運命と踊る


友人と親しくなってから、友人の休息日と己の役目の合間を縫って、月に数度ひっそりと顔を合わせている。
友人の護衛はおらず、己の手駒も側にいない二人だけの静かな時間は、興味のない日々の唯一の息抜きだ。
肩肘張らず、自由に振る舞うことができる。
どれだけ歳を重ねても、このゆっくりとした時間だけは子どもの頃のような心地になれた。
会話の内容は敵対する人間の情報共有やら処理の状況など血腥いものだが、友人の安寧には必要不可欠なものだ。

その日も、いつもと変わらない密会のはずだった。
妹の誘拐未遂から半月ほど経った頃だ。
隅々まで手入れの行き届いた中庭の噴水の側で待っていると、気配を感じた。
気配の方に顔を向ける前に、不思議な言葉が聞こえた。
『騎士様』と。
その聞き慣れない呼び方を不審に思い、警戒しながら目を向けると、にこやかに笑った友人が手を振った。
そして、その友人の傍らに、小さな人影があった。
友人のローブを掴みながら、ちらりと顔を出す。
背中の中ほどまで伸びた蜂蜜色の柔らかそうな髪がふわふわと揺れ、光を浴びた金の瞳はキラキラと輝いている。
色素の薄そうな白い頬を紅く蒸気させ、目が合った瞬間、嬉しそうに微笑んだ。

「ふふ、驚いたかい?あの日にきちんと紹介できなかったからね。この子が私の妹だ」

友人に背中を押され、隠れていた子どもが姿を現す。
スカートを持ち上げ、しずしずと頭を下げた。
貴族の娘が行う気障ったらしい様子はなく、自然な所作に思わず感心した。

「──クレア・アスティアです」
「あの夜に君に助けてもらったんだと説明したら、会ってお礼がしたいと言うから、紹介がてら連れて来たんだ」
「…あの時の子どもか?」
「そうだよ。可愛いだろう?私の自慢だよ」

闇の中で震え、泣いていた子どもとは思えない。
光を浴び、穏やかな笑みを浮かべる子どもは、愛され、慈しまれるべき存在のように思える。
友人が溺愛するのも無理はなさそうだ。
この子どもには、敵意も悪意もない。
真っ直ぐな心と、優しさと柔らかさに包まれている。
微笑んだ顔は友人とそっくりだ。
友人と己をキョロキョロと見つめる子どもが、おずおずと兄の手を引いた。

「お兄様…あの、私も…騎士様とお話したくて…」
「あぁ、そうだったね。気の利かない悪い兄でごめんよ」

楽しそうに微笑む友人が屈み、小さな子どもを抱き上げた。
目が合うくらいの高さに抱き上げられ、小さな子どもが目の前に移動する。
よく見れば、友人の手に布のかけられた籠があった。
それを妹に渡し、兄妹で目だけで会話をした後、大切そうに抱き締めていた籠が己に向かって差し出された。
意図が読めずに友人の方を見れば、にこにこと微笑んだまま説明された。

「お礼をしたいけど何がいいか分からないから、お菓子はどうかと提案したんだ。執務中によく差し入れてくれて、なかなかの腕前なんだよ。アレクも甘いもの好きだろう?」
「そうだな…嫌いではないが」
「助けてくれてありがとうございました」

子どもの小さな手から籠を受け取る。
確かに微かな甘い香りがする。
食べてみろ、と友人の無言の圧力を受け、籠の中から一枚のクッキーを取り出し、口に放り込んだ。
もう少し甘さ控えめな方が好みだが、予想よりも見事な出来栄えだ。

「素直な感想がほしいな」
「…美味かった」

短い言葉だが、不安そうに己を見つめていた子どもの顔が輝いた。
その様子を見て、友人も笑みを深めた。
妹が絡むとこんなに面倒な男になるのかと、知らなかった友人の一面を知ることになったのは予想外だ。

「可愛い妹を助けてくれた素敵な騎士様の話を話してあげようと思って君のことばかり教えたら、すっかり君に憧れたようでね。兄としては複雑だよ」
「……賭けは本気だったのか」
「おや、私が嘘が嫌いなのは知っていると思っていたんだが」
「……流石は国王陛下だ」
「ふふふ、まだだよ」

戯れであってほしかったという微かな願いは、王子然とした作り物めいた笑みに打ち砕かれた。
本気で、友人の妹に惚れる惚れないのやり取りをする羽目になるのか。
何も知らずに見つめている子どもを哀れに思いつつ、疑問に思ったことを口にする。

「…で、騎士様って呼び方は何なんだ。名前は知っているんだろ?」
「名前を呼ぶのは照れるんだって。『騎士様』なら、他の人間と同じ呼び方にはならないだろうと思って提案したんだ」

騎士様、と耳慣れない言葉を、何度か口内で転がす。
素直な敬意を込めて呼ばれることがむず痒いのか、それとも無垢な好意がこそばゆいのか判断はつかない。
友人の腕に抱かれたままの子どもの右手を掬い、口づける振りをした。
儀礼的な振る舞いは好きではないが、何も知らない王女への振る舞いとしては必要なのだろうと思った。
真っ赤な頬が、酷く鮮やかに見えた。

「……姫様が、ご無事で良かったです」

自分で口にしておきながら、何とも嘘っぽいセリフに思える。
決して彼女だけの為ではなかった。友人の安寧の為だった。
それでも、唇を震わせ、瞳を潤ませて微笑む彼女の笑みが、チクリと罪悪感のようなものを刺激した。
彼女が無事で安堵した気持ちを自覚しろと責めるような不思議な感覚だ。

「騎士様のお陰です…!」
「私も感謝しているんだ」
「それで…姫ではなくて…く、クレアと呼んでほしいです…」
「そうだね。ちゃんと名前で呼んでほしいね」
「…オレの名前は呼ばないのにか?」

口にしてから、何を言っているのかと冷静な己が咎めた。
穏やかに微笑んでいた少女の笑みが曇って、困ったように眉を下げてしまった。
今さら撤回するのも変だろう。
過保護な友人に小言を言われるだろうと思い、思わず目の前の二人から視線を逸らす。
しかし、友人はじっと何かを考えている。
しばらく黙り込んだ後、考え込む友人の顔が上がり、不敵に微笑んだ。

「それなら、『お嬢さん』はどうかな?姫様よりは堅苦しくないと思うよ」
「…お嬢さん?」
「…名前で呼べるようになったら、私の名前も呼んでくれますか…?」
「あぁ。お嬢さんがそう望むなら」
「この騎士様は、絶対に約束を破らないから大丈夫だよ」

呼び方ひとつに随分と大仰な期待を持たせてしまっていいのだろうか。
名前を呼ぶくらいささやかなことだろう。
しかし、にこりと微笑んだ友人に、花が綻ぶような笑みを返した彼女の姿を見て、何故だかとても重い約束をしてしまったような気分になった。



月に数度ゆっくりとした時間を見つけて交流を続けていた日々は、その小さな来客の登場により変化した。
妹の自慢に拍車が掛かった友人を呆れ気味に感じていたが、もはやそれが当たり前になってしまった。
それに伴い、血腥い会話も減った。本当に必要な場合は、彼女から少し離れた場所で小声で行ってはいる。
当初は兄にせがんで参加しているのかと思っていたが、友人の方が誘って連れてきているらしい。
彼女が参加するようになって二年ほど経った。
子どもだと思っていた少女も、背丈が伸び、しなやかでまろい女性らしさを纏い始めている。
それでも、彼女は出会った頃の子どものような無垢さに満ちていて、あまり大きく印象が変わるようなことはなかった。
そろそろ婚約の話が出るかもしれない、と険しい眼差しで話す友人に、不穏な影を見た。
それを聞かされた己も、何故だかざわりと不愉快な感覚が肌を撫でた。

「騎士様!」

中庭に嬉しそうな声が響き、軽い衝撃が下半身から全身に駆け抜けた。
満足そうに見上げる整った顔を見やれば、無邪気に微笑んでいた少女の顔が紅くなっていく。
一月ぶりに見た少女の面差しからは、子どもっぽさが薄れている。
熟れた果実のように赤らんだ顔をして、少女は唐突に身体を離した。

「ご、ごめんなさい…っ、お兄様のように抱きついてしまって…」
「アレク、可愛いクレアを困らせないでおくれよ」
「……困っているのはオレの方だが?」

遅れて登場した友人の方に視線を動かし、この状況にどう対応すればいいのかと心の中で助けを求める。
肩を竦めて微笑むだけの友人は、赤くなって固まっていた少女を抱き寄せた。

「こんなに可愛らしい子が側に来て困ることはないだろう?抱き上げてあげると喜ぶよ」
「…相変わらず怖いお兄様だ」

兄と己をキョロキョロと見ていた少女を抱き上げる。
あの頃よりもほんの少し重くなったが、それでも軽い。
いつかの夜のように真っ直ぐに見てやれば、紅くなった頬をさらに赤らめた。
細い手で顔を覆って、縮こまるように己の肩口に顔を埋めてしまった。
柔らかに広がる蜂蜜色の髪が頬を擽る。
今度こそどうしたものかと考え込めば、にこにこと微笑む友人と目が合った。

「懐かれて良かったね、アレク」
「これは懐かれているのか?」
「ふふっ、照れ屋で可愛いだろう?」

覆っていた手をどかし、ゆっくりと少女が顔を上げる。
何かを決心したかのように、真っ直ぐにじっと己を見つめている。
紅い頬が林檎のようだと思った瞬間、己の頬に柔らかな熱が触れた。
突然の感触に、珍しく息が詰まった。
それと同時に、にこにこと微笑んでいた友人の顔が青ざめ、慌てて己の腕から妹を取り上げた。

「クレア!?」

当の本人は事態を呑み込みないのか何度も瞬きを繰り返し、不安そうに友人と己を見つめている。

「騎士様にご挨拶をと思って…お兄様と挨拶をする時は頬にキスをするでしょう…?お兄様と同じくらい特別な方だから騎士様にも同じようにした方がいいと思って…」
「うん、挨拶は礼儀の基礎として大切だと思う。お前の考え方は正しい」

何度も頷き、余裕を見せて兄として妹へ諭している。
それがいつまで保つだろうかと思えば、すぐに肩を震わせ、一瞬こちらを睨んだ。

「ダメだ、待ってくれ、クレア。兄はお前の幸せを願っているが、お前はまだ幼いし、自分の身体は大切にすべきだよ。私以外へのキスはまだ早い」
「騎士様も…?」

妹の無垢な眼差しに、強固な意思を見せる友人も狼狽える。
それでも、友人は首を横に振った。

「………い、いくら友人とはいえアレクでも許せない」
「賭けを進めたくないのか何なんだ…」
「アレク!クレアはまだ何も知らない無垢な子なんだよ!?不用意に誑かさないでおくれ!手を出す許可はしてないんだが!?」
「待て、オレが手を出したような言い方をするな」
「……まさかここまで進むとは思ってなかったんだ…何事も慎重に進めよう、いいね?」

肩を竦め、これ以上何も言わないことにした。
滔々と続く兄の説教を、無垢な少女は懸命に聞いている。
兄と妹の戯れは、守り抜かねばならぬ光景のように思える。
──己が護るものはこれなのだと、改めて心に刻みつけた。



しかし、奇妙な密会はあまり長くは続かなかった。
友人と共に参加していた妹が、徐々に顔を出す機会が減ったのだ。
友人が誘わない訳でも、彼女が参加したくない訳でもない。
それでも、周囲が許さなかったらしい。
奴らにとって要らぬことを吹き込む友人と、奴らの手駒としたい妹を引き離したいという思惑が透けて見えるような妨害が始まったのだ。
友人の公務や妹の講義の時間をずらすことで兄妹で過ごせる時間を減らし、妹には奴らの息の掛かった人選が宛がわれる。
兄に会いたいと懇願する彼女の想いも踏みにじり、兄妹を隔離している。
彼女は家という牢獄に閉じ込められてしまった。

「──許せないんだ」
「…分かっている」
「あの子を手駒にしようとしているのも、あの子の自由も、心も殺そうとしているのも…!」

ギィン、と鈍く高い音が響いた。
友人の愛用するレイピアが、石畳に突き立てられた。
彼女が密会に顔を出さなくなって半年ほど経った。
友人から彼女の様子を聞くくらいしか情報は無い。

「…本人はどうしているんだ?」
「侍女からは明らかに元気が無くなったと聞かされた…婚約に向けた教育なんて何の意味もないのに…!」
「外に連れ出す方法か…」
「─考えはあるんだ。視察に同行するという名目を使う。ただ、私が直接伝えに行けば、必ず妨害されると思う。もちろん私の友人であるキミも同じだ」
「…あいつを使うか」



部屋に閉じ込められるようになって、半年経ってしまった。
窓から外に出ることはできず、扉には講師という名の見張りが立っている。
頼れる兄と会うこともできず、憧れの彼にも会えない。
唯一側に居てくれるのは、生まれた時より面倒をみてくれている侍女のハンナだけだ。
これ以上私から誰も奪わないでほしいと懇願して、どうにか彼女だけは残してもらったのだ。
開きっぱなしの本を閉じ、行く当てもなく窓辺に移動した。
ふと、部屋の扉がノックされ、見張りの講師が扉を開ける。
そこには、騎士団の衣装に身を包んだ見覚えの無い青年が立っていた。

「姫様に視察への同行が命じられました」
「視察…?」
「一時間後に迎えに参ります」

それだけを告げた青年は、頭を下げて扉の前から消えてしまった。
状況が呑み込めず、思わずハンナを見てしまった。
彼女は何かを考え込み、視察用の衣装に着替えることを提案してくれた。
見張りを追い出し、二人きりになったことを確認して、ハンナが声を潜めながら微笑んだ。

「…クレト様の計らいですね」
「お兄様の…!」
「うんと綺麗にしましょう」

ハンナの提案に、跳び跳ねそうになる身体を押さえて微笑み返した。
久しぶりの外出に、胸が踊る。
兄にも会えるのだから、嬉しくならない訳がない。
着替え終えて待っていると、きっかり時間通りに再び扉がノックされた。
ハンナに見送られ、見知らぬ青年に連れられて玄関ホールへと向かう。
何も話さない青年の背中をちらりと見ると、ふと憧れの彼の姿が重なって見えた。
この状況で兄に会えるだけでも嬉しいのに、憧れの彼にも会いたいなど子どものワガママだ。

「─クレア!」

玄関ホールで待っていた兄の声が聞こえ、思わず駆け出す。

「お兄様…!」

両手を広げて待つ兄の腕の中に飛び込んで、久しぶりの温もりに涙が込み上げる。
涙で汚してしまっては、せっかく綺麗にしてくれたハンナへ申し訳ない。
何とか涙を堪え、兄に笑みを向ける。

「あぁ…痩せてしまったね…食事は食べられてるかい?」
「お兄様に会えないのは淋しかったですが、ちゃんと元気に過ごしていました」
「そうか…お前に会えなくて心配しかないよ。じゃあ、さっそく視察に行こうか」
「はいっ」

青年が連れてきた馬に、兄に手を引かれて乗る。
ゆったりとした足取りの青年の先導でどこかへ進む。
てっきり街に行くのかと思っていたが、庭園の方へと進んでいく。
兄を見上げても、にっこりと微笑むだけで何も言わない。
庭園の隣には、騎士団の宿舎に続く訓練場がある。
先に降りた兄に手を引かれ、青年に案内されながら訓練場の入口へと向かう。

「お二人をお連れしました」
「待たせたね」

青年と兄が声をかけた人影に、声が出ないほど息が詰まってしまった。

「き、騎士様…」
「…少し痩せたな」
「お会いしたかったです…っ」

兄との再会で堪えたはずの涙が、ついに溢れてしまった。
綺麗にしてもらった化粧が、崩れてしまう。
分かっているのに、それでも涙が止まらない。
兄に宥められながら、ゆっくりと憧れの彼に近づいていく。
黒の革手袋が嵌められた手が、静かに私の左手を取った。
エスコートしてくれるような素振りが嬉しくて、涙を拭って笑みを返した。


訓練場では、正規の騎士団員と見習い騎士が入り交じって剣を交えている。
模擬の剣を使用した鈍い音を響かせ、王家を護るために存在する彼らの強さに釘付けになった。
何度か兄の稽古を見せてもらったことはあるが、それとは戦術が違うのだと教えてもらった。
より実戦的な戦術は、誰かを護るためのもの。
護られる側としては、こうして命を晒す存在がいるのだと目の当たりにするだけでも意識が違う。
彼らに恥じることがないようにしなくては。
隣で訓練を見つめる兄の視線の先には、先導役の青年と憧れの彼が剣を交えていた。
彼が剣を振るうのを見るのは二度目だ。
一分の狂いもなく真っ直ぐに伸びて切り裂く剣筋は、見惚れるほどに恐ろしく、そして美しい。

「…時々、こうやってお前に会おうと思ってね」
「また連れ出してくれるのですか?」
「ふふ、視察も立派な勉強だよ」
「楽しみです」

兄に寄り添って、再び自由な時間を得られるようになることに胸を踊らせる。
兄がいれば、きっとどんなことがあっても怖くない。
それでも、いつ閉じ込められてしまうかは分からない。
そうなっても耐えられるように、憧れの彼の姿を目に焼き付ける。
少し長めの黒い髪が、動きに合わせて揺れる。
紺碧の瞳が嬉々として輝き、剣を交える青年に向けられている。
微笑みを見たことのない口許さえ、僅かに口角が上がっていた。
恐ろしく強い人。甘さのない人。
幽閉されるようになってから、彼については、血腥く、恐ろしい噂しか教えてくれない。
彼に恋をすることを禁じられてなお、忘れられない憧れは増していく。
好きだと言えたなら、どれだけ幸せだろう。
子どもの気の迷いだと言われるだろうか。
それでもいい。
想いを押し殺してしまうより、伝えて拒絶されてしまった方が諦めがつく気がする。
しかし、決して伝えられる勇気はなかった。

幾度も、幾度も。
永遠のような一瞬に、心を奪われている。
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