Novel
考えるより先に
体育館に、ボールの弾む音と歓声が響いていた。女子はバレーボール、男子は隣のコートでバスケットボール。いつもと変わらない体育の時間——そのはずだった。
「ちょ、すず! 大丈夫!?」
「大丈夫。少し、捻っただけだから……」
そう言いながらも、すずは立ち上がれない。心配そうにクラスメイトが集まり、周囲は小さな騒ぎになっていた。
隣のコートでプレーしていた
「ん? 何かあった?」
晃が振り向いた、その瞬間だった。
「日向、あと頼む」
短くそう言い残し、
「えっ!?」
不意を突かれながらも、晃はなんとかボールをキャッチする。顔を上げた時には、京介の背中はすでにコートを離れていた。
「京介、どこ行くんだよ! 試合の途中だって!」
返事はない。その声を背中で聞き流し、京介は迷いなく女子コートへ向かっていた。
座り込むすずの前に、人影が落ちる。顔を上げたすずは、目を見開いた。
「く、黒井くん……?」
京介の視線が、一瞬だけすずの足元へ走る。足首を押さえる手。無理に作られた笑顔。次の瞬間には、もう体が動いていた。
京介はすずの前に屈み込む。ふわり、と体が浮いた。
「——っ!?」
何が起きたのか分からないまま、すずの視界が一気に高くなる。
「あ、あの……」
「怪我したんだろ」
低く、逃げ道のない声だった。
「す、少し捻っただけなので。本当に大丈夫です」
恥ずかしさと周囲の視線に耐えきれず、顔が熱くなる。すずは思わず身を縮めた。
「動くな。保健室、行くぞ」
「下ろしてください……っ」
腕の中でもぞ、と身じろぎされる。けれど京介は何も言わず、前を向いたまま歩き続けた。
ふと、すずの指先が無意識に自分のシャツを掴んでいるのが目に入る。京介は一瞬だけ視線を落とし、すぐに前へ戻した。その様子を見ていた美月が、ぱっと状況を察する。
「すずのことは、黒井に任せた! 先生にはあたしから話しとくからさ」
「ああ、助かる」
短く返して、京介は歩みを止めなかった。
◇ ◇ ◇
体育館を抜けると、廊下の空気が一気に静かになった。聞こえるのは、二人分の足音だけ。腕の中で、すずの体がわずかに強張っているのが分かる。軽い。思っていた以上に。その事実を意識した瞬間、京介は視線を前へ固定した。
やがて、保健室の前に着く。京介はドアをノックしようとして、その手をほんの一瞬だけ止めた。腕の中の重み。すぐ近くにある、規則的な呼吸。
何も言わず、ノックする。返事はない。保健の先生は不在らしい。鍵は掛かっておらず、そのまま中へ入る。カーテンの隙間から陽の光が細く差し込み、消毒液の匂いがかすかに鼻をかすめた。ベッドの白いシーツだけが、やけに眩しく見えた。
ベッドの前まで来ると、京介はゆっくりと体を屈めた。けれど、すぐには下ろさない。腕の力を抜けば、それでいい。それだけのことなのに、なぜかすぐにはできなかった。
一拍。
それからようやく、すずの体がベッドに触れる。
京介の腕から重みが消えていく。最後まで残っていた指先が離れた瞬間、すずは胸の奥がきゅっと縮むような感覚を覚えた。空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
京介は口を閉ざしたまま、棚へ視線を向ける。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟いた声は、自分にしか聞こえない。包帯を取り出す指先が、ほんの少しだけ遅れた。
「白崎。手当てするぞ」
少しだけ間を置いて、すずは小さく頷く。
「は、はい。お願いします」
京介はすずの足首に触れた。思っていたよりも、近い。しゃがんだ位置から、すずの膝や指先、揺れる視線までが否応なく視界に入る。けれど、京介は足元だけを見るようにした。少しでも上を見れば、すずの表情が見えてしまう。
何か言った方がいいのか。それとも、何も言わない方がいいのか。分からないまま、包帯を引く指先に自然と力が入った。その瞬間、すずの肩がぴくりと揺れる。
「……っ」
小さな声。京介の指が止まった。
「白崎、痛いか?」
短く、抑えた声。
「いえ、大丈夫です……!」
すずは慌てて首を振った。また、沈黙が戻る。さっきよりも少しだけ重たい沈黙が、二人の間に落ちた。
包帯を巻く手が、一瞬だけ止まる。引き締める前の、ほんのわずかな間。京介の喉が小さく動いた。それが緊張なのか、他の何かなのか自分でも分からないまま、指先だけが宙で止まっていた。
どうして止まったのか考えるより先に、すずは顔を上げていた。すぐそばに、京介の横顔がある。伏せがちな視線。少しだけ眉の寄った、真剣な表情。思っていたよりも、ずっと近い。
(こんな顔、するんだ……)
体育館で見た時とも、教室で見る時とも違う。誰にも向けていないような、静かな表情だった。気づいた瞬間、胸の奥が小さく波打った。見てはいけない気がして、慌てて視線を落とそうとした。
その前に、京介の視線がふっとこちらを向いた。一瞬だけ、目が合う。言葉も、音もない。ただ、視線だけがぶつかった。
「……っ」
息が詰まる。慌てて視線を逸らした時には、もう心臓がうるさかった。京介は視線だけを、再び包帯へ戻す。
(なんでもない)
そう言い聞かせながら、包帯を引く指先がほんの少しだけ遅れた。
「いつも、手当てするのは私なのに。今日は逆ですね」
ぽつりとこぼれたすずの言葉に、京介の指がほんの一瞬止まる。
「ああ。そうだな」
「ふふっ。変な感じです」
そう言われて、京介は一瞬だけ言葉に詰まった。
否定するほどでもない。けれど、肯定する理由もうまく見つからない。
変でも……今は、これでいい。
そんな考えが浮かんで、自分でも意味が分からないまま、包帯を引き締める。静かな保健室に、包帯の擦れる音だけが残る。この沈黙は落ち着かない。それなのに、嫌ではなかった。
やがて、包帯を巻き終えて、京介は一度手を止めた。
「白崎、歩けそうか」
「は、はい。大丈夫です」
そう答えながらも、すずは足を床につけるのをためらった。体重をかけるのが、少し怖い。京介はその様子を見ると、何も言わずに立ち上がった。
「立てなかったら言え」
低く、落ち着いた声。それだけ言って、すずのそばに立つ。
……近い。
そう思った瞬間、すずはゆっくり立ち上がろうとして——ほんの一瞬、バランスを崩した。
「……あ」
その肩に、京介の手が迷いなく添えられる。
「無理すんな」
短い言葉。けれど、迷いのない声だった。すずは支えられたまま、思わず京介のジャージの袖を掴んでしまう。
「す、すみません……!」
慌てて手を離そうとする。けれど、京介は支える手をすぐには離さなかった。
「別に。転ばれる方が困る」
その言葉の奥に、別の何かがあるような気がした。けれど、それを考えるより先に、京介はゆっくり手を離す。
「今日は、無理せず休め」
「はい」
すずは小さく頷き、視線を落とした。
「黒井くんって、こういう時……すごく頼りになりますね」
京介は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「そうか」
短く返した声が、思ったより低い。自分でも分からないまま、鼓動がじわりと速くなる。理由を探る前に、京介は歩き出した。
保健室を出ると、廊下にはまだ体育館の音が微かに響いていた。
「……あの」
すずが少しだけ歩調を落とす。
「さっき、支えてくれてありがとうございました」
京介は立ち止まり、ほんの少し考えてから言った。
「当然だろ」
それだけ言って、前を向く。
——数歩、歩いたあと。さっきの腕の感触が、まだどこかに残っている気がした。考えようとすると、目が合った瞬間のことがやけに鮮明に浮かぶ。
(面倒なことになりそうだ)
そう思って、京介は歩調を少しだけ速めた。
◇ ◇ ◇
すずは、その背中を見つめながら歩いていた。
胸の奥が、まだざわついている。
(なんで、かな……)
保健室の静けさより。体育館の喧騒より。今は、さっきのことばかりが頭に浮かぶ。黒井くんが、近すぎた。それなのに。もう少しだけ、このままでもよかったかもしれない。そんな気持ちが浮かんで、すずは慌てて打ち消した。
(困るな……)
どうして、こんなふうに思ってしまったのか。自分でも分からない。すずはそっと、包帯の上から足首を押さえた。窓の外で、まだ体育の声が遠く響いている。それなのに、すずの耳にはもう、さっきの静かな足音しか残っていなかった。
——押さえたはずなのに。胸の奥のざわめきは、少しも収まらなかった。
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