Novel
数センチのまま
休み時間の教室は、どこか気の抜けた空気で満ちている。笑い声や足音、椅子を引く音。あちこちで小さな会話が重なり合い、ざわめきがゆるく広がっていた。
その中で、
隣の席。
理由は、ない。ただ、小春の表情はよく変わる。
話すたびに目元が細くなったり、口元がやわらかく上がったりする。ころころと変わるそれを見ていると、なぜか飽きなかった。ぼんやりしているうちに、ふと小春の視線がこちらに向いた。
「……
「ん」
「さっきから、こっち見てる?」
責めるわけでもなく、ただ不思議そうに。小春は小首を傾げる。
「見てたかも」
あまりに素直な肯定に、小春の頬がじわりと赤くなった。
「な、なんで……」
「なんとなく」
本当に、それだけだった。小春が隣にいる休み時間は、なぜか静かだ。周りはいつも騒がしいのに、ここだけ少し温度が違う気がする。慌ただしさの中に、ぽっかりと落ち着いた場所があるみたいだった。蒼はその空気が好きだった。隣にいると、何も考えなくていい気がする。
視線を戻そうとしたとき、小春が「あ」と小さく声を漏らした。
「本條くん、シャツのボタン。取れかかってるよ」
蒼が自分の胸元を見下ろす。制服のボタンがひとつ、糸一本でかろうじて繋がっていた。
「……ほんとだ」
無造作に指で触れようとしたとき、小春が慌てて手を伸ばす。
「だめ、取れちゃう!」
そのまま、自然に距離が近づいた。小春の手が、蒼のシャツをそっと押さえる。
本條くんはいつもこうだ、と小春は思う。困ったことが起きても、少しも焦らない……いや、困っているとすら気づいていないのかもしれない。
「放課後まで持たないかも……」
少し考えてから、小春は言った。
「私、裁縫道具持ってるから今やっちゃおうか」
「うん。お願い」
迷いのない返事だった。小春は鞄から小さな裁縫セットを取り出す。透明のケースの中で、針と糸が小さく揺れた。
蒼は椅子ごと、少しだけ彼女のほうへ寄る——近い。けれど蒼は特に気にした様子もなく、ただ、静かに縫い終わるのを待っている。小春が糸を通し、針を布へ入れる。ちく、と小さな音がした。針が通るたびにシャツの布が少し引かれて、胸元がわずかに揺れる。小春の指先が、蒼のシャツに触れた。布越しの体温が、思ったよりもはっきり伝わってきた。
蒼はじっと、小春を見ていた。真剣な横顔。伏せられたまつ毛。針を扱うたび、唇が少しだけきゅっと結ばれる。こんなに近くで見るのは、初めてだった。胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。理由はよく分からない。でも、目を逸らす気にもならなかった。
「……
「え?」
針が一度止まる。
「なんでもできる」
小春は少し困ったように笑った。
「そんなことないけど……本條くんのそういうとこ、ちょっとずるいよ」
「そう?」
まったく刺さってない。本当にこの人は——と、小春は小さくため息をつく。
「でも」
蒼は少し言葉を探すように間を置いて、それから続けた。
「俺たぶん、隣が花岡さんじゃなかったら困る」
さらりと言う。今日の天気を話すみたいな、自然な声音で。小春の指先が、わずかに震えた。針が、ほんの少しだけずれる。
「なんで……?」
気づいたときには、口に出していた。どうしてそんなことを聞てしまったのか、自分でも分からない。
蒼は少しだけ視線を泳がせる。それから、また小春を見た。まっすぐに。
「……そのまま」
少し間を置いて、続ける。
「隣にいると、安心する」
その目は、嘘をついていない。特別なことを言っているつもりもない。ただ、本当のことを言っているだけだ、という顔で。
小春の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。針を持つ手が、少しだけ落ち着かなくなる。
「はい、できたよ」
糸を切り、ボタンを軽く押さえる。指先で確かめると、しっかり留まっていた。
「ありがと」
蒼はそう言った。けれど、動かない。近いまま。
小春が顔を上げると、視線がぶつかった。蒼は、まだ見ていた。
「……本條くん?」
「うん」
「もう終わったよ?」
蒼は一度だけ瞬きをする。
「うん」
なのに、離れない。ほんの数センチの距離。手を伸ばせば触れてしまいそうなほど近いのに、なぜかその距離は、まだ越えてはいけない線のようにも思えた。
蒼はただ、そこにいる。何も考えていないような顔で。けれど、離れたいとも思っていない——その顔で。
距離の近さに耐えきれず、小春のほうが先に口を開いた。
「ち、近いよ……」
「そう?」
自覚は、きっとない。ただ、小春の近くにいたいと思っているだけの、そういう顔だった。小春は赤くなった顔を隠すように、そっと視線を逸らす。
放っておけないと思っていた。世話を焼いているつもりだった——なのに。
こうして距離が近づいても、離れたいとは思わない。むしろ、少しだけ。このままでいたいと思ってしまう。
離れたくない理由を、まだ知らないまま。
休み時間のざわめきは、変わらず続いている。笑い声も、足音も、椅子の音も。いつもの教室の、いつもの時間。
けれど二人の間だけ、静かに何かが進んでいた。
隣が当たり前になっていく、その途中で。
まだ名前のない気持ちが、静かに、ゆっくりと根を張っていた。
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