機甲猟兵メロウリンク


戦場から身を引いて、一週間程度は経ったらしい。
荒野を歩き、比較的人の多そうな街に着いたのは二、三日前だ。
その間、街のそこかしこに置かれたラジオやテレビからは、百年戦争の停戦が破られたことが流れている。
戦場に身を置き続けた兵士としての魂は、その不穏な空気に時折ざわめいた。
それでも、ライフルを手離し、軍から完全に身を引いた己は、過去の己とは違っている。
何より、気ままな一人旅ではなくなったからだろう。

「坊や!」

甲高い声が、喧騒の中から突き抜けるように響く。
声のした方に顔を向ければ、嬉しそうに笑みを浮かべたルルシーが宿泊施設らしい建物の入口で手を振っている。
彼女を目指して人の波をすり抜けて、目的の場所に合流した。

「部屋も取れたし、もう休みましょ」
「あぁ」
「もうちょっと喜びなさいよ。いい加減ちゃんとお風呂に入らないと匂いが心配よね。水で流すだけじゃ限界があるもの」
「そうか?」
「当たり前でしょ。坊やもちょっと臭うわよ」
「…気にしたことがないな」
「これからは気にしなさい」

砂と、血と、油と、鉄と。
こびりついた匂いは、どれだけ綺麗に流したところで消えはしないだろう。
己の匂いは、そうしたもので成り立っているのだと思う。
長らく愛用している外套に鼻を寄せてみたが、特別臭いと思うようなこともない。
先の戦闘の名残で、多少火薬と血の匂いが残っているくらいだ。

「先に買い物だけしなきゃね。着替えも化粧品も、その他何も無いんだもの」

復讐の果ての生き方など考えたことがなかった。
武器ばかりに金をかけて、それ以外は僅かな路銀と食糧しか持ち歩いていない。
金銭面は彼女の方が余裕がある。
しかし、思い出の家も失くなり、着の身着のまま家を出たこともあり、彼女の方は何も無いらしい。
なんとなく男よりも女の方が必要なものは多いのだろう、と。
その程度に考えていた。
服、化粧品、その他細々としたもの。
さすがに宝石類の装飾品は我慢したと言ってはいたが、それでもポンポンと買い物袋を増やしていく光景には辟易した。
女の買い物は長いと言っていたのは、小隊の誰だったろうか。

「…ルルシー、そろそろ持ちきれないんだが」
「あらあら、久しぶりだったから買いすぎちゃったわね。ごめんごめん、帰ろっか」
「そうしてもらえると助かる」

宿の手続きは彼女に任せ、先にキーを貰って宛がわれた部屋に向かった。
食事は注文すれば部屋に持ってくるのだと言っていた。
ベッド二台に簡素なテーブルと椅子が二脚、そしてシャワールーム。
二人用とはいえお世辞にも広いとは言えない。
ただ眠るためだけの空間のようだ。
値段が比較的安いと言っていたから、こんなものが妥当なのだろう。
買い物袋を置くと、ベッド一台の半分以上が埋まった。

「…買いすぎなんじゃないのか?」
「ちょっと、坊やの分も含まれてるんだからね」
「オレの?」
「着替えは必要でしょ。あとはタオルと、救急用品が少し」
「それはありがたいが…他は君のだろ?」
「女の支度には色々必要なの」

袋一つに纏められた衣類を渡され、仕方なく椅子に腰を下ろした。
袋を開け、荷物の整理を始めた彼女の背中を眺める。
風呂に入りたいと騒いでいたのは彼女だ。
先に入ったらどうかと声をかけようと思ったが、買い物の片付けにも時間はかかるのだろうか。
安全確保がてらシャワールームを覗けば、浴槽が付いていた。
湯を張っておけば、そのうち勝手に入るだろう。
掃除はされているらしく、サッと水で流すだけですぐに使えそうだ。
栓をして、蛇口を捻る。
勢いよく湯が出て、鈍い音を立てて湯が溜まっていく。
こういう光景も、随分と久しぶりな気がする。
お尋ね者になってから、こうした人並みの生活は縁遠いものになっていた。
隠れて、身を潜めるのが当たり前だった。

「あら、お風呂の準備してくれたのね。気が利くじゃないの、坊や」
「好きに入ってくれ」
「お言葉に甘えて先に頂くわ」

シャワールームに背を向けて、じっと静まる。
鼻歌混じりに支度をする彼女の嬉しそうな気配が、背後でくるくると動いている。
シャワールームの扉が閉まり、微かに衣擦れの音が聞こえる。
湯船に浸かり、水の跳ねる音。
反響するように響くご機嫌な鼻歌。
暫くすると、浴槽から出る気配とともにシャワーが流れ始めた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、意識をしないようにすればするほど、意識はそちらに向いてしまった。
戦場では褒められた五感の鋭さも、今この場では逆効果だった。
しっかりと捉える音は、否が応にもその光景を描かせようとする。
いっそ部屋から出てしまうか。
否、その間に彼女に何かあったらどうする。
進退窮まるとはこの事だろうか。
まさしく拷問だ。
彼女とともに過ごす時間が増えてからも、じっと彼女を見ることは多くない。
口下手なのを自覚しているから、彼女の反応を読むために表情を捉えようと見つめることはある。
一緒に過ごして、手を取ることもある。
彼女の白い手を目にすることもあるし、無防備に晒される白い脚も視界に入る。
ただ、それは一瞬のことなのだ。
目に入ったら、すぐに逸らすようにしている。
頬に熱を持つことを自覚する度に、浅ましいと自己嫌悪するのだ。
彼女は恩人で、気になる人で、特別な人だと思う。
己の浅ましさで、彼女を傷つけるのは嫌だ。
─白い肌に、水滴が踊る様。
─しっとりと濡れた髪から、水滴が滑る様。
音がもたらす情報が、余計なことを想起させる。
あぁ、熱い。
こんなことなら、一人で良かったのに。

「──メロウ」
「……っ!」
「あなたの番よ…って、そんなに縮こまってどうしたの?具合でも悪いの?」
「い、いや…っ、な、何でもない…すぐに入る」
「ゆっくり浸かって、ちゃんと綺麗にしなさいね」
「分かってる」

湯上がりの火照るような熱と、清潔で甘やかな匂いを纏った彼女には目を向けず、逃げるようにシャワールームに向かった。
白いローブのようなものを着ていた。
少し開いた胸元からは、血色の良い、淡く色づいた肌が覗いていた。
たった数秒のすれ違いで、余計な情報ばかりに意識が行ってしまった。
自己嫌悪と雑念を払うため、ぬるめの湯温にしてから勢いよく蛇口を捻った。
頭からぬるいシャワーを浴びて、必死に頭を振る。
全身に湯を浴びて落ち着きを取り戻すと、すっかり服を脱ぐのを忘れていたことに気づいた。
シャツとズボンを脱ぎ捨て、今度こそ湯船に浸かる。
熱めの湯がゆったりと全身を包む。
血が巡り、トクトクと脈動している。
気を張って強張っていた筋肉がほぐれていく。
余計なものが流れ出ていくようだ。
気持ち良く浸かっていると、不意に扉が開いた。

「坊や、綺麗にするわよ」

白いローブを着て、少し水気の残る髪を団子に纏めたルルシーが立っていた。
タオルを数枚持って、腰に手を当てて仁王立ちしている。

「──は?」
「坊やに任せてたら適当に済まされそうだから!せっかくのお風呂なのよ!ちゃんと綺麗にして、新しい自分になりなさい」
「待て、待ってくれ…!やる!ちゃんとやるから!」
「ほら、お姉さんに任せなさい」

浴槽に浸かっている己に向けて、シャワーが向けられた。
彼女が纏っているのは薄手のローブだ。
ここで暴れれば、彼女のローブが濡れて、視覚情報が大混乱を来すのは容易に予測できる。
かといって、大人しく洗われるというのもおかしな状況なのだ。
何なのだ。
訳が分からない。

「メロウ」
「ぐ…っ」
「大丈夫、変なことする気はないわ。ね、安心して」
「そういう問題じゃ…っ」

水気を帯びた緑の瞳が、じっと見つめている。
室内の光を浴びてキラキラと揺らめく。
この瞳には、敵わない。
己を見つめるこの瞳に、安らぎを見出だしているからだ。
最後の抵抗として、彼女にぐるりと背を向けた。
もう何が起こったとしても知るものか。
我慢している己が馬鹿みたいだ。
抵抗を諦めたことを察したらしく、頭から湯がかけられた。
細くしなやかな指が、頭皮に触れる。
シャンプーのひやりとした感覚と、泡立つ音。

「男の子にしては甘い香りかもしれないけど我慢してちょうだい」
「…匂いは何でもいい」
「私とお揃いだから、喜んでくれても良いわよ」

泡立つにつれ、甘さの強い匂いが鼻腔を掠めた。
匂いの強い花だろうか。
それとも、香水の類いだろうか。
砂も、血も、錆びた匂いも。
湯とともに流れ落ちて、甘い香りが上書きされていく。
しなやかな指が頭皮を擽るこそばゆい感覚。
もっと力を込めてほしいが、強すぎては良くないのだと窘められた。
こそばゆくて、むず痒い。
伸ばしっぱなしにしている髪を梳き、時々彼女の指が項を掠める。
急所を他人に触れられている。
無防備に背中を向け、首を晒して。
それなのに、緊張感は無い。
彼女の楽しげな鼻歌が、狭いシャワールームに反響している。

「流すわね」

湯とともに、泡が流れていく。
強かった匂いは多少薄れたが、甘い香りは残った。
タオルが被せられ、わしわしと頭を撫でられる。
風呂から出てから乾かせばいいのに。
ボサボサの髪を纏められ、タオルで覆われた。
これで、このよく分からない状況から解放されるとホッと息を吐き、背後にいる彼女にちらりと目を向けた。

「る、ルルシー…っ、もう気は済んだろ」
「前から思ってたけど…坊やって傷だらけね」
「あぁ…致命傷でなければ気にしていなかったからな。そのままにした傷が痕になってるんだろ」
「これからはもう少し自分を大事になさいよ。簡単な手当てくらいはできるけど、私が困るから」
「……努力する」

まるで、これからずっと一緒にいてくれるような台詞だ。
それが無性に嬉しくて、そわそわと浮き足立つような心地になる。
頭を撫でていた手が、恐らく傷痕のある部分を撫でた。
傷が化膿して悪化するようなヘマはしないようにしていたが、痕が残る残らないといったことは気にしたこともなかった。
こんな大したことのない傷を、気にしてくれる人がいるのか。
隠しきれない喜びで、頬が緩む。
しかし、にやけた顔を晒すなどみっともない。
急いで彼女を追い出して、身体は適当に洗って済ませた。

「はい」
「?」

シャワールームから出て早々に、ベッドに腰掛け、ドライヤーを片手に構えた彼女に手招きされた。
何のことかと首を傾げれば、仰々しいため息が返ってきた。

「もう、乾かすから来なさいってことよ」
「勘弁してくれ、もう十分だ。そのままでも乾く」
「ダメよ、風邪引くからこっちにいらっしゃい」
「今日のあんたは何なんだ…!?」
「私がやりたいことをやってるだけよ。ほら、坊やったら!」

手を掴まれ、強引にベッド脇に座らされる。
立てた膝に顔を押し当てるように俯けば、頭に乗せていたタオルが外された。
ドライヤーの温風が当てられ、再びしなやかな指が頭皮を擽る。
こんなことをされるほど、彼女と親しい仲ではない。
少々、死線をともにくぐり抜けただけだ。
お互いの過去を晒して、奇妙な縁ができて。
二人で、目的を果たしただけだ。
お互いに帰る場所を失って、ただ彼女が寄り添ってくれたのだ。
貸しは無いような気はするが、恩はある。
生きていてほしいと、情も湧いた。
彼女を見ると、凍てついた心が揺さぶられる自覚はある。
それでも、彼女が何故ここまで世話を焼いてくれるのかは知らない。

「……あんたは、男ならこういうことをする、のか…?」
「何言ってんの。しないわよ」
「しかし…その、恋人とか…」
「ディーラーやってると男との出会いも多いんだけどねぇ…残念ながら、あんまり良い男ってのはいないのよね。ふふふ、これでも身持ちは固いのよ。腐っても貴族の娘だし」
「オレもそこらの男と違いはないと思うんだが」
「坊やは良い男でしょ。私のこと護ってくれたしね」
「…そんな理由でいいのか?」
「私が坊やと一緒にいるのは、そんな理由で十分なの」

これは何という関係なのだろう。
年頃の男が、そう年の変わらなそうな女に風呂の世話をされている。
かといって欲にまみれた触れあいがある訳ではない。
子どもか、はたまたペットのような扱いが近い。
捨て犬を拾って面倒をみている、というのが正解なのだろうか。
捨て犬側としては、少なからず好意的な情はある。
飼い主側に同じものがあるのかは分からないが。
ただ、彼女にとっては好意的な人間として受け入れられているのは分かった。
他の男に同じことをしていなければいい。
そんなことを思って、一瞬ざわめいた心臓を落ち着かせた。

「ほら!ふわふわになったでしょ。満足したわ」
「…もう二度とやらないでくれ」
「坊やがちゃんと自分のお手入れをするなら考えてあげる」
「オレが自分に手を抜いても、ルルシーには迷惑をかけないだろ」
「あなたが自分のことを大事にしないから、私が大事にしてるのよ。私のヒーローには、いつでも良い男でいてもらわなきゃね」

そう言って、軽やかにウィンクをする彼女の顔に、一瞬だけ見惚れた。


寝静まらぬ街の灯りが、薄いカーテン越しに揺らめいている。
灯りとともに、街の喧騒さえ聞こえてきそうだ。
あれだけ騒いでいたというのに、眠れない。
原因はハッキリしている。
己の横で寝息を立てている女のせいだ。
結局、二台のベッドのうち一台は、荷物が広げられたままになってしまった。
別々で寝ると散々抵抗し、何なら床だろうと外だろうと関係ないと言ってはみたものの、彼女の頑固さに負けた。
己を大事にしろ、と説かれ、それ以上の言葉が出てこなかった。
馬鹿正直に一緒に寝ず、そっと抜けて床に寝ても良かった。
しかし、腕を取られてベッドに入り、そのまま至近距離で寝られてしまっては、今さら動くことができずにいる。
さら、と頬を擽る何かに目を向けて、それが彼女の髪だと気づく。
ぴったりと寄り添い、胸元に頭を預けるように眠っている。
白い頬に、青紫色の髪。
頬にかかる髪を払い、そのまま小さな頭に触れた。
頭から首に移動させ、脈打つ首筋に手を添える。
トクトク、と。
生きている証を感じた。

「…ルルシー」

優しい人。
暖かい人。
忘れていたものを与えてくれる人。

彼女と、同じ匂いがする。
触れても嫌われない。
疎まれた己に、触れてくれる。
人らしい時間を過ごしている。
心臓が五月蝿い。
熱くて、熱くて。
忘れかけていた感情を揺り起こす。
この気持ちを、好き、だと言うのだろう。

彼女を抱き寄せて、ぎゅうと抱き締めた。
照れと同時に、言い知れぬ安心感に包まれる。
嬉しくて、嬉しくて。
幸せとはこういうものだったのだろうか、と。
何故だか涙が溢れてしまった。
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