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「お前が惚れる相手は、どんなタイプだろうな」

琥珀色の液体の入ったグラスを振って、年長者のマイスターがにっこりと笑った。
平素はあまり口にしない軽い話題のように思った。
アルコールが入ると、口も軽くなるのだろうか。
地図から忘れられた孤島で、久しぶりの休暇を楽しんでいたロックオンが珍しく酒に口を付けたのは一時間ほど前だった。
急務な作戦は無く、ただ地上での待機命令だけが出ていた。
エクシアとデュナメスを眠らせているコンテナが置かれた孤島は、誰も訪れることのない無人島だ。
整備の為に宇宙から降りていたイアンだけが、忙しそうに動いていた。
そのイアンが、スメラギからの差し入れだと言ってアルコールを持ち帰ってきたのが数日前だった。
それを聞いたロックオンは、「ありがたいな」と笑いながら、決して口にしようとしていなかったはずなのだが。
元々、休息時間とはいえ待機中に飲酒をするようなタイプではない。
よほどの余裕があると踏まなければ、彼がアルコールを摂取する姿は見ることはない。

「…他人に興味はない」

ひとまず先の質問を適当に流し、普段とは違う年長者に視線を向けた。
コンテナ内に横たわる機体を見つめながら、空になったグラスを玩んでいる。
血色の良くなった横顔に視線を向けていれば、よく目にする困ったような笑みを浮かべた。

「…友人なり、恋人なり、家族がいる世界は良かったな。愛する人間と生きているうちは、何があっても幸せなように思えた」
「…誰かと生きていても、不幸な時は不幸だろう」
「そうだなぁ…オレはお前の過去を知らないが、家族といた時は、不幸なことも幸せに変えられる気がしてたのさ。ま、あの頃はガキだったしなぁ」

彼の愛する家族は、既にこの世にいないらしい。
CBに参加している者の多くは、愛する者を喪ったか、己の存在意義を見失った人間なのだと聞いた。
抱えきれぬ痛みをひた隠して、戦争根絶という壮大な目的の為に生きている。
その一人であるロックオンは、家族を喪って、世界が一変したように思ったのだと語った。
彼の珍しい姿の原因は、家族の夢でもみたのだろうか。
懐かしく、二度と戻らぬ過去を思い出し、アルコールを使って気持ちの整理をしているのかもしれない。
彼の過去は、満たされたものだったのだろうか。
両親をこの手で屠った己とはまったく違う。
神への信仰という洗脳の下、何も知らないままに自らの手で、彼の言う幸福を捨ててしまった。
家族の温もりは、とうに忘れてしまった。
同じ境遇に陥った友人たちは、偽りの教義を信じて死んでいった。
気づけば一人だった。
温もりの熱さを忘れてしまったまま、居場所を失くした世界で生きている。

「お前は手の掛かる弟みたいなもんだしな。刹那にも、心を許せる相手ができればいいと願ってる」
「……心を、許せる相手…」
「恋人なんかできたらいいんじゃないか?誰かと同じ未来を共有するってのも悪くないぞ」
「…未来を考えられるほど生きているとは思えないが」
「ハハッ、そりゃそうか。ま、想像するのも無駄じゃないさ」
「─なんだ、随分楽しそうじゃないか」

呆れたような声とともに、メンテナンス作業を終えたらしいイアンが休憩スペースに顔を出した。
メンテナンスはあらかた終わったらしく、残りは起動させてからの調整になるとのことだった。
既に陽は落ちており、とうに夜を迎えていたようだ。
コンテナ内の薄暗い環境に慣れてしまったせいか、時間感覚が曖昧になっている。
疲れた顔をするイアンに、ロックオンが別のグラスを用意する。
嬉しそうに笑ったイアンが受け取ったグラスに、琥珀色の液体が注がれた。

「疲れた後の一杯は最高だな」
「お疲れさん」
「で、何で盛り上がってたんだ?ワシにも教えてくれ」
「あぁ、刹那の恋人ならどんなタイプがいいかって話さ。おやっさんはどう思う?」
「そりゃまた随分な難問だな」

本人を置いて盛り上がる年長者たちを見やり、そっと嘆息した。
興味も、実感も湧かない話題だ。
他人に興味はない。
誰かを理解しようとも、誰かに理解してほしいとも思わない。
自分のやるべきことだけをやって、それで死ぬだけだ。
二人の話題に興味を失い、ひっそりとコンテナを出た。

コンテナの外では晴れ渡った星空が広がり、明かりが無くてもうっすらと辺りが見渡せる。
生い茂る木々の隙間を通り抜け、海岸を目指して進んだ。
波の音が静かに響き、星の輝きを受けて、水面が仄かに揺らめく。
水気を帯びた湿った風が、緩やかに全身を包んだ。
故郷に吹く風は、砂塵を含む渇いたものだった。
赤茶けた大地は、人が生きていくことを拒むような厳しい環境であった。
消された故郷を思い出し、それと同時に異国の地で出逢った彼女の姿を思い描いた。
夜の闇によく似た黒い髪が靡く。
憂いを帯びた碧い瞳は、悲しげに瞬いていた。
理想だらけの甘い言葉。
そして、その声が記憶の奥底を揺さぶるのだ。
母の声。彼女の声。
同じ声が、己を否定する言葉を紡ぐ。
戦うことしか知らない己に、戦うなと説く。
戦うことに意味を見出だす己に、戦いは何も生まないと説く。
…そんなことはない。
痛みも、悲しみも。
きっと戦うことを忌避する為のキッカケになるはずだ。
戦い以外の方法で、意思を統一していく方法を模索できるだろう。
無駄ではない。
この命が散ったとしても、すぐに世界が変革できなかったとしても。
いつか来るべき時に、自分たちが願った世界になればいいのだ。

──理解してほしい。
そう思った自分の考えが、一瞬理解できなかった。
他人に興味はない。
己の組織の目指すものも、己の戦う意志も、誰かに理解してほしいと思ったことはない。
それなのに、彼女に、理解してほしいと思った。
己の生き様を、覚えていてほしいのか。
何の力も持たず、理想だけの甘い彼女に。
己を見つめた眼差しの柔らかさが、妙に頭に残っている。
優しくて、暖かくて。
ほんの一瞬向けられた温もりに、心が揺らいだ。

「……マリナ・イスマイール」

忘れぬように、呪文のように何度も唱えた名前を紡ぐ。
これは好意ではない。
それでも、彼女の存在は別格になっている。
特別視しているのか。
いや、気になると言えばいいのか。
空っぽになってしまった己に、彼女の柔らかな慈愛が向けられたなら。
変われる気がする。
破壊者だけではなくなれるだろう。
戦うことの意味を明確にできるかもしれない。

『お前が惚れる相手は──』

ロックオンの言葉が甦る。
いや、これはそんなものではない。
そんなものではないが、安っぽい惚れた腫れたではない。

「…これは」

上手く言葉にできず、唇を噛み締めた。
深淵のような海面の向こうに、こちらを悲しげに振り返るマリナの姿を幻視した。
上手く言葉にできない己を嗤うように、白波がズボンを濡らして引いていった。
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