来世は他人がいい


─ふぅ、と気の抜けた吐気とともに、煙草の煙がゆっくりと宙に広がる。
その煙たい景色を、何の感動もなくぼんやりと見つめた。

景色がモノクロに見えるようになったのは、久しぶりだった。
屑の化身であった父親への憎しみを抱きながら親戚をたらい回しにされている間も、世界はモノクロに見えていた。
景色に色がついたのは、あの人が救ってくれた時だ。
あの人だけが、鮮やかに色づいていた。
屑しかいないと思っていた人間に、こんなに綺麗な人間がいるのか、と。
あの夜の、屑との決別のやり取りを思い出しては、言い知れぬ幸福感を抱き締めるのだ。



「翔真はどんな女がタイプなん?」
「……何でもええ」
「嘘つけ!なんか一つくらいあるやろ!」

ベッドに横になり、何かの雑誌を開きながら寛ぐ吉乃がケラケラと笑いながら頭を撫でる。
爪は短く整えられ、何も塗られていない指先が柔らかに頭皮を擽った。
獣がじゃれるようなこのやり取りが好きだ。
弟分のように思われていようと、別に何とも思わない。
お前が兄貴分になるのだと思っていた、と酔っ払った蓮司が笑い話として話すたびに、この人の上に立つなど考えられないと思う。

「吉乃さんこそ、男のタイプなんかないやろ」
「まぁ…そう言われるとそうやけど」
「オレと同じや」
「おもんないなぁ」

盛大にため息をはいて、開いていた雑誌を閉じた。
体を起こし、大きく伸びをした背中を艶やかな髪が滑っていく。
癖っ毛のせいで緩くうねる毛先に触れようと手を伸ばす。
武骨な指先でくるくると毛先を巻き込んでは、パッと解放した。
柔らかな手触りが心地よい。
暫く無言で遊んでいると、無言でデコピンを食らわされた。

「人の髪で遊ぶなっての」
「吉乃さんもオレの頭撫でるやろ」
「あ~なんか構いたくなんねんな」

そう言いながら彼女の腕が伸ばされ、再度頭を撫でられた。

─好きだ。幸せだ。
生きているのに、まるで天国にでもいるような心地よさに満たされる。
生きるのは地獄に等しい。
この地獄を心地よいものに変えてくれたのは、目の前の美しい女なのだ。
鮮やかに見える唯一の人。
何も塗らずとも真っ赤な唇が、幾度も己の名前を紡ぐ。

「小腹空いたなぁ…なんか買いに行くか」
「オレも」
「あんたが一番食うんやから、荷物持ちとして一緒に来な」
「吉乃さんが食わへんだけやろ」
「あたしは普通や」

ほら早く、と出かける準備を始めた吉乃に急かされ、仕方なく自室に戻って財布をズボンのポケットに突っ込んだ。
家に戻っていた蓮司に声をかけ、二人でフラフラと商店街を目指す。
車を出すほどの距離でもなく、ゆったりとした足取りで歩く。
平日の昼下がりは少しばかり人が少ないせいか、普段は早足で進む吉乃もゆったりとした歩調である。
それでも、己の少し先を歩く彼女の背中を眺めた。
いつも、この人は己の前にいる。
清廉とした姿を見せるように。
そして、その目映さが真っ暗な己を照らしてくれるのだ。

「ほら、翔真」
「ん」

くるりとこちらを振り向いた彼女の手が、己の右手を掴んだ。
その細い左手の感触を確かめるように、ゆっくりと握り返した。

「あんたはのんびりしてるんやから、迷子になっても知らんで」
「吉乃さんがいれば大丈夫や」
「また阿呆なこと言って…」

迷うことはない。
何故なら、この人が手を引いて歩いてくれるのだから。
出逢ってから、ずっと。
いつでも目の前を歩いてくれる。
手を引いて、どこまでも。
進むべき道を知らぬ己の手を引いて。
この人の目映さに照らされて。
ずっと。ずっと。
その手の細さや温もりだけを頼りに。
色づいた鮮やかな景色を見ていられるのだ。


紛れもなく幸せだと思っていた。
ずっと続くのだと、漠然と考えていた。
だから、その報せを聞いた時には、あの人以外のすべてを憎んだ。

「……東京に?一年も?」
「とりあえず会うだけ会って、何もなければやけど。まぁ、行くことになるんだろうなとは思とる」
「もう…決定なんすか」
「そやな。あんたと遊んでられなくなるのは淋しなるな」

部屋の掃除をするあの人の背を眺め、脱力したように持ち主の代わりにベッドに寝転んだ。
あたしのベッドや、と苦笑混じりに窘める声を遠くに聞きながら、胸に大きな穴が空いたような喪失感を覚えた。

置いていくのか。
きっと、一緒には連れて行ってもらえない。
置いていかれるのだ。

「翔真」
「…断ればええやないすか」
「あたしは仮にもヤクザの孫やで。何かあるんやろなって思うやん」
「……」
「あんたが我が儘言うたらアカンよ」

ベッドに寝転ぶ己を見下ろす顔は、困ったようにも笑っているようにも見えて、あの人の本心がよく分からなかった。
細い腰に腕を絡めて、ぐっと引き寄せた。
腹の辺りに頬を触れあわせ、何も言わずに確かな熱を感じる。
子どもを宥めるように頭を撫でるその手が、声を上げたくなるほど欲しかった。


数ヶ月後。
結局、東京に行くことになったあの人を見送った。
途端に、景色がモノクロに戻った。
進むべき道を見失った。
真っ暗で、凍えるほどに寒い地の底で、たった一人の帰りを待ち続けることになった。

名前を呼んでほしい人に、名前を呼んでもらえない。
手を引いて歩いてくれる人もいない。

端末ごとのやり取りを繰り返す度に。
ただただ虚しい淋しさばかりが募った。
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