JOJO


『壁の目』に埋まっていたからなのか、それとも元々の好みなのかは判別できないが、圧迫されて眠るのが好きだ。
それは、あまり人並みの好みではないのだと知ってからも、それだけは変わらずにいる。
あの全身を包む安心感に、酷く安らぎを覚えるのだ。
康穂に言われて、一度だけマットレスの上に横になって眠ってみたことがある。
布切れだけの圧迫は無防備であるという現実感に、五分と耐えられずマットレスの下に潜ってしまった。

「あははッ!ほんと定助ってば変わってるんだからァ~!」
「そぉ~?」

康穂とともに杜王町の散策をしながら、駅近くのカフェに寄った。
アイスティーを飲む康穂の口元をぼんやりと眺めながら、マットレスの上で眠れなかったことを伝えた。
予想していた通りの反応をしてくれた康穂が、ニッコリと笑う。

「そうよ~!どうして、そんなに圧迫されたいのかしら?」
「圧迫されると安心するから、かな」
「定助は、いつも不安なのね」
「いつもじゃあないよ。康穂ちゃんが一緒にいる時は、不安なんかない」

テーブルの上に置かれたグラスを両手で包んでいた康穂の細い手を、その上からぎゅうと握りこんだ。
グラスから手を外し、手を重ねる。
少し水気を帯びた彼女の掌と、自身の掌が吸い付くように重なりあう。
隙間なく、ぴったりと。
溶け合ったような感覚が、心臓の拍動を速めた。
温かい。可愛い。嬉しい。
触れあう熱によって、目の前の彼女に対する幸福な感情が溢れる。

「ち、ちょっと…恥ずかしいんだけど…」
「康穂ちゃんと、もっとくっついてみたい。康穂ちゃんと一緒にいると、とても安心する」
「もう!嬉しいけど、恥ずかしいからッ!!」

そう抗議すると、するり、と彼女の手がすり抜けてしまった。
消えてしまった熱を名残惜しく思いながら、ぐっと両手を握りしめた。
頬をうっすらと赤くして、康穂はそっぽを向いている。
彼女の熱が恋しい。もっともっと欲しい。
不安定な自分を安心させてくれる人。

カフェを出ると、陽が陰り始めていた。
もう少ししたら、彼女と別れる時間が来るのか。
…嫌だ。まだ彼女と一緒にいたい。
まだ東方邸に戻りたくない。
かと言って、あまり自分の家が好きではないらしく、彼女の家に行くこともできない。
別れが来るならば、どこか静かな場所で、ゆっくりと過ごしたい。
しかし、何も覚えていない自身がちょうど良くそんな場所を思いつくはずもなく、ダラダラと人の波を見つめるしかなかった。
諦めかけていた時、不意にポケットの中に入れていたスマホが振動した。
不審に思って確認すれば、いつの間にかナビが起動している。

『──ナビを開始します』
「なにィ?」
「定助?どうかした?」

ピコン、と目的地らしい場所が地図上に表示された。
説明したくとも、こちらも何が起こっているのか分からない。
訳も分からず、ひとまず康穂の手を引いてナビに従うことにした。
この『ナビ』が味方であることは既に経験済みだが、今回は何の目的があるのか不明だ。
ナビに従って道を進んでいくと、見覚えのあるマンションに辿り着いた。

「ここは『吉良』の…」
「どうして、ここに?用は無いはずでしょ?」
「…ねぇ、康穂ちゃん」
「なぁに?」
「もし、あの部屋に行くことができて、のんびりと過ごせるとしたら…一緒に来てくれる?」
「行くわ!」

何故、自身の願望と『ナビ』が連動しているのかは分からない。
それでも、恐らくあの部屋は静かなのだろう。
あの部屋は、家主を喪って、誰のものでもなくなった。
まだ吉良の気配の残るあの部屋が、静かに過ごせる希望なのだ。
エントランスを抜け、目的の部屋の扉に手をかける。
扉に鍵は掛かっていたが、初めて来た時に康穂が探したように扉の上の方を探ると、合鍵が見つかった。
合鍵を使って扉を開ければ、あれだけゴチャゴチャと荒らした部屋の中は片付けられていた。
荷物は少しばかり纏められているが、初めて訪れた時より幾分すっきりした程度の違いだ。

「半分はオレの家だから、ただいまで良いのかなァ?」
「いいんじゃあない?」
「オレがただいまって言ったら、康穂ちゃんは返事してくれる?」
「ここは定助とあたしの家じゃあないのに、あたしが返事をするのはおかしいでしょ」

もし、『ただいま』と言って、その言葉に返事をしてくれる人がいるなら、それはとても幸福なのだろう。
淋しいような気持ちになりながら、乱闘を繰り広げたソファーに座った。
そういえば、この部屋からは水兵服を持ち出した。
洗濯をすれば着回せる程度には確保したが、他の服はあるのだろうか。
クローゼットを開けてみたが、水兵服と帽子しか入っていなかった。

「水兵服しかないや」
「定助によく似合ってるわよ。他の服はイメージできないくらいにね」
「康穂ちゃんも似合うよ。着てみたら?」
「え、あたしィ?」
「うん。オレ、康穂ちゃんが着てるの見てみたい!」

素直に可愛いだろう、と思って懇願してみる。
几帳面に整えられた水兵服一式をクローゼットから取り出し、康穂の方に向けた。
しばらく頬に手を当てて唸っていた康穂が、渋々受け取ってバスルームの方へと移動していく。
見ちゃあダメよ!と牽制されて、大人しくソファーに座って待つことにした。
大人しく待ってはみるが、心はソワソワする。
きっと可愛いだろうな。抱き締めたら怒るかな。
あぁ、たくさんたくさん可愛いと言いたい。

「じ、定助ぇ…」

バスルームから声が聞こえ、返事もせずにバスルームへと向かう。

「康穂ちゃんッ!着た?見てもいい?」
「おっきいから…脱げそうなのよォ…」

恥ずかしそうに顔を赤くして、困っている康穂と目が合った。
ブカブカの袖から細い指先が少しだけ覗いている。
その指先は、ウェスト部分を握ってズボンが下がるのを堪えながら、白い腰が覗いてしまうのを懸命に防いでいた。
少し屈んだ姿勢のせいでたっぷりとした隙間ができている襟元からは、柔らかそうな胸元がちらりと見えている。
ズキュウゥゥン、と心臓が何かに貫かれた。
感情の爆発とともに、力強くぎゅうと抱き締める。
一瞬、康穂の身体が強張ったが、すぐに力が抜けて、ゆっくりと背中に腕が回された。
子どもをあやすように、ポンポンと背中を叩かれる。

──この世界で、唯一のひと。
大切な、特別な女の子。
不安定な自分に、安らぎをくれるひと。
ずっと。
ずっと、できることなら彼女に甘えていたい。

「…もう、着替えてもいい?」
「もうちょっと見てたいけど」
「満足したでしょ!絶対に下を見ないで、そのままリビングに戻って」
「はーい」

言われた通りに、そのまま康穂に背を向けるようにして向きを変える。
ちらり、と一瞬見えた足元には、ズボンが落ちていた。
真っ白な脚も、視界の隅を掠めた。
きっと抱き締めた時に脱げてしまったのだろう。
ほんの少し得した気分になりながら、再びソファーに座った。
ベランダからは、鮮やかな夕空が見えている。
そのうち、いつもの服に着替えた康穂が戻ってきた。
倒れるようにソファーに沈みこみ、支えるようにして自分の方に寄りかからせた。
触れあう肌から、彼女の熱が伝わる。
たったそれだけの接触で、全身を包まれるような安心感に満たされる。

「康穂ちゃんがいてくれるなら、圧迫がなくても眠れるかも」
「えぇ~?」
「だってさ、康穂ちゃんがいるだけで安心するから」

地面に埋まっていた自分を引っ張り出したのは、彼女だから。
彼女が、たった一人で。
全身で、助けてくれた。
だから、きっと圧迫されることは、彼女の温もりを想起するのかもしれない。
それは、自分にとっての忘れがたい安らぎ。

「定助ってば、やっぱり変わってるわねェ」

可笑しそうに笑う康穂の声が。
子守唄のように、心地よく響いた。
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