運命と踊る


彼女と出逢ったのは、建国記念のパーティーの日だった。
故国の王子であり、友人である彼から常々話は聞いていた。
そして、以前から話題に挙げていた妹が、初めて今夜のパーティーに参加するのだと先日話していた。
王家の娘として社交界デビューをする大切な日なのだと、熱心に語っていた。
その分、今後彼女が注目されるようになるのは耐えられない、と過保護な兄としての言葉もあった。

そんな彼が、普段の姿からは想像できないほど慌てている。
近衛騎士としてパーティーの警備に駆り出されていた己と話していたのは、つい先程だった。
参加者への面倒な挨拶が終わったらしく、妹を連れてくるよ、と笑顔で別れたばかりだ。
てっきり妹を連れて戻ってきたのかと思ったが、そうではないらしい。
穏やかで腹の底が知れない佇まいの友人が、発狂しそうな自身を抑えるように微かな声で呟いた。
──妹がいない、と。



「いない…!いないんだ、私の大切なあの子が…っ」
「落ち着け、オレが探してくる」
「あぁ、そうだね…アレクならきっと見つけてくれる……頼むよ」
「動きにくくなるから知られるなよ」
「解っているよ…十歳の小柄な子だ。蜂蜜色の髪、宝石のような金の瞳、夕焼けのような暖かな赤のドレス」
「十分だ」

必要な情報を共有し、取り乱していた友人が深く息を吐き出した。
落ち着きを取り戻す為の行為なのだろう。
何度も何度も繰り返し、ようやく穏やかな笑みを見せる。
普段よりも引き攣ったような笑みだが先程より穏やかになった友人を見届け、静かに持ち場を離れた。



カツ、カツと鈍い靴音が人気のない廊下に響く。
夜の帳の下りた世界では灯り取りから射し込む光も無く、蝋燭の灯りだけが揺らめく廊下はとても暗い。
静かな廊下には何の気配もなく、異世界に連れ去られてしまったような不安な気持ちを揺さぶる。
突然現れた知らない男は、『兄君に呼ばれております』とだけ告げた。
何故だかその振る舞いが怖くて身を引くと、それを阻むように、わたしの手を掴んだ。
兄は友人の元にいるはずで、友人を紹介する時は必ず迎えに来ると言っていた。
兄が来るまで待つと言ったわたしに向かって、早くしなさいと言い、男は怒ったように掴んでいた手に力を込めた。
その強さに泣き出しそうになった時、男に引き摺られるようにしてホールの裏口からこの廊下に連れ出された。
人の喧騒から離れると、子どもの身体は軽々と担ぎ上げられ、足が虚しく宙を蹴り、逃げ出す気力を失った。
声を上げようにも口元には布が巻かれ、口は塞がれている。
(…お兄様……っ)
優しい兄の姿を求めて、流れていく景色に目を凝らした。
誰でもいい。誰か、わたしを助けて───!
届かぬ願いを胸の中で叫んでいると、金属の独特な匂いが鼻についた。
ホールの裏口から中庭の方に向かって進んでいるのだろう。
この先は、きっと武器庫のはずだ。
武器庫には中庭に通じる扉があり、そこから外に出れば、騎士団の宿舎に行ける。
騎士団は、王家を護る最強の兵団だと教えられた。
騎士団の宿舎まで逃げられたなら、わたしを助けてくれる人がいるかもしれない。
しかし、武器庫から宿舎までは子どもの足ではとても距離があり、兄から騎士たちもパーティーの護衛に駆り出されていると聞いた。
もしも逃げられたとしても、助けてもらえるかどうか怪しいのではないか。
どうしたらいいのか分からない。
どこに逃げればいいのだろう。
そうこうしてるうち、武器庫に着いてしまった。
頑丈そうな扉が開き、入口から遠い場所で男の肩から下ろされる。
口に巻かれた布が取られ、代わりに手首を太い縄で縛られた。

「騒いだら、多少痛めつけます。生きていればいいとの依頼ですから」
「……はい」
「少し離れます。ここに座りなさい」

男の声音はとても冷たく、座ったら二度と逃げられない気がした。
恐怖を堪えて首を振って拒絶すると、バチン、と左耳で甲高い音がして、次いで左頬が燃えるように熱く痛んだ。

「多少は痛めつけると言いましたよ。指示に従いなさい」
「……っ」

痛みで視界が滲む。痛いと泣き叫びたかった。
それでも負けずに立っていると、男が何かを取り出した。
シャラ、と音がして、それに目を向けた瞬間。
スカートの左側が裂かれた。
暗闇の中で不気味に光るそれが剣であることに気づき、恐怖に足の力が抜けて地面に座り込む。
そのまま地面に縫い付けるように、ドレスのスカートに深々と剣が突き立てられた。

「まったく…手の掛かる子どもだ」

睥睨する男の冷たい眼差しに萎縮して、涙すら零れない。
大人しくなったわたしを見て、男は外に続く扉の方に移動した。
扉に顔を寄せ、ボソボソと話し始める。
扉の向こうには、男の仲間がいるのだろう。
唯一の逃げ道の向こうには誘拐犯の仲間がおり、逃げられぬように縫い止められている。
もはや自分の力では逃げられないことを思い知り、止めどなく涙が溢れる。

兄と一緒に、初めてのパーティーに参加しただけだったのに。
兄が友人を紹介してくれると言っていたのを楽しみにしていたのに。

──痛みと恐怖と悲しみが、幼子の心を絶望で満たしていった。



友人には告げなかったが、犯人だと思われる怪しい人間に心当たりがあった。
それは、先月騎士団に入団した男だ。
訓練態度は真面目だが、ふらふらと居なくなる事が多かった。
偵察のように城内を歩き回り、いつの間にか戻ってきているという具合だ。
そのうち、友人の妹が今回のパーティーに参加するという話を聞いたのか、しつこく妹の容姿について聞き回っていた。
その割に、パーティーの近衛役は辞退している。
将来の姫に興味があるのかと団員たちは笑っていたが、あまりに奇妙だ。
何よりも、会場にいないはずのその男を、友人と談笑している間にパーティー会場で見かけたように思った。
…やはり不穏分子だったか。
これでは、騎士団の腑抜けについて友人に手厳しい指導を受けるだろう。
国家の誇りを体現するべき騎士団が零落れてはならない。
騎士団に属していた者が利用するだろうルートを考え、騎士団員が目立たずに城外へ抜けるなら武器庫しかない。
中庭から武器庫を目指して駆ける。
案の定、宿舎に続くはずの扉の前に協力者だと思われる見知らぬ男が立っていた。
扉に顔を寄せ、目立たぬように身体を縮めている。
中との会話で忙しいのか、こちらに気づく様子はない。
呼吸を整え、精神を静める。
音を消し、気配を消して近づき、背面から心臓に向けて一呼吸で刺し貫いた。
そのまま一気に引き抜き、剣を振って血糊を払う。
男は何が起こったのか分からぬままビクッと跳ね、口から血の塊を吐き出す。
そのまま扉に凭れるようにして倒れ、男は事切れた。

外の異変を感じたのか、扉の前から気配が遠退く。
死体を蹴飛ばして扉の前から退かして扉を開けると、目星をつけていた男が闇の中に立っていた。
サッと視線を滑らせ、薄闇の中でぐったりと座り込む子どもの容姿が、友人の告げていた妹の容姿と同じであることを確認する。

「子どもは返してもらうぞ」
「わ、私は、姫様がここに連れ去られるのを偶然目撃して、助けに来ただけです…っ」
「──パーティー会場にいたな」
「……っ!」
「それが答えだ」

薙ぐように振るった剣は、子どもの側に突き立てられた剣に手を伸ばした男の腕を掠めた。
掴めなかった剣が、カラン、と床に転がる。
男の眼前に突きつけた切っ先に息を呑み、暫く睨んだ後、男は大人しく両手を上げた。
転がっていた剣を蹴飛ばし、武器庫にあった縄で男の腕と足首を縛る。

「おい、生きてるか」

目を瞑ったままの子どもに声をかけ、呼吸と脈を確認する。
…死んでいたなら、それこそ己が友人に殺されるかもしれないが。
トクトクと規則正しく脈打ち、白い瞼が微かに震えた。
焦点の合わない視線が彷徨い、ようやく己を捉える。

「……だ、れ…?」
「クレトからの依頼だ」

兄の名前を聞いて、虚ろだった子どもの瞳に輝きが戻る。
闇の中で、宝石のようにキラキラと瞬く。
縛られていた縄を切り、子どもの身体をゆっくりと起こす。
動きに合わせて髪が流れ、露になった頬に違和感を持つ。
髪を払って確かめれば、子どもの頬が赤くなっていることに気づいた。
素早く全身に視線を滑らす。そして、思わず顔を顰めた。
光沢のあるドレスのスカートが裂かれている。
脚に傷は無いようだが、幼い子どもにする仕打ちではない。
鬱陶しいだけだと思っていた正装のマントを外し、微かに震える子どもに被せた。

「戻るぞ」
「はい…っ」

コクリと頷いた子どもを抱き上げ、部屋の隅で項垂れる男をちらと見た。
同情する気は微塵もないが、男に待つ運命の終わりを予想し、呆れたように嘆息した。
もっと賢く生きればいいものを。
何を考えて友人に敵対しようとするのだろうか。
武器庫の鍵を閉め、薄暗い廊下を進んでパーティーホールへと戻る。
泣き叫びもせず、腕の中で大人しくしている姿は、気高い友人と似ているようにも思える。
肩口に顔を埋めるようにして縋りつく姿に、ほんの少しだけ、友人がか弱くて護りたい存在なのだと言うのが理解できたように感じた。


「──アレク!あぁ、クレア…!」

嬉しそうな声が響き、ホールの裏口で待っていた友人が駆け寄ってくる。

「待たせたな」

腕の中の子どもを掲げるように見せれば、友人の顔が『兄』へと変化する。
探し求めていたであろう兄の声を聞いて、腕の中で小さくなっていた子どもが顔を上げた。
その瞳が兄の姿を捉え、くしゃくしゃに歪んだ。

「…っ、おにぃ、さま…っ」
「クレア…!おいでっ」

両腕を広げながら駆け寄る友人に手を伸ばし、その腕の中に移動する。
今まで大人しくしていた子どもは、わんわんと泣きじゃくり、小さな手で必死に友人にしがみついた。
深く息を吐き出し、安堵の笑みを浮かべる。
妹を強く抱き締めて、友人は穏やかに微笑んだ。

「ありがとう、アレク。流石私の友人だ。君以外には頼れないよ」
「それは良かった。お前の頼みだからな」
「早く君にお礼をしたいし、クレアを紹介したいよ」
「──左頬、ドレス」

兄妹の再会を邪魔するつもりはなかったが、安堵する友人に、事実だけを告げる。
その短い言葉に、嬉しさで笑みを溢していた友人の表情が一瞬で凍りついた。
泣きじゃくる子どもを宥めながら、子どもの全身に視線を滑らす。
それが事実なのだと解った瞬間、その穏やかな眼差しに、絶対零度のような冷酷さが宿った。
最愛の妹を傷つけられた時、この穏やかな友人は『人でなし』に変わる。
本人には決して告げないが、その姿を見るのはささやかな楽しみだった。
友人の持つ両極端に振り切った感性は、醜くドロドロとした世界の中では好ましいものに思う。

「…そうか。私も挨拶に行こうかな」
「それはいいが、妹はどうする」

未だに震える子どもに向けて、兄としての優しい笑みを向ける。
目尻に溜まった涙を拭ってやりながら、穏やかに諭す。

「クレア、今日はもう休もう。怖いことがたくさんあっただろう?今日は一緒に寝ようか。仕事を終えたらすぐに行くからね」
「お部屋まで…お兄様も一緒に来てくれる…?」
「もちろんだよ。さぁ、行こう。アレクも一緒だよ」
「…おい」
「私の友人は優しいから、ね」

強引な友人に連れられ、妹の私室に向かう。
扉の側に控えていた侍女に着替えを用意させ、身を清めるまで部屋の外で待つ。
声を抑えながら簡単な報告を済ませると、友人は冷え冷えとした笑みを浮かべた。
この友人は、妹への愛情が深い。
その理由を教えてもらったことはあるが、そこまで愛せるものなのかと疑問に思う。

「アレクにも、愛する者が現れれば理解できるよ」

思考を読んだのかと疑うような絶妙なタイミングで、友人は穏やかに溢した。
感情が分かりにくいと言われることは多いが、この友人相手にはあまり関係ないようだ。
腹の底の知れない不穏さは、彼の洞察力の高さに起因している。

「君に釣り合う女性なんているかが問題だけどね。そうだな…いっそ私の大切なクレアはどうだい?」
「…お兄様の怒りを買うのは御免だな」
「私はね、友人と妹しか愛していないから、その二人が幸せになるなら私も幸せだよ。愚かな連中にクレアを渡すつもりはないしね」

ニコリと微笑み、視線を移動させ、妹の私室を見つめた。
彼女以外に、これほどの愛情を向けられる人間はいないだろう。

「…あの子が健やかに生きることは、何よりも大切なことだ。だから、君の腕ならあの子が死ぬこともない」
「買い被り過ぎだ」
「それに、あの子は今よりもっと美しく成長していく。見た目は当たり前だけど、きっと心は一際美しい…そうなれば、朴念仁の君でも恋に落ちると思うよ」
「どうかな…オレが他人を愛するとは思えないな」

誰かと生きる未来を考えたことはない。
一人で、この友人であり次期国王である彼の、剣と盾として生きることしか考えていない。
ここで彼女の存在を知ったとしても、その未来に変化は無いだろう。
頑として頷かない己が面白くなかったのか、どうにか説き伏せようと友人は何かを考えている。
そして、何かを閃いたらしく悪戯を楽しむ子どものような笑みを浮かべた。

「──なら、賭けをしようか」
「賭け?」

珍しい言葉が飛び出たものだ。
ギャンブル系の余興は好まないくせに。

「君が、クレアを愛するか否か。私は愛する方に賭けよう。私が勝てば、喜んで君にクレアを託すよ」
「賭けに負けたらどうする?」
「負けたら、何も変わらずに今まで通りだよ。私と君は友人で、私はクレアを愛する。それが不服なら、君のお願いを一つくらいなら叶えようかな。その頃には王位は私のものだからね」
「オレに損が無いな」
「友人に損をさせるような悪趣味はないよ」

ふつりと会話の途切れた瞬間、ちょうど良く私室の扉が開き、侍女が顔を覗かせた。
頬以外に外傷は無いらしい。
ほっと息を吐いた友人は、既に妹が眠りについたことにさらに笑みを深めた。
トラウマにならず、眠れぬほどの恐怖は植え付けられなかったのだ。
また後で顔を出すことだけを告げ、侍女が扉を閉めるのを見届けた。

「…賭けの話は、あの子には秘密だよ。あの子の想いは縛りたくない」
「可愛い妹には秘密が多いな」
「あの子が余計なことで心を痛める必要はないからね。無知を否定する見方もあるが、全てを知っていたって幸せにはならないよ。私と君がそうだろう?」

最後の言葉に、無言以外を返すことはできなかった。
既に『妹を愛する優しい兄』としての顔はなく、絶対的な君主としての冷酷さを張り付けていた。



武器庫までの長い廊下を進み、頑丈な扉の前に立つ。
燭台に照らされる友人の横顔に感情はなく、作り物めいた不気味さを纏っている。
静かに扉を開けば、最後に見た姿のまま項垂れる男の姿があった。
男は瞬間的に顔を上げ、入ってきた友人の顔を見て硬直した。
まさか陥れたい人間がのこのこ来るとは思わなかったのだろう。
恭しく友人を男の前に案内し、その後ろに控える。
捕まえた男の前に立った友人の背には、抑えられぬ殺意が漲っている。
この男の触れてはならぬものに手を出したのだから、それだけの怒りを向けられるのは当然のことだろう。
即断罪されないだけマシだ。

「初めまして。愚か者よ」
「く、クレト…様…っ」
「騎士団にいたくらいなんだ、私が病弱であることくらい知っているかな?病弱ではあるんだが、私は決してお前のような者に劣るつもりはなくてね」

友人の左手がゆったりと動く。
病弱故に線の細い友人が、その細さを隠すために纏う長いローブ。
そのローブに隠され、普段は人目に晒されることは無いが、彼の腰には細身のレイピアが備えられている。
ただでさえ細い刀身をさらに細め、しなやかさと軽さに加え、鋭さを極めたそのレイピアは、友人の持つ恐るべき武器である。
ローブがふわりと風を孕んで動いた瞬間、男の右目ギリギリにレイピアが向けられていた。
眼球を突き刺さんと真っ直ぐに据えられたレイピアに、男は呼吸を忘れたかのように固まっている。

「騎士団の剣術は、敵を殺すというよりは無力化することに重きを置いている。多勢を相手にするなら、それは間違っていないだろう。私はね、生かして返せば敵は減らないから脅威は変わらないと思うんだ。殺しを肯定はしないけど、最小の被害で最大の利益を望むのは当たり前のことだろう?頭を落とせば、統制は乱れる。逃がすも取り込むも簡単だ」

ほんの少しだけ引いたレイピアの切っ先に、男は思い出したかのように呼吸を繰り返す。
男の荒い呼吸だけが響き、友人はゆっくりとレイピアを下ろした。

「…私は、蜥蜴の尻尾に興味はないんだ。ここまで言えば解るかな?──黒幕を明かせ」
「……は、話せば…生かして…くれますか…?」

この時点で、目の前の男は何も理解できなかったのだと悟った。
正装の取り扱いに煩い騎士団長の顔を思い出し、上着とマントを脱ぐ。
シャツは黒地のため、例え汚れたとしてもそれほど目立たず処理できるだろう。

「…お前の生死の裁定は、情報の真偽に依る」
「そんな…っ」
「お前たちは勘違いをしているが、私は武器を持てぬほどひ弱ではないし、平和主義者でもない。私に騎士団のような力強い剣は振るえないが、その代わりに一撃で仕留めるための正確さと速さを極めたんだ。私の剣は貫くための剣でね、一対一なら騎士団の団員如きに劣るつもりはないよ」
「…サシでは本気でやり合いたくはないな」
「純然たる決闘なら、君にも負けるつもりはないからね」

カタカタと震え始めた男は、友人の腕前が上辺だけではないことを実感しているのだろう。
大量の汗が噴き出し、さらに呼吸が乱れていく。
生き残る術はもはや無いが、生き残れるかもしれないという希望に縋りつくしかない。

「………え、エイブン家の次期当主からの依頼です…っ」
「……あぁ、あの家か。目的は?」
「…ひ、姫様との婚約を白紙にされた腹いせだと…姫様を拐い、既成事実を為すのだと…っ」
「困った一族だ。本当に頭の悪い男だったな。あの子は十歳を迎えたばかりの子どもだと言うのに、それを無視して無体を働こうとしたのか…」

与えられた情報は、友人の怒りに新たな火種を生み出した。
下ろしていたレイピアを床に突き立て、男へ更なる圧力を掛けていく。

「…彼に排除された男の身分は?」
「…え、エイブン家が囲んでいる裏稼業の人間です…私も同類ですが、相手の名前は知りません。文面越しにやり取りをしていたので…」

どこまで粛清するかは君主である友人に任せ、ひとまず標的の正体は分かった。
あとはどれだけ脅した所でこれ以上の情報は得られないだろう。
チラとこちらを見た友人に頷き返し、腰に下げてある剣の柄に手を掛けた。

「……お前の役目は終わった」
「─!?」
「アレク、頼んだよ」
「──仰せのままに、国王陛下」

剣を引き抜き、肩慣らしに一振する。
剣が空気を裂く甲高い音が鳴る。
大きく肩を震わせた男が、怯えたように顔を上げた。

「ひ…っ!な、何故…!?」
「──私は決して許さない…あの子を傷つける者は、何者であっても許さない。お前の死を以て、あの子の傷も多少は癒されるだろう」
「…じ、慈悲を……っ!い、嫌だ…!!やめてくれ…!!」
「──お前の首を差し出せ」

『君主』として振る舞う友人の気迫に呑まれ、ガタガタとみっともなく震えるだけの男は、もはや何も言えなかった。
剣を掲げ、俯く男の首に狙いを定める。
傍らに突き立てレイピアに左手を添え、右手を掲げた友人が、じっと男を睨み付ける。
その右手が下ろされると同時に、剣を振り下ろした。
ゴトッという鈍い音が、暗闇の中に響いた。
転がった男の首を蹴飛ばすと、ぬるついた水音が聞こえた。
仄かな灯りに照らされ、生温い暗赤色がゆっくりと石畳の床に広がっていく。
血の海になる床を見下ろして、友人は深いため息を吐き出した。

「どうした」
「どうして静かに暮らさせてくれないんだろうか…私は、ただ友人と妹と穏やかに生きていたいだけなんだ。それ以外には何の興味もないのに」

ささやかな願いを呟きながら、額に汗を浮かべ、血の気の失せた顔をしている。
ただでさえ疲れるパーティーを終えた後も、休息を取る間もなく夜半まで活動していれば、友人の身体には負担が大きいだろう。
精神的に磨り減っていたこともあり、彼の身体は限界を迎えたようだ。
友人の右腕を己の肩に回して彼の身体を支え、ひとまず武器庫を出ることにした。
暗闇の中には誰も居らず、静かな世界に靴音だけが微かに響く。

「…お前が早く王位を手にすればいい。そうすれば、誰も手出しはできない」
「そうだね…次期騎士団長様も私用で使い放題だ」
「お前に使われる分には不快じゃない。オレはお前の手足だからな」
「私の可愛い妹には?」
「…使うようなことは無いだろう」
「ふふ、確かにね。あの子に力は必要ない」

すっかり忘れていた賭けの話を暗示され、こちらが頭を抱えたくなる。
あまり冗談を言わない質ではあることは理解しているが、今回ばかりは冗談であってほしいと思ってしまった。
仮にも王家の娘なら、もっと相応しい相手がいるはずだ。
彼の願いとはいえ、己にそうした欲が無いのだから賭けの結末は予想できるだろう。
それでもなお言うのなら、友人の中には何かの予感があるのか。
…全てを見通すような瞳を一瞬こちらに向けて、友人は仄かに微笑んだ。

自室に戻るのかと思えば、友人は妹の私室に行くと言って聞かなかった。
仕方なく妹の私室に向かい、軽く扉をノックする。
侍女が顔を覗かせ、侍女が退室すると代わりに二人で部屋の中に入った。
広めの椅子に友人を座らせ、軽い疲労感を訴える身体をほぐす。
友人は用意されていた水に口を付け、衝立越しに妹の健やかな寝息に耳を澄ませる。

「…良かった。よく眠れているようだ」

嬉しそうに笑みを溢し、友人はようやく『兄』の顔に戻った。

「クレト、あとの片付けは騎士団でやらせてもらうぞ。騎士団の腑抜けを理由にもう少し力を奮っても良さそうだ」
「シナリオは考えておくから、あとは君に任せるよ。やはり騎士団には強く高潔でいてもらわないとね……蜥蜴本体の処理は明日以降に考えるよ」
「あぁ」
「今夜はありがとう」
「気にするな」

拳を突き合わせ、長い夜に幕を下ろした。
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