誕生日


祖国の位置する大地は、生命の輝きを喪った荒野が広がっている。
水は枯れ、渇いた砂の広がる寂しげな土地だ。
その大地に応じた細々とした営みを根付かせてきたが、世界情勢の変化とともに、その営みを続けていくことは難しくなった。
それでも、世界が変わり、祖国への厳しい弾圧が終幕した。
再び大地とともに生きていく民としての誇りを取り戻したのだ。


久しぶりに踏んだ祖国の土を、不思議な心持ちで踏み締めた。
そう、正確に言うならば、ここは祖国では無い。
己の祖国は、既に滅んだ国なのだから。
隣国に吸収されたというのが歴史上は正しいのだろうか。
手付かずのまま残存している地区もあるが、それもいつかは無くなってしまうだろう。
民族同士の対立は、愛すべき大地を破壊し、その地に生きていた民を殺し、果てには世界の輪から外されるまでに発展した。
その紛争の結果、豊かとは言えずも静かな生を送れていたはずの大地は、何も生まない涸れた大地に成り果てた。
祖国の名は無くなり、誰も寄り付かぬ土地だけが残った。

「ねぇ、お兄ちゃん」

ぼんやりと景色を眺めていた己に、不意に声がかけられた。
年端のいかない少年が、キラキラと瞳を輝かせている。

「お兄ちゃんは旅のひと?」
「…あぁ」
「そうなんだ!今日ここに来てよかったね。今日はマリナ様がまちに来てくれるんだって。お兄ちゃんもマリナ様に会えるといいね」

母親らしき女性に連れられ、手を振る少年が離れていく。
祖国を吸収したはずのこの国も、長い間苦しんできたのだ。
ようやく苦しみから解放されて数ヶ月。
どれほど貧しくとも、民には新たな希望が生まれたのだと言う。
その希望は、本当はもっと以前から誕生していたのだ。
王政を復活させた老人たちが選んだ彼女こそ、この地の安寧を願い、それ故に傀儡に成らざるを得なかった皇女なのだから。
孤軍奮闘し、一度は国を喪いながらも、彼女は彼女の目指すものを求め続けた。
その結果が、今のこの国の姿なのだ。
民が希望と呼び、敬愛する彼女が、ただずっと一人きりで祖国を想っていたことを知っている。
互いの願いを知りながら、決して同じ手段を選べなかった。
彼女の選んだ道の結果が今の姿なら、やはり彼女は間違っていなかったのだろう。

宮殿へと続く道から街の広場にかけて、続々と民が集まってくる。
暫くすると、人混みの彼方からざわめきが広がり、浮き足立っていた民たちから歓声が上がり始めた。
子どもたちは無邪気にはしゃぎ、神の教えを守り続ける信心深い老人たちが静かに頭を垂れている。
人混みの隙間から、宮殿の方角から来た車から見知った人物が降りてくるのが見えた。
艶やかな黒髪が流れ、上質な布で織られた民族衣裳が揺れる。
澄み渡る青空を溶かし込んだ青い瞳と、一瞬視線が絡んだような気がした。
民の歓声に驚き、嬉しそうに笑みを溢す姿は、己がずっと待ち望んでいた光景だった。
幸福感のような、満足感のようなものを抱え、人混みに紛れ、静かにその場を後にした。



世界が寝静まり、昼間の熱気が嘘のように穏やかな夜を迎えた。
久しぶりに降り立ったテラスは、以前と何も変わっていない。
一国の主として、もう少し自身の身の護り方を考えた方が良いのではないだろうか。
侵入者を拒む罠がある訳でもなく、警報が鳴る訳でもない。
僅かな鍵だけが、彼女の命を守るものだ。
そんな鍵でさえ、簡単に開けることができてしまうのだから。
月光に照らされた己の影が、緩やかに室内へと伸びていく。
天蓋に守られた寝台へと影が重なる間際、視界の隅に微かな動きを捉えた。

「……刹那…?」

懐かしい声が響き、青い瞳が己を見つめている。
身体を起こしたマリナが、天蓋の隙間から顔を出した。
まるで星の瞬く夜空のような深い光沢を持った黒髪が揺れ、彼女の動きに合わせてゆったりと流れていく。
その動きを目で追っていると、目の前に立ったマリナの手が頬に添えられた。
嬉しそうに微笑む姿が眩しい。

「ふふ…貴方との再会は、いつも唐突ね」
「…君が、俺に気づいてしまうから」
「そうね、何となく…貴方の気配は分かるの」

むず痒い。
彼女の言葉も、笑みも。
この居心地の悪さを生むのは何故だろう。
彼女に対する負の感情は無い。
むしろ尊敬し、護りたいと思う。
だからきっと、それは己のせいなのだろう。
己の心の裡さえ把握できない己の不甲斐なさのせいだろう。

「街で、緑を増やそうとしていると聞いた」
「えぇ…植物どころか人が生きていくのも精一杯の土地だけれど…世界からの援助もあって、土壌の改善を行えることになったの。すぐにはできないけれど、いつかこの国にもたくさんの花が咲くわ」
「そうか」
「そして、その景色を貴方にも見せてあげたい」
「そう、だな…」

この渇いた大地に瑞々しい緑が満ちるには、時間がかかるだろう。
その間、再び戦争が起こらないとは限らない。
未知の脅威が訪れるかもしれない。
そうなれば、己は戦うだろう。
その果てに、命を落とすかもしれない。
生きていたとしても、この地を踏めるかも分からない。

「私には、貴方がどこにいるかは分からない。手紙を書いて報せることもできない。でも…貴方を想って祈っていれば、きっと貴方に届くと信じているの」

頬を撫でていた手が離れ、両手を掬われる。
そっと重ねられる両手に、彼女の祈りが込められているような気がした。

「…貴方との大切な約束を、増やしてもいいかしら」

彼女との約束は、彼女が慈しむ孤児たちとともに作った歌を、いつか再び聴かせてもらうことだ。
結局、その約束を果たすことはできていないが、さらに約束を増やすのか。
待たせてしまうだけだろう。
果たせる日がくるだろうか。

「緑が満ちたこの国を、いつか…見に来て。私の誇らしい祖国を、貴方が生まれた大地を。貴方とともに、見たいの」
「……あぁ、いつか」

彼女が、この国の姫なのだ。
己の祖国も、彼女の愛する国の一部になった。
そして、彼女はいつまでも祖国を愛するのだ。
報われぬことの多い土地ではあるが、彼女がいる限り平和な国になるだろう。

けれど。
ここには、何も残してはいけない。
己が残滓も残せない。
世界の影に身を潜めると決めたのだから。
何も持ってはいけない。
──果たせるかも分からぬ約束だけを抱えて、彼女の手からすり抜けた。
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