Novel
小さなハートの行方
お昼休みが終わって、五時間目の授業が始まる。教室が一気にざわついた。 次は体育。椅子を引く音と、誰かの笑い声が混ざり合う。
「莉紗ちゃん、急がないと遅れちゃうよ」
小春の声に振り向いた拍子に、首の後ろへ回した指先が止まった。 留め具を外す。胸元から滑り落ちた小さなハートのネックレスを、手のひらで受け止めた。体操着の袋を持ち直し、机の端にそっと置く。
「分かってるって」
小春の背中を追いかけるように、莉紗は教室を出ていった。
◇ ◇ ◇
ホームルームが終わると、教室の空気が緩んだ。 部活へ向かう足音が廊下を流れていく。夕方の光が、窓際の机の列を薄く染めていた。
莉紗は鞄を肩に掛けて、帰り支度の手を止める。何気なく、首元に手を伸ばした。指先が何にも触れなかった。
「……え」
鎖骨のあたりを、もう一度なぞる。 ない。 いつもそこにあるはずの、小さな重みが。
心臓が嫌な音を立てて沈んだ。落ち着け、と思う。 体育の前に外した。外して、鞄に入れた。だから、鞄の中にあるはずだ。
莉紗は鞄を机の上に置いて、ファスナーを開けた。 教科書。ペンケース。ハンドタオル。リップ。 ポーチの中も、全部取り出して机に並べる。ない。
「……嘘でしょ」
鞄を逆さにして、底まで探った。ポケットも、ひとつずつ。 何も出てこない。
外した。ポーチに入れた。ファスナーを閉めた。いつもそうしている。だから、今回もそうしたはずだった。
そう思うのに、確かめようとするほど記憶が曖昧になっていく。本当に入れた? 入れたつもりで、入れてなかった?喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「……最悪」
誰もいなくなった教室に、自分の声だけが落ちた。
◇ ◇ ◇
教室を覗きに来た小春に、「一緒に探すよ」と言われた。「すぐ見つかるから、先に帰ってて」そう笑って返した。笑えていたかは、分からない。
更衣室。体育館までの渡り廊下。下駄箱の前。 莉紗は床ばかりを見て歩いた。
見つからない。廊下の隅にしゃがんで、壁際の影を覗き込む。 頬にかかった髪を払う余裕もなかった。
大事なものなのに。 あたしが、ちゃんとしてなかったから。泣くほどのことじゃない。 そう思うのに、視界の端が滲みかけて、莉紗は奥歯を噛んだ。
「……河島」
低い声が、頭の上から降ってきた。顔を上げなくても分かった。 如月だ。
「……何」
膝をついたままの背中で答える。声が硬くなる。 何か言われる。呆れられる。
冬人は、何も言わなかった。代わりに、莉紗の隣の床に、すっとしゃがみ込んだ。 視線を莉紗と同じ高さに落とす。 廊下の隅の埃の溜まった床に。何を探してるの、とも。 手伝おうか、とも言わない。
莉紗は唇を結んだ。少しの間、二人分の呼吸だけが廊下に残る。 遠くで、吹奏楽部の音出しが始まった。
「……ネックレス」
先に口を開いたのは、莉紗だった。
「ハートの、ちっちゃいやつ。体育の前に外して、鞄に入れたはずなのに。……ない」
言ってしまってから、恥ずかしくなる。 黙ったまま、冬人の反応を待った。
「そうか」
冬人は短く言って、立ち上がった。
「探すなら、順番に辿った方がいい。最後に確実にあった場所から」
「は? 順番って……」
「教室から、もう一回」
淡々とした声だった。 それでも、莉紗は思わず立ち上がっていた。
教室には西日が深く差し込んでいた。 机の影が長く伸びて、床のあちこちを暗くしている。
「鞄は、さっき全部見た」
「うん」
「……机の上も、見たし」
「そう」
冬人は莉紗の机に目を向けた。
「最後に外したのは、ここ?」
「……うん」
莉紗の返事を聞いて、冬人は机の周囲を確かめるように歩いた。机と机の間、窓際の床。見落としがないか、ひとつずつ目を向けていく。
やがて、机の脇で足を止めた。
「……あった」
振り向いた冬人の手のひらに、小さなハートのネックレスが乗っていた。 鎖が細く絡まって、夕日をひとかけら拾っている。
「机の脚の、陰に落ちてた」
莉紗は動けなかった。
よかった。
そう思った途端、全身から力が抜けそうになった。鞄に入れたんじゃなかった。机の端に置いて、そのまま。それだけのことだった。
「……あたし、ほんと、バカみたい」
唇から零れた声が、自分でも驚くほど小さかった。 差し出された手のひらを、すぐには受け取れない。
「……子どもっぽいって、思ったでしょ」
身構えるみたいに、目を逸らした。 こんな見た目で、ちっちゃいハートのネックレスを大事にして。床に這いつくばって探して。
「大事なものなんだろ」
冬人は、それだけ言った。否定も、慰めもない。 笑いも、しなかった。
莉紗の指先が、ゆっくりと伸びる。 ネックレスを受け取る時、冬人の指に、ほんの少しだけ触れた。
手のひらの中のそれは、思っていたよりずっと軽かった。
「……つける」
誰に言うでもなく呟いて、莉紗は両手を首の後ろへ回した。細い留め具が、指先から逃げる。 もう一度。 また、外れる。
焦るほど、指が滑った。 さっきまで冷えていた指先が、今は変に熱い。
「……っ」
三度目も、外れた。 視線を感じた気がして、莉紗は思わず顔を上げる。
冬人は、莉紗の隣の席に腰を下ろしていた。 鞄を膝に置いて、廊下の方を向いている。 ……向いている、はずだ。
見られてる。絶対、見られてる。 ネックレスひとつ、まともにつけられないところなんて。
「……見ないでよ」
「見てない」
即答だった。 それが逆に怪しくて、余計に指が震える。 合わない留め具の音だけが、静かな教室に落ちた。しばらくして。
「……河島」
廊下の方を向いたまま、冬人が口を開いた。
「つけようか」
莉紗の手が、止まる。
冬人は振り向かない。 急かす声でも、からかう声でもなかった。
断る言葉なら、いくらでも浮かんだ。 いらない。自分でできる。見ないでって言ったでしょ。
でも、指先はまだ震えていた。唇を噛んで、息を吸う。 言い方が分からなくて、少しだけ長く黙って。
「……お願い」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
冬人が、ゆっくりと立ち上がる。 莉紗の後ろに回って、そこで一度、足を止めた。
「触るけど」
「……いちいち言わなくていいし」
「うん。でも、言っておく」
莉紗は目を閉じて、髪を片側に寄せた。
冬人の指が、鎖をそっと受け取る。 首筋に、一瞬だけ体温が触れた。 息が止まる。
いつも落ち着いているはずの冬人の呼吸が、背後でほんの少しだけ浅い気がした。
カチ、と小さな音がした。
「……できた」
「……ん」
冬人の手が離れて、足音が一歩、距離を取る。 莉紗は胸元に指先を当てた。
「……ありがと」
「うん」
少しの間があって。
「……帰るか」
冬人の声は、いつもより少しだけ早口だった。
返事をしようとして、声が出なかった。 代わりに、こくんと頷く。
首筋にはまだ、触れた体温が残っている気がした。
先に歩き出した背中を、数歩遅れて追いかける。歩くたびに、小さなハートが胸元で揺れた。
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