お題〈キス22題〉

久しぶりに、鬼太郎と大きな喧嘩をした。

理由も思い出せないほどの些細なことだった気がするけれど、それでもその時は頭にきたのだ。

すでに数日間、彼の顔を見ていない。バイトが始まる前でも終わった後でも、暇があれば
飽きずに顔を見に行っていたのに。喧嘩をした後からは、ぜんぜん会いに行ってない。

春めいてきた空気に浸りながら、川辺でぼんやりとしていた。
光を浴びてキラキラと輝く水面の様子を見ても、今は何も感じない。ぽっかりと胸に大きな穴が開いてしまったかのように、感性が死んでしまっている。

「……はぁ…」

あの日から幾度も吐いたため息を今日も吐き出しながら、膝を抱えて小さく縮こまった。

「……謝りに行こうかな」

どちらが原因なのかも定かではないのに謝るのもおかしいだろうか。それより、彼は喧嘩をしたことすら忘れてしまっているだろうか。鬼太郎は、関心が無いことには淡白であり、あまり覚えていることも少ない。

「…あり得そうで嫌ね」

忘れているなら、それでも良いかもしれない。もう時期暖かい春を迎えるのに、こんな辛気臭い気持ちでいるのもイヤだ。
春になる合間に訪れる寒さを纏った風に後押しされてゆっくりと立ち上がり、鬼太郎の元へと足を進めた。

普段ならもっと軽い足取りで進むのに、腹を括ったとはいえ、やはり足取りは重かった。
時間も距離も長く感じながら、漸く彼の家が見えると理由も分からず速くなる胸を押えながら、静かに階段を上って静かに簾をあげた。

「やぁ、ネコ娘」

彼は珍しく昼寝をしていなかった。ほんの少し驚きつつも、特に表情に出すことなく無表情で中へと進み、定位置である彼の向かい側に座った。手にしていた本を閉じて、彼はじっとあたしを見つめる。

「久しぶりだね。元気だったかい?」
「……久しぶりね、きたろ」
「「……」」

そこで、プツリと会話が途切れた。
重くもなく甘くもない、ただ淡々とした空気が流れる中、鬼太郎が口を開く。

「こないだは、ごめんよ。少し感情的になり過ぎたね」
「…覚えてたのね、きたろ」
「当たり前だろう?…やっぱり、君を傷つけるのは本望じゃないから」

彼にしては、珍しく本音を語ってくれた。
それを聞いて、俯いて下を見ていた顔を上げる。

「…ほら、やっぱり泣いてる」
「きたろ…の、せいよ…っ」

ポタリ、ポタリと雫が溢れて声が詰まった。

「……淋しかった…怖かった…。嫌われたら…っ、どうしよう…って…」

自分から距離を取ったって、結局は淋しいと感じてずっと彼のことを考えるのだから、意味はないのだ。ただ自分が辛いだけだ。

ひとしきり泣いた後、うっすらと喧嘩の理由を思い出した。

彼の癖を心配をしていたのだ。
何でも自分の中に隠す、強くて優しい彼の悪い癖。
それがどれだけ心に負担をかけるか分からないが、ただ少しでも彼の支えになりたいと願った。なのにその気持ちを、多分冷たく切り捨てられた。

「僕のことなんか放っといておくれよ」
「君が気にすることじゃないよ」

その裏に隠された彼の想いに気付くことなく、その時は感情的になってしまった。
あたしは要らない、必要ない。そんな風に言われた気がした。

ふと気付くと、鬼太郎の傍らに丸くなって眠っていた。彼も、卓袱台に突っ伏して眠っている。
身体を起こし、何となく背中合わせになるように動いて、そっとその頼れる背中に寄り掛かる。久しぶりに大好きな温もりを感じられて、それがとても心地よい。

きっとあの時。ただ側に居るだけで良いのだと、彼は言いたかったのだ。それだけで十分なのだと。

「…ちゃんと言葉で教えてよ、きたろ。あたしじゃないと、解らないよ…」

小さく呟いて、くるりと体を反転させ後ろから抱きつく。見た目によらず、意外としっかりした背中に顔を押し付けた。

「…ずっと、どんな時でも側に居るから。だから…だからね」

何処にも行かないで。あたしを独りにしないで。側に居て。置いて行かないで。貴方の側に居させて。

いつもあやふやで何処か不安定な彼が、今はしっかりと自分の腕で捕まえられているのを
確かめて、それに安堵すると、また眠気に襲われた。
ゆっくりと目を閉じ、柔らかな春の空気に身を浸し、ただ嬉しそうに微笑んだ。
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