聖闘士星矢


目を覚ますと、知らない場所にいた。
柔らかな布の感触に包まれて、細かな装飾の施された天井をぼんやりと眺める。
全身が鈍く痛んでいる。
身体を起こすと、くらくらと視界が揺れた。
思っていたよりも横になっている時間が長かったのか、身体の機能は衰えているらしい。
手足に巻かれた包帯は真新しかった。
聖衣は既に脱がされて、知らない服に着替えてある。
立ち上がってみると、足の力も上手く入らなかった。
白いワンピースの裾が揺れる。
この見知らぬ屋敷の人間が気を利かせてくれたのだろう。
あぁ、こんな普通の少女らしい服を着るのはいつぶりだろうか。
そんなことを思って、チクリと胸の奥が痛んだ。
テーブルや壁を支えに立ち上がり、見知らぬ部屋の中をよろけながら見て回ることにした。
もの寂しいアンドロメダ島では見ることの叶わないような高級な調度品に囲まれている。
そして、ふと仮面が外れたままになっていることに気づいた。
瞬のギリシャ行きを止めようとして、自分の意思で外したのだ。
女聖闘士の厳しい掟を理解していてなお、彼への想いを押し殺すことはできなかった。
想いが伝わらずとも、ただ生きていてほしいと願ったことだけは伝えたかったのだ。
ベッド脇のテーブルに置かれていた仮面のつるりとした表面を指先で撫でる。
一度外してしまった仮面を、再び着けることは許されるのだろうか。
できることなら、師匠に相談したかった。
それは、もう叶わぬことなのだが。

ぼんやりと仮面を見つめていると、突然部屋の扉がノックされた。
返事をすると、モノクロの服のメイドが顔を覗かせた。
食事や着替えを手にして言葉を続けていたが、急に何かが込み上げてきた。
涙が止めどなく溢れて、何故だか無性に悲しくなってしまった。

白く、か細いだけのこの手が憎い。
誰も救えず、何も守れなかった。
何かを守る為に聖闘士として力を得たのに。
厳しくも優しい師匠は目の前で散り、弟弟子は死地に向かった。
最期まで師匠に守られ、弟弟子を止めることもできなかった。
無力だった。
アンドロメダ島を脱出してから、日本に向かうことしか考えていなかった。
あの地獄から逃げ出して、頼れる師を喪い、旅立ってしまった瞬に会いたかったのだろう。
己にできることは、それくらいしか無かったのだ。

「…瞬は、今はどこに…」
「お嬢様からは、ギリシャを二日後には出発する予定だと伺っています」
「…聖域の件は解決したのね。良かった…生きているのね…」

アンドロメダ島の現状について確認すると、島は残っているとのことだった。
何もかもを喪ったと思っていたが、修行地であり、思い出の島だけは残っている。
そう思うと、それだけで心が落ち着いていくのを感じた。
身の回りの世話をしてくれたメイドに色々と話を聞くと、ここは木戸財団の屋敷らしい。
瞬の手によって財団に引き渡された後、意識が戻る間、保護してくれたという話だ。
財団専属の医師に診察され、異常なしとの結果を言い渡された。
今後はどうするのかと声をかけられ、すぐにアンドロメダ島に帰ることを決めた。
弟弟子の無事な姿を確認したかったが、師匠のことも、島のことも気になる。
あそこには、もう私一人しか居なくなってしまったのだ。
師匠の亡骸もそのままになっている。
辛うじて師匠と暮らしていたが、引き続き生活できる状況なのかも分からない。
黄金クラスの襲撃を受けたのだから、島の半分が消し飛ぶくらいの激しい戦いだったかもしれない。
島の現状を確認して、それから今後の道を考えていくしかないだろう。

誰に礼を言うべきなのか迷ったが、ひとまずメイドと医師に保護してもらった礼を告げた。
できれば早くアンドロメダ島に帰りたいと願うと、一時間も経たずに帰る用意ができた。
ヘリの後部座席に収まり、ぼんやりと整備された庭園を眺める。
瞬をあの地獄の島に送り込んだ財団に、今度は己が送り返してもらうというのは何の因果なのかと思わずにはいられなかった。



アンドロメダ島は酷い有り様だった。
険しいはずの地形は一部消失し、残された地面や岩の抉れた様子から、この地で行われた戦闘の激しさをありありと感じた。
ボロボロになった師匠の亡骸を、細々と暮らしていた区画に埋葬した。
狭くはないが広くもない島を歩き回り、結局、今後どうすべきなのかを見つけることはできなかった。
勝手知ったる島で生活を続けていくことはできる。
師匠が懸念していた今後起こりうる聖戦に備える必要はある。
けれど、仮面を外してしまった己が、再度その仮面を着けて聖闘士として戦って良いのか判断できずにいる。
それならいっそ、聖闘士として生きることをやめて故郷に帰るしかないだろう。
温かな思い出を、そんなに簡単に捨ててしまえるだろうか。
命を懸けると決めた生き方に、背を向けられるだろうか。
誰かに相談したかった。
相談すべき人は居らず、同じ時間を過ごした人も居ない。

かつて瞬を見送った船着き場で、荒れ狂う海を眺めていた。
吹き荒ぶ潮風が髪を乱し、未だ聖衣を着ることができず屋敷で着替えたままのワンピースの裾をはためかせる。
この島に帰ってきてから、太陽も月も何度昇ったのかは分からない。
時間が経てば経つほど、師匠が亡くなってしまったことを否応なしに自覚せざるを得ない。
言葉数は少なくとも、師匠の手は暖かかった。

「瞬…」

無事に聖域から戻れたのだろうか。
もう何度も名前を呼んでいる。
返答など来ないと解っているのに。

ザアザアと波打つ音に混じって、何か別の音が聞こえてくる。
それは徐々に近づいて、バラバラという音になっていく。
風の流れが変わり、空を見上げれば、ヘリが近づいてくるのが見えた。
ヘリの扉が開いて、誰かが手を振っている。
新緑の髪を靡かせ、少女のように愛嬌のある顔が見えた。
名前を呼ぼうとして、言葉に詰まった。
ヘリが着陸するのも待たずに彼は飛び降りて、軽い身のこなしで船着き場まで辿り着いた。

「ジュネさん!」
「…っ、瞬…!」

少し精悍さの増した顔を破顔させ、手の届くすぐ側まで駆け寄ってくる。
それから、頬を染めて視線を逸らしてしまった。

「瞬、どうしたの」
「あの…ジュネさん、仮面はどうしたんですか?女性聖闘士の素顔を見るのはご法度だから…」
「あぁ…今、どうしようか迷っているのよ。今の私は聖闘士じゃないから気にしないで」
「迷っているって?」

二人並んで岩場に腰を下ろし、ようやくずっと抱えていた思いを吐き出すことができた。
何もかもを話し終えて、それから瞬の話を聞いた。
壮絶な戦いの数々と、幾度かの死の淵が、彼を精悍な男に成長させた。
優しくて、泣いてばかりだった男の子ではなくなった。
私の知らない人間に成長し、私は何も成長できていない。
何も守れず、何も救えず。

「…私は、何をすればいいのか分からないんだ」
「僕は、ジュネさんが聖闘士を続けてくれたらいいなと思います。僕の在り方に寄り添ってくれた大事な人だから、同じ道を走り続けられたら嬉しいな」
「…私も、先生との思い出の島を守りたい」
「僕も、時々先生に会いに帰って来ようかな」
「うん、きっと喜ぶよ」

師匠の墓参りをして、あっという間に彼が帰国する時間になってしまった。
彼が帰ったら仮面を着けて、聖衣を着よう。

「ジュネさん、また来ますね」
「あぁ、待ってるよ」

別れの挨拶をして、それ以上の言葉をかけたい気がしたが、何も言わずに微笑むだけにした。
ハグの代わりに繋いだ手が、みっともないほど震えてしまった。
淋しいと嘆く己を晒すようで、恥ずかしさでいっぱいになる。
それでも、繋いだ手に力を込めれば、それだけで震えは収まった。

遠ざかっていくヘリを見送って。
さみしい、と。
ようやく本音が零れ落ちたのだった。
12/13ページ
スキ