誕生日


花が咲いたな、と。
クアンタのサポートのために三十cm程度のホログラムとなったティエリアが呟いた。
ELSとの対話のために外宇宙に旅立って数年…数十年は経ったのだろう。
人類がイノベイター、イノベイドともに生き、宇宙に進出するための準備を始めたと聞いたのはいつだっただろうか。
深く広い宇宙を旅して、人間としての時間の感覚は薄れている。
数日も、数年も変わらない。
ただ時間という概念から解放されている。
星の海を飛んで、その煌めきに照らされながら、徐々に人間ではなくなっていった。
人の形をした別の生物とでも言うのか。
それとも、まだ人なのだろうか。
意識はハッキリとしている。
ただその中に、時々ELSと名付けられた異星体の声が混じる。

「…どこに花が咲いたんだ」
「君のよく知る土地だ」
「アザディスタンか…」

端正な顔に穏やかな笑みを浮かべるティエリアを一瞥し、モニターに表示された地球のニュース映像を確認する。
ニュースのテロップにはアザディスタンの名前が並び、映し出されたアザディスタンの様子は、かつて見た景色よりも活気があった。
己が覚えている頃のかの国は、経済が傾き、テロが横行し、街は幾つもの黒煙と爆発で荒れていた。
彼女の統治下で、かの国は変わったのだろう。
青い空の下には、黒煙が上がることもなく、崩壊した建物もない。
その地で生きる民は、笑みを浮かべている。
かつて数回訪れた王宮は概ね昔の記憶のままであったが、そのバルコニーに立って演説する人物はまったく知らなかった。
己の記憶の中にいる人は、艶やかな黒髪を靡かせ、海のように蒼い瞳に優しさを湛えた彼女だけだ。

「彼女は…」
「マリナ姫はまだ存命らしい。郊外に居を移したとのことだ」

彼女が、今もかの土地で生きていることに安堵した。
長い時を経ても、心の奥底には彼女が存在している。
忘れられず、この長い旅路の中で彼女の面影を想い描くこともあった。
それでも、地球を旅立ってから、彼女に逢いたいと願うことは止めた。
未知への旅路であり、二度と地球に戻ってくることはないと思っていたのだ。
仮に戻れたとしても、既に彼女はこの世の存在ではないのだろうと考えていた。
それなのに──
戻れるというのか。
ずっと焦がれ続けた彼女のもとに。
久しく忘れていた喜びが、静かに胸を満たしていく。

ティエリアがモニターを操作し、ニュースのアーカイブから何かを探し始める。
これだ、と呟いたティエリアが画面に表示したのは、アザディスタン郊外に鮮やかな花畑が生まれたというものだった。

「君も知っている通り、中東方面は植物が育ちにくい土地だった。マリナ姫は、世界から援助を受けて土壌改善の政策を進めたそうだ」
「あぁ…彼女は、そう言っていた」

──いつかこの国にもたくさんの花が咲くわ。
──その景色を貴方にも見せてあげたい。

あまり見ることのできなかった、嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
そんな夢みたいな景色を目にすることができたら、どれだけ良いだろうかと思った。
そして、きっと彼女は実現するだろうとも確信していた。

「刹那、君はもう自由に生きていいんだ」
「もう十分だ」
「いや、僕は、君にはあの人の存在が必要だと思う。だから、僕は君があの人のもとに還ることを願う。還るんだ、刹那」

──緑が満ちたこの国を、いつか…見に来て。
──私の誇らしい祖国を、貴方が生まれた大地を。
──貴方とともに、見たいの。

遠い記憶の中で、彼女の声が甦る。
彼女との約束を増やしたことも。

「還ろう、刹那」
「…あぁ」



地球に帰還すると、五十年という月日が経過していた。
アザディスタン郊外に建てられたこじんまりとした家には、ずっと焦がれていた彼女が暮らしている。
彼女のもとに還って、彼女とともに暮らし始めて数日。
渇いた砂の匂いしかしなかった土地には、青々とした瑞々しい匂いや、華やかで甘やかな花々の匂いに満ちている。
ELSとの同化により、五感の鋭さは増している。
己を取り囲む世界をありありと感じ、生の感覚が曖昧な己の輪郭を確かなものにしてくれるようだった。

「刹那、少し外に出ましょうか」
「あぁ、君の自慢の花畑が見たい」

年を重ね、艶やかだった彼女の黒髪は、白銀に変化した。
それでも、ほどかれた髪が揺れる様は、昔の面影を纏っている。
彼女の手が己の腕に触れ、支えとするように少しだけ体重がかけられた。
盲いた彼女の手は、重ねた日々が皺となって柔らかに刻まれている。
その柔らかな手に己の手を重ねると、自然と口元が綻んだ。
触れることに怯えていた。
傷つけることしか知らなかったから。
他者に触れることは怖くないのだと、彼女と出逢ったからそう思えるようになったのだ。
彼女が転ばぬように気を配りながら、小高い丘に小道をゆっくりとした足取りで進んでいく。
花を宿したクアンタが、色鮮やかな花畑の中に鎮座している。
その大きな影の下に入り、彼女をクアンタの手のひらに導く。

「…空から花畑が見れたなら、きっと美しいんだろうな」

ぽつりと溢した声に、声にならぬ音が身体の中から返事をした。
『飛ぼう』と。
己とも、愛機とも融合したELSの意思だったのだろう。
鎮座しているクアンタが、ゆったりとした動作で動き出そうとしている。

「マリナ、少し揺れるから気をつけてくれ」

首を傾げた彼女の身体を支えるように傍に寄り添い、徐々に地面から持ち上がっていくクアンタの指先に掴まった。
風が吹いて、色とりどりの花弁が空に舞う。
完全に立位を取ったクアンタの両手のひらで、地平線まで広がっているように思える花畑を見下ろした。
眼下に広がる光景は、彼女が望んだ世界そのものだ。
ともに見たいと約束され、本当に実現するなどと微塵も思っていなかったのに。
彼女の身体を支えていた己の手に、誰よりも幸福でいてほしいと願った彼女の手が重ねられる。
たったそれだけのことで、目頭が熱くなった。
流れることもないかと思っていた涙が、ぽろぽろと溢れていく。
…嬉しい。
あぁ、とても幸せだ。
こんな日がくるなんて、考えたこともなかったのに。
叶わないはずの夢だったのに。

「ねぇ、刹那」
「あぁ」
「…幸せでも、泣きたくなるのよ。貴方がいることが、本当に嬉しくて…」

涙を浮かべながら微笑む彼女の姿は、何よりも眩しい。
ただただ愛おしいという想いが溢れる。

「…君のもとに還ってきて、本当に良かった」

幸せだ、と。
ただそれだけを思った。
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