジェイドはちょくちょく優海にちょっかい、もとい話しかけてくるようになった。
魔力もないから当然魔法も使えない、言ってしまえば役立たずな自分を何故あの人は構うんだろう、と思ったが、あの男は予定調和というものが嫌いらしい。以前「僕は想定通りに物事が進んでしまうのは好ましくありません。その点、貴方は予想外のことをしてくれる。見ていて飽きません」と言われたことがあったと思い出す。
それはつまり、サプライズメーカーか何かだと思われているってことなのか。逆にこっちが驚かされることの方が多いんだけど。
そうして構われているうちに好意を抱いてしまうのは、年頃の少女なのだから当たり前と言ってしまえばそうなのだろう。
そのジェイドのおかげで、寂しい気持ちは紛れるようになったし、人知れず帰りたいと泣くことも減った。誠に恋の力とは偉大なり。


でも、かと言って「ウチ、先輩のことが好きです!」なんて告白する勇気も根性も持ち合わせてはいなかった。
いずれ帰る時が来るのだから、と。それにフラれたらこの先どう顔を向き合わせればいいんだ。ちゃんとした初恋が今来てしまった優海にとって、今はこんなことを相談できるような友達が周りにいるわけでもなく、半ば既に諦めモードだった。
この気持ちは胸に秘めておこう。それに初恋は実らないとよく謳われているものだ。自分も例に漏れず、この恋は叶わないんだろうし、今は少し苦しくても帰れば気持ちは薄れていくかもしれない。
この世界に飛ばされ、色々なことに巻き込まれた少女は少し大人になったようだ。


だが、恋が実らなくても、この秘めた想いを形にしたくはある。バレンタインならば自分の世界では義理チョコなんて文化も少し前にはあったし、今では友チョコなんていって友人にあげる場合も多い。要するになんでもありの日だ。
だからジェイドにチョコレートを渡したい気持ちになった。

「でもこの世界って、バレンタインってないっぽいんだよね」
先日、遠回しにエースやデュースにバレンタインみたいな告白デーがあるか聞いてみたところ。
「は??なにそれ。んなもん聞いたことないけど」と返されてしまった。しかし似たような記念日はあり、それは『ピンクルバーブ・デー』と言って、家族や友達に感謝を伝える日らしい。ルバーブとは野菜の一種で旬は夏なのだが、ピンク色のルバーブのみ二月が旬でジャムやデザートに使われることが多いらしく、それを用いた料理が、家族や友人に振る舞われるんだと、エース達が教えてくれた。そしてくしくもバレンタイン・デーと同じ二月十四日が、そのピンクルバーブ・デーとのことだった。
しかも最近ではピンクルバーブを使った料理ではなく、手作りのものならなんでもいい、みたいな風潮になってるんだとか。

なんて都合の良い話だ。
これならば感謝を伝える日、という名目で手作りのチョコレートをジェイドに渡せる。限りなく自己満に近い行為だが、たまに自分が作るお菓子を美味しいと言ってたくさん平らげてくれる姿を見るのが好きだからこそ、渡したい。
よーし!と勢いよく立った少女は、決戦の日に備えるため、購買部へと向かった。




そして迎えたバレンタイン当日の夜。

作ったガトーショコラをホールごと箱に入れラッピングをして、時が来るのを待った。
事前に「今日先輩に渡したいものがあるんで、モストロが閉店した後、伺ってもいいですか?」と連絡を入れると「大丈夫ですよ。今日は九時半に閉店なので十時頃来てもらえますか?」
と返信が来たため、待機中だ。


グリムはソファの上で爆睡している。グリムにもガトーショコラを作ってあげたのだが、たらふく食べたと思ったらソファにゴロンと横になり、寝始めた。まったく、牛みたいなやつだ。だが「美味しいんだゾ!おめーパティシエになれんじゃねーか?!」なんて言ってくれる可愛いトコロがあるから邪険には出来ない。

やがて時計の針が十時に近づいた。
「よし、そろそろ行かなきゃ」と少女はソファから立ち上がり、鏡の間へと向かった。




オクタヴィネル寮の中にあるラウンジに着くと、入り口にジャケットと帽子を脱いだ姿のジェイドが立っていた。そばにはフロアのテーブルを拭き掃除中のフロイドもいたが。
「監督生さん、こんばんは」
「あ〜小エビちゃんじゃーん」
「こんばんはジェイド先輩!待っててくれたんですか?すみません!フロイド先輩も、こんばんは!」
「いいえ、お気になさらないでください」
物騒な方のリーチは、胸に手を当て綺麗な所作で微笑む。こうゆう姿は本当に紳士的だ。自分のいた世界の学校のクラスにはこんなに紳士で大人っぽい男子などいなかった。むしろアホ丸出しの男子ばかりだ。だから余計に大人びて見えるのだろう。トクンと胸がときめいてしまう。
「あ、ありがとうございます…。あの、これ!良かったら食べてください!」
頬が朱に染まり始め、誤魔化すように勢いのまま持っていた紙袋をズイとジェイドに差し出す。
「…これは?なんでしょう?」
「今日は…えーっと、あ!ピンクルバーブ・デー、なんですよね?!日頃お世話になってる人にありがとうの気持ちを伝える日だって聞いて!だから先輩に感謝の気持ちを…と思って。あ、中身はウチが作ったガトーショコラなんですけど…先輩ガトーショコラは苦手ですか?」
小首を傾げ、心配そうに尋ねた監督生を見たジェイドは、紙袋をそっと受け取り、フフッと軽やかに笑う。
「確かにそういった日…でしたね。ガトーショコラ、大好きですよ。それも貴方の手作りなら、なおさら」
「またそういうこと言う…。あ、フロイド先輩と、あとアズール先輩と分けて食べてくださいね!」
サラッと恥ずかしげもなくこんな事を言ってくるから本当にタチが悪い。本心じゃないことぐらいわかっている。でも、それでも内心は嬉しかったりするから自分もなかなかのものだ。
「嘘ではありませんよ。……あぁ、そうだ。僕も貴方にお礼と感謝の気持ちを伝えねばなりませんね」
綺麗ににこりと笑顔を見せると、片手はそっと少女の頬に添えて。
「こんなもので申し訳ないのですが」と言いながら、ジェイドは顔をぐっと近づけ、あっという間に監督生の唇のすぐ横あたりに口づけを落とした。
口の端が柔らかいものに触れた感触。チュッと鳴ったリップ音が耳の中に響く。
音が鳴った後、すぐに離れたジェイドの顔が目の前にある。
目も唇も弧にして微笑むその顔を見て、止まっていた監督生の時間が凄まじく動き出す。
「はっ?!なっ、なっ、なんでっ??!!」
顔を一瞬で火山噴火の如く真っ赤にさせた少女は、またしてもやられた!!と思った。ジェイドにこうゆうことをされるのは二度目だ。一度目はアクアリウムで。カップルでキスをするともらえるキノコをゲットするため恋人同士に擬態し、頬に軽くキスをされた。だが今度はあの時より唇に近い場所…というかもう唇にされたようなものでは?!しかもリップ音が響くくらい深めではないか。された場所が少し湿っている気がする。
「キスは家族や友人にもするものですからね、感謝や親愛を示すために。おや?監督生さんは、まさか…初めて、では…ないですよね?」
ニヤリと意地悪く笑うその顔は本当に憎たらしい、と心底思った。後方でジェイドの片割れの人魚が「うっわ、ジェイドってばやりすぎ〜」などと笑いながらほざいている。
「くぅぅ〜〜!!もうっ!ウチはっ!寝る時間なので!お邪魔しました!!!さよーなら!!!!」
叫びに近い怒鳴り声をあげ、熟れた林檎のような顔色の彼女は、駆け足でラウンジから離れて行った。



少女の姿が見えなくなったあと。

「あーあ、小エビちゃん、ジェイドに遊ばれちゃって、かわいそー。今日が本当は何の日か、分かってんでしょ?」
フロイドはジェイドの肩に腕をかけ、ズイッと顔を寄せ、ニタリと笑う。
「ええ。『バレンタイン・デー』…というやつですね」
賢者の島では、古の時代には『バレンタイン・デー』というものがあったらしい。
ジェイドやフロイドは陸に上がる前、陸の歴史を少し学んでいたため知っていたのだ。
しかしナイトレイブンカレッジに通っている生徒はほとんど知らないだろう。
バレンタイン・デーという日は『チョコレートを使ったお菓子を恋人や好きな相手に渡す日』だったのが、いつしか形を変え意味を変え、『ピンクルバーブ・デー』という名に変わった。
別段重要な内容でもないので、この学園で教わる事はない。だから知らないものが多いのだ。
「じゃあ、それ渡された意味も分かってんでしょ?応えてやんねーの?」
「…応えるも何も、感謝の気持ちを伝えたい、と言われただけですので」
眉を歪め薄く笑いながら、ジェイドの思考の片隅はフロイドに言ったこととは真逆のことを考える。


好意を持たれていることには気づいていた。
そして自分自身、彼女に対して特別な感情を抱き始めていることも。
今日、彼女が「チョコレートを使ったお菓子」を作って来たことは偶然ではないだろう。
まだあまり彼女に良い印象を持たれていない時に、彼女の世界のことを尋ねたことがあった。
その時「バレンタインデー」という風習があると聞かされていたのだ。この世界と彼女の世界は、全く違うようにみえて時折重なる部分がある。
監督生自身はジェイドにそういう話をしたこと自体忘れているのだろう。覚えていたとしたら、自分の想いがバレるようなことはしないはずだ。


『感謝を伝える日』というのを口実に、遠回しにあの少女は気持ちを伝えようとしてくれたのだ。
ジェイド自身は、本当はとてつもなく嬉しかった。心が震えるほど高鳴った。
そしてできれば、応えてやりたかった。
それでも。

──彼女はこの世界からいなくなる存在。いつかは分からないですが、きっと彼女は帰ると決めたからには帰るのでしょう。アズールやジャミルさんを始め、色々な方のオーバーブロットを解決してきた彼女なら、不可能を可能にしてしまう。魔力を持たない代わりに、そんな特別な力を持っているような気がします──

素直になどなれはしない愚かな人魚は、本心を隠すため、また彼女を揶揄ってもて遊ぶそぶりを見せた。
いっそ嫌われた方が気分がいい、と。
なのに直接唇を重ねなかったのは『本能』が邪魔をしたから。

「いずれいなくなる人を、僕は好きになったりしませんよ」
フロイドの視線からフイと顔を背けたジェイドは、珍しく表情を殺し、乾き切った音を落とした。
フロイドはそんな兄弟を見て、はぁとため息を零し垂れた目を歪めさせ、呟く。
「ジェイドってさ、そーゆーとこ、不器用だよねぇ。オレ、小エビちゃんといる時のジェイド、おもしれーから好きなんだけど。素直になったほうが、楽かもよ?」
双子の片割れの言葉は、ジェイドの耳に深海よりも深く響いた。



*****


オンボロ寮の玄関扉の前。
いまだに火照ったままの顔を冷ますかのように、監督生は寮の中に入らず立ち尽くしている。
「ほんと、ウチってオモチャぐらいにしか思われてないんだなぁ…」
あの人がああいうことをするのはからかい甲斐があるから、とか反応がおもしろいから、とかそんなところだろう。
でもさすがに今日はやりすぎなのでは?
まさか唇に近いところにキスされるなんて思いもしなかった。というか自分の中ではもう唇にされたも同然だ。
最近忘れていたが、アズールとジェイド、フロイド──あの悪徳三人組は本当に根性が悪い。捻じ曲がりすぎている。
それでも、根は悪い人たちじゃないんだ、と、付き合いが長くなればなるほど感じる部分が多くなっていった。
それなのに今日は久しぶりにジェイドの底意地の悪さを垣間見た気がする。
いっそ、貴方のことなんて嫌いです、と言ってくれた方がマシだ。
その方が未練がましくならずに済む。

「ピロン♪」
寮の扉の前で悶々とそんなことを考えていると、カーディガンのポケットに入れているスマホが鳴った。
取り出して確認してみると。
『先ほどはすみませんでした。貴方の困る姿がいつも可愛らしくて、今日もそんな貴方を見たくてつい意地悪をしてしまいました。許してくださいますか?
ガトーショコラ、今一口食べてみましたが、程よい甘さで紅茶ととても合いますね。美味しかったです。フロイドとアズールにあげるのは勿体ないほどだ。僕一人で全部食べてしまうかもしれません。
今度僕もお返しとして貴方に何か作って贈ります、楽しみにしていてくださいね』
ジェイドからのメッセージ。
「……なに、よ」
──こんな言葉、簡単に騙されないんだから──

そんな想いとはうらはらに。
純粋な少女は、ふわりと愛らしい笑顔を咲かせた。







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