誕生日


──子どもの手が、私の手を引いている。

…夢、だろうか。
それとも、現実だろうか。
こんな幼子は知らないはずだ。
けれども、知っているような気もする。

砂埃にまみれた大きめなグローブに包まれた手。
その小さな手に引かれて、ぼんやりと足を進めている。
何処に行くのかは分からない。
何処へ行っても良いように思えた。
子どもの手から視線をずらし、栄養失調気味の細い腕を辿る。
袖を捲っても余るブカブカの上着。
普段着とは思えないそれは、あの戦地でゲリラ兵がよく着ていたものではないだろうか。
テレビに映された地獄絵図の中で、見たような覚えがある。
何故、こんな幼子がそれを身に纏っているのだろう。
子どもの顔を見ようと、視線をさらに移動させる。
癖っ毛の黒髪が目に入り、その子どもの後ろ姿に、よく知る彼の姿が重なった。

「……刹、那…?」

声に反応したのか、ずっと前を見つめていた幼子が振り返った。
くすんだ紅い瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
鋭さと強さが映し出されているはずの瞳は、ただ静かな光だけを湛えていた。
似ている。
幼さの残る瞳が、柔らかに笑った。

「これ、あげる」

くるりと身体を向けた幼子の手には、一輪の花が握られていた。
故郷でよく見られる白い花。
その花に手を伸ばした瞬間、視界が開けるように、ようやく今いる世界を認識した。
赤茶けた大地。
砂で霞んだ青い空。
建物の残骸と、そこから伸びる黒煙。
──私と、彼の、故郷の地。
風が吹いて、サラサラと砂が頬を撫でた。
ふと、視界に鮮やかな色が飛び込んできた。
幼子の足下には、瑞々しい若葉が顔を出している。
そこに混じって、白い花が咲いている。
この涸れ果てた大地に、植物が咲くなど珍しい。
乾燥に強い種類なのか白い花は咲いていたが、若葉を見るのはほとんど無かった。
その光景に驚き、魅入られていると、幼子の足下を中心に緑が広がっていく。
建物の残骸を、朽ち果てた兵器をゆっくりと包みながら、瑞々しい命が広がる。

「これは…」

驚いて足を動かすと、パシャッと水が跳ねた。
気づけば、周囲に水が満ちている。
足首が浸るくらいの深さでありながら、水底には見たこともない色とりどりの花が咲き乱れていた。
世界がくるくると変わることに処理が追いつかない。
幼子まで消えてしまったのではないかと慌てて周囲に目をやれば、幼子は同じ場所に立っていた。
柔らかに笑ったまま、白い花を渡そうと、小さな手を伸ばしてくる。

「とても綺麗な花ね…でも、私は貰えないわ」

そう言うと、幼子は悲しそうに眉をひそめた。
そんな顔をさせたかった訳ではなかったが、上手く言葉にできない。
言葉を選び損ねている。
彼はいつもこんな気持ちを抱えているのだろうかと、刹那を想った。

「もらってほしい。あなたに、あげたい」

一層手を伸ばして、幼子は必死な眼差しを向けた。
一生懸命に言葉を紡ぐ幼子の拙い願いに負けて、その手に握られた白い花に手を伸ばす。
私の手に花が移動したことを確認して、嬉しそうに笑った。
その笑顔に、何故だか胸が痛む。

「その花、育ててほしい」
「育てる…?」

育ててほしいと願う幼子の意図がわからない。
花は、既に立派に咲き誇っている。
これ以上何をする必要があるのだろう。

「花を増やして」
「種を植えて育てればいいの?」
「種は持ってない。本当は、みんな持ってるのかもしれないけど」
「…どういうことなのかしら…?」

育てられるのだろうか。
私には、何の力も無いのに。
こんなに素敵な花を育てられるはずがない。
祖国を喪い、何もできずに頽れるしかなかった私に。

「…その花は、僕の願い。戦いたくないって祈ったら咲いた」
「貴方の、願い…」

あの地獄のような毎日を、彼は兵士として生き抜いた。
護られ、救われるはずの命を賭して。
この幼子は、やはり彼なのか。
彼の少年時代など何も知らないのに。

「よく分からないけど、あなたに育ててほしいと思った。きっと綺麗に咲かせてくれるような気がするから」

幼子の素朴な言葉が、私を奮い立たせる。
…生きなければ。
たとえ祖国を喪ったとしても、民は生きている。
祖国の名も土地も奪われたとしても、そこで生きた記憶も歴史も、すぐに消えてしまうわけではない。
傀儡として生きることを止めたいと願った気持ちに偽りはない。
今度こそ、自分の意志で皇女としての役目を果たすのだ。

「…ありがとう、私を肯定してくれて。貴方のお陰で、私は諦めずに生きていけるわ」

白い花を、散らさぬよう大事に胸に抱く。
嬉しそうに笑った幼子が、水を切るように走っていく。
その小さな背中に、彼の姿を重ねた。



「マリナ様っ」

子どもたちの声に驚き、慌てて目を開ける。
ベッドに腰かけたままうたた寝をしていたらしく、私の膝に頭を乗せて笑ったヤエルがにっこりと笑った。

「マリナ様、もっと歌ってほしいです」
「…えぇ、そうね。次は何がいいかしら」

子どもたちが側に寄ってきて、楽しそうに言葉を交わす。
あぁ、小さな命に囲まれている。
慈しむべき可愛らしい存在に。
夢の中の少年のように。

微かに覚えている花の香りを思い出しながら。
己の存在を、ようやく肯定できる気がした。
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