ゴールデンカムイ


町に出る度に、奇異の眼差しを向けられる。
アイヌの人間が珍しいことや、この幼い身で一人きりでいることが原因だろう。
もう慣れた。
だから、今日もそうした視線を向けられ続けていることを自覚している。
自覚しているが、何もされない限りは何もしない。
ぼそぼそと聞こえるやり取りは、何を話しているのかは聞き取れなかった。

このまま小屋に帰ろう。
そう思って人通りから離れた瞬間、身体が浮いた。
担がれ、裏通りに連れて行かれそうになっていることが分かった。
すぐに声が上げられないように口を塞がれる。
口元に当てられた太い指に無我夢中で噛み付くと、男の鈍い悲鳴が上がった。
拘束が弛み、どうにか脱出しようと藻掻こうとした時、不意に完全に拘束が解かれた。

「─アシリパさんっ!!」
「す、杉も…」

別の店に赴いていたはずの杉元の声に呼ばれたと思ったら、そのまま布団のようなものに投げ込まれた。
そのプニプニとした感覚に思い当たり、慌てて体勢を整える。

「いった~い」
「白石!杉元を止めろ!」
「無茶言わないでよ、アシリパちゃん」

苦笑いを浮かべた白石の顔を見て、思わず唇を噛んだ。
肉や骨のぶつかる音、杉元の怒号、男たちの悲鳴。
嫌な音ばかりが聞こえてくる。
止めようとする白石の腕を払って、杉元の側に駆け寄った。

「杉元!もういい!」

鼻や口から血を流し、顔に痣のできた男の胸ぐらを掴んでいた手を離すと、悪鬼のような形相を解き、酷く心配しているという顔つきに変化した。
駆け寄る自身を抱き止め、膝を折って怪我をしていないか丹念に確認してくる。
その手についた血を拭ってやろうとすると、正気に戻ったのか拒否を示した。

「ごめん、アシリパさんの手が汚れちまうから触らないでくれ。それより、本当に怪我はしてないかい?変なことされなかったかい?」
「…大丈夫だ。ありがとう」
「早く小屋に帰ろうか」
「…あぁ、そうしよう」


夕食を終え、酒盛りも終え。
微かな月明かりが射し込む森の片隅で、杉元の毛布にくるまりながら昼間の出来事を思い出していた。

傷だらけの身体。総毛立つ殺気。
あらゆるものから死を忌避する精神が、この男を不死の戦士へと豹変させ、私は護られている。
それは過剰とも言える程に。

…私がいたら、杉元は元には戻れないのか。
干し柿を食べて、彼の故郷に行ったら、私は関わることをやめよう。
私といると、いつまでも不死身のままだ。
別れなくてはいけない。そうしなくては、杉元は化け物のままだ。
モヤモヤと胸に巣食うこの言葉にできない感情は何だろう。
杉元の中にいる女の人が気になる。
杉元は、その人の為に北海道に来たのに。
でも、離れたくないと思ってしまう。
相棒がいなくなることが悲しい。
…あぁ、これが。
これが、物語で語られる恋というものなのだろうか。
分からないことばかりだ。
何でも教えてくれたアチャでさえ、それは教えてくれなかった。
家族と、自然以外と触れあうのは苦手だ。
色んな感情が沸き上がってくる。分からないことばかり増えていく。
だから、すべてのものと距離をおいて生きてきたのに。
情を移さないように。淋しくならないように。
私から決別したことはなかったのに。
大切なものは、いつも私を置いていく。
指から零れ落ちていくように、儚く消えてしまう。

じわりと滲んだ涙を隠すように、隣で眠る杉元の体に顔を押し付けた。

「……どうしたの、眠れないのかい?」
「……手は、もう痛くないのか」
「あぁ、大丈夫だよ。アシリパさんの手当てのお陰だ」

体の向きを変えた杉元が、向かい合って包み込むように距離を詰めた。
ぐずる子どもをあやすようにポンポン、と背中を叩く。

「お前がどれだけ怪我をしても、私がちゃんと手当てしてやるからな」
「ありがとう。なら、俺は必ずアシリパさんを護りぬくよ。何があっても、ずっと側にいるから。アシリパさんに手を出そうとする奴は、みんな俺がブッ殺すよ」
「…誰もお前を殺せないなら、私がお前を殺そう」

──不死身の杉元から、杉元佐一に戻してやる。

強くて美しい少女は、真っ直ぐな眼差しで宣言した。
酷く幸福な殺害予告だと、にやけてしまう頬を隠すのに苦労した。

きっと地獄は特等席だ。だが、死にたいわけじゃない。
生きたくて、生きたくて。
死にたくないから、生きるのを邪魔する奴を殺してきただけなのだ。
この強いアイヌの少女の為に、生きていよう。
彼女の為に死ぬなら、なんて幸せだろう。

「おやすみ、アシリパさん」
「……うん、おやすみ」

こんなに張り裂けんばかりに胸が痛むなら。
恋なんて知りたくなかった。




「─白石」

ふと、真夜中に名前を呼ばれた。
まだまだ眠気のピークの途中に睡眠を遮られ、お茶らける余裕もなく幾らか機嫌が悪くなるのを自覚する。
それでも意地で寝たふりを続けると、さらに低められた声音で呼ばれた。

「─白石、起きろ」

ゾッとするような鋭い殺気を感じ、反射的に目を開いた。
呼び掛けていた杉元が唇に人差し指を当て、黙るように指示を出す。
その指示に従いながら、追っ手が来たのかと不安に思う。
それにしては、気配に敏感なはずの少女は処理をされた焚き火の側で眠りこけていた。
共に行動しているはずの尾形は、少し離れた大木に寄りかかって銃を抱いて眠っているように見える。
視線だけでついてくるように促され、常に側から離れず護っているアシリパを置いていっていいのかと心配に思ったが、何も言えずに闇に溶けそうな杉元の背中を追いかけた。
暫く歩き、さらさらと流れる水の音を知覚した頃に、ようやく杉元の足が止まった。

「…おい、どうしたんだ?アシリパちゃん置いてきて大丈夫なのか?」
「白石」
「な、なんだよ…そんなに呼ぶなって」
「─お前は、アシリパさんを絶対に裏切るな」
「あ、あぁ…分かってるぜ、そういう約束だからな」

二人に懸けること。そして、絶対に裏切らないこと。
それは確かに誓ったことだ。
それを今さら持ち出してどうするというのだろうか。

「違う、そういうことじゃない」
「違う?」

不穏な空気は相変わらずだが、何を考えているのか解らないことが一番の恐怖だ。
じっとりと汗ばみ震える拳を握り締め、静かに杉元の言葉を待った。

「お前は絶対に裏切るな…アシリパさんを、独りにしないでくれ」

それはお前の役目だろう、と言いたかったが口を噤んだ。
杉元の真剣な眼差しが痛かったのだ。
不死身の男は、きっとあの子を護る為なら命を捨てられるのだろう。
この男にとって、それがあの子の幸せなのだと思えたら、きっと平気で命を投げ出すのだ。
そして、もし自身が死んだ後に代わりにオレにあの子の側に居ろと言うのか。

「……そんなの、重すぎるだろ」

この男があの子に向ける優しさも、護ってほしいと願う男からの責任も、二人の間にある強い結び付きも。
そして、あの子の可愛らしい思慕も。
何もかもから逃げてきた自分には、なんて重いものだろう。

「オレにお前の代わりなんて無理に決まってるだろ。お前が最後まであの子の側にいろよ」

怒ったような口調で反論すれば、杉元は何も言わずに目を伏せた。
それ以上のやり取りはなく、耳が痛くなるような静けさに包まれる。
その場に留まるのが怖くて、振り返らずに寝床へ戻ることにした。

普段は何も思わず過ごしているが、こういう時は心底嫌気が差す。
自分の幸せを二の次、三の次にして、他人の幸せを願う奴の気が知れない。
幸せになるのは自分だ。
自分が、この世で一番幸せになりたいんだ。
何故、泣いて喚いて、幸せになりたいと叫ばないのだ。
十分に幸せになるべき資格を持っているのに。

ぐるぐると慣れぬことを考えたせいか、少し頭が痛む。
頼られることの嬉しさと、そうした不器用な優しさに巻き込まれる悲しみがぐちゃぐちゃに混ざって、何故だか涙が溢れた。

荘厳な北の大地を覆う冬の夜に。
初めて、他者に幸せになってほしいと強く願った。
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