JOJO


まるで新たに生まれ直したかのように目覚めてから、すっかり時間が経っている。
何も覚えていない。何も持っていない。
…あぁ、名前はもらった。
大事な、大事なモノだ。

「…ジョースケ」

そう呟いて、首を捻る。
彼女が言うには、しっくりくるらしい。
何も覚えていないから、しっくりくるかは分からない。
でも、彼女がそう笑うなら、それでいい。

「S&W」

指先からシャボン玉が生まれ、ふわふわと宙を漂う。
これだけは、確かに持っていた力だ。
唯一持っていたものだ。
『奪う』ことに特化した能力。
使い方によっては便利だが、奪うという行為の印象は悪い。
与えてくれる方が、きっと好かれる。
自分の能力を否定するようなことを考え、思わず吹き出した。
なんて馬鹿なことを考えるのだろう。何の意味も無い。
だって、好かれたいのだ。
彼女に──彼女だけには。

ベッドとマットレスの隙間から抜け出し、水兵服に着替える。
考えていると会いたくなる。考えていなくとも、ふとした時に会いたくなる。
できることなら、ずっと一緒にいたいほど。
何も知らない自分の手を、彼女の滑らかな手が包んで、見覚えのない町を走るのが好きだ。
彼女の手が、どこかへ導いてくれる。
どこまでも、どこまでも行ける気がする。
ふわふわと揺れる髪も、時々振り返る柔らかな眼差しも。
自分だけの特別なモノ。
とても好きなモノ。

大弥から使用許可を得ている携帯から、会いたくなった彼女に連絡を入れた。
東方邸の入口で待ち合わせをして、最低限の荷物を持って屋敷を飛び出した。

「─康穂ちゃん!」
「定助!外で待ってたの?」
「うん、早く会いたくて」

息を切らせて走ってきていた康穂にニッコリと笑いかければ、蒸気して赤くなっていた頬をさらに赤くした。
熟れたリンゴのように美味しそうに見える。
躓いて腕の中に飛び込んできた康穂を抱き留めて、美味しそうな頬にかぶりついた。
甘い。本当に甘い果実のようだ。
驚いて固まる康穂の様子には気づかず、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
この温もりがとても好きだ。安心する。

「あ、当たっちゃってるってば…!」
「離れちゃうのォ?」
「誰かに見られたら恥ずかしいでしょッ!」
「そ~ォ?」

せっかくぴったりとくっついて身体が離れ、その隙間に淋しさを覚えた。
会えればいいと思っていただけで、特に何をする予定も無かったため、康穂に連れられて海岸線に訪れた。
ゴツゴツとした岩場と砂浜の境を歩きながら、波打ち際を目指す。
靴を脱ぎ捨て、波打ち際に飛び込んだ。
パシャン、と水が跳ね、再び水に溶ける。
少し温い海水を蹴飛ばしながら、砂浜からこちらをじっと眺めていた康穂を引っ張った。
健康的なすらりとした脚が海水に飛び込む。
海面の光がキラキラと瞬いて、その光を浴びた彼女はいつもよりも輝いて見えるから不思議だ。

「転んじゃったら、着替えなんて無いのよ?濡れるのは嫌」
「乾くまで一緒にいればいいよ」
「もう、そうじゃあないのよ…海水はベタベタするし、水着じゃあないと泳ぎたくないわ」
「じゃあ、今度水着で来よう。そしたら、濡れても平気だろ」
「…泳ぎたい季節になったらね」

泳ぎたい季節なら、今だって海で泳ぐにはちょうど良い季節のはずなのに。
それが彼女の照れなのだとは微塵も気づかず、水着を持ってくる約束だけを交わした。
だって、それがあれば海でも一緒にいられるのだ。
波間を歩いて、のんびりと水平線を眺めた。
流されないように手を繋いで、このままどこまでも行けるような気持ちに包まれる。

「康穂ちゃん」
「なぁに、定助」
「オレねぇ、康穂ちゃんと、ずっと一緒にいられたらいいなって思うよ。康穂ちゃんは優しくて、あったかくて、好きなんだ」
「…女の子にそんなこと言ったら、勘違いされちゃうわよ」
「康穂ちゃんにしか言わないよォ?それに、本当のことだもん」
「私だって嬉しいけど、きっと定助の『好き』とは違うわ」
「ええ~」

難しい、と文句を溢せば、呆れたように笑われた。
笑ってくれるならいいか、と。
伝わらなかった気持ちには蓋をすることにした。

サラサラと風に靡く彼女の髪が頬に当たって、くすぐったい。
それと同時に、ほんの少し甘い匂いが鼻腔を擽る。
シャンプーなのか、香水なのか。それとも彼女の匂いか。
何も持たない自分の中に、彼女の存在を明確に刻み込むように目を閉じた。

「定助?」
「もう一回抱き締めてもいい?」
「い、一回だけなら…」

細い腕を自分の方に引っ張って、しなやかな肢体を抱き締める。
隙間なくぴったりと触れあう肌が心地よい。

何をあげたらいいのだろう。
何を返したら、彼女の恩に報いることができるのだろう。
名前も、温もりも与えてくれた。
甘えることも許してくれた。
引き上げてくれた頼りない手が、いつも自分を導く。
優しい眼差しが、いつまでも見つめてくれる。
『奪う』能力しか持たない自分が、彼女に何かを与えることなどできるのだろうか。
──けれど、好きだ。とても好き。
この想いに偽りは無い。
自分の唯一のひと。一番特別な女の子。

「康穂ちゃんに、何をあげたらいいのかな」
「何もいらないわ。定助が私と一緒にいてくれるなら」
「うん、ずっといる。ずっといるよ」

決して、彼女からは何も奪わない。
誰にも、何も、奪わせない。
…そうして、いつの日にか。
与えてもらうばかりの自分が、彼女に何かを与えることができるだろうか。
この腕に、この胸にある、溢れんばかりの幸せを。
──腕の中に存在する彼女に、与えることができるだろうか。
7/11ページ
スキ