Fantastic Beasts

イギリスとアメリカにて行われていた遠距離の恋に決着をつけ、イギリスへの移住を受け入れて数週間が経った。

文化や考え方、捉え方の違いなど理解不足な点も多い中で、それなりに生活することができている。
何より大きく異なるのは、現在の生活空間だろう。
二人ぼっちの姉妹の住処だった小さな部屋とは違い、これから永く暮らすことになる家は、見たこともない魔法動物やその為の飼育環境が備わっているのだから。

こちらに越してから、仕事の傍ら、時々彼の愛する魔法動物たちの世話を手伝うことが日課になっている。獰猛な種もいるようで、あまり多くは関われていないが、彼の書いた本の中に登場していた動物たちを直接、しかもこんなにも間近で見ることができる日が来るなどあり得ないだろうと、当時は頭の片隅で思っていた気がする。

「ティナっ」
「ニュート」

足元に置かれていたトランクの蓋が開き、ひょっこりと、夫となったニュートが上半身だけ出した形で姿を現した。
遊んでいたのか、はたまた遊ばれていたのか。
普段からあまり手入れのしない髪はくしゃくしゃに乱れ、服まで何かの葉っぱがくっついていた。その場にしゃがみこみ、草や土のついた顔や髪をはたく。そうすると、毛繕いを受ける動物のように大人しくなり、人相手だと固く引き結ばれていることの多い口許を緩め、気持ち良さそうにへにゃりと笑った。

「子供みたいに汚れてる夫は、私に何の御用かしら」
「あっ、お帰り…ティナ」
「えぇ、ただいま。帰ってきたのは一時間前くらいだけどね」
「ご、ごめん…ニフラーを追いかけてて…」
「ふふ、怒ってないわ」

見ていて分かりやすいほどしゅん、としたニュートが可笑しく、クスクスと笑いが溢れる。笑ったことに気づいたのか、項垂れていた顔を上げ、同じように笑みを溢した。
こうした細やかなやり取りが、心に幸せを募らせていく。

…たった一つ、気になることを除けば。


鏡の前で身支度を整えていると、ベッドに横になってこちらを眺めていたニュートと鏡越しに目が合った。

「ティナ」
「何かしら、ニュート」
「ティナ、ティナ」
「もう少しだけ待ってて」
「うん……へへ、ティナ」

ふにゃふにゃと笑って、幾度も名前を呼ばれる。
焦がれるように、幾度も幾度も。
幸せそうに笑っているくせに。

それはまるで、美しい鳴き声で番いに求愛する動物のようだ。
雌の気を引くように、自分を証明するように。
彼は美しい鳴き声の代わりに、低く心地よく響く声で名前を呼ぶ。

結婚してから、ずっと。
彼は毎日のように愛を紡いでいるのだ。

「ニュート」
「ティナ?」

支度を終え、先程と同じように鏡越しに視線を合わせる。しかし、きょとんとした視線が返されただけだった。
仕方なくベッドに近づき、身体を起こすように声をかける。ベッドに腰かけて、こちらを見上げる彼の膝の間に体を滑り込ませ、頭を撫でくり回した。

そんなに焦がれるように見つめなくたって、私は何処に行かないのに。
彼には、愛されているのだと、もう少し自惚れてほしいところだ。

「!? あ、あの…っ、ティナ?」
「私が満足するまで構うから大人しくしてて」
「は…はい」

身支度を整える妻の美しく凛とした後ろ姿を見つめていた数瞬前が懐かしい。
突然の妻の暴挙に、何が起こっているのか理解が追いつかない。
けれど、その細く長い指先が、慈しむように癖っ毛な髪を梳き、包み込むように頭皮を撫でる。その感覚が、恐らく動物たちはこんな風に感じているのだろうと、ぼんやりと考えるくらいには心地よかった

「貴方の髪、綺麗よね」
「そうかな…君の方が、とっても綺麗だよ」

夜の静けさと星の輝きをまとめて溶かしこんだような、艶やかで、ココアのような髪色。
指で梳いた時の手触りは、上質な糸に触れているようだ。
光を浴びたら透けてしまいそうなほど白い肌に、小振りながらもふっくらとした唇。スッと通った鼻筋に、淡く色付く頬。
一つ一つの愛らしいパーツが、彼女の小さな顔を彩っている。

そんなことを考えると、無性に彼女の顔が見たくなり、それから手持ち無沙汰だった両腕が行き場を求め始めた。

「…ティナ、ハグはいい?」
「ふふ、どうぞ」

座りながら、立ったままのティナを抱き締めるというのは普段と違って不思議な感覚ではあったが、両手で掴めてしまいそうなほど細い腰に腕を回した。そっと抱き寄せ、そのまま温もりに身を預けようとして硬直してしまった。
ちょうど柔らかな膨らみに顔を埋める形になってしまったからだ。パジャマの襟元から、僅かに谷間が覗いていた。
触れた耳から、とくり、とくり、と彼女の心臓の音が聴こえる。

…あぁ。
ここに居る。
この腕の中に、愛おしい人がいる。
遠い地で、少ない逢瀬を交わして。
こうして、共にいることを選んで。

夢みたいだ。
見ないように、考えないようにしてきた夢の果て。

お前に普通の生き方などできない。
お前を理解し、愛してくれる人間などいない、と。

「…ティナ、ポーペンティナ」

僅かに胸元をはだけさせ、心臓の近くに唇を寄せた。白い胸元に、紅い花弁が散らばる。猫背気味の背を伸ばし、すらりとした首元に鼻先を寄せ、ティナの匂いを肺いっぱいに取り込んだ。
朝焼けのようなしんとした気高さと、日だまりのような柔らかさと、蕩けるような甘さと、清潔感が相まった心地よい匂い。

「ティナの匂いは落ち着くね」
「…貴方ってば、本当に全身で相手を知ろうとするのね」
「君のことは、できれば五感以上に感じられたらいいのに」
「どうして?」
「…ここに居るって、ちゃんと安心できるから」
「名前を何度も呼ぶのは、そのせいかしら」

彼女と共に生きることが嬉しい。
その反面、あまりに幸せ過ぎて、夢を見ているような不安感が拭えない。
だから、確認したくなるのだ。
名前を呼べば、彼女は必ず目を合わせて返事をしてくれるから。

「嫌だったら、ごめん」
「貴方に名前を呼ばれるの好きよ、ニュート」
「…ティナ」

顔を上げれば、朧気に揺れるように燃える焔を宿した瞳が覗きこんでいた。
吸い込まれてしまいそうなほど蠱惑的な瞳。
特別な焔を、唯一宿した愛おしい人。

「僕の、ティナ」
「そうね、私は貴方の妻よ。魔法動物たちに愛されるニュート・スキャマンダーの」
「き、キスしても…?」
「もちろん!」

瞼を閉じ、焔が見えなくなってしまったことを少し残念に思いながら、ようやく訪れた長い夜の始まりに胸を踊らせる。
再び開いた瞳に魅入って、瞼にキスを落とした。

ー僕だけの、特別なサラマンダー。
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