運命と踊る


突然の王位継承から二年が経った。
表向きは先王が病に倒れ、役目を果たすことが困難になった為だとされている。
治療に専念する為、夫婦で静かな土地へと移住したことも国民には知らされている。
王の病は重いのだと思い込ませる巧みな情報と、国民にとってのクレトの評価は好ましいものであったという下地のお陰で、突然の王位継承であったにも関わらず大きな混乱は無いまま月日が経過した。
城下は今までと変わらぬ穏やかな日々であったが、表に見えぬ城内は荒れ狂っていた。

通例を執り行わずに終幕された王位継承により、先王を傀儡として甘い蜜を吸っていた親類一同は、突如その恩恵を失った。
自分たちの意のままに動いていた国王がいなくなり、聡明であるが故に奴らの傀儡にならないクレトが王位に就いた。
散々彼の暗殺はもとより、彼の愛する妹さえ傀儡にしようと画策していた奴らをクレトが許すはずもなかった。
徹底的に城内から先王に深く関係するものを排除し、それは人間も同様である。
親類は国王クレトの許可なく城内に入ることはできなくなり、その取り決めを無視した者は反逆者として投獄することになった。
手っ取り早く処刑すれば良いと思うが、クレトの考えであるなら従うほかない。
即位直後はその警告を無視する奴らもいたが、投獄され、二度と外には出られないということを実感したのか最近ではそうした輩は居なくなったようだ。


「──アレク!」
「どうした」

執務室から出てきたクレトが、慌てたように何かの書類を握り締めている。
感情の昂りからか、僅かに息が上がっているようだ。

「クレアを探して護ってくれ!詳細はそれを読めば分かる」

書類を胸に押し付けられ、当の本人は妹の私室の方へと駆け出した。
書類だと思った紙は私的な手紙だったらしく、読みにくい文字が並んでいる。
その内容に目を通し、友人が慌てている理由を理解した。
『姫の婚約者として挨拶に伺います』
彼女に婚約者などいるはずもない。
すべてクレトが拒否しているのだから。
手紙を握り締める手に力が籠り、ぐしゃぐしゃになった紙を投げ捨て、知らぬうちに駆け出していた。

クレトの即位後、相変わらず暗殺未遂は多発している。
優秀な国王を排除したい親類どもの差し金ではあったが、そんなものは今まで通り阻止していた。
しかし、最近ではクレトではなく妹の方へと狙いを変えつつあるらしい。
親類どもを追い出した代わりに、これまでよりも奴らの動きを捉えにくくなったことは否めない。
そのせいでクレアの政略結婚を影で進められ、これまで何度か彼女の尊厳を傷つけられそうになった。
頭の悪い貴族の息子と添わせ、その子どもを次の傀儡にするつもりなのだろう。
そんな馬鹿な真似はさせない。
ふつふつと沸き起こる怒りの理由には、いつまでも気づかぬ振りを続けている。


はぁ、はぁ、と息が上がるほど、もうずっと走っている。
心臓がバクバクと五月蝿くて、喉が焼けてしまいそうだ。
既に足は限界を迎えていた。

「あ…!」

ドレスの裾が絡み、足が縺れてしまった。
すぐに起き上がりたかったが、息を整えることも、足の震えを収めることもできなかった。
背後からは不穏な足音が迫ってきているのに。

騎士団の訓練場から戻り、ホールを通ってちょうど二階への階段を上がろうとしていた時だった。
見知らぬ男に名前を呼ばれた。
一階のホールは行商人などの利用の為、検閲を通過できれば王家以外でも出入りを許されている。
城下の民か行商人が挨拶に来たのだと思って笑みを向けた途端、その男は私の婚約者だと告げた。
その瞬間、目の前の男が招かれざる客であることを理解した。
階段を上れば、二階に着く前に男に追いつかれる。
一階の方が顔見知りが多く、助けてもらえるかもしれないと思い、廊下の方へと逃げ出した。
しかし、昼食後のゆったりとした時間は休憩を取っている者も多く、使用人もすぐには見つからず、結局走り続けた。

「姫様、何を恐れるのです。私は貴女の婚約者ではありませんか」
「いいえ…っ、私には、婚約者なんておりません…!」
「照れているのですか?なんと愛らしい!」

立ち上がる気力はなく、這うようにして必死に廊下を進む。
突然、がくん、と身体が何かに引っ張られた。
振り返れば、もう男が追いついていた。
ドレスを踏まれ、何処にも行けない。
舌舐りするような野卑な笑みを浮かべた男の手が、ゆっくりと伸びてくる。

「…い、いや──!」

空を切る甲高い音が悲鳴を掻き消し、次いでギィン、と鈍い音が響いた。
恐怖で閉じていた目を開けると、覆い被さろうとする男を牽制するように鈍く光る何かが壁に突き刺さっていた。
目の前で煌めくものが細身の剣であることに気づき、危機的な状況にも関わらず安堵してしまった。

「彼女にそれ以上の接触をしてみろ。お前…死ぬぞ」
「だ、誰だ…!?」
「名乗る必要はない」

その声が、ずっと探し求めていたその人であると分かり、名前を呼んで縋りつきたい衝動に駆られる。
それを抑えて、まずは目の前の危機から逃げることに集中した。
壁に突き刺さった剣に触れないようにしながら、急いで男との距離を取る。
柱の陰に隠れるようにして佇む騎士の側に駆け寄ろうとして、頭部に痛みが走った。
髪を掴まれ、仰け反るような体勢によって身体が軋む。
男の傍らに強引に引き寄せられると、男が隠し持っていた短剣を首元に当てられた。
卑しい男の手が、上半身を這う。
肌が粟立ち、全身におぞましい寒気が絡みつく。
恐怖が心を満たし、どうにもできずに涙が溢れた。
思わず、目の前に立つ騎士へと手を伸ばした。

「こ、婚約者同士の愛の時間を邪魔するな、よ…!?」
「──死ぬと警告したぞ」

カラン、と短剣が男の手から落ちた。
急にガクガクと痙攣し始めた男の腕から解放される。
男を振り返ることなく走り、抱きとめるように両手を広げてくれた騎士に抱きついた。
震える身体を落ち着ける為、深呼吸を繰り返す。
肩に添えられた彼の手が、いつもよりも優しい気がした。

「…落ち着いたか、お嬢さん」
「はい…ありがとうございます、騎士様」
「怪我は?後で侍女によく確認してもらえ」
「はい」

異変の起きた男の様子を確認しようとすると、彼の手が目元を覆い、彼のマントで頭からすっぽりとくるまれてしまった。

「お嬢さんは見ない方が良い」

その言葉が、男が既に事切れているのだということを教えてくれた。

「お嬢さんは部屋に戻れ。他の奴がいないとも限らない」
「…も、戻りたいのですが…」
「? あぁ、腰が抜けてるのか」

言葉にされると妙に恥ずかしいが、彼に縋りついてようやく立つことができている。
肩を支えていた手が、腰の方へと移動する。
次の瞬間、ふわりと身体が浮いた。
憧れの彼に抱き上げられているのだと気づき、顔に熱が集まる。
普段よりも口数の多い彼の様子に、気遣うような優しさを感じて胸が震えた。
私室まで戻り、ベッドに下ろされるまで、上手く言葉が出なかった。
嬉しさと、あまりの近さに緊張してしまったのだろう。
掛けてくれていたマントを彼に返し、お礼を口にしたものの、まだ何かを言いたい気がした。

「今の件をクレトに知らせてくる」
「……あの、騎士様」
「どうした、お嬢さん」

紺碧の瞳が、じっと私を見つめている。
静かな眼差しに見つめられ、指先が震えて、止まったはずの涙がまた溢れた。

「少し待ってろ」

それだけを告げると、騎士は部屋を出て行ってしまった。
部屋に取り残されて、ようやく側に居てほしかったのだと気づいた。
彼は国王となった兄の片腕として忙しいだろう。
侍女のハンナを呼びに行ってくれたのかもしれない。
信頼できるハンナがいれば恐怖も落ち着くはずだ。
それから数分も立たず、部屋の扉が開いた。
俯けていた顔を上げると、そこには予想していたハンナではなく、騎士が立っていた。

「クレトには後で報告に行くと伝えてきた。で、オレは何をすればいい?」
「…わ、ワガママを言っても良いのですか…?」
「お嬢さんのそれはワガママにはならんと思うがな」
「気持ちが落ち着くまで…側に居てくれませんか」
「仰せのままに」


ベッドに腰かけて俯く彼女の頭を、見るともなしに眺めていた。
側に居てほしいと乞われて、平素ならば彼女と二人きりになることを忌避するはずの己が、それを了承した理由を見失っている。
ただ彼女が救いを求めているように思えたことは事実であり、何かを言いたげにしていたことは理解できた。
あの男の処理は、これからクレトが行う予定になっている。
その間、彼女が醜いものを目にしないよう調整する役目を担っているのだ。
だから、この流れは予定外ではない。
ただ己の心の裡がよく分からないだけなのだ。

「騎士様…先ほどはありがとうございました」
「当たり前のことをしただけだ」

顔を上げた彼女の涙は止まったようだった。
無理に笑ったような笑顔が痛々しい。
男の手が彼女の身体に触れ、彼女が己に助けを求めた場面を思い出し、抑えていたはずの激しい感情が甦る。
拳を握り締めてそれをやり過ごした。

「…王家の娘として、婚約を結ぶことを拒絶したいとは思いません。ただ…知らないうちに御相手が決まっていて、無理に身体を求める方ばかりで……辛くて、怖いのです…」
「婚約の件は、クレトも難儀している。あいつはまだお嬢さんを誰かと添わせたいとは考えていない。この迷惑な騒動はすべて国を手に入れたい部外者どもの差し金だ」
「そうですか…良かった、お兄様はやはり私の味方ですね」
「あいつの頭の中にはお嬢さんの幸せしかないさ」

涼しげな顔をして、恐ろしいことさえ実行できる国王となった友人は、ただ妹の幸福のみを願っている。
彼にとっての国宝が傷つけられるなどあってはならない。
それでも、敵側は人脈の広さと金にものを言わせて使用人どもを買収している。
即刻断罪してはいるものの、数の多さで言えば分が悪いのは覆せない事実である。
彼女の警護を増やすのが手っ取り早いか。

「…弱い女だと、思われているのでしょうか。私は…お兄様のように聡明ではないですし、騎士様のように強くもないですから」
「待て、それは誰かに侮辱されたのか?あいつの宝であって、オレの誇りであるお嬢さんを侮辱した愚か者は誰だ?」
「い、いえ…っ、私が勝手にそう思っただけです」

俯き加減だった彼女の顎に手をかけて、ぐっと視線を合わせる。
うっすらと潤んだ金の瞳には、取り繕うような色は滲んでいない。

「…あまり自分を卑下するな」
「ごめんなさい…」
「お嬢さんは綺麗だろう。美しいものを己のモノにしたがるのは多くの人間にある欲望だ。それを暴走させるかは本人の理性によるだろうがな」

じっと覗き込んでいた煌めくような金の瞳が揺れる。
白い頬にうっすらと朱が差して、ふっくらとした唇が微かに戦慄いた。

「……騎士様は、私を綺麗だと思ってくださるのですね」
「………そうだな」

彼女の言葉に、余計な言葉を零してしまったことに気づいた。
彼女は、彼女の容姿のせいで恐怖を味わったというのに、その事に触れるのは不粋だったろうか。
彼女が兄譲りの繊細さと気品を身につけ、多くの人間の目を引く存在になっていることは彼女に知らせることではなかったかもしれない。
彼女の成長を喜ぶクレトとは常々話していたが、当人にとっては喜ばしいことではない可能性もあったというのに。

彼女の目尻を、止まったはずの涙が滑り落ちていく。
ぽろぽろと落ちていく涙を止める術はなかったが、それでも彼女は嬉しそうに微笑むだけだった。
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