Miraculous


友達として、堂々とアドリアンと会えるのだ、と。
数日前に、リバティ号で顔を合わせた彼女は笑っていた。
パリ一番のホテルで開かれるアドリアンのパーティーに招待されたのだと嬉しそうに話していた。
いつもはこっそり忍び込んでいたから、隠れずに会いに行けるのが夢みたいだとも。
夢じゃないよ、と返せば、蕩けたように愛らしく微笑んでいたのを覚えている。


母さんに頼まれた買い出しがてら、ギター片手に例のホテルの側まで足を伸ばした。
今頃、きっと彼女は幸せに包まれているのだろう。
急ぎの用でもなく、少しのんびりとギターを奏でていても大丈夫だ。
彼女の無邪気な笑顔を思い描きながら、緩やかに弦を弾いた。
アコースティックギターの軽さと柔らかさを持った音が、青空に響く。
暫く無心で弾いていると、突然悲しみに満ちたメロディーが聴こえた。
誰かの心の音楽だ。
周囲に顔を向けると、見知った鮮やかな黒髪がホテルから飛び出してきた。
普段は結われているはずの髪は下ろされて、彼女の動きに合わせてサラサラと揺れる。

「…マリネット?」

呼ばれたことに気づいたのか、彼女の瞳が己を捉える。
振り返った彼女の動きに合わせて、彼女らしいパステルピンクのパーティードレスがシャラリと揺れる。
ドレスを握り締めた彼女の手が、真っ白になっていた。

「……ル、カ」

艶やかな唇が、固く引き締められる。
直後、白くまろい頬を宝石のように煌めく雫が伝っていく。
それが彼女の涙なのだと気づくのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
彼女はいつも笑っていて、悲しくても泣きはしない子だ。
その姿が、己が知る姿とはかけ離れていたせいなのか、泣いているのだと理解できなかった。
膝に乗せていたギターを半ば投げ捨て、泣きながら立ち尽くす彼女を抱き締めた。
頭が真っ白になる。
彼女の奏でる心のメロディーさえ聴こえないほどに。

晴れ渡っていたはずの青空から、雫が落ちてくる。
ひとまず彼女を隠すように上着を被せて、我が家に向けて歩く。
どれだけ声をかけても、微かに鼻を啜る音しか返ってこない。
ようやく落ち着いて彼女の心のメロディーに耳を傾けると、ノイズのようなざわめいた音と、酷く凪いだ湖面のような無音が混じる。
ぐちゃぐちゃになっている。
感情の整理がつかないほどの何かがあったのだろうか。
このまま我が家に帰っても、妹のジュレカは同じパーティーに参加しているだろう。
信頼する妹がいれば、もう少し上手く慰められると思ったが。
それでも、まずは落ち着ける場所を確保することが優先だ。
母さんに暫く部屋に籠ることを伝え、自室の鍵を閉めた。
濡れた上着を脱がせて、ベッドに座らせる。
その隣に腰を下ろせば、彼女の方から身を寄せて、そのまま胸元に顔を埋めるようにして静かに泣き出した。


─彼とは、友達だと思っている。
─彼にも、友達だと思われている。
クラスメイトとして招待されたパーティーには、彼の仕事やアグレスト家の知人も数多くいた。
元々、住む世界が違うということは十分理解していた。
彼がクラスメイトで、気が合って、何かと親しくしてくれるから、時々忘れてしまうのだ。
麗しい大人の女性たちや、同年代とはいえ綺麗な女の子たちに囲まれる彼を見て、当たり前の事実に打ちのめされた。
その中でさえ堂々と振る舞えるカガミやクロエの姿に、友達という存在として関われることへの誇らしささえ壊れてしまった。
ファンより、ほんの少し近いだけなのだ。
所詮はクラスメイト。
卒業すれば、きっとそのささやかな縁さえ無くなる。
それでも、彼はこちらを見て、笑いかけてくれた。
その優しさが、この憧れを恋心なのだと勘違いさせる。
勘違いさえ許されない人なのに。
…私は、何も持っていない。
彼の隣に並べるだけの、何かを。
それさえあれば、きっとこんなに悲しくなることは無かったのかもしれない。

はらはらと静かに涙を流す姿がとても儚くて。
その深い悲しみを癒さなければ、と。
柄にもなく慌ててしまった。
涙を止めることだけを考えていた。
彼女には、ただ笑っていてほしいだけなのだ。
必要以上の触れあいは必要ないはずだ。
彼女の心には、彼がいるのだから。
…だから、拒絶して。
オレの熱は必要ないと、振り払ってくれ。
そうでなければ、愛おしいキミを抱き締められて喜ぶ己を抑えられない。
不謹慎にも、いっそ彼を忘れて、その真っ直ぐな想いすべてを己に向けてと懇願したくなる。

「…オレは、いつでもキミの味方だよ」

ようやく嬉しそうに微笑んだ彼女を膝から下ろし、ギターを構えて、弦を弾いた。
余計なことばかり考えてしまうなら、音楽を奏でていた方がずっといい。
隣で目を閉じて音楽に聴き入る姿の、なんと愛おしいことか。
彼女の心のメロディーも心地よい。
いつも通りの明るく華やかで、ほん少し可愛らしさを内包したメロディー。
微かに寝息が聴こえ始めたところで、緩やかに演奏を終えた。
ベッドに横たえて、布団をかける。
眠って、悪いことなど早く忘れてしまえばいい。
床に座ってベッドに背を預け、穏やかな眠りになるよう子守唄を続ける。
不意に聴こえた囁きで、一瞬指が止まった。
──ルカ、と寝言で呼ばれたことが酷く嬉しくて。
無防備な頬にキスを落とした。

浅ましさは振り払って、彼女の安心できる拠り所を維持しなければ。
それが己の役目だ。
そう。
ただただ、彼女の幸せを祈っているだけなのだ。

…それでも。
たった一つだけ、彼女に秘密を作るなら。
彼女のアドリアンへの憧れが、恋心なのだと自覚する日が来ないことだけを願っている。
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