誕生日


端末に表示された日付を見て、子どもの頃は何を思っていたのかと、遠い昔の日々を懐かしんでいた。

何も無い枯れた土地だった。
何も無い日々の中では、両親の温もりだけが唯一のものだった。
それすら喪って十年以上が過ぎていた。
喪った代わりに得難いものを手に入れてはいたが、それでも郷愁を感じることはある。
おめでとう、と祝福の言葉を投げ掛けられる度に、ふと故郷の地で生きる彼女の面差しを思い浮かべていた。
得難いものの中に、彼女は含まれていない。
含んではいけないのだ。
決して、縁を深めることを肯定されない関係であるのだから。
そう理解して、そう心がける度に。
彼女は、いつも宙ぶらりんな存在として俺の心の片隅に静かに眠っている。
消すこともできず、受け入れることもできず。
酷く中途半端な存在として、傷痕のように存在を主張する。

地上に降りることはしなかった。
彼女に会いたいと、そんな風に思う自分の気持ちの揺らぎが理解できなかった。
会ったとしても、きっと何もできないと分かっていた。
言葉を交わすことは苦手だ。
想いを察することも、それを表現することも。
…会いたい。
否、会ってはならない。
気持ちの安定を失い、なんとなく落ち着かない。
仕方なく自室で体を横にしてみたものの、やはり眠れそうにもなかった。
目を瞑ってみたが、それも効果は無さそうである。
無意味に端末を操作すると、表示されたニュースの小窓に、ふと彼女の姿が映った。
その儚げな姿に、その白い頬に指先を滑らせ、言い知れぬ感情を押し殺した。

「…マリナ」



生きていることが、不思議なことのように思えた。
乾いた大地の感触。
ざらついた風。
戦争が終結し、組織が世界から姿を消して数ヶ月。
かつて数回訪れた彼女のいる王宮に再び足を向けた。
最後のつもりだった。
もう二度と訪れないつもりだった。
久しぶりに降り立ったバルコニーで、心なしか速くなった心拍に首を傾げる。
心臓を押さえるように胸に手を当て、深く息を吐き出した。
彼女との再会に何かを期待している自分を無意識に見て見ぬふりをし、月光を背に浴びながら、音を立てずに彼女の私室に足を踏み入れた。
天蓋の薄いヴェールの向こうに横たわる姿を見つめる。
生きている。
ただ、それだけでいい。
気配を感じたのか、影がゆっくりと体を起こす。

「刹那…?」

己を呼ぶ微かな声。
久しぶりの声に、誘われるように静かに側に歩み寄った。
ヴェールの隙間から、懐かしい彼女が姿を現す。
驚いたような眼差しが、まるで来ては行けなかったような反応に見えた。
…分かっていたことではないか。
それでも、初めて見るその様子に、自身の表情が曇るのを感じた。

「…すまない」
「っ、刹那、待って…!」

踵を返そうとした俺の服を掴み、彼女は慌てたように制止の声を上げた。
立ち止まり、彼女の方へと顔を向けると、安心したように微笑んだ。

「ずっと貴方を待っていたの。けれど、貴方の消息が分からなくて、諦めかけていたところだったから…会えて嬉しいわ」
「……何かあったのか?」
「えぇ」

僅かに顔を引き締め、彼女と向かい合うように立つ。
何でも話してくれと目で指示をし、静かに彼女の言葉を待った。
そうすると、彼女は嬉しそうに微笑み、武骨な俺の手を包み込んだ。

「刹那、貴方の誕生日が近いのね。先日、貴方の組織の人から連絡が来ていたから」
「誕生日…?」
「もしも会えたなら、是非貴方を祝福したいと思っていたの」

端末の日付を確認する。
確かにかつて祝福された日付の付近である。
何故、仲間たちはそんなことをしたのだろうか。
祝福してくれるのは、仲間だけで十分ではないか。
彼女の存在は、今でも曖昧なままだ。
救ってくれた人。
護りたい人。
生き方を、示してくれた人。
そして、己の生き方を否定する人。

「…何故、マリナが俺を祝福したいと思うんだ?」

疑問に思ったことをそのまま言葉にすると、マリナは悲しげに眉を歪め、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
酷いことを言ってしまったのではないか、と。
その一瞬で後悔した。
弁明する言葉も浮かばず、唇を噛み締める以外の対応ができなかった。

「…私を幾度も救ってくれた貴方を祝福したいと思うのは、貴方にとって迷惑だったかしら…?私にできることはほんの少ししかないけれど、貴方の望みを叶える手伝いができればと思って…」

ささやかな笑みが彩っていたはずの表情は曇り、ついには俯いてしまった。
彼女の好意を不躾に踏みにじってしまった自身のあまりの無神経さに苛立ちながら、彼女の気持ちに心から感謝した。
与えられるわけがないと、初めから諦めていたのだ。

「…すまない…いや、ありがとう。だから、泣かないでくれ」
「…貴方を、祝福してもいいかしら」
「マリナが、そう望むなら」

深い海のような碧い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
かつて──その瞳を拒絶し、受け入れ、縋った。

「貴方は──何を望む?」

碧い瞳に月光の輝きを宿し、白銀の光を全身に浴びて佇むマリナが、まるで物語に出てくる女神のような問い掛けをする。
何を、望んでいるのだろうか。
──戦争のない、平和で優しい世界。
そう言おうとし、まるでそれを予期していたかのように彼女は苦笑して先に遮った。

「ふふ、私にできるささやかなことだけよ」
「……思いつかない」
「それなら…」

部屋の奥へと移動するマリナの背中を眺めていると、カチャカチャと微かな音が聞こえる。
二人分のカップとティーポットを持って、楽しそうに微笑むマリナは、それを寝台の脇のテーブルの上に置いた。
ティーポットからカップに注がれた液体は紅茶のようであり、深い光沢を持ってゆらりと揺れた。
芳しい香りと温かさが、じんわりと胸に沁みる。

「貴方と美味しい紅茶を飲んでみたかったの。ゆっくりとした時間を取って、貴方のことも、私のことも話してみたくて。今できるのはこれくらいなのだけれど…他に何かあるかしら?」
「……」

─無い。
そう言おうとして、言葉にはならなかった。
視界が少し滲んで、ぼやけている。

ようやく、彼女を受け入れられる。
俺を知りたいと願ってくれる人。
肯定も、否定もしない人。
ただ、在りのまま受け止めてくれるのだ。
得難い人。
得難い存在。
いつまでも、どんな時でも。
きっとこの胸の奥に存在し続ける。
己を認め、愛してくれる存在として。

「…いらない」
「え…」
「マリナが生きているなら、それだけで満足だ」

己の生に意味を見出だし、認めてくれるなら。
己を愛そうとしてくれるなら。
彼女が生きているという事実だけで、自身の過去も、未来も受け止められる。
たとえ傷つき続けたとしても、道を見失ったとしても。

「貴方には、もっと願う権利があるのに」
「願ってもいいなら──いつか再び出逢えた時に、もう一度俺の名前を呼んでくれ」
「えぇ…声が嗄れたとしても、何度でも呼ぶわ」

彼女の腕が伸びて、柔らかに頬を撫でた。
この感触を忘れてしまわぬように願いながら。
永久の別れを覚悟して、静かに故郷の地を去った。
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