金色のガッシュ


──右手に残る熱を、ずっと覚えている。

初めて繋いだ手は、あまりに呆気なく消えてしまったくせに、少し低い体温と、ゴツゴツとした掌の歪な感触を残していった。
不器用な力加減のそれは、彼の精一杯の触れあいだった。
──今なら、それが当時の彼にとっての愛情表現だったのだろうと思える。
弱者を唾棄し、強さだけを求めていた彼が、緩やかに変わっていく様を見るのは嬉しかった。
それはパートナーとして彼に認められていくようであり、あの当時の喜びそのものだった。

懐かしい本の表紙を象った黒い封筒が届いた時。
彼の無事を知った私の胸には喜びが溢れ、叶わぬ再会にどうにもできない絶望を残した。
心の中心に、決して埋められない穴が穿たれて、悲しみに暮れていた。
あの魔本の紙を使っているだけあって、どれだけ涙で濡らしても、決して文字が滲むことはなかった。
幾度も幾度も読み返しては、彼の残した言葉の意味を考えていた。
『幸せだった』
何が、どうして。
何故、私と過ごした日々を幸せだと感じられたの。
私は貴方の足手まといになって、その度に救われたのに。
私が彼を救ったことは無い。
王にするという約束さえ果たせなかった。
右手に残る熱が、時折憎らしくさえ思えた。
私に答えの無い問だけを残して、私をずっと縛っている。


手紙を書き始めた日は、覚えていない。
そもそも彼の短い手紙に、返事を書くつもりは無かった。
もう会えないのだから、書いても意味は無いと思っていた。
余った紙の端に、走り書きをしたのがきっかけだ。
簡素な日記のような、メモ程度の感覚だった。
それくらいの軽いものであったが、結局彼のことばかりを思い出してしまった。
彼がいたなら、と。
彼のことばかりを書くなら、手紙の返事として形にした方がスッキリすると思ったのだ。
月に数度書いていたものは、年に数度になり、今は年に一度になった。
その間に、彼からの手紙は来なかった。
何度かかつての戦友たちと顔を合わせる機会はあったが、彼らも魔界に帰った子どもたちと再会することはできなかった。
手紙も、あの一度きりだったと言う。
何らかのきっかけで魔界と繋がることを祈ってはみたが、届かぬ手紙ばかりが溜まっていった。
上質な白い便箋は、日が経つにつれて少しずつ傷んできた。
彼との別れから、早数年。
それでも、右手の熱だけは、ふとした時に鮮やかに甦ってくる。


「シェリーお嬢様」

普段より沈んだ爺の呼びかけに、また嫌な話を持ってこられたのだと顔を顰めた。
淑女らしいたおやかな笑みを張り付けて振り返り、爺の言葉を促す。
爺の手元には、見覚えのある書類の束が重ねられている。
それに視線を落とした爺が、申し訳なさそうに口を開いた。

「新しい婚約者候補の方々の資料をお持ち致しました」
「……懲りないのね、お母様は」
「ご覧になられますか」
「爺には嫌な仕事ばかりを押し付けてしまうけれど…お母様に返しておいてちょうだい。私には必要ないの」

静かに頭を下げて、優しい老執事は姿を消した。
成人してから、以前よりも明確に縁談を提示されるようになった。
家名を、血縁を残せと迫る両親にうんざりしていた。
一生を添い遂げる相手なら、せめて自分で選ばせてほしいものだ。
甘やかされ、ぬるま湯で育てられた男に興味は無い。
心に居座り続ける黒い影は、誰よりも堂々とした風格を持っていた。
…右手の熱を思い出すたびに、この想いは恋だったのだと自覚するのだ。

渡すべき相手に届かないなら。
彼への手紙は、私の隠すべき想いを吐き出す場所になった。
恋だと知った想いは、時間をかけて熟成させたことで、知らぬ間に恋とは呼べぬものになっていた。
恋よりも深すぎて、愛なのだと気づいた時には、二度目の絶望を生んだ。
伝えるべき相手とは二度と会えず、この想い以上の感情を彼以外の誰かに抱けるとは思えなかった。
昇華できない想いを抱えて、永遠に過去に縛られるのだと思っていた。
そう思っていたのに。
あの王位を賭けた戦争のように、魔物はどれほど身勝手なのだろう。


月の無い夜だった。
手紙を書く気はなく、ただ昔に書いたものを読み直していた。
今でも、『幸せだった』と残した彼の想いを読み解くことはできずにいる。
ただ、今なら私も『幸せだった』と返せるだろう。
私を救い、護り続けてくれた彼と過ごせたことを。

不意に、手元の灯りが揺らめいた。
締め切っていたはずの窓が微かに開き、風が吹き込んでくる。
いつもより暗い室内で、ふわりとカーテンが揺れる。
床に伸びる黒い影より濃密な影が、開けられた窓─カーテンの向こう側に佇んでいた。
──どくり、と。
心臓が一際大きく脈打った。
椅子から立ち上がり、窓際から離れる。
私の動きを察した影が、短く舌打ちをした。

まさか。あり得ない。
夢であってほしい。
彼とはもう会えないのだ。
現実と、己の想いと向き合うことが怖い。

「シェリー」

懐かしい呼び声。
なのに、低く、身体に響くような声音。
知らない男の声が、知っている呼び方をしている。
強張る身体に叱咤して、咄嗟に触れたものを影に投げつけた。

「──来るなら来るって言いなさい!バカ!」
「……おい」

再会の嬉しさと気まずさから、何を言えばいいのかと混乱した。
避けることなく文句を受け止めた影を睨み、バサバサと散らばる音を聞いて青ざめた。
今、私は何を投げたのだ。
慌てて影に駆け寄って、投げたものを回収しようと手を伸ばす。
しかし、それよりも先に太くしっかりとした腕に腰を抱かれ、動きが取れなくなった。
その間に、指を鳴らした彼の手元に手紙が集まっていく。

…届いたらいいな、と思ったことはある。
返事なのだから、相手に読んでほしいと思うのは当たり前だろう。
けれど、こんなはずではなかった。
渡すべきものは選別したかった。
何を書いたかも覚えていない古いものだってあるのだ。
何よりも、秘めた想いなど知られたくなかった。

数年会わない間に、憎らしくも可愛かった魔物の子は、今や長身の成人へと成長していた。
逞しい骨格に応じた重厚な筋肉が身を包み、相変わらず怖がられそうな顔つきは変わらないが、それでも精悍さは増している。
私の知らない細かな傷痕も目立つ。
腰を抱かれたくらいで、簡単に私の身体が浮いてしまう。
もっと背は低くて、私を見上げる瞳を見つめ返していたのに。

「……大きくなったわね、ブラゴ」
「ガキ扱いするな」
「そうね、立派な男の人よ。もっと頻繁に手紙を書いてくれたら、もっと素敵なんだけど」

八つ当たりのような嫌味を言っても、彼の振る舞いが揺らぐことはない。
手紙のことは諦め、黙々と手紙を読むブラゴの横顔を眺めた。
パートナー時代に人間の文字くらいは教えた気がする。
書けずとも、読めるくらいには身に付けていたはずだ。
だから、きっと何となくとはいえ内容は理解できるだろう。
自由な両手で顔を覆って、情けない顔を隠す。
彼の反応を見るのが怖い。
長い長い沈黙が、残酷な結末に近づいているように感じる。
名前を呼んで、それ以上なんて声をかけたらいいのだろう。
ふと、腰を抱いていたブラゴの腕に力が入った。
一瞬とはいえ、潰されるかと思うほどの力に呼吸が乱れる。
それに気づいたブラゴが珍しく慌てたように腕を離し、突然重力に引っ張られてよろめいた。
ブラゴの腕に掴まり、何とか転ばずに踏ん張る。
ちらと見やれば、片手で目元を隠したブラゴが深いため息を吐き出した。

「……シェリー」
「手紙…全部読んだのね?ごめんなさい、私の勝手な気持ちだから、貴方は気にしないで。あの…貴方から手紙貰ったとき、本当にとても嬉しかったのよ」
「お前……」

それ以上、彼の言葉は続かなかった。
元々口数は少ないタイプだったし、呆れたのだろう。
再びの沈黙。
そろりと彼から身体を離して、少しずつ距離を取る。
──予感がする。
何かを越える、または、変わるような。
彼と顔を合わせてからずっと五月蝿い心臓が、限界を告げるように早鐘を打っていた。

「……ブラゴ」

名前を呼ぶと、黒い影が一瞬で視界を埋め尽くした。
何度も護られてきた両腕が、呆然とする私を抱き竦めた。
耳元で、五月蝿く拍動する音が聴こえる。
私のモノより少し遅いが、とても力強い。
彼の胸元に顔を埋めていることに気づき、それが目の前の彼のモノなのだと理解して、今度こそ言葉を失った。
ずっと暖めてきた想いを、彼も同じだけ持っている。
視界が揺らめいて、溢れた雫が頬を伝っていく。

あぁ。なんてことだろう。
今なら、きっと分かる。
『幸せだった』と告げた彼の気持ちが。
愛おしいと思えた人とともに過ごせただけで、生きる意味を持てたのだ。
何ものにも代えがたいものを得た。
──たったそれだけのことが、私の世界を変えたのだ。
4/13ページ
スキ