ナンバリングシリーズ


白銀の雪に閉ざされた故郷が、身体の芯から凍えるような冬を迎える。
生命を拒むようなその厳しい季節が来る頃になると、雪のように白い女の背中を思い出す。
幾度も女の背を押したはずだが、その温もりは、今となっては微かに覚えている程度になってしまった。
彼女の横顔も、温もりも、姿も朧ろになっている。

『──カミュ様』

それでも、声だけは。
柔らかく、優しげな声だけは。
幾度も幾度も、胸の中で響いている。



彼女の姉─偉大な魔法使いの死。
旅をする大事な仲間だった。
魔王の手に堕ちかけた世界を、たった一人で護り抜いた。
護られた側は、何も知らず、ただ彼女との再会を願っていた。
その安らかな顔に、誰も、何も声をかけられなかった。
誰よりも姉を愛して尊敬していた妹だけが、ただ静かに亡き姉へ語りかけていた。
その残酷なほどに穏やかな光景を、口を噤んで見ていることしかできなかったのだ。
荘厳な葬礼の中であっても、妹は涙を見せることはなかった。
誰よりも清く、凛とした姿で臨み、それはまるで亡き姉のようにも見えた。
涙を堪える姿もなく、ただただ静かな面持ちをしていた彼女の姿だけが、いやに浮いていたように思える。
用意された宿屋で身体を横たえても、すぐには眠れなかった。
開けられた窓から微かに聴こえてくる竪琴の音が、何故だか泣かない彼女の姿を思い出させる。
居ても立ってもいられず、部屋を出てしまった。
宿屋の側の広場にいるのは分かっていた。
ただ、何と声をかければいいのか分からなかった。
言葉が思いつかない。
声をかけられず、彼女から逃げるように広場から街の入口に続く長い階段を降りてしまった。
頭を冷やしながら言葉を探したが、結局見つからぬまま部屋に戻った。
相棒も部屋を抜け出していたらしく、夜明けの頃になってようやく相棒が部屋に戻ってきた。

「どこ行ってたんだよ、相棒」
「ちょっと…眠れなくて」
「…そりゃそうだよな。ん…?なんか肩に付いてるぜ」

疲れたように苦笑いを浮かべる相棒の肩口に、キラリと淡く光った何かが見えた。
ゴミだと思ったそれを摘まんで見ると、金糸のようだ。
糸にしては硬質な感触であり、それが髪の毛であることに気づいた。
仲間の中で金髪なのは、もはや彼女だけになった。
しかし、彼女はもっと長いはずだ。
部屋にいなかったのは、彼女と会っていたからだろうか。
心優しい相棒は、きっと彼女を慰めに行ったのだろう。
…そして、髪の毛がつくほど近くにいたのか。
相棒に対して、心がざわめいた。
苛立ちとは違う。
敵意とも違う。
それでも、確かに負の感情なのだろう。
──後になって、それが嫉妬だったのだと気づいた。

「…セーニャと会ったら、似合ってるって声をかけてあげてほしい」

その一言が、すべての言葉を奪った。


長い髪を揺らして、くるくると軽やかに動く姿を見るのが好きだった。
無邪気で、少し幼い振る舞いが、一番彼女らしい姿のように思っていた。
あの夜、それは彼女の決意とともに切り捨てられたのだった。
首元が隠れる程度の長さになった金髪が、寂しげに風に揺れている。

「…強いな、あいつは」
「うん、強いね」

だから、それを支えてやりたいと願った。
彼女の強さに報いるには、それくらいしかできなかった。

「……なぁ」
「どうしたの、カミュ」
「あれは、どうにもなんねぇのか」

きょとんとした顔を向ける相棒に一瞬目を向けて、促すように件のものへと視線を向ける。
伝えたかったものを確認し、相棒は言わんとしていることを察したようだった。

「あら、あのドレスとっても素敵じゃな~い。セーニャちゃんにお似合いだわ」
「いや、でも背中…」
「あれが一番良いものなら装備しているべきだろう」
「おっさんには話してねぇよ」

未だに打ち解けられないグレイグと静かに睨み合う。
どうしたら良いのかと考えつつ、大きく露出されたセーニャの背中から目線を逸らした。

「髪が短いから、余計に目立つよね」
「とっても可愛いのに~!セーニャちゃんだって喜んでたでしょ?」
「うん」

よく読んだ物語に出てくる女神のようだと喜んでいた。
己の手で切った髪をマルティナに微調整をしてもらってから、余計に彼女に似合っている。
背筋を伸ばして、凛とした横顔を見せて。
そして、少しだけ影を纏って。
世話焼き気質なカミュだけは、その露出の多さに険しい顔をする。
世話焼きな性分以外も、彼にそうさせている気はしていたが、それを本人に言うつもりはない。

「頼もしくなったって、あいつは女なんだぜ?余計な奴らに目を付けられても困るだろ」
「それはそうなんだけど…セーニャも喜んでたし、強い装備だから命を守る為にも必要だよ」
「ウフフッ!カミュちゃんってば、セーニャちゃんが心配なのねぇ」
「…そりゃそうだろ、仲間なんだから」

そう。仲間だ。
大事な仲間だから、きっと彼女のことで心がざわつくのだ。
無防備に晒された白い背中が、いやに胸を締め付ける。
倒れてしまいそうな細い身体が、無理をして立っているように思えてならない。
ろくな対策も浮かばないままじっとセーニャを見つめていると、視線に気づいたのか、彼女が振り返って微笑んだ。
優しげで、淡くて、とても儚い笑みだった。
泣いているようにさえ見えた。

ツカツカとセーニャのもとへ歩み寄り、己の上着を脱いで彼女の肩にかけた。
薄手とはいえ何も着ていないよりはマシだろう。
長めの丈のお陰で、彼女の背中はすっぽりと隠せている。

「戦闘中は邪魔になるだろうが、それ以外の時はそれ着てろ」
「それでは、カミュ様のお洋服が…」
「オレは他の服があるから平気だ。女は身体冷やしちゃマズイだろ」
「ですが…」
「いいから、言うこと聞いとけ」

渋るセーニャを強引に説き伏せる。
ようやく頷いたセーニャの頭をポンとひと撫でして、苦笑いを浮かべる相棒の隣に戻る。
何か服をくれと言えば、すぐに大海賊の衣装が渡された。
いざとなれば、このコートを着せても良いかもしれない。

「強引だったね」
「仕方ねぇだろ」
「あらあら、セーニャちゃんも満更じゃないみたいよ」

マルティナに揶揄われているのか、ぶかぶかの上着に袖を通して照れくさそうに笑っている。
ニッコリとした笑みを向ける相棒の視線から顔を背け、そっと笑みを溢した。


それから、何度も彼女の背を押した。
強くて、脆くて、儚い背中を。
前を向くと決めた選択が、間違っていないのだと後押しする為に。
たった一人で懸命に立ち向かおうとするのを支える為に。
護ってやりたかったのだ。
──彼女が、後悔に殺されないように。
そして、ただ彼女が好きだったのだろう。
最愛の姉を失くしても、姉との約束を果たす為に前を進み続けた彼女が。
その強さと、泣くこともできなかった不器用さと、彼女本来の優しさを。
その心を、ただ愛おしいと思ったのだ。

刻を渡った相棒を見送り、すでに二年は経った。
旅をした仲間たちとは時々手紙のやり取りをしているが、返事をするのはマチマチだった。
最愛の妹を取り戻した代わりに、無二の相棒を喪って、己は空っぽになってしまったような気がする。
妹と叶えることはたくさんあるが、未だに心が動く気配は無い。
淡々と日々を過ごし、無為に時間を浪費している。
──そして、冬が来る。
淡い想い出のような、苦い初恋のような。
言い表せぬ思い出だけが、ぽつぽつと甦る。

『──カミュ様』

海を見つめる己の背中に、声がかけられたような気がした。
柔らかく、優しげな声が呼んでいる。
記憶の中にしては、とても鮮やかだった。
幾度も反芻していれば、そういうこともあるのだろう。

「カミュ様」

何度も呼ばれ、ようやく振り返った己の目に。
記憶よりも少しだけ大人びて、柔らかに微笑むセーニャが映った。
短くしてしまった髪も伸びて、肩口程度の長さになっている。
夢なのかと思った。
彼女がここに来る理由は無いのだから。

「セーニャ、か…?」
「はい、お久しぶりですね。ようやく心の整理が着いたので、カミュ様に会いに来ました」
「オレに?」
「─私と、旅をしてくださいませんか。勇者様とお姉様が救った世界の姿を、きちんと目に焼き付けておきたいのです」
「旅、か…そりゃいいな」

空っぽだった己に、気力が漲っていくのが分かる。
さて、妹には何と言えばいいだろうか。
いっそ妹も連れて行けばいいか。
隣に並んだセーニャの横顔は、遥かな旅路を思い出させる。

「なぁ、何でオレなんだ?」
「ふふ、理由もなくカミュ様に会いたいと思ったからです。それに…私の背中を押してくれていたのは、貴方でしたから」
「そうか」

彼女と旅をして、今度こそ己の想いを自覚するだろう。
それが、誰にも代えがたいものだと理解した時。
きっと己の人生は変わるはずだ。
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